INICIAR SESIÓNさっそく階段を上り、鳥居をくぐろうとしたそのとき——「ちょっと待って」と、後ろから声をかけられた。振り向くと、ヒナタくんがタバコをくわえている。「一服させて。さすがにタバコ吸いながら神社はダメっしょ」そう言って、ゆっくり煙を吐いた。……うん、やっぱりこの人、ちょっと柄が悪い。赤髪の時点でなんとなく察してはいたけれど、初デートで見せていたあの“いい子モード”は、どうやら完全に猫をかぶっていたらしい。今日の雰囲気はというと——地元のコンビニ前でたむろしてそうな、ちょっとやんちゃな感じ。そんなことをぼんやり考えながら見ていると、「んじゃ、行きますかっ」タバコを吸い終えたヒナタくんが、やけに軽いテンションで、私を見もせずにずんずん歩き出した。正直、このまま神社に入って浮かないかな……なんて少し心配していたけれど、その不安はすぐに消えた。鳥居をくぐった先は、想像していた“静かな神社”とはまるで違っていた。手水舎や境内のあちこちが、色とりどりの花やピンクの提灯で彩られていて、ふわっと甘い空気が漂っている。……なにこれ、ロマンチックすぎる。カップルや観光客で賑わうその光景は、もはや神社というより“デートスポット”そのものだった。「神社とか久々にきたなあ」ヒナタくんはそう呟きながら、相変わらずマイペースに歩いていく。エスコートする気は……たぶん、ない。というより、できないのかもしれない。私は少し置いていかれながらも、境内に並ぶピンク色の絵馬やオブジェに目を奪われていた。どこを見ても可愛くて、胸が自然と浮き立つ。「さてっ!おみくじでも引きますかあ」見つけたのは、ガチャガチャ式のおみくじ。しかも水に浮かべる“恋みくじ”だった。紙を水に浮かべると、じわじわと文字やハートが浮かび上がってくる仕組みらしい。説明には“35秒ほど浸ける”と書いてある。なのに——ヒナタくんは、5秒も経たないうちに紙を引き上げた。もちろん、何も浮かんでいない。「ねえヒナタくん、早すぎ!まだ何も出てないよ?」思わず笑いながら言うと、「うっさいなー」と、真顔で言い返されて、再び水に浸け直す。さっきまでの柔らかい雰囲気はどこへやら。急に口調が強くなって、少しだけ不安になる。「ねえ、写真撮ろうよ」せっかくだし、と声をかけると、「ああ」と短く返事が
「おわった!ごめんね、ヘアセットこだわりすぎて時間かかっちゃった」 ヒナタから連絡がきたのは、それから1時間後だった。 ——ヘアセットこだわりすぎてって、女子かよ。 思わずツッコミを入れたくなりながら、私は家を出る準備をする。 向かうのは、露天神社。 待ち合わせ場所に指定されたその場所は、谷町線「東梅田駅」から少し歩いた、商店街の奥にあった。 夜19時。 あたりはまだ賑やかで、人の流れも絶えない。 ——どこかな。 周囲を見渡すと、門のそばに、ひときわ目立つ存在がいた。 細くて背が高くて、黒髪のハーフアップ。 すぐにわかる。 「ヒナタくん…!」 呼びかけると、彼はぱっと振り向いた。 子犬みたいな、無防備な笑顔。 「久しぶり!」 その一言で、距離が一気に縮まる。 「髪、伸びたねー!」 「うん!紗月ちゃん、いつもハーフアップだからお揃いになるかなって頑張ったんだけど……今日は違うくて残念」 よく見ると、短い髪を無理やりまとめたようなハーフアップ。 頑張った形跡がそのまま残っていて、なんだか可愛い。 「たしかに、今日は珍しく下ろしてる」 「下ろしてるのも新鮮だし、似合うね?」 大きくて、きゅるんとした目が、まっすぐこちらを見つめる。 ——ずるい。 一瞬で、心臓が跳ねる。 年下なのに、この距離感とこの言葉選び。 恋愛偏差値、高すぎる。 「え、ていうかワンピース可愛い。女の子らしいね」 「そう、最近買ったの。このワンピース、ハーフアップだと甘すぎるかなって思って、今日は下ろしてみたの」 「いやいや、可愛い子はどんな髪型しても可愛いから」 ——もう。 さらっと言うくせに、ちゃんと刺してくる。 胸の奥が、じわっと熱くなる。 こういうところなんだよな。 わかってるくせに、無邪気にやってくる。 ずるいな、ほんとに。
ひさびさに早起きした朝。まだ空気はひんやりしていて、カーテンの隙間から差し込む光がやけにやわらかかった。在宅でゆるく働いていた頃とは違う。“外に出て、誰かと会う日”の緊張が、胸の奥にじんわりと広がっていた。大阪、鶴橋。韓国の空気が色濃く残る街。駅を出た瞬間、甘い香りと焼き肉の煙が混ざった空気に包まれる。聞こえてくる韓国語、派手な看板、細い路地に並ぶ店たち。雑多で、少し騒がしくて。でも、その全部がなぜか心地よかった。待ち合わせのカフェ前。深呼吸をひとつ。——ちゃんとやれるかな。不安を押し込めるように、スマホの時間を何度も確認する。「あの!本日はよろしくお願いします」声をかけると、編集長はやわらかく笑った。「はい、よろしくね!」その一言で、肩の力がすっと抜ける。仕事なのに、どこか安心する距離感。そこから先は、本当にあっという間だった。可愛い内装に胸がときめいて、写真を撮って、味を言葉にして、また次の店へ。気づけば、“仕事”という感覚はどこかへ消えていた。四店舗目を出た頃には、足は少し疲れていたのに、心は妙に軽かった。「早く終わったし、ご飯でも行く?」「はい!」大きく頷いた。キンパを頬張りながら、仕事の話をする。これからのこと、書き方のこと、企画のこと。誰かと“未来の話”をするのは久しぶりで。——私、ちゃんと前に進んでる。そう思えたことが、嬉しかった。誰かと対面で関わって仕事をするのって、やっぱり楽しい。「今日はありがとう!またよろしくね!」るんるんした気持ちで、「いい日だったなあ」と思いながら歩く帰り道。——そのとき。スマホが震えた。通知。メッセージ。心臓が、どくんと跳ねる。画面に表示された名前を見て、胸の奥がざわついた。ヒナタ。「もっしもーし。今日の夜って暇?」軽い声。でも、その奥にある温度を、私は知っている。「……まあ、空いてるけど」少し間をあけて返す。今日の私は、余裕がある。満たされているから。すぐに返ってきた言葉。「あのさ、会わない?俺、金ないからその辺ぶらぶらするだけだけど」——お金ないのに誘うんだ。やっぱりこの人、なんだかもやもやする。普通なら、断る理由になるのに。でも同時に、“それでも会いたいってこと?”そんな感情が、静かに顔を出す。「まあいい
もう少しだけ、横になっていようと思った。一日でいろんなことがありすぎて、頭の中が追いつかない。天井をぼんやり見つめながら、力の抜けた体をベッドに沈める。静かな部屋。外からは遠くで車が走る音がかすかに聞こえるだけで、やけに現実感が薄い。何も考えたくなくて、逃げるようにスマホを手に取る。指先で無意識に画面をなぞり、TikTokを開いた、その瞬間——通知がひとつ、目に入った。メッセージ。心臓が、どくんと跳ねる。なぜか、嫌な予感がした。見たくないのに、見なければいけない気がして、震える指でその通知をタップする。——「あの男、だれ?」一行だけの短い文章。けれど、その文字を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。ドクン、と心臓が強く鳴る。みおんだ。すぐにわかった。言葉の冷たさも、踏み込んでくる距離感も、全部。しかも——ブロックしたはずなのに。画面のプロフィールを確認する。フォローもフォロワーもゼロ。アイコンは初期設定のまま。新しいアカウント。わざわざ作って、私に連絡してきている。背中に、じわりと冷たいものが走った。……怖い。無意識に、スマホを持つ手に力が入る。指先がじんわりと汗ばんで、少し滑る。あんなことをしておいて。あんなに、私を傷つけておいて。まるで何もなかったみたいに、こうして平然とメッセージを送ってくるなんて。今まで一度も連絡なんてなかったくせに。——どうして、今?頭の奥で、嫌な予感が形になっていく。きっと、また何かあったんだ。またトラブルを起こして、そして——私を利用しようとしている。そう思った瞬間、胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。無視すればいい。関わらなければいい。わかっているのに。画面に映るその一文から、目が離せなかった。
やわらかな昼の光に包まれながら、私は心地よさに身を預けていた。カーテン越しに差し込む明るい日差しが、まぶたの裏をほんのり温かく照らしている。遠くからは人の話し声や車の音が聞こえてきて、街が動いている気配がするのに、この部屋の中だけは時間がゆっくり流れているみたいだった。そのとき、肩を軽く叩かれた。とん、とん。優しく、でもちゃんと私を現実に引き戻すようなリズム。ゆっくりと目を開けると、逆光の中にルカさんの姿が浮かび上がる。昼の光に照らされて、いつもより少し柔らかく見えた。無造作な髪とラフな服装、それでも隠しきれない余裕と色気があって、思わず目を奪われる。「俺、出勤してくるわ」低くて落ち着いた声が、静かな部屋にすっと落ちる。「うん」たったそれだけのやり取りなのに、胸がじんわりと熱くなる。まるで同棲している恋人同士みたいな、自然すぎる会話。そんな距離感に、不意にドキッとした。「いってらっしゃい、ルカさん。ありがとうね」少し体を起こしながらそう言うと、ルカさんは軽く手を上げた。「おう。戸締まりちゃんとしとけよ?なんかあったらすぐ呼べ」ぶっきらぼうなのに、ちゃんと気にかけてくれているのがわかる言い方。その一言一言が、胸の奥をじんわり温めていく。「うん…」小さく頷くと、ルカさんはそのまま背を向けた。玄関へ向かう足音。ドアが開いた瞬間、外の明るい光と少しだけ暖かい風が流れ込んできて、ふっと現実に引き戻される。そして、静かに閉まるドアの音。その後ろ姿を、私はぼんやりと見送っていた。広い背中。ラフに歩く姿。どこか危うい雰囲気をまとっているのに、不思議と安心させる存在。——ああ、この人、ずるい。守られているような安心感と、簡単には触れられないような距離。その両方を持っているから、余計に惹かれてしまう。ドアが閉まったあとも、しばらくその余韻が部屋に残っていた。さっきまで隣にあった温もりが、まだ肩に残っている気がする。昼の光に満ちた部屋が、少しだけ広く、そして少しだけ静かに感じた。胸の奥が、ほんの少しだけ締めつけられる。恋しい、なんて言葉にするにはまだ早いはずなのに。それでも、彼のいないこの時間が、ほんの少しだけ物足りなく思えた。
強く引き寄せられた瞬間、ふわりと視界が揺れた。気づけば、ルカさんの腕の中に閉じ込められている。背中に回された腕は思ったよりも力強くて、逃がさないと言わんばかりにしっかりと私を包み込む。頬を寄せると、耳元でとくん、とくん、と一定のリズムが響いてきた。——心臓の音だ。こんなにも近くで誰かの鼓動を感じるのは、いつぶりだろう。温かくて、ゆっくりで、不思議とそれだけで呼吸が整っていく。さっきまで胸の奥に溜まっていたざわつきが、少しずつほどけていくのがわかった。心地いい……。目を閉じると、ルカさんの体温がじんわりと伝わってきて、指先まで満たされていく。思い出したくもなかった不安が、ふと脳裏をかすめる。みおんのこと。——怖かった。ちゃんと自覚した瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。でも、そのすぐあとに、今の温もりがそれをやさしく覆い隠した。ルカさんが、いる。それだけで、こんなにも安心するなんて。自分でも驚くくらい、心が静かになっていく。気づけば、私はそっと腕を回していた。ぎこちなく、それでも離したくなくて、ルカさんの背中を抱きしめ返す。「……ああ」声には出さなかったけれど、胸の奥で小さくつぶやく。ありがとう、ルカさん。その鼓動に寄り添うように、私の心も静かに重なっていった。
「久しぶり〜。みおんとは仲良くしてんの??」 TikTokのDM。自撮りのアイコン。 ヤンキーっぽいメイクをした男の顔を見た瞬間、胸の奥が小さく沈んだ。 ――知っている。 ゆりちゃんの担当、ユウトくん。 なぜ彼から連絡が来たのか、その理由だけははっきりしていた。 店では、姫同士、ホスト同士、無断で連絡を取ることを「爆弾」と呼ぶ。見つかれば罰金。だから普通は、連絡なんて来ない。 でも、みおんはもう“いない”。 正式に辞めたわけじゃない。 ある日突然、先輩と暮らしていた家を出て、そのまま消えた。 夜逃げ。 そんな言葉が、一番しっくりくる形で。 「うん
通知が鳴るたびに、胸がひくりと波打つ。 「もしかして――」そんな希望がよぎる。 けれど、そのたびに期待してしまう自分に呆れ、そして深く落胆した。 ようやく彼から返信があっても、それはあまりに素っ気なくて、かえって胸を締めつけられる。 「うん」「またね」「ありがと」 絵文字も気遣いもなく、温度すら感じられない乾いた言葉。 その一言が、かえって過去のやさしさを思い出させ、胸を痛めた。 ――まるで、砂漠に置き去りにされたよう。 たしかにあったはずのぬくもりが、今はどこにもない。 *** 気づけば、寂しさに耐えきれずラインを打っていた。 「今日、お店行こうかな?」 驚くほどの
泣き明かした朝、いつの間にか眠っていたらしい。 ふと目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光がすっかりオレンジ色に染まっていた。 時計を見ると、もう夕方。時間の感覚がぐちゃぐちゃで、夢か現実かも曖昧だった。 昨夜流した涙のせいで目は腫れ、体は鉛のように重かった。 それでもこのままベッドの中で腐ってしまいそうだったから、無理やり顔を洗って外に出た。 どこかに逃げたくて、カフェに入る。 騒がしすぎず、かといって静かすぎない場所。 コーヒーの香りが漂う店内の片隅で、私はスマホを取り出した。 何気なく開いたTikTok。 そこに、ライブ配信中のみおんの姿があった。 指が止まる。
LINEをブロックした、その瞬間だった。まるでこちらの動きを監視していたかのように、インスタのDM通知が届いた。「お願い1回電話させて。思ってること全て話したい。おれはお店通わせようともしてない。LINE電話かけてきて。かけ直す」まるで切羽詰まったような文章だった。句読点もほとんどない、感情をむき出しにした短文が連なっている。その文字を見つめながら、手はかすかに震えていた。――出るわけ、ないじゃん。既読もつけず、私はスマホを伏せた。その数秒後、今度はゆりちゃんからの着信が鳴った。「さーちゃん、今……みおんが、営業中なのに店で大声でブチギレてるって……」「え?