LOGIN「悪い、俺一度抜けて彼女を家まで送ってくる」
斉藤は仲間の元に戻りそう言った。
「彼女?」
「え、マジ?」
仲間は興味深かけにきいてきたが斉藤は違うとこたえた。
「バイト仲間の子、まだ高校生だよ。映画に興味もって欲しくて今日のチケットあげたの俺だから安全に送り届けないとだろ」
「へぇ」
「じゃあ1時間位でもどるから」
仲間にはそれだけ言って春陽の元へ駆け寄る。
困った様に待つ春陽はどこか小動物のようだった。
小さな背格好のせいなのか、周囲に怯えた様な態度のせいなのか。
斉藤は他意もなくかわいいと感じた。
「お待たせ、行こう」
ためらいがちで動かない春陽の手をとり歩きはじめる。
その手にビクッとなった春陽だが素直に斉藤の背後を歩いてついていく。
「アパートがこのすぐ近くだから一回寄って車で送って行くね」
わざわざ車をとりにいき送ってもらうなど迷惑だろうとわかっていたが繋がった手を春陽は離せなかった。
だから。
「ありがとうございます」
と、返した。
ミニシアターをでて商店街の奥に少し入りこむと小さな公園があった。ブランコと滑り台しか遊具はなく、あとはベンチが1つと立派な桜の木が一本だけ立つ。
その公園の横で斉藤は指を指した。
「あのアパートだから」
公園の真向かいにアパートが2つ並んで建っていた。
アパートの窓は東南にある公園側に向いており、この桜の木が満開になった時にはこのアパートの部屋から絶景が見れるのだろうと春陽は少しうらやましくなった。
「桜、好きなの?」
数度桜の木を見上げる春陽に斉藤はきいた。
--好き?
桜の開花宣言をきいても、満開になっても桜の花を綺麗だと感じても心をときめかすこともなかった。実際に花見をほとんどした事が無かった。
ならば何故今年は昼通った公園でも今もこんなに心惹かれるのだろうか?
桃色の花があんなに心に残るのか?
春陽自身わからなかった。
「わかりません、ただ……」
ただ。
「今年の桜は綺麗だな、と」
春陽の答えに斉藤は笑った。
「まだ数輪しか咲いてないよ?」
「そうですね」
春陽はもう一度桜の木を見上げた。
見上げる春陽の瞳に斉藤はクスリと笑みながら。
「満開になったらまたみにおいで、花見客もいないからこの桜の木を独占できるよ」
満開になった姿を見てみたいと春陽は思った。
駐車場に着くと斉藤は1台の黒い軽自動車の横に立ち「どうぞ」と助手席のドアを開けてくれた。
香織もゆり子も、家族は誰も免許をもっていなかったし、タクシーは贅沢品であるため乗った事がない。車両で乗った事があるのは通学に使うバスくらいであった。
それなのに年も近い男性の車の助手席に乗るなんて。
春陽の心臓は爆発しそうなほど早鐘をうった。
助手席に座りシートベルトを締めると、斉藤も運転席に乗り込み車を発車させた。
--近い。
車という密室のなか思った以上の距離の近さにトートバッグを両手で抱きしめ固まったまま流れる車窓を見て気分を紛らわせるしかなかった。
あっという間にバイト先のコンビニ駐車場へ車が停められた。
「本当にここまででいいの?」
コンビニからならば歩いて5分もかからず家に着く。
なので春陽はコンビニで降ろしてほしいとたのんでいた。
「大丈夫です、家は近いですから」
「もう暗いから家の前まで送るのに」
3月で18時になろうとしている空には既に幾つか星が輝いていたが。
「22時まで仕事した後も私はここから歩いて帰ってますよ?ひとけもある場所ですからまだまだ安全です」
心配してくれる斉藤の存在が嬉しくて春陽はクスリと笑って言った。
「それもそうだよね」
学校でも部活動などあればこの程度の時間に帰宅する中高生は沢山いる、否小学生でもいるだろう。
過剰に心配してしまったと斉藤は少し頬を赤らめる。
「後ででいいから今日の感想きかせてくれると嬉しいな」
春陽はコクリと首を縦に振った。
「時間があったら」
「それじゃあ、気をつけて」
春陽は車を降り斉藤に「ありがとうございました」とお辞儀をした。
そして路地へ消えていくのを斉藤はそのまま車内で見送っていた。
ブーブーブー……サイドに置かれたスマホが鳴る。
スマホ画面には谷直樹(たになおき)と表示されている。
斉藤はスマホを手にとると「はい」と応える。
「無事に送れたのか?」
「あぁ、今降ろしたところ」
「オレらは先に誠さんの車で店に行っているからお前も早く来いよ」
本当ならばミニシアターから全員揃って目的地の店へ行く予定だったが斉藤が一度抜けた為、残りのメンバーで移動する事にしたらしい。
「すぐ行く」
そう言って電話を切った。
斉藤はこのまま店まで車に乗って行ってしまおう、とギアをDに入れアクセルを踏んだ。
目的地の店は春陽を送ってきた途中にある公園近くにあった為それ程かからずに着いた。店前の駐車場へ車を停め店の入口まで行く。
店といっても外灯は一切ついてないので静まりかえっている。しかし斉藤は躊躇うことなく扉に手をかけそれを引いた。
「ホントに早かったな!」
先程電話してきた直樹が手を挙げた。
「たいした距離を送ってきたわけじゃないからね」
「バイトの女の子?わざわざ送るなんてな」
ニヤリと笑い言ったのは潮沢柚(しおさわゆず)だった。
「慶司の優しさだろ」
柚に苦言したのは野村誠(のむらまこと)だった。
「慶司も来たし、飯食おうよ」
お腹を空かせた広瀬翔(ひろせしょう)はキッチンに目をむける。キッチンから両手に料理の盛られた皿をもった正木廉(まさきれん)が現れる。
「まずは、乾杯だよな」
柚は6つのコップに炭酸水をそそぐと、
「1年ぶり、6人揃ったことに!」
コップを1つ持ち掲げる。
「乾杯」
残り5人もコップを手にして掲げた。
カチン、カチンと。それぞれコップを重ねた。
長い間同じ時間を過ごしてきた6人は1年前に別々の道へ行くことを決めた。しかし1年経ってもその友情が変わらないと確かめる。
「でも、まさか慶司がコンビニでバイトするとはな」
「バイトには絶対無縁のヤツだと思ってた」
「家庭教師とかでもよかったと思うけど?」
わざわざバイトの底辺と言われるコンビニを選ばなくても慶司は学歴はしっかりしていたはずである。そのことをここにいる全員が知っている。
「廃棄食べれるからな」
慶司は自然に言った。
「は、廃棄!?」
翔は驚きの声をあげる。
「慶司、お前本当にご両親から勘当されているのか?」
誠は憐れむように慶司を見る。
「なら、これから廉の店で働かせてもらえばいいじゃないか?賄いが出るだろ?な、廉!」
誠は廉に振向き言った。
廉は冗談?と誠に目を向ける。
「慶司みたいな常識知らずを雇えるわけないでしょう?」
廉は冷たく言い放つ。
「せっかくオープンさせる店を潰したくない!」
真顔で言う廉に誠以外はうんうんと頷いた。
「悪いけど、1年も一人暮らししているしバイトだってはじめてもうかなり経つんだからな。何が常識で何が非常識なのかわかる位成長してる……自炊だってしているんだからな」
買い物もした事なかった子供ではもうない。
他人が自分の為に尽くすものだと思う子供ではもうない。
「ボンボンな慶司も苦労を知ったか?」
柚は明るく笑って慶司の肩をポンポンと叩いた。
「苦労なんて思ってない、自分がやりたかった事の為に選んだことだ」
1年前の別れも、親からの勘当も、短い時間でも夢をおいたかったから選んだ。それらを苦労などと言えない。
「慶司は映画制作の夢を今回の1本に賭けるんだろ?」
誠が真顔でたずねる。
来年、今日のミニシアターで自分の作品を流す。
その為にこの友情に協力を求めた。
ステージが違えどこれからまた1年6人で同じ夢を追う。
「俺の夢と、お前らの夢の為に1年をかけるさ」
慶司は真剣に応えた。
「オレらの協力があるんだから最強だろ?」
柚はニヤリと笑う。
「1年後はまたここで祝おうか」
直樹は廉の肩をポンと叩く。
「廉の奢りでな!」
翔が言った。
6人の夜は飽きることなくながれていった。
久々に大きなスクリーンでの映画を楽しみながらも。「……」先程、誰かに呼ばれた気がしたことを思う。気のせいに違いない。渡辺という名字は多く、休日じゃなくてもこのシネコンには多くの人がいるのだ。だけど。懐かしい声だった気がして仕方がない。ここに来る前にコンビニへ行った。いつの何時から入って週何日働くのかを話す為に。仕事は先ずは火曜日から金曜日の週4日、朝6時から10時までという話しになった。少しだけ他愛ない話しをして、帰る間際に。「桜ちゃんの父親は慶司君?」店長が言った。「何も答えなくてもいいよ、僕は詮索はしないから」そう言っても店長の中では確信しているのだろう。なので固定の返事はあえてしないが春陽は静かに微笑んでみせた。「少し前にね、慶司君から電話をもらったんだ」「!」「渡辺さんに連絡とりたいけれど連絡取るのに僕しか頼れる人がいないってね」「斉藤さんが……」まさかの事に驚く。「日本を離れる時にそれまで使っていたスマホを失くしたらしくて、店にしか連絡できなかったそうなんだよ」「そう、だったんですか」「渡辺さんの事を話していいのかわからなかったから」「……」「その時はバイト辞めていたしね。だから慶司君には渡辺さんはお母さん亡くなった後引越ししたからここも辞めてしまったとだけ話したんだ」春陽は慶司と連絡取れなかった事を残念とも感じたが店長の対応にホッとした。「よかったかな?」店長は心配気に春陽に聞いた。「それでよかったです」慶司に会いたいけれど、勝手に彼の娘を産んだ事を彼にしれてしまうのが怖かった。慶司にとって春陽は一夜慰めで抱いた相手にしかすぎないから。桜の存在がきっと重荷になってしまうだろう。店長にはもしまた連絡があってもまた同じ対応をして下さいとお願いした。--斉藤さん、店長に私の事をたずねてくれたんだ……。そんな事を考えていたら2時間の映画が終わってしまった。内容をろくに覚えていなかった。ハァ。せっかく観に来てこれではとため息を吐いた。シネコンを後にしてショッピングモールへと移動する。まず足を運んだのはベビー服売り場だ。日に日に成長する為着る回数は少ないが、可愛い今の桜をめいいっぱい更に可愛くしたい。だからといって高い服は流石に買えない。--でもたまになら。少し位。と入った店で気に
大丈夫。服は乱れて、胸元には跡があるけれど。大丈夫。下半身に違和感は無いから……。だから、大丈夫。微かに残る記憶の中。誰かに押し乗られて胸を触られ首筋や胸に口付けられていた。知らない男に。信じたくなくて首を横に振る。あの後、服を整え部屋を見回しメモ書きをみつけた。横には春陽のバッグも置いてあり、スマホも財布も無事入っていた。バッグを手にして部屋を出た。車が店に置きっぱなしなのかわからずホテルの駐車場へ行き一回りしてみると無事車をみつけることができた。運転席へ乗り込むと椅子の位置が後ろへずらされていた。席を前に戻してバックミラーを調整する。カーナビで現在地を確認し自宅までルート検索をすると車を発進させた。連絡もなく翌朝帰宅した春陽にゆり子が心配の声をかけた。「二次会まで付き合う事になって、そこで間違えてお酒飲んじゃったらしいの。気づいたら隅で寝ていたからそのまま車の中に行って寝ちゃった」苦笑いしながら連絡もしないでごめんなさいと謝る春陽にゆり子はため息をついた。「何かあったのかと思って心配したのよ、次からは連絡してね」「本当にごめんなさい」「服がシワシワよ、シャワーでも浴びたら?」「そうする」部屋で着替えを用意して浴室へ。熱いシャワーを浴びると身体の緊張が抜けていく。安心した為か、ポロッと目から涙が溢れた。「……」一度溢れはじめたら次から次へとこぼれ落ちる。「うっ、……うぅ」身体を震わせながらうずくまりその場でしばらく泣いた。シャワーから出るとゆり子が温かいお茶を淹れてくれた。「昨日食べられなかったから、少し炙ったの。朝ごはんはこれでいい?」--車の中にももらった柏餅があったな。そんな事を思い出したけれどまぁいいか、とゆり子の炙ってくれた柏餅を手に取った。パクっと一口頬張る。あんこと少しの焦げた餅がいい塩梅だった。温かいお茶と甘い柏餅をお腹に入れて気分がやっと落ち着いた、かと思ったのだが。ウワーン。桜の泣き声が部屋に響いた。「朝ミルク飲ませたから、オムツかしら」ゆり子が棚からオムツとおしり拭きを取り出して桜の元へ寄る。「おばあちゃん、私がやるから」ソファから立ちあがろうとした春陽をゆり子が止めた。「ゆっくり食べていて」ゆり子の言葉に甘え春陽は2個目の柏餅を手にする。「春陽は今日は予
ニューヨークで再会した慶司は愛美のことなどまったく覚えていなかった。愛美が5歳の時だから慶司は9歳だっただろうか。九条グループの新年パーティーへ両親に連れられて行き、そこで一目惚れをした。愛美のその初恋がかわることはなかった。だから母からお見合いの話しを聞いた時は胸が高鳴った。慶司が帰国したら場を設けるという話しだったが無理にニューヨーク旅行をくみ、慶司と会えるようにセッティングしてもらった。ニューヨークでの慶司の態度は冷たく、愛美の期待とは大きくかけ離れたものだった。しかし、慶司がこの時買収合併の大詰めでかなり忙しい事はわかっていたので無理に時間を取らせた自分の否もあると思い冷静に待つことにした。慶司の帰国が決まり、その数日後改めてと両母親を伴い食事の場が設けられた。ただ黙々と食事をする慶司に、いつもチヤホヤしかされない愛美は不満を覚えた。茉莉花の問いかけにたまに短く返事をする程度しか口を開くこともしてくれず、またも予定があるからと途中で退席してしまった。慶司が去った席で茉莉花がボソッと言った。「あの子ってば、そんなに大事なコがいるのかしら」その声は愛美の耳に入ってしまった。その後茉莉花はそんな事を口にしたとは思えない程愛美を褒め称えた。ずっと。ずっとずっと、慶司だけを好きでいたのに。突然アイドルになって、周りにもKEIのファンだと名乗る人もいて。いい気分ではなかったけれど、アイドルのKEIしか知らない人達の声など気にしないようにしたのに。全てに釣り合うことができる人は私くらいなのだと、その為に努力もしてきた筈なのに。やっと見合い話しが出てチャンスが訪れたのに。慶司に好きな女ができたかもしれないなんて。--誰?そんな女を許せる訳がなかった。慶司は私のモノになるべき人なのだから。「調べて」興信所に依頼したのは4月に入ってすぐの頃だった。1週間程で最初の調査書類が手元に届いた。慶司が大学を変えた間に接した異性達の名前が並ぶ。「……」愛美の視線が留まる。渡辺春陽、コンビニの同僚。「わたなべ、はるひ……」聞き馴染みのある名前だった。慶司が通った大学は愛美も高校時代まで過ごした花塚。慶司が大学時代働いたと書かれたコンビニの住所には覚えもある。コンビニのすぐ近くには小学生の時に愛美が側においた子の家がある
「今赤ちゃんいるって事は高校で妊娠したの?」「結婚していないって事は相手も高校生?」「否、高校生ては限らないだろ?」「親もシングルだったヤツだぜ?」「やり過ぎて父親がわからないとか?」「ひでぇ事言うな、おまえ」「まあ、でも」「あぁ、あいつ可愛くはあるからな」「相手位いてもおかしくないな」クスクス、ザワザワと。周囲の好奇な声が春陽の耳に届くが。「……」黙って耐える事しかできない。立ち上がって店を飛び出して帰ってしまいたい。「結婚してないだけで変な噂話になってしまうなんて嫌ね。大丈夫?渡辺さん」言う愛美の声音は優しいのに、その目だけはまったく優しさを宿してはいない。冷たく、どちらかと言えば憎悪が入り混じっている風に春陽には感じた。冷たく蔑む様な目を向けられた事があったのは事実だが、そこに憎悪などはなかった。だが今の愛美からは春陽に対しての憎悪が感じられる。--どうして?あの時からかかわった事も無かったのに。「赤ちゃん位でうるさいよね」小春が珍しく発言する。「高校教師とできちゃった婚している瀬奈の方が余程世間の目は冷たいとおもうけど?ねぇ、瀬奈」「私は自分の純愛を貫いただけよ。誰にも文句なんて言わせない」小春と瀬奈の会話に春陽がわずかに違和感を覚える。瀬奈の事情を知っている高橋小春。今日、高橋小春は愛美、麻里、由宇と共に来ている。--でも、まさか。あんな偶然的に遭遇するなんて事無いはず……。同窓会当日に春陽の家付近でたまたま旦那が乗せて行けなくなったと免許を取得して車を買ったばかりなのに同乗を頼み愛美達との同席に何も言わず受け入れて小春と親しげに話をしている、そんな偶然が。--ある筈無い。「井上さんは高橋さんと昔から親しかったの?」疑問を自分の中だけで燻らせているのはここでは不用、春陽は瀬奈にストレートに聞いた。「親しいっていうか、私と小春は従姉妹なんだよね」「私のお父さんは瀬奈のお父さんの弟だから」瀬奈の旧姓が高橋だったことを思い出す。「そうだったの」「……」ならば、今日の事は偶然なんかではなく必然的なものだったのだろうか。わざわざ春陽を同窓会に来させる為に。しかし何故そうしたかがわからない。同窓会に春陽が来て今のような誹謗中傷に晒したかったのだろうか?「ねぇ、せっかくなのにこの雰囲気は
タンスの中の衣服をいくつか出したがどれも着古したものばかりで春陽はため息をついた。元々あまり服を買う方ではなかったが最近は桜の面倒をみるのに余計こだわりなく着古した服を着ていた為だ。これしかないか、と。もう2年も前に買った黒のワンピース、アイロンをかけシワを伸ばしておく。靴は更に悩む。車の運転もできる物でないといけない事めあり下駄箱の中の少ない靴をじっと見つめる。「これしかないか」手にとった靴は激安通販で知られるヒラタの680円で購入した黒のバレエシューズ。脱ぎ履きが楽で底もフラットなので桜の散歩にも重宝している靴だった。ワンピースに着替え、ゆり子の化粧品を少し借りて薄く化粧しカーディガンを羽織り重い腰をあげると必要最低限の物だけ入れたバッグを手にして靴を履く。「それじゃあ、遅くならずに帰ってくるから」本当ならばゆり子と柏餅を食べてゆっくり過ごすはずだった午後の時間を惜しみながら春陽は玄関を出た。駅の自家用車用ロータリー乗降口に立つ瀬奈を見かけてその前で停車する。「渡辺さん、ありがとう」助手席に乗り込んだ瀬奈が「これ、後で食べて」と渡してきたのは柏餅だった。「わざわざありがとう」断るわけにもいかず受け取ると後部座席へ置く。「渡辺さんて綺麗に車乗るねー。ウチの車なんて中は荷物がごちゃごちゃだよ」車内をキョロキョロと見回して言う。「今日の午前中に納車だったから綺麗なだけだよ」「えっ」驚いて目を丸くして春陽を見た。「本当に?納車されたばかりだったの?私、あんな頼み方したけどもしかして迷惑だった?」「大丈夫だよ」苦笑いを浮かべた春陽に「ごめんね〜」と謝る瀬奈に悪気があったわけではない。「本当に大丈夫だから」気にしないで、と伝えた。「でも……」春陽は横目で瀬奈を見て口にしてしまう。本当に中学までのイメージはまったくなくなってしまっていた。真っ黒で常に後ろで一つに束ねられていた髪はレッドブラウンに染められ化粧も「今時」といえる仕上がり、サーモンピンクのシフォン生地のチェニックに花柄模様のフレアスカート。見違える位に綺麗になっている。「変わりすぎてビックリ?」春陽の言いたい事を先に瀬奈自身が言う。「うん」「渡辺さんもだけど私もぼっち組だったからね。イメージだと暗いとか、良くて真面目しか皆にはなかったからねー」ハハハと
なんとか卒検も無事に受かり。本検もGW直前で受けに行け無事に合格し免許証を手にできた。写真を撮る事を頭に入れていなかった春陽は日常通りの姿で行った為中途半端にのびてしまったおさまりの悪い髪とすっぴんの顔が証明写真となってしまい免許証は誰にも見せたくないと後悔した。そんな免許証を財布にしまう。午前はMBOXの納車予定。100万円を超えるはじめての買い物であるMBOX、春陽は車好きではないけれど意外にも気持ちはワクワクしていた。「それじゃあ、行ってくるね」「行ってらっしゃい、きをつけてね」桜を抱きあげながら少しばかり心配そうにゆり子が見送った。契約の時も隣にいてくれた舞だったが、大学のサークルで行うファッションショー準備から抜けられなかった為納車は1人で行くことになってしまった。最寄りのバス停までバスに乗り店まで行くと舞の母が出迎えてくれた。「どうぞ」2人が座るテーブルに女性店員がコーヒーを置いてくれる。「それじゃあ」いくつかの書類をテーブルに置くとそれぞれの説明をしていく。車検証、自賠責保険、などなど。「任意保険の方には前に車検証のコピーも送ってあるし、納車日も伝えてあるから今日からもう効くはずよ」車にまったく縁がなかった為任意保険も全て舞達に頼って契約をしていた。「色々とありがとうございます」春陽は頭を下げお礼をしたが。「いいのよ、私には車も保険も自分の販売成績になるんだから!」アハハと笑ってみせる。釣られて春陽もクスっと笑みが漏れてしまった。「車の準備もできたみたいだから行きましょうか」入口の方へ視線を向けると外には黒のMBOXが既に止まっている。「ナンバーは桜ちゃんの誕生日にしたの、これは私からのプレゼント」特にこだわりもなく希望がなかった春陽はナンバーは前のままでいいと思っていたが、些細なプレゼントだがとても嬉しいプレゼントだった。「1030」「1番覚えやすいでしょ」「はい」車を一周、傷などがないかを確認する。運転席のドアを開けてもらうと運転席へ乗り込む。「鍵はここにあるから」と言われたドアポケットから鍵をとりバッグにしまう。座席の高さと位置を調整してバックミラーを調整する。「大丈夫?」「大丈夫です」 一通りの調整を終えてハンドル周りを確認するとエンジンスタートのボタンを押す。ドアが閉められ