INICIAR SESIÓN病室の中、川辺千春(かわべ ちはる)が甘えるように村瀬恭弥(むらせ きょうや)の胸へ身を寄せていた。 恭弥はひと匙ずつ、愛おしそうに彼女の口元へお雑炊を運んでいる。 「恭弥さん、あんまり激しくするから……血が出ちゃったじゃない」 甘えるような千春の言葉に、恭弥は優しく応じた。 「つい夢中になっちゃってさ。次は気をつけるから、いい子にして」 病室の外では、菅野麻奈美(かんの まなみ)が検査結果の用紙をぎゅっと握りしめて立ち尽くしていた。 胸が張り裂けそうに締めつけられ、息をすることすら苦しい。 用紙には「妊娠2か月、胎児の発育は順調」と記されている。 病室にいるのは、紛れもなく夫の恭弥だった。 かつて一生愛し続けると誓ってくれた男だ。 10日前、残業が続くと告げて家に戻らなかったのは、こうして別の女と密会を重ねていたからだった。
Ver más傷が癒えた恭弥は、実家の手配によって帰国した。だが、心身に深い傷を負った恭弥に代わり、会社の後継者には従弟が据えられる。わずか数か月のうちに、名門の御曹司は権力も地位も失った落伍者へと転落した。世間はこの失脚を面白おかしく噂し、尾ひれをつけて語り草にしたが、恭弥自身はもはやそんな雑音に興味すら湧かなかった。自宅に引き籠もって静養しながら、かつての思い出だけを胸に日々をやり過ごす。夜中にふと目を覚ますと、恭弥の目元はいつも涙で濡れていた。麻奈美が残していった宝石や貴金属をすべて換金し、全額を児童福祉施設へ寄付した。かつて自分が溺れたあの海辺へ足を運び、残された個人資産を投じて過疎化の進む村の復興を支援する。変わり果てた息子の姿を見かねた斎造は、生涯不自由なく暮らせるだけの株式と財産を分け与えた。だが後に、恭弥はそのすべてを手放し、1人の幼い命へと譲ることになる。もう1人、世間の格好の噂の種となったのは千春だった。かつて浮名を流した人気女優は表舞台から姿を消し、川辺家は完全に没落して消息も途絶える。あの日、恭弥を刺した千春は現地の警察に現行犯逮捕されていた。殺人未遂罪で起訴され、下された判決は懲役10年。だが村瀬家を激怒させた以上、刑期を終えて帰国したところで待っているのは地獄だけだ。報復を恐れ、異国の獄中で過酷な日々に耐える気力もなかった千春は、護送中の隙を突いて脱走を図った。着の身着のままで逃げ惑い、行き着いた先は現地でも最も治安の悪いスラム街の路地裏。そこで数人の男たちに連れ去られ、二度と千春の姿を見た者はいなかった。*同じ頃、麻奈美は幸人と静かに婚約を交わしていた。機密プロジェクトに携わる立場上、大々的な宴は催さず、京志郎と研究室の仲間たちだけを招いたささやかな食事会だ。席上、京志郎は目頭を熱くしながら顔をほころばせる。「自慢の愛弟子2人がこうして結ばれるなんて、これ以上の喜びはないよ。幸人、もし麻奈美を泣かせるようなことがあれば、このワシが絶対に承知せんからな」幸人は穏やかに微笑んで頷いた。「生涯、裏切るような真似はいたしません。一生をかけて愛し抜くと誓います」恭弥とは違う。長年待ち焦がれてようやく結ばれた最愛の女性を、幸人はただひたすらに慈しみたかった
刃が肉を裂く鈍い音が響いた。だが、麻奈美の身に激痛が走ることはなかった。代わりに感じたのは、背中を包み込むような逞しい温もりだった。恭弥が背後から抱きしめるようにして、その身で凶刃を受け止めていた。麻奈美が慌てて振り返ると、千春の一撃を受けた恭弥の白いワイシャツに、瞬く間に鮮血が滲み広がっていく。恭弥は何かを伝えようと口を開きかけたものの、あまりの激痛にその顔を苦悶に歪ませた。千春は手を止めるどころか、狂気に満ちた形相でさらに刃を突き立てようとする。「恭弥も、麻奈美も、2人とも……一緒に死んじゃえ!」それでも恭弥は麻奈美を背に庇い続け、ついに力尽きて意識を手放し、その場へ崩れ落ちた。そこへ全力で駆けつけた幸人が、千春の体を力任せに蹴り飛ばす。地面に転がった千春はようやく正気に戻り、血に染まった自らの両手と、血だまりに倒れ伏す恭弥の姿を目にして青ざめた。起き上がって逃げ出そうとしたものの、騒ぎを聞きつけて駆けつけた警備員たちによって即座に取り押さえられる。麻奈美は激しく取り乱しながら恭弥の傷口を必死に押さえたが、溢れ出る血は一向に止まらない。幸人は素早く救急車を呼び、受け入れ先の病院を手配した。やがて到着した救急車に運び込まれ、恭弥は病院へ到着するや否や手術室へと直行した。手術室の扉の前に立ち尽くす麻奈美は、目頭を赤く腫らし、祈るように両手を握り締める。恭弥が自らの体を盾にして庇ってくれた瞬間、麻奈美がこれまで胸に抱えていた怒りや恨みは、すべて消え去っていた。何があろうと、命を懸けて自分を救ってくれた。どうか生きてほしい――ただそれだけを心の中で祈り続けた。隣で見守る幸人もまた、険しい表情で手術室のランプを見つめていた。身を挺して麻奈美を守り抜いた恭弥の姿を目にしたとき、幸人の胸中には複雑な思いとともに、深い感謝が湧き上がっていた。これまでにどれほど麻奈美を傷つけてきた男であろうと、この瞬間に恭弥が見せた覚悟と行動は紛れもなく本物だった。幸人は静かに窓辺へ歩み寄ると、スマートフォンを取り出して実家へ連絡を入れ、ムラゼテクニックへの圧力を即座に中止するよう指示を出した。*丸1日におよぶ懸命な救命処置の末、恭弥は奇跡的に一命を取り留めた。執刀医も安堵の息を吐き出す。あと
いつものように、幸人と一緒にサイクリングに出かけようと家を出た麻奈美は、2人の招かれざる客に遭遇した。恭弥と千春だった。麻奈美は思わず深いため息をつく。恭弥は身なりを整え、かつて麻奈美が一番似合っていると褒めたスーツに身を包み、腕にはジュリエットローズの花束を抱えていた。だが、麻奈美はその姿を前にしても心には波風ひとつ立たず、愛の欠片すら残っていない。対照的に、粗末な服をまとって青ざめ、やつれ果てた千春は無惨なほど惨めだった。麻奈美は眉根を寄せ、冷淡に言い放つ。「どうしてここにいるの?もう二度と会わないと言ったはずよ」本当に2人とは顔を合わせたくなかった。せっかく掴み取った新しい生活を、これ以上壊されたくはなかった。麻奈美の冷たく煩わしそうな眼差しに、恭弥の胸がきしむ。彼は花束を差し出し、かつての優しい声音を取り繕って語りかけてきた。「もう怒りは解けただろ?本当に会いたかったんだ。悪かったよ、もう一度だけやり直すチャンスをくれ」だが麻奈美は花束に触れようともせず、手元の腕時計に視線を落とす。「花は自分で持って帰って。予定があるから先に行くわ。もう二度と来ないで。許すつもりはないから」恭弥が必死に機嫌を取る姿を見つめ、千春の胸に激しい嫉妬が渦巻く。麻奈美は今も変わらず眩しく美しいのに、自分は全身傷だらけで、唯一の拠り所だった子供すら失ってしまった。千春は麻奈美へ、怨嗟に満ちた目を向ける。立ち去ろうとする麻奈美の背中を見送り、恭弥は千春を激しく睨みつけた。千春は胸中の恨みを押し隠し、2歩前へ進み出ると麻奈美の足元に膝をつく。そして泣き叫びながら、自らの頬を力任せに張り飛ばした。「お姉ちゃん、お姉ちゃんとお母さんを傷つけて本当にごめんなさい……もう十分に罰は受けたわ、お願いだから許して。気が済むまで殴っても罵ってもいいから。これからは二度と生活を邪魔しない。お願い、見逃して……!」麻奈美は数歩後ずさりした。千春が報いを受けたとはいえ、許す気など微塵も起きない。母を殺された。それでも麻奈美にできるのは、自ら復讐の手を下さないことくらいだった。いずれ法によって裁かれる時が来ると分かっていたからだ。麻奈美は踵を返して歩き出す。その冷ややかな態度に、恭弥も苛立ちを隠
麻奈美の肩に優しく手を添えてソファへ座らせると、幸人は楽しげに目を細めた。「ミナと遊んで待ってて。夕飯を作るからさ」申し訳なさに麻奈美が手伝おうと身を起こしかけると、幸人に膝の上へミナを乗せられた。ずっしりとした重みで、すっかり身動きが取れなくなってしまう。「気にしなくていいよ。俺たちの仲で遠慮なんて要らないから。今日は腕によりをかけるから、楽しみにしていて」麻奈美はミナを抱きかかえ、毛並みを撫でながらおやつを口元へ運んだ。ミナは満足そうに目を細め、喉をごろごろと鳴らす。たっぷりと可愛がられてきたせいか、ずいぶんと体が丸みを帯びており、抱き上げるだけでもなかなかの重労働だった。やがてキッチンから、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。運ばれてきた皿には、豚の生姜焼きと出汁巻き卵が綺麗に盛り付けられていた。食卓には味噌汁ときんぴらごぼうも並び、彩りも豊かだ。思わず麻奈美はごくりと喉を鳴らした。村瀬家で暮らしていた頃は高級なコース料理ばかりで、どうしても馴染むことができなかった。やはり、こうした温かみのある家庭料理のほうがずっと口に合う。「さあ食べよう。お腹が空いただろ」幸人が優しく微笑みかける。麻奈美は目を見張り、感嘆の声を漏らした。「すごい……料理がこんなに上手だったなんて知らなかったわ」「大学2年のときに一緒に食事へ行ったろ。あのとき君が頼んだメニューだよ。好みの味なら、今でも全部覚えてるからさ」彼女のためにどれほど料理の腕を磨いたかまでは、幸人は口にしなかった。麻奈美は照れくさそうに視線を落とし、白米を口に運ぶ。この日、麻奈美はご飯を3杯もおかわりし、並んだ料理をすべて綺麗に食べてしまった。満腹になったお腹をさすりながら、ソファで幸せそうに息をつく。これほど心ゆくまで食事を楽しんだのは、いつ以来だろうか。幸人の慈しむような視線に気づき、麻奈美の頬が微かに熱を帯びた。*食後、幸人は住まいまで送り届けてくれた。夜風を感じながら並んで歩いていると、1台の車が2人をかすめるように猛スピードで駆け抜けていく。危険を察知した幸人が、咄嗟に麻奈美の体を抱き寄せてくれた。麻奈美は驚きのあまり、引き寄せられた幸人の胸の中で呆然と立ち尽くす。鼻先をくすぐる爽やかな香り