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第72話

Author: 春うらら
結衣が振り向いて見ると、その顔を見た瞬間に胸の内に渦巻いていた怒りも大半がどこかへ消え失せてしまった。

その男性はシルバーグレーのスーツに身を包み、気品ある雰囲気を漂わせていた。

薄暗い光の中でも、その整った顔立ちはまるで神様が丹精込めて作り上げたかのように、完璧なほど美しかった。

切れ長の瞳が彼女を見つめ、その表情には申し訳なさが浮かんでいた。

こんな顔を向けられては、結衣はどれほど腹が立っていても怒りをぶつけられそうになかった。

結衣は唇を軽く噛み、口を開いた。

「いえ、お気になさらないでください……それで、保険で対応なさいますか?それとも示談にしますか?」

ほむらは少し黙った後、彼女を見て言った。

「保険で」

「わかりました。じゃあ……保険会社には連絡しましたか?」

ほむらがバックして彼女の車にぶつけたのだから、これは彼の全面的な責任だった。

ほむらは眉をひそめた。普段、車に関することはすべて茂が処理していて、自分の車がどこの保険に入っているかさえ分からなかった。

「少し待ってくれ」

彼は茂に電話をかけ、保険会社に連絡して事故処理に来るよう伝えた。通話を終えると、彼は傍に立つ結衣を見て言った。

「保険会社の者はもう少しで来ると思うが、外は寒いし、車の中で待たないか?」

結衣は警戒心が強く、いかにハンサムで自分好みの男性であっても、見知らぬ人の車に乗るようなことはなかった。

「いいえ、結構です。ここで待ちます」

確かに寒かったが、近くには防犯カメラがあり、それなりに安心できた。

ほむらは眉を上げた。彼女が自分を信用していないのだと察し、頷いて言った。

「わかった。じゃあ僕もここで待つよ。ああ、僕は伊吹ほむら(いぶき ほむら)。君の名前は?」

「汐見結衣です」

ほむらの目に優しい色が浮かんだ。

「相田さんの誕生パーティーに来たのかい?」

「ええ」

「どうしてこんなに早く出てきたんだ?確かパーティーは夜七時からだったはずだが」

結衣は彼を見上げて答えた。

「ええ、プレゼントを渡したらすぐに失礼したんです。あなたもどうして早く出てきたのですか?」

ほむらはふっと笑った。まるで氷が解け始めるように、身にまとっていた冷たい雰囲気が和らいだ。

「あまり人混みが好きじゃないんだ」

結衣は頷いた。

「私も」

「そうだ
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