ログイン若桐は、自分の部屋の机に向かい、ノートパソコンの画面に〝辞表〟のフォーマットを開いていた。
今日の午前、教官の控室には、時期的に恒例の〝人事の噂〟が流れてきた。
それは当人たちのもの……ではなく、皆が指導をした教え子たちの。 特に、佐官以上の人事は、常に話題のマトだ。 そこで、今度の将補の候補に、真壁の名前が上がっている……と。「若桐さん、嬉しいでしょう?」
「そりゃあ、教え子が出世してるの見るのは、ねえ……」適当に誤魔化したが。
正直、嬉しいなんてものじゃなかった。 誇らしい……ですらない。 自分でも浮かれすぎるほど浮かれ、有頂天になっていた……とすら思う。だが、午後になって幕僚監部付の視察担当官が顔を出した。
浜松と静浜の連絡を受け持っている樋口一佐だ。 年齢は四十廊下の向こうに、若桐の姿が見える。『若桐さんっ!』 真壁は、呼びかけようとしたが、喉に声が引っかかって出てこない。 床に足が張り付いていて、走りだそうにも足が動かない。『若桐さんっ!』 声にならない叫びに、若桐がこちらを向いた。 歩み寄る気配に、微かな安堵を覚えるが……。 傍に立った若桐は、冷たい眼差しのままだ。「すみません、一佐。ご要件は、改めて」 笑みもなく、淡々と告げると背を向ける。 必死になって、動かぬ足を前に出し、真壁は叫んだ。『守さんっ!』 次の瞬間、真壁は空に放り出されている。 射出されたシートと、パラシュート。 空の彼方に消えてゆく、黒煙を上げる機体。『待って! 守さん! 行っちゃやだ!』 声は出ない。 手を伸ばし、必死になって真壁は叫んだ。「行かないでっ! 守さんっ!」 自分の叫びで、飛び起きた。 部屋は暗闇に包まれていて、音もない。(隣の響野は……) 考えて、そんなものはとうの昔にいないのだと思い出す。 全身に冷たい汗をびっしょりとかいていて、顔に手を当てると泣いていた。(守さん……) 思わずスマホを手に取ったが、番号を選ぶ直前で手が止まる。 部屋の暗さよりも、重く冷たい闇が、真壁の心にのしかかってきたような気がした。
午後の会議で、真壁は資料の数値を読み違えた。 執務室に戻ったあとも、パソコンの画面を見つめたまま、ぼんやりしている。 数字も、伝聞も、一切が頭に入ってこない。「一佐、どうかなさいましたか?」 西條の声に、我に返る。「なんでもない」 その場は取り繕った。 だが、いつもなら西條が追いつけないほど速やかに回される決済が滞り。 一部の下士官から、残業を一切許さないのに仕事量が尋常じゃないと噂される部署で、全く仕事が回ってこない事態が発生した。「あの、一佐……」「え……?」「どこか、お加減が悪いのではないですか?」 こちらを見る西條の心配げな顔に、真壁はふるふると首を振る。「まだ、終わってない」「ですが……、体調が優れないなら無理をせずに休んで、翌日取り戻せば良いと仰ってるのは、一佐ですよ?」 西條の指摘に、真壁はハッとした。(そうだ……。こんなに何も手につかないんじゃ、皆に迷惑を掛けるだけだ……) 真壁は、こくんと頷いた。「済まない。きみの言う通りだ」「こちらで回せるものは、やっておきます。このあとのスケジュールに、動かせないものはありません。お大事にしてください」「ありがとう」 身支度を整え、真壁は席を立つ。 しかし、西條への感謝の念は長く持たず。 心の中を占めるのは、あの廊下で若桐と交わした数秒のやりとりだ。(なぜですか、守さん。僕が、なにかをしましたか? ……辞めるという噂は、本当なんですか?) 疑問と不安が胸に満ちる。 だが、若桐からそれらを肯定する返事をされるのが怖くて、メッセージすら送れなかった。
午前の打ち合わせを終えて廊下を曲がった瞬間、真壁の視線を釘付けにするものが視界に飛び込んできた。 見慣れたフライトスーツではなく、公務の制服姿だが……、見まごうはずもない。 あれは、若桐の後ろ姿だ。 胸が高鳴り、歩く速度が自然と早くなる。 静浜で教官をしている若桐が、浜松基地に来るのは珍しい。(しばらく連絡が無かったのは、またなにかサプライズを企んでいたんですか?) 理由がなんであれ、なにより元気な顔が見られた嬉しさが先に立つ。「若桐教官!」 だが、こちらに振り返った若桐は……。 真壁が期待するような、いつもの笑みを浮かべてはくれなかった。「お疲れさまです、一佐」 すっと上げられた右手は、教科書通りの敬礼。 声音は堅く、事務的な挨拶のみ。「まもるさ……」 飛び出しそうになった言葉を飲み込む間に、視線は外された。 若桐と共に来たらしい、静浜で見慣れた教官たちが、がやがやと廊下を歩いていく。 集団と一緒に歩く若桐は、視線を無理やり固定しているかのように、視界に真壁を写さず……。 いくつもの足音が脇を抜けていく中で、自分の横を若桐が通り過ぎる。「わ……若桐教官!」 咄嗟に、真壁は若桐の二の腕を掴んでいた。(なんで、連絡をくれないんですかっ!?) どうしても問いただしたいその質問は、向けられた硬質な視線に押されて、声にならなかった。 若桐の視線が、ゆっくり落ちて、掴んでいる二の腕を見る。「すみません、一佐。ご要件は、改めて」 ギシッと、歯車が狂うような音が、頭の中に響いたような……。 若桐の言葉の意味が、理解できない。 だが、そっと当てられた手が、掴んだ真壁の手を除ける。 公共の場では、これは逸脱した行為だ。
若桐は、自分の部屋の机に向かい、ノートパソコンの画面に〝辞表〟のフォーマットを開いていた。 今日の午前、教官の控室には、時期的に恒例の〝人事の噂〟が流れてきた。 それは当人たちのもの……ではなく、皆が指導をした教え子たちの。 特に、佐官以上の人事は、常に話題のマトだ。 そこで、今度の将補の候補に、真壁の名前が上がっている……と。「若桐さん、嬉しいでしょう?」「そりゃあ、教え子が出世してるの見るのは、ねえ……」 適当に誤魔化したが。 正直、嬉しいなんてものじゃなかった。 誇らしい……ですらない。 自分でも浮かれすぎるほど浮かれ、有頂天になっていた……とすら思う。 だが、午後になって幕僚監部付の視察担当官が顔を出した。 浜松と静浜の連絡を受け持っている樋口一佐だ。 年齢は四十一で、若桐の教え子の一人でもある。 樋口との窓口は若桐の担当で、人事の話が出る頃合いは訓練生の卒業式も近付くので、頻繁に顔を出すのだ。「そういえば、真壁が将補の候補に上がったとか?」「ん? そうらしいな」 応接室で対面していた樋口が、業務を終えたところでその話題を切り出した。 若桐は、出来るだけ平静を装いつつ、答える。「でも……、雲行きが怪しいらしいですよ」「え、なんで?」 思わず素で答えた若桐に、樋口は「ふふっ」と笑う。「なぁんだ。やっぱり気にしてるんじゃないですか」「そりゃあ教え子の出世は、いつだって嬉しい話題だからな」「全く、あんたそういう意味じゃお人好しですよ」「そんなにか?」「だってそうじゃないですか。そもそも教え子が出世したからって、若桐さんの評価が上がるもんでなし。給料も同じで、階級も変わらず。なにがそんなに嬉しいんだが、あたしには全くわかりませんね」「教え子
基地から少し離れた繁華街。 案内された店は、いつものざっくばらんなカウンター居酒屋ではなく、落ち着いた照明の料亭で、しかも個室だった。「なんだ、今日はずいぶん奮発するじゃないか」「気にすんな。埴生さんに教えてもらった店だ。味も酒も間違いない」 席に着くなり、響野は生ビールのジョッキを二つ頼み、真壁の前にドンと置いた。「まずは乾杯だ。俺の第二子に」「そういえば、麗子さんは?」「今は実家だ。奏真の時に妊婦の世話が出来なくて、カミサンが爆発したからな。今度は轍を踏まないように、早々に里帰りをさせたんだ。だが、家に誰もいないのは、なかなかきつい」「寂しがってるのはおまえのほうか」「ハハッ、否定はしねぇよ」 ジョッキを合わせると、ビールの泡が細かく弾けた。「ま、こんな俺でも幸せ家族ができてんだ。若桐さんには感謝しかないぜ」「あの土下座は見ものだった」「思い出すな!」 椿山荘の庭園での一件を思い出し、真壁は笑う。「一目惚れというのは聞いたことがあるが、おまえの場合は一本惚れだな」「いや、全く。ありゃあ綺麗な投げだった……って、おまえは投げられてないから、そんなことが言えるんだ!」「麗子さんの仕掛けは素直だからな。あれを食らうおまえのほうがどうかしてる」「俺には負けるのに……」「体重差だろ?」「まったく……。……だが、引き合わせてくれた若桐さんには、アタマ上がらんよ。……ま、おまえは俺とは、意味が違うだろうが」「そういう言い方はよせよ」 思わず低く遮ったが、響野のニヤついた目は誤魔化しようがない。 だが、響野は仲居が料理を運び終わったところで、顔つきが変わった。「実は今日、おまえを呼び出したのは、もっと真面目な話でな」「なんだ?」「麗子が実家で、妙な噂を聞き込んできた」「実家ってこ
「おい、真壁!」 執務室のドアが、ノックもなく勢いよく開いた。 顔を覗かせたのは、フライトスーツの袖をまくった響野だ。「三佐、困ります。司令部内は……」 体の大きな響野の影になって見えないが、向こうから副官の西條三尉が困ったように言っている声が聞こえた。 二十代半ば、まだ経験も浅く規律重視の西條は、響野のような破天荒なタイプは苦手らしい。 しかも上官では、強く物言いも出来ないのだから、戸惑いは当然だろう。「西條。いいよ、ありがとう」 真壁はデスクから立ち上がって扉の傍へ行き、響野の向こうで慌てふためいている西條に声を掛ける。 眉間にシワを寄せて、眼鏡の奥の目が怒っている西條は、真壁の顔を見るとやや安堵した顔になった。 そして、あまり納得いかない様子ながらも一礼して引き下がる。「相変わらずガチガチだな、あの副官」 「仕事熱心なんだよ」 「良かったな、やつも上司がおまえで」 「おまえの副官だったら、胃潰瘍で入院してしまうぞ」 「副官なんぞ、小煩いだけだ」 「それより、どうした? また、なにか無理を通せという話じゃないだろうな?」 「いや、今日は飲みだ。残業続きと聞いてる。たまには息抜きしようや」 「……まさか、もう店は決まってるとか?」 「さすが、わかってらっしゃる」 「強引だな」 「同期特権だ」 響野はガハハと笑って、親指をくいっと持ち上げた。 真壁は小さく息を吐きながらも、その勢いに押されるように上着を手に取る。 どうせ断っても、響野は引き下がらない。 そういう男であることを、真壁は長年の付き合いでよく知っていた。
熱が引いていく感覚に、若桐はゆっくりと真壁から体を離した。(ああ、全く……) 甘い余韻よりも先に来たのは、「やらかした」という後悔の念。 訓練生ではないが、教え子に手を出すことになるとは……。「若桐さん……」 若桐が起き上がり、体温が離れて気付いたように、真壁がこちらに意識を向ける。 その様子に、己の後悔より真壁への労りが先んじた。「待ってろ。今、ユニットバスに湯張ってやるから」 ベッドから離れようとした若桐を、引き止めるように真壁が手を取る。「おい……」「やっぱり、……若桐さんじゃないと駄目です」 真壁は、へにゃりと笑った。 端正な顔が、突然、少年のように見えた。
ふっと顔を上げた真壁は、微かに紅潮したまま、ぽやんとした視線で若桐の顔を見たあとに、それをすっと下に落とした。「あの……」「なんだよ?」「若桐さんのは、しなくていいんですか?」 身動ぎする真壁の体温が── あのこぼれるような色香をまとった背中が、そこにあることを意識させる。(俺がこうなってるのは、おまえが色っぽすぎるからなんだよっ!) だが、ツッコミは言葉にならず、若桐はただ赤面しただけだった。「それに……やっぱり若桐さんはすごいです。……僕、こんなの、知りませんでした」「やめろ! ……それ以上は……、俺の理性が保たんっ!」 思わず叫んだ若桐を、真壁はきょとんとした顔で
仄かな香りに、真壁が気付いたように視線を寄越す。「なん……ですか?」「おまえに、痛い思いはさせたくないからな」 足を開かせ、たっぷりとオイルを馴染ませた指先を、窄まった場所に当てた。「ひゃっ!」「冷たかったか?」「ち……違います……。でも……そんなところ、は……恥ずかしいです……」「どうなっても知らんと、言っただろうが」 クルクルと円を描くように指先で撫で、時々先をつぷつぷと抜き差しする。「わか……若桐さ……」「いやか?」「……その聞き方は、……ずるいです」「痛みは?」「……ないです」「辛かったら、言え」「だい……じょうぶ……です」 真壁が落ち着くのを待って
若桐は、真壁の体をベッドに押し倒した。「本当に、どうなっても知らんぞ……」「若桐さん……」 見上げてくる真壁の瞳が、微かに濡れて揺れている。 若桐は、なんとなく意味も無く、真壁に向かって微笑んだ。 そして真壁の服のボタンに手をかける。 一つ一つ外される様を眺め、真壁は見様見真似で手を伸ばし、若桐の服に手を掛けた。 ベッドの上で、黙々と互いの服を脱がせ合う。 その時間が、二人のあいだの空気を熱く膨らませた。「もう……止められないからな……」 シャツを脱ぎ捨て、真壁の肌を晒したところで、若桐は最後の確認をするように言った。「……はい……」 答えを確認して、若桐は真壁に覆







