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教官室のノックの音は、少し控えめだった。
「あいてるぞー」
室内に残っていた若桐守(わかぎりまもる)は、帰り支度の手を止めて答えた。
「失礼します」
「なんだ、真壁か。どうした?」扉を開けて入ってきたのは、訓練生の真壁百合緒(まかべゆりお)だった。
スラリと背の高い頭頂部が、ドアの鴨居をかすめる。 バランスの取れた体は、もったりと見えがちな深緑のフライトスーツですら、どこかのモデルのように見えた。 姿勢良く立つと、きっちりと襟元まで上がっているジッパーも含めて布地に張りを与え、息苦しさを感じさせない。 だが、その視線はわずかに下がって床に落とされていて、かえって落ち着かない気配を漂わせた。「お時間よろしいでしょうか?」
「いいぞ。なんだ? 座学か? 実技か?」 「いえ……あの……」生真面目な性格ゆえに、平素なら真っ直ぐにこちらを見る視線が、相変わらず床をさまよっている。
常に〝気をつけ〟を保つ真面目さが、今は失われ、右手が左手の袖口をつまんでは引っ張っていた。「……体格のことで」
「体格が?」 「……あの……」一瞬、若桐を見た視線が、再び自信なさげに落とされて──
その態度から、若桐は真壁が本気で悩み、どうしようもなくなって相談に来たのだと察した。「どっか、痛めたのか?」
「いえ……。実は……、自分は筋肉がつきにくい体質のようで……。同期と比べると、どうしても見劣りすると言うか……」 「響野を比較対象にしてるなら、やめとけ。ありゃ、化け物だ」笑い飛ばす若桐の声に、真壁はかすかに眉を寄せた。
「ですが……、背中が貧弱と指摘されまして……」
どうせ成績優秀な真壁に対する、やっかみかなにかだろう……と思ったが。
これは言葉でなだめたところで、聞く耳は持たないな……と、若桐は心の内で嘆息する。「そこまで言うなら見せてみろ。上だけでいい。気になってんのは背中だろ?」
「あ、はい」若桐が肩のバッグを机に下ろす間に、ジッパーが下がる音がした。
上衣を腰まで脱ぎ、下に着ていたTシャツをためらいなく頭上へ抜き取る。 その動きは、訓練中と同じく無駄のない所作で、全く惜しみなく肌を露わに晒してきた。「なんだ立派な……」
そこそこに褒め、筋肉ばかりつけたところで、飛ぶのにあまり関係がない……と言ってやればいいだろう──などと思っていた若桐だったが。
目の前に現れた背中を前に、言葉を失う。首筋からまっすぐに伸びる背筋。
しなやかで均整の取れた筋肉が、呼吸に合わせて静かに動く。 その上をかすめる光が、わずかな汗を煌めかせる。 肩甲骨の滑らかな起伏。引き締まった腰の曲線。 すべての無駄をぎ落とした、精緻な彫刻のような背中だった。こぼれるような色香が、そこにたゆたっている。
思わず近付いて触れたい衝動にすら、駆られた。(いや、いや、いや! しっかりしろ、俺っ!)
心の中でかぶりを振って、踏みとどまる。
はっきり言って、見てはいけないものを見たような気分になっていた。航空教官などをやっていれば、男の体など履いて捨てるほど見る機会がある。
だが、その背中に情欲を抱いたのはこれが初めてだった。 自分の視線が、ある種の熱を帯びたまま外せなくなっていることに、ごくりと喉がなる音で気付く。 ハッとして、若桐は視線を無理やり真壁の背中から逸らした。「……服着ていいぞ」
「あの……」 「いいから、すぐ着ろ」とにかく、早くその〝危険なもの〟を視界から追い出したくて。
不自然なまでに顔をそむけて、若桐は言った。しかし──
「あの……、でも教官、ご覧になってませんよね?」
「なにが?」 「だって今、僕のこと、見てませんよね?」真壁がこちらに、一歩近づく気配を感じ、若桐はほとんど無意識のうちに半歩下がって逃げる。
「いや、見たよ。見た、見た。すごく綺麗な筋肉だ。申し分ないぞ」
「でも……」更に詰め寄ってくる真壁の気配に、若桐はもう一歩下がろうとした。
「おわっ!」
「教官っ!」なにかにつまづきバランスを崩した若桐を、真壁は支えようと手を伸ばし、そのまま二人は一緒に倒れた。
「あたたたた……、真壁、大丈夫か?」
「はい……、すみません……」顔を上げると、間近に真壁の顔があった。
抱きとめる形で、腕の中に半裸の体が収まっている。 あの背中に、手のひらが触れていた。(手……離さないと……)
だが、そう考えた理性は、間近に迫った真壁の無防備な表情に打ち砕かれた。
その吐息が掛るような距離に、若桐の思考はショートする。 微かに香る、石鹸の香り。 汗の匂いも混ざっているはずだが、まさに百合緒の名のごとく、花のような甘い匂いしかしない。 ドクン……っと、胸の奥で音がした。「……っっ!」
気付いた時には、キスをしていた。
ぐいと引き寄せ、指を差し込んだ後頭部の丸み。 舌で舐め上げた下唇の柔らかな感触と、うすく開いた口の奥で戸惑っている舌。 しかし目を見開いたのは一瞬のことで、真壁はすぐにもまぶたを閉じて、若桐のキスに応じてきた。 絡めた舌が、ぎこちなく動きを真似てくる。温かく、甘い。
呼吸が重なり、真壁の手が若桐の胸の生地を、ぎゅうと掴んでいる。ふと、腿になにか異物感を感じて──
それが真壁の反応だと気づいた瞬間、理性が一気に戻った。「おわっ!」
「ふえっ?」ほとんど突き飛ばすようにして、体を起こして真壁から距離を取る。
真壁は、ぺたりと床に座ったまま、ぽやんと若桐を見ていた。「い……今のナシ!」
「教官……?」 「すまん! 本当にすまん! 今のはナシだ!」 「……ナシ?」ぼんやりした表情のまま、真壁はこくんと頷いた。
「失礼しました……」
シャツを身に着け、真壁は頭を下げると、教官室から出ていった。
ドッと汗をかき、若桐は椅子に座り込む。「……やっちまった……」
机に突っ伏し、若桐は頭を抱えた。
真壁の色気にあてられて、ついキスまでしてしまったが。(どうすんだ、これ。バレたら懲戒免職だぞ……)
件のワケアリ客──若桐と真壁は、その後も月に一度ぐらいのペースで、予約を入れてくる。 毎回、離れに。 そして毎回、海浜公園に釣りに行く。 釣果は、あまりかんばしくない。「今回も、よろしくお願いします」 礼儀正しく、部屋の使い方も問題がなく、払いも滞らない。 ならば、それ以上の詮索は不要だ。「あの、女将さん」 その日は、戻ってきた真壁が満面の笑みを浮かべて、真弓に駆け寄ってきた。(あら、珍しい) いつもは、若桐の後ろにいて、滅多に口を開かない。 別に人見知りというわけでもなく、やってきた時に挨拶はする。 だが、余計なことは一切言わない、まるで躾の行き届いた大型犬のような印象だった。「これ、お願いできますか?」 差し出されたバケツの中には、小さなアジが二匹。「こいつの、初めての釣果なんですよ」 後ろで笑っている若桐が、一言添える。「お手間でしょうが、夕食に付けてやってもらえますか?」「はい、大丈夫ですよ。料理方法に、ご希望ありますか?」「特にありません。僕、調理場の人にお願いしてきますね」 バケツの中のアジを見つめる真壁の顔は、まるで小学生のようだ。「女将さん。フライみたいな、ちょっと〝豪勢〟に見えるのにしてやってください」 調理場に駆け去った真壁の背中を見送ってから、若桐が言った。「南蛮漬けがいいかと思ったんですけど、ならフライにしますね」 真壁の釣ってきたアジは、刺身にするには小さすぎる。 小鉢にしたら、せっかくの初釣果にがっかりするかもしれない。「お手数掛けます」「可愛いお連れさんですね」 真弓の一言に、若桐は面食らったような顔をしたが──「ええ……、まぁ……」 と、少し困ったような顔で微笑んだ。─序章・浜松:終わり─
最初は、一本の電話だった。「そちらの旅館、離れってありますか?」 今どきは、もっぱらネット予約が主流のこのご時世に、電話で問い合わせをしてきたことに驚いたけれど。 なにより、最初の問いがそれだったことに、なにかワケアリのお客だということは、容易に想像がついた。 御前崎の小さな旅館〝はまだ〟の女将・濱田真弓(はまだまゆみ)が、宿に離れがあること、ただし離れでは料金が少し高くなることを伝える。 すると電話口の男は、それで構わないと言って、予約を入れてきた。「若桐様、二名様ですね。お待ちしておりました」 現れた人物は、真弓の想像と少し違っていた。 柔和な表情とこなれた態度の、年配で小柄な男と。 入口の鴨居に頭をぶつけないように屈んで入ってきた、若い長身の男。「では、一晩、お願いします」 そう言って、年配の男から〝心付け〟も渡された。「もうしわけありませんねえ」「ご厄介をおかけしますから」 部屋に荷物を置くと、釣りに行くと行って出掛けていったが……。 夕方には、ボウズで戻ってきた。「海浜公園ですか?」「初心者向きってあったんですけど、空いてて良かったです」 夕食も、翌朝の朝食も、気持ちが良いほどにぺろりと平らげ帰っていった。 帰ったあとの部屋は、やたら綺麗にきちんとしている。「でも……、どう考えてもカップルだわよね、あの人達……」 仕事柄、真弓はマイノリティに対して寛容だった。
とろんっと蕩けた顔で若桐を見上げる真壁が、つと、視線を下げた。「守さん……、イッてないんですか?」「いや……、イッたよ?」「でも、まだ、おっきくないですか?」「すまんなぁ……」 若桐は顔を赤らめた。 性欲に関しては、相談した医者にまで「そりゃ無理だ」と言われたことがある。「なんで、謝るんです?」「や〜……、だってほら……、なんか困るだろ?」「なんか困るんですか?」 噛み合わない会話に、若桐は首をひねったが……。「泊まるんですから、もっとしましょうよ」「はっ?」「だって……、守さん終わってないんでしょう?」「いや、俺はそうかもしらんが、おまえは大丈夫なのかよ?」「大丈夫……とは?」「そりゃ、体力とか……?」「耐G訓練のほうが疲れますし……。それに、楽しいです」 ぱあっと嬉しそうに言われて、むしろ若桐のほうが言葉に詰まる。「そう……、楽しいの……」「はいっ!」 考えてみれば、ゴリラの申し子と呼ばれた響野と争い、何度か勝利の唐揚げを手にしている真壁だ。 基礎体力を、一般女性と比較しては、失礼だったかもしれない。「とりあえず、ゴム替えるから、待って」「あ! そういえば守さんはコンドームしてますけど、僕はしなくていいんでしょうか?」「え……、そっから……?」 真顔で問うてくる真壁に、若桐はなんだかおかしくなってしまった。「あ、なんで笑うんですか? 僕だって付け方ぐらい知ってますよ?」「ホントに百合緒は可愛いなぁ
シャワールームに入ると、真壁はものすごく真剣に頭を洗っている。「なにしてんだ?」「えっ、シャワーです」 大真面目に返されて、若桐は吹き出した。「えっ? なんで笑うんですか?」「いや、おまえは本当に可愛いな」 お湯が降り注ぐ中、若桐は真壁のうなじに手を掛けると、引き寄せて唇を重ね合わせた。 ほぼ〝お約束〟のように真壁は目を見開き、それから素直にまぶたを閉じる。(あ……、こりゃさっさとベッドに行かんとまずい……) 若桐と真壁は、かなりの身長差がある。 シャワールームでキスを続けるのは、姿勢でどちらかに無理を強いなければならない。 若桐は、うっとりしている真壁から唇を離した。 まぶたを開いた真壁は何も言わなかったが、顔に「続きは?」と書いてある。「頭洗ってる場合じゃないって、わかったか?」「わかりました……」 真壁は、蕩けた時に見せるあのへにゃりとした笑みを浮かべた。§ ホテルの備品であるバスローブは、真壁にはつんつるてんだった。「夜着を、持ってくるべきでしたでしょうか?」 袖口を気にして引っ張っている真壁を、部屋の明かりを落としている若桐が笑う。「服着て寝られると思うなよ」「はい?」 真壁の手を取ると、若桐はそのままベッドに促した。「なんか、守さんすごく余裕っていうか。慣れてる気がします」「亀の甲より年の功ってやつだろ」 ぽすんっと真壁をベッドに仰向けで倒し、腰紐を解くと、そもそもぱつぱつだったバスローブはすぐにも肌蹴て、神々しい体が顕になった。「百合緒は、本当に綺麗だなぁ」「なんか急に、恥ずかしくなってきました」「莫迦、おせェよ」 再び唇を重ね、若桐は真壁の反論を塞ぐ。 若桐のキスに、真壁がぎこちなく応えてくるのが愛しい
デートプランを考えていた時には、あれほど〝真壁の情操教育のために、一般的なデートプランを〟と考えていたのに。 自分たちの事情を鑑みたところで、それが不可能だと気付いた。(そもそも掛川って、なんだかんだ同僚がいそうな土地だよな) 真壁のメッセージに、宿泊先のホテル名を送り、時間の指定は特にしなかった。 仕事の都合や交通事情で、到着時間が大幅に狂うことはままある。 若桐がホテルのフロントで名を告げた時、受け付けは「お連れ様は既にご到着です」と告げた。 部屋の扉をノックすると、扉が開く。「若桐さん!」 部屋に入った途端に、真壁がミサイルみたいに飛びついてきた。 体格差の大きな真壁が、容赦なく抱擁してくる。「痛い、痛い、痛い! 絞めるな!」「あ、すみません……」 怒られた大きな犬のような顔をしながら、すんすんと鼻を寄せてくる仕草がたまらない。「久しぶりだな、百合緒」「待ち遠しかったです」「飯は?」「まだです」「食いに出るのと、部屋で済ますの、どっちがいい?」「若桐さんと一緒なら、どっちでも」 未だすりすりすんすんしている真壁に、若桐は思わず口元を緩めていた。「じゃあ、部屋で済ませちまおうか」 離れがたい様子の真壁を見て、若桐はルームサービスの手続きをする。「あの……、実はちょっと、お願いがあって……」「なんだよ?」「その……、……僕も、名前で呼んでいいですか?」 じっとこちらの顔を見つめ、真っ赤になっている真壁に、若桐は思わず笑ってしまう。「もちろん、構わないぞ」「あ……、ありがとうございます……、……守さん……」 言ってから照れまく
掛川に向かう車中で、若桐はデートに行く浮足立った気分よりも、今後のことで頭が一杯だった。 なぜなら、泊まりで休暇申請を出した時に、上司から「掛川なんかに、なにしに行くんだ?」と問われ、咄嗟に「限定品を買いに」という、意味不明な返事をしてしまったからだ。(真壁と会うのに、作れる時間は月に一度が精一杯だが……) 恋人同士として会うことを考えると、頻度が低すぎてどうなんだというレベルだが。 泊まりで出掛ける時には常に申請書を提出しなければならない職業を考えると、毎月同じ場所に行くには理由が必要だと気付いてしまったのだ。(休前日の仕事終わりに、車ぶっ飛ばして恋人に会いに行くのに。……なんでこんな色気のないこと考えてんのかね……?) とはいえ、未だ若桐の中では〝恋人〟という感覚は薄い。 真壁のことは可愛いと思っているし、手放すことなど考えられないが。 一方で、自分が真壁と付き合うことが正解だと、ちっとも思えないのだ。(止めたほうがいい理由しか、ないんだよなぁ……) 懇切丁寧に真壁に説明をした時、半ば自分への説得だったような気もしていた。 立場も、性別も、職業も。 全部が全部、付き合いが明るみに出た時に、悪い作用しか生まない。 だが──(着ていく服に悩んだ時点で、終わってんだよなぁ……) 溜息とともに、若桐はアクセルを踏み込んだ。







