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空に墜ちる -if-
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Author: 琉斗六

序章・浜松:1.馴れ初め

Author: 琉斗六
last update publish date: 2026-06-10 13:10:17

 教官室のノックの音は、少し控えめだった。

「あいてるぞー」

 室内に残っていた若桐守(わかぎりまもる)は、帰り支度の手を止めて答えた。

「失礼します」

「なんだ、真壁か。どうした?」

 扉を開けて入ってきたのは、訓練生の真壁百合緒(まかべゆりお)だった。

 スラリと背の高い頭頂部が、ドアの鴨居をかすめる。

 バランスの取れた体は、もったりと見えがちな深緑のフライトスーツですら、どこかのモデルのように見えた。

 姿勢良く立つと、きっちりと襟元まで上がっているジッパーも含めて布地に張りを与え、息苦しさを感じさせない。

 だが、その視線はわずかに下がって床に落とされていて、かえって落ち着かない気配を漂わせた。

「お時間よろしいでしょうか?」

「いいぞ。なんだ? 座学か? 実技か?」

「いえ……あの……」

 生真面目な性格ゆえに、平素なら真っ直ぐにこちらを見る視線が、相変わらず床をさまよっている。

 常に〝気をつけ〟を保つ真面目さが、今は失われ、右手が左手の袖口をつまんでは引っ張っていた。

「……体格のことで」

「体格が?」

「……あの……」

 一瞬、若桐を見た視線が、再び自信なさげに落とされて──

 その態度から、若桐は真壁が本気で悩み、どうしようもなくなって相談に来たのだと察した。

「どっか、痛めたのか?」

「いえ……。実は……、自分は筋肉がつきにくい体質のようで……。同期と比べると、どうしても見劣りすると言うか……」

「響野を比較対象にしてるなら、やめとけ。ありゃ、化け物だ」

 笑い飛ばす若桐の声に、真壁はかすかに眉を寄せた。

「ですが……、背中が貧弱と指摘されまして……」

 どうせ成績優秀な真壁に対する、やっかみかなにかだろう……と思ったが。

 これは言葉でなだめたところで、聞く耳は持たないな……と、若桐は心の内で嘆息する。

「そこまで言うなら見せてみろ。上だけでいい。気になってんのは背中だろ?」

「あ、はい」

 若桐が肩のバッグを机に下ろす間に、ジッパーが下がる音がした。

 上衣を腰まで脱ぎ、下に着ていたTシャツをためらいなく頭上へ抜き取る。

 その動きは、訓練中と同じく無駄のない所作で、全く惜しみなく肌を露わに晒してきた。

「なんだ立派な……」

 そこそこに褒め、筋肉ばかりつけたところで、飛ぶのにあまり関係がない……と言ってやればいいだろう──などと思っていた若桐だったが。

 目の前に現れた背中を前に、言葉を失う。

 首筋からまっすぐに伸びる背筋。

 しなやかで均整の取れた筋肉が、呼吸に合わせて静かに動く。

 その上をかすめる光が、わずかな汗を煌めかせる。

 肩甲骨の滑らかな起伏。引き締まった腰の曲線。

 すべての無駄をぎ落とした、精緻な彫刻のような背中だった。

 こぼれるような色香が、そこにたゆたっている。

 思わず近付いて触れたい衝動にすら、駆られた。

(いや、いや、いや! しっかりしろ、俺っ!)

 心の中でかぶりを振って、踏みとどまる。

 はっきり言って、見てはいけないものを見たような気分になっていた。

 航空教官などをやっていれば、男の体など履いて捨てるほど見る機会がある。

 だが、その背中に情欲を抱いたのはこれが初めてだった。

 自分の視線が、ある種の熱を帯びたまま外せなくなっていることに、ごくりと喉がなる音で気付く。

 ハッとして、若桐は視線を無理やり真壁の背中から逸らした。

「……服着ていいぞ」

「あの……」

「いいから、すぐ着ろ」

 とにかく、早くその〝危険なもの〟を視界から追い出したくて。

 不自然なまでに顔をそむけて、若桐は言った。

 しかし──

「あの……、でも教官、ご覧になってませんよね?」

「なにが?」

「だって今、僕のこと、見てませんよね?」

 真壁がこちらに、一歩近づく気配を感じ、若桐はほとんど無意識のうちに半歩下がって逃げる。

「いや、見たよ。見た、見た。すごく綺麗な筋肉だ。申し分ないぞ」

「でも……」

 更に詰め寄ってくる真壁の気配に、若桐はもう一歩下がろうとした。

「おわっ!」

「教官っ!」

 なにかにつまづきバランスを崩した若桐を、真壁は支えようと手を伸ばし、そのまま二人は一緒に倒れた。

「あたたたた……、真壁、大丈夫か?」

「はい……、すみません……」

 顔を上げると、間近に真壁の顔があった。

 抱きとめる形で、腕の中に半裸の体が収まっている。

 あの背中に、手のひらが触れていた。

(手……離さないと……)

 だが、そう考えた理性は、間近に迫った真壁の無防備な表情に打ち砕かれた。

 その吐息が掛るような距離に、若桐の思考はショートする。

 微かに香る、石鹸の香り。

 汗の匂いも混ざっているはずだが、まさに百合緒の名のごとく、花のような甘い匂いしかしない。

 ドクン……っと、胸の奥で音がした。

「……っっ!」

 気付いた時には、キスをしていた。

 ぐいと引き寄せ、指を差し込んだ後頭部の丸み。

 舌で舐め上げた下唇の柔らかな感触と、うすく開いた口の奥で戸惑っている舌。

 しかし目を見開いたのは一瞬のことで、真壁はすぐにもまぶたを閉じて、若桐のキスに応じてきた。

 絡めた舌が、ぎこちなく動きを真似てくる。

 温かく、甘い。

 呼吸が重なり、真壁の手が若桐の胸の生地を、ぎゅうと掴んでいる。

 ふと、腿になにか異物感を感じて──

 それが真壁の反応だと気づいた瞬間、理性が一気に戻った。

「おわっ!」

「ふえっ?」

 ほとんど突き飛ばすようにして、体を起こして真壁から距離を取る。

 真壁は、ぺたりと床に座ったまま、ぽやんと若桐を見ていた。

「い……今のナシ!」

「教官……?」

「すまん! 本当にすまん! 今のはナシだ!」

「……ナシ?」

 ぼんやりした表情のまま、真壁はこくんと頷いた。

「失礼しました……」

 シャツを身に着け、真壁は頭を下げると、教官室から出ていった。

 ドッと汗をかき、若桐は椅子に座り込む。

「……やっちまった……」

 机に突っ伏し、若桐は頭を抱えた。

 真壁の色気にあてられて、ついキスまでしてしまったが。

(どうすんだ、これ。バレたら懲戒免職だぞ……)

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