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箱入り娘が去ったあと、御曹司たちは後悔に狂った

箱入り娘が去ったあと、御曹司たちは後悔に狂った

By:  ドレミファCompleted
Language: Japanese
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界隈ではみんな知っていた。私は上原家の、ほんの少しでも嫌な思いをすると耐えられない箱入り娘だと。 集まりでは上座に座り、酒は温いものしか飲まず、少しでも気に入らないことがあれば幼なじみにその場を片づけさせる。 そんな私の前に、あの落ちぶれた令嬢が帰国した。 彼女は男に頼らず、たった一人で起業し、ビジネスの世界に果敢に切り込んでいく、荒々しいまでの美しさをまとっていた。 やがて、幼なじみたちは私のわがままにうんざりし始めた。 幼なじみたちが出資を引き揚げて、その令嬢のプロジェクトに乗り換えたときも、私を慰めてくれたのは婚約者だけだった。 「気にするな。あいつらはみんな、強い者に媚びる連中だ。俺はこれからもずっと、お前を大事にしてやる」 けれど、会員制クラブの片隅で私は見てしまった。 あれほど傲慢だった婚約者が、まるで給仕のように卑屈な姿で、その令嬢の靴についた酒の染みを拭いていた。その目には、私が一度も見たことのない狂おしいほどの執着が宿っていた。 「頼むから、一度でいい。俺を見てくれ。そうしてくれるなら、結婚なんてやめる。だめか?」 私は家に帰って祖父に言った。 「おじいさま、A国の海外支援の案件、私が行くわ。 それに、あの縁談も受ける。もう二度とあの人たちの顔を見なくて済むなら」

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Chapter 1

第1話

界隈ではみんな知っていた。私は上原家の、ほんの少しでも嫌な思いをすると耐えられない箱入り娘だと。

集まりでは上座に座り、酒は温いものしか飲まず、少しでも気に入らないことがあれば幼なじみにその場を片づけさせる。

そんな私の前に、あの落ちぶれた令嬢が帰国した。

彼女は男に頼らず、たった一人で起業し、ビジネスの世界に果敢に切り込んでいく、荒々しいまでの美しさをまとっていた。

やがて、幼なじみたちは私のわがままにうんざりし始めた。

幼なじみたちが出資を引き揚げて、その令嬢のプロジェクトに乗り換えたときも、私を慰めてくれたのは婚約者だけだった。

「気にするな。あいつらはみんな、強い者に媚びる連中だ。俺はこれからもずっと、お前を大事にしてやる」

けれど、会員制クラブの片隅で私は見てしまった。

あれほど傲慢だった婚約者が、まるで給仕のように卑屈な姿で、その令嬢の靴についた酒の染みを拭いていた。その目には、私が一度も見たことのない狂おしいほどの執着が宿っていた。

「頼むから、一度でいい。俺を見てくれ。そうしてくれるなら、結婚なんてやめる。だめか?」

私は家に帰って祖父に言った。

「おじいさま、A国の海外支援の案件、私が行くわ。

それに、あの縁談も受ける。もう二度とあの人たちの顔を見なくて済むなら」

祖父の上原万夜(うえはら ばんや)は、決然と背を向ける私を見つめたまま、老いた手を震わせて引き留めようとしたが、結局その手は宙に浮いたままだった。

「詩織ちゃん、本当にいいのか?あそこはやばい国だ。それに西園寺家の、あの悪魔みたいな男の縄張りだぞ」

私は振り返らなかった。背を向けた瞬間、涙が床に落ちた。それでも声だけは、不思議なほど静かだった。

「おじいさま、もう決めたの。ここを離れて、あの人たちにもう会わずに済むなら、どこだっていい」

書斎を出ると、私は冷たい壁にもたれ、そのままずるずると床に崩れ落ちた。

頭の中には、三十分前にクラブで見たあの光景が何度もよみがえっていた。

今日は私の二十三歳の誕生日だった。

例年どおりなら、今夜は都でも指折りの盛大な集まりになっているはずだった。

私は上原家の小さなお姫さまで、陸山景吾(りやくや けいご)に手のひらで大事に守られてきた、壊れ物のような存在だった。

なのに今夜、個室はひっそりと冷えきっていた。

私はオートクチュールのドレスをまとい、まるで笑いものみたいに上座に座ったまま、一時間、二時間と待ち続けた。

グループチャットは、しんと静まり返っていた。

幼なじみの高杉賢治(たかすぎ けんじ)、澤本航平(さわもと こうへい)、それに婚約者の景吾――誰一人として何も言わなかった。

そして私は、SNSで日向鈴(ひなた すず)の投稿を見つけた。

背景は同じクラブの別の個室。添えられていたのは、たった二文字だけだった。

【勝者】

写真の端には片手が写っていて、その腕には、私が景吾に贈ったパテックフィリップが巻かれていた。

私はドレスの裾をつかみ、気が狂ったようにその個室へ駆け出した。

扉の前に立つと、中からどっと笑い声が聞こえてきた。

「陸山さん、相手は我らが日向鈴様だぞ。ちゃんときれいに拭けよ」

「そうそう。この染み、入り込んだらこの靴はもう終わりだぞ」

半開きの扉の隙間から見えたものに、私は血の気が凍りついた。

普段なら、私が少し眉をひそめただけで大騒ぎするあの男が。

私を心のいちばん大切な場所に置いていると言っていた景吾が。

今、片膝をついていた。

彼の手には高価なシルクのハンカチが握られていて、鈴のハイヒールについた酒の染みをひどく慎重に、ひどく卑屈に拭っていた。

その仕草は、まるでこの世に二つとない宝物でも磨いているみたいだった。

鈴はソファにもたれ、ワイングラスを揺らしながら、気だるげで少しうんざりした目をしていた。

「もういいわ、陸山。芝居はやめて」

景吾は顔を上げた。その目には、私が一度も見たことのない熱に浮かされたような執着と狂気があった。

「鈴、頼む。たった一度でいい、ちゃんと俺を見てくれ。靴を拭くことくらい何だ。結婚だってやめる。だめか?あの泣いてばかりの箱入り娘には、もうとっくにうんざりしてるんだ」

ぱたん、と。

私の手からプレゼントの箱が落ちた。

あれは景吾がずっと欲しがっていたカフリンクスだった。デザイナーに半年もかけて頼み込み、ようやく手に入れた一点物だった。

個室の空気が、一瞬で凍りついた。

その場にいた全員の視線が、いっせいに私へ突き刺さった。

私の蒼白な顔を見て、景吾の目に一瞬だけ動揺が走り、反射的に立ち上がろうとした。

けれど、鈴の意味ありげな笑みを含んだ視線とぶつかった途端、その動揺はたちまち冷たさと嫌悪に変わった。

彼は眉をひそめ、冷えきった声で言った。

「どうして来た?ちょうどいい。お前にもはっきり言っておきたいことがある」

私は唇をきつく噛みしめ、血の味を感じた。

「景吾、今日は私の誕生日よ」

景吾は鼻で笑い、汚れたハンカチを無造作にテーブルへ放り投げた。

「誕生日?上原詩織(うえはら しおり)、お前いくつだよ。誕生日だからって、世界中が自分のために回るとでも思ってるのか?

少しは鈴を見習えよ。もっと自立しろ。いつまでも乳離れできない子どもみたいに振る舞うな」

賢治も口を開いた。その声には、いら立ちしかなかった。

「詩織ちゃん、俺たちだって好きで言ってるわけじゃない。鈴は帰国したばかりで、起業のプレッシャーも大きいんだ。俺たちが少しくらいそばにいてやって、何が悪い?お前も少しは空気を読めよ」

航平も同調するように言った。

「その通りだ。前はお前がまだ子どもだったから甘やかしてただけだ。でも今となっては、完全に甘やかしすぎたな。少しのつらさにも耐えられないようじゃ、この先どうやって陸山家の女主人になるんだ?」

私は、かつて一生守ると誓ってくれた人たちを見つめた。

いつからだったのだろう。

鈴が帰国した、その日からだ。

彼女は高級車には乗らず、バイクにまたがる。紅茶ではなく強い酒を飲み、温室で花を愛でるのではなく、商売の世界で血路を切り開く。

彼女は野に咲く薔薇で、私は温室育ちの蘭だった。

だから、私の甘さは罪になり、私の涙はわざとらしさになった。

私は深く息を吸い、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。

「つまり、これがあなたたちからの誕生日プレゼントってことなのね?」

景吾はうんざりしたように手を振った。

「騒ぎに来たなら、さっさと出ていけ。みんなの気分を台なしにするな」

鈴は眉をわずかに上げ、冷ややかな声で言った。

「上原さん、陸山社長もあなたのためを思って言っているのよ。温室育ちの花は、やっぱり嵐には耐えられないもの」

その瞬間、私の中で何かがぷつりと完全に切れた。
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松坂 美枝
松坂 美枝
わがままお嬢様を躾けようとシバいてたらマッチョに取られてついでに全部失ったボンボンたちの話 マッチョとの出会いと結婚その後のほうが気になった 絶対キュンキュンする話だったろうにな
2026-04-19 12:00:37
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第1話
界隈ではみんな知っていた。私は上原家の、ほんの少しでも嫌な思いをすると耐えられない箱入り娘だと。集まりでは上座に座り、酒は温いものしか飲まず、少しでも気に入らないことがあれば幼なじみにその場を片づけさせる。そんな私の前に、あの落ちぶれた令嬢が帰国した。彼女は男に頼らず、たった一人で起業し、ビジネスの世界に果敢に切り込んでいく、荒々しいまでの美しさをまとっていた。やがて、幼なじみたちは私のわがままにうんざりし始めた。幼なじみたちが出資を引き揚げて、その令嬢のプロジェクトに乗り換えたときも、私を慰めてくれたのは婚約者だけだった。「気にするな。あいつらはみんな、強い者に媚びる連中だ。俺はこれからもずっと、お前を大事にしてやる」けれど、会員制クラブの片隅で私は見てしまった。あれほど傲慢だった婚約者が、まるで給仕のように卑屈な姿で、その令嬢の靴についた酒の染みを拭いていた。その目には、私が一度も見たことのない狂おしいほどの執着が宿っていた。「頼むから、一度でいい。俺を見てくれ。そうしてくれるなら、結婚なんてやめる。だめか?」私は家に帰って祖父に言った。「おじいさま、A国の海外支援の案件、私が行くわ。それに、あの縁談も受ける。もう二度とあの人たちの顔を見なくて済むなら」祖父の上原万夜(うえはら ばんや)は、決然と背を向ける私を見つめたまま、老いた手を震わせて引き留めようとしたが、結局その手は宙に浮いたままだった。「詩織ちゃん、本当にいいのか?あそこはやばい国だ。それに西園寺家の、あの悪魔みたいな男の縄張りだぞ」私は振り返らなかった。背を向けた瞬間、涙が床に落ちた。それでも声だけは、不思議なほど静かだった。「おじいさま、もう決めたの。ここを離れて、あの人たちにもう会わずに済むなら、どこだっていい」書斎を出ると、私は冷たい壁にもたれ、そのままずるずると床に崩れ落ちた。頭の中には、三十分前にクラブで見たあの光景が何度もよみがえっていた。今日は私の二十三歳の誕生日だった。例年どおりなら、今夜は都でも指折りの盛大な集まりになっているはずだった。私は上原家の小さなお姫さまで、陸山景吾(りやくや けいご)に手のひらで大事に守られてきた、壊れ物のような存在だった。なのに今夜、個室はひっそりと冷えきっていた。
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第2話
個室の照明は薄暗く、どこか退廃的な色を帯びていたのに、そこにいる全員の表情だけは妙にはっきりと浮かび上がっていた。嘲り、軽蔑、嫌悪。そこに、罪悪感だけはひとかけらもなかった。私は景吾を見つめた。七年間、心の底から愛してきた男を。十六歳から二十三歳まで、私の青春は全部この人で埋め尽くされていた。彼は言った。「詩織ちゃん、お前は壊れやすい人形みたいなものだ。だから俺が手のひらで大事に守ってやる」彼は言った。「詩織ちゃん、誰かがお前に嫌な思いをさせたら、俺がそいつを絶対に許さない」でも今、私にいちばん大きな傷を与えているのは、ほかでもない彼自身だった。私は泣かなかった。取り乱しもしなかった。ただ静かに腰をかがめて、床に落ちたプレゼントの箱を拾い上げた。景吾は、私がそれを自分に渡すのだと思ったのだろう。顔に得意げな色が浮かんだ。まるで、「ほら見ろ、こいつは俺から離れられない」とでも言いたげに。「詩織、今ここで鈴に謝って、自分が悪かったって認めるなら、この件はそれで終わりにしてやる」景吾は尊大に顎を上げた。賢治も横から口を挟んだ。「そうだよ、詩織ちゃん。景吾さんはまだお前に情があるんだ。謝って、もう意地張るなって」謝る?私は手の中の箱を見つめ、ふいに笑ってしまった。「景吾、この七年間、私に優しくしてくれたのも……全部嘘だったの?」景吾は私の視線を避け、冷たく言い放った。「お前が面倒くさすぎるんだ。そんな女を一生我慢できるわけないだろ。俺は男だ。必要なのは隣で一緒に戦える相手だ、泣いてばかりの飾りじゃない」「そう」私はうなずいた。声は羽のように軽かった。「景吾、あなたの望みどおりにするわ」私はゴミ箱のそばまで歩いていき、その場にいた全員の前で、その途方もない価値のあるプレゼントの箱を、ためらいなく中へ投げ捨てた。景吾の顔色が一瞬で変わった。「詩織!何してるんだ、おかしくなったのか!?」「あなたのためにおかしくなるのは、これで最後よ」私は振り返り、その場にいた一人ひとりを見渡した。賢治、航平……幼いころからずっと一緒に育ってきた幼なじみたち。「それから、あなたたちも。そんなに日向鈴が好きなら、この先一生この人のそばにいればいい。私はもう付き合わない」
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第3話
その夜、私は一睡もしなかった。部屋には、この二十三年間の痕跡があふれていた。景吾がくれた限定版のテディベア、賢治から贈られた廃盤のレコード、航平が海外から持ち帰ってきたスノードーム――どの品にも、それぞれの思い出が染みついていた。昔の私はそれらを宝物みたいに大事にしていて、使用人が掃除のときに少しでも触れようものなら腹を立てていた。けれど今、それらを見ていると、こみ上げてくるのは吐き気だけだった。まるで全部が私をあざ笑っているみたいだった。自分の愚かさを、独りよがりだった想いを、容赦なく嘲っているようで。私は大きな黒いゴミ袋を引っ張り出した。そして、そのガラクタをまとめて全部放り込んだ。最後に持っていったのは、小さなスーツケース一つだけだった。中に入れたのは簡単な着替えが数着と、パスポート、それから祖父とのツーショット写真一枚。それが、今の私のすべてだった。午前四時。上原家のプライベートジェットは、すでに滑走路脇で待機していた。万夜は冷たい風の中に立ち、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。「詩織ちゃん、本当にあの子たちには何も言わないのか?」私は首を横に振り、万夜のコートの襟元をそっと整えた。「おじいさま、知らせてどうするの?笑いものになるだけでしょう」「向こうは……相当きつい場所だぞ。西園寺家のあの小僧も、気性が荒いって聞く。人を殺してもまばたき一つしないような――」「おじいさま」私は万夜の言葉を遮り、白み始めた東の空へ目を向けた。「どれだけ苦しくても、心の苦しさよりましよ。気が短くても構わないわ。裏表のある卑怯な人間じゃなければ、それでいいの」私は万夜をぎゅっと抱きしめ、そのまま背を向けて飛行機に乗り込んだ。キャビンの扉が閉まった瞬間、私はスマホを取り出した。一番上に固定されていたグループチャット――「詩織ちゃんを守る会」そこに残っていた最後のメッセージは、賢治のものだった。【今夜は最高だったな。やっぱ鈴は華があるわ。景吾さんまで土下座したんだぞ。詩織ちゃんは今ごろ泣いてるだろうけど、放っとけ。二日もすればおとなしくなる】私は無表情のまま、「グループを退出」を押した。それから景吾をブロックし、賢治をブロックし、航平をブロックした。あの界隈に関わる人
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第4話
翌日の昼、景吾は激しい頭痛に襲われて目を覚ました。反射的にベッドサイドへ手を伸ばし、水を飲もうとした。いつもの二日酔いなら、目が覚めたときには必ず、ほどよい温度の水がベッド脇に置かれていて、そこには詩織の手書きのメモまで添えられていた。けれど今日は、何もなかった。「っ……」景吾は眉をひそめて体を起こし、空っぽのベッドサイドテーブルを見つめた。胸の奥に、理由のわからない苛立ちがじわりと湧き上がる。「詩織?」呼んでみても、返事はなかった。あるのは、がらんとした空間に響く虚しい残響だけ。「まだ拗ねてるのか」景吾は鼻で笑い、スマホを手に取った。画面は拍子抜けするほどきれいだった。不在着信もなければ、LINEの通知もない。おかしい。これまでなら、たとえ喧嘩をしても、詩織は長文のメッセージを何十件も送りつけてきて、彼の冷たさを責めたり、泣き顔のスタンプを送って慰めを求めてきたりした。こんなふうに、死んだように静かなことなど一度もなかった。彼は、もう指が覚えているその番号へ電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないため――」無機質な女の機械音声に、景吾の心臓がどくりと跳ねた。すぐに今度は賢治へ電話をかける。「賢治、詩織から連絡あったか?」向こうも起きたばかりらしく、声がひどく眠たげだった。「いや、ないよ、景吾さん。どうせ家で一人で拗ねてるだけでしょ。焦らなくていいって。こっちは我慢比べなんだから、先に折れたほうの負けだよ」景吾は電話を切った。だが、その胸騒ぎはおさまるどころか、ますます強くなっていった。顔も洗わず、車のキーをひっつかんで家を飛び出した。そのまま猛スピードで上原家の屋敷へ向かった。いつもなら笑顔で出迎える執事が、その日ばかりは無表情のまま正門の前に立ち、彼の行く手を遮った。「陸山様、お引き取りください。大旦那様が、どなたにもお会いにならないと」「詩織ちゃんに会いに来たんだ!」景吾は強引に押し入ろうとした。「お嬢様はおりません」「いない?どこへ行くっていうんだ。ここ以外に、あいつが行く場所なんかあるわけないだろ!」景吾はまるで信じなかった。執事を押しのけ、そのまま詩織の離れへと駆け込んだ。執事はもう止めなかった。ただその
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第5話
上原家の屋敷から追い出されたあと、景吾はまるで背骨を抜かれたようになっていた。マイバッハのドアにもたれかかり、下水の泥がこびりついたあのダイヤの指輪を、手の中で強く握りしめている。力の入りすぎた指の関節は白くなっていた。賢治は道端にしゃがみ込み、煙草を一本吸い終えるたびにまた次の一本へ火をつけようとしていたが、手が震えてライターすらうまく押せなかった。「景吾さん、これからどうするんだ?詩織ちゃん、本当に行っちまった……A国だよ。あっちはまだ戦ってる地域もあるっていうし、感染症だってある。あいつ、あんなにか弱いのに……いつも蚊に刺されただけで半日も泣いてたのに、あんな場所に行ったら……死んじまうかもしれない」航平は目を真っ赤にして、詰まるような声で言った。「俺たち……やりすぎたんじゃないか?もし詩織ちゃんに本当に何かあったら、俺、一生自分を許せない」そのとき、エンジンの唸りが重苦しい静寂を切り裂いた。赤いフェラーリが路肩に停まり、鈴が十センチはあるヒールで車から降りてきた。彼女は魂が抜けたようになっているこの御曹司たちを見回し、わずかに眉をひそめた。声には苛立ちがにじんでいた。「何、その世界の終わりみたいな顔。上原さん、まだ帰ってきて騒いでないの?今回はずいぶん我慢強いのね」景吾は勢いよく顔を上げた。血走った目で、鈴を刺し殺さんばかりに睨みつける。「鈴、お前は満足か?」鈴は一瞬きょとんとし、サングラスを外した。「何の話?」「彼女は行ったんだ!A国に!しかも、あの人を殺しても眉一つ動かさない西園寺炎に嫁ぐ!これで満足だろう?!」景吾はヒステリックに怒鳴った。声はひび割れ、掠れていた。「もう俺をいらないって言ったんだ……完全に、見捨てられた!」鈴はその場で固まった。顔に浮かんだ表情は、驚きから、信じられないという色へと変わっていく。「……本当に、行ったの?」長い沈黙のあと、鈴はふいに笑った。「景吾、あなたたちって、本当に救いようがないほど滑稽ね」「何が言いたい」景吾は歯を食いしばった。「全部、彼女のためだったんでしょ?」自分たちこそ正しいと信じ込んでいた男たちを見つめ、鈴はついに一切容赦なく切り捨て始めた。そう。いわゆる心変わりも、嫌悪も、全部嘘
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第6話
三年。千九十五日もの歳月。景吾たちにとって、その三年は、じわじわと身を削られるような苦しみであり、終わりの見えない贖罪の日々だった。景吾は煙草も酒も断ち、夜の遊び場には二度と足を踏み入れなくなった。かつて意気揚々としていた京城きっての御曹司は、今では口数も少なく、すっかりやせ細っていた。彼は狂ったように働き続け、陸山グループの勢力図を二倍にまで広げたが、その代わり自分自身を修行僧のようにすり減らしていった。上原家に何か困りごとがあれば、彼はいつだって真っ先に駆けつけて解決した。見返りなど求めない。ただ万夜が、施しのようにほんの少しでも詩織の近況を漏らしてくれることだけを願っていた。たとえ「元気にしている」というたった一言でも、それだけで彼は目を赤くして、しばらくのあいだ救われたような気持ちになった。けれど万夜の心は固く、何ひとつ口にしなかった。まるで、詩織という存在が最初からいなかったかのように。幼なじみたちもまた、鈴との縁を切っていた。あのいわゆる「自立した女性」のプロジェクトも、彼らの資金が途絶えるとあっという間に立ち行かなくなった。賢治と航平は、詩織がかつて営んでいた小さな画廊を守り続けていた。そこは今や、彼らにとって唯一息をつける避難場所になっていた。二人は毎日自ら掃除をし、かつて自分たちが「子どもっぽい」「時間の無駄だ」と笑いものにした絵を、一枚一枚、壊れ物に触れるように丁寧に拭いていた。画廊の中央には、詩織が描きかけのまま残した自画像が掛かっていた。澄んだまなざしに、明るい笑顔。そこにいるのは、彼らの記憶の中にだけ残り、もう二度と戻ってこない詩織だった。そして三年後。上原グループは海外企業による買収危機に見舞われ、資金繰りは行き詰まり、戦略的投資の受け入れを急がれていた。相手はA国の鉱業大手、西園寺グループ。神秘的で、なおかつ圧倒的な力を持つ企業だった。交渉の席には、息苦しいほど重い空気が張りつめていた。景吾は上原グループの特別顧問として出席し、長いテーブルの片側に座っていた。黒いスーツに身を包んだその姿は青白く、目には光がない。まるで周囲のすべてに何の関心も持てない人間のようだった。「今回、西園寺グループから来る代表は西園寺社長の奥様らしいですよ。相
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第7話
会議は三時間に及んだ。詩織は、誰も予想していなかったほどの経営感覚と交渉力を見せつけた。一歩一歩確実に布石を打ち、わずかも譲らず、あらゆる数値を完全に把握していた。上原グループの利益を最大限まで引き上げながら、同時に西園寺グループには絶対的な主導権をもたらしていく。景吾はその三時間、ただひたすら彼女を見つめていた。自信に満ちた口調で持論を述べる姿を。鋭く相手を切り返す姿を。仕草のひとつひとつにまで、揺るぎない余裕と威圧感が宿っているのを。あれが本当に、瓶の蓋ひとつ自分で開けられず、雨の日には誰かに背負われていた詩織なのか。この三年で、彼女はいったい何をくぐり抜けてきたのだろう。どれほどの苦しみを味わって、ようやくこの鎧を手に入れたのだろう。会議が終わると、詩織は資料を手際よくまとめ、そのまま立ち去ろうとした。動きには一切の無駄がなかった。景吾たちも、もう我慢できなかった。地下駐車場で彼女の行く手を塞いだ。「詩織ちゃん!やっと戻ってきたんだな!この三年、俺たちはずっとお前を捜してた!どれだけ会いたかったかわかるか?」賢治が興奮したまま駆け寄り、その手をつかもうとした。涙も鼻水もぐしゃぐしゃだった。「触らないで」詩織は身をひるがえして彼の手を避けた。その目は刃のように冷たく、嫌悪を隠そうともしなかった。その瞬間、彼女の背後に停まっていた防弾仕様のオフロード車から、大きな影が一つ降りてきた。男はがっしりとした体格で、身長は一九〇センチ近くある。まるで鉄塔のようだった。浅黒い肌、彫りの深い顔立ち、全身から立ちのぼる濃密な野性。黒のタクティカルシャツを着て、巻き上げた袖口からは鍛え上げられた腕の筋肉と、凄惨な古傷がのぞいていた。男は一歩で間合いを詰めると、賢治の手首をつかんだ。ほんのわずか力を込めただけで、賢治は悲鳴を上げ、脂汗を流した。骨が砕けるかと思うほどの痛みだった。「話すだけなら話せ。ベタベタ触るな」男の声は低くしゃがれていて、重苦しい威圧感と血の匂いを帯びていた。本当に戦場をくぐり抜け、死体の山の中から這い上がってきた人間だけが持つ気配だった。「炎くん、もう放して。手が汚れるわ」詩織が淡々と言った。その口調には、困った人を見るような、ほんの少しの甘さがにじんで
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第8話
景吾はどうしても諦めきれなかった。詩織が本当にあの野蛮な男を愛しているなんて、信じられなかった。きっと炎に無理やり従わされているだけだ。きっと自分への当てつけで、あんなふうにしているだけだ。それからの数日間、景吾は狂ったように詩織に付きまとった。詩織の会社のビルの下を、九千九百九十九本の赤い薔薇で埋め尽くした。それはかつて、詩織がいちばん好きだった花だった。彼は拡声器まで持ち出し、体裁もかなぐり捨てて広場の真ん中で叫んだ。「詩織ちゃん!まだ俺に怒ってるのはわかってる!でも、お前の心にはまだ俺がいるはずだ!」「あの頃のことは全部芝居だったんだ!俺たちはただ、お前に自立を覚えてほしかっただけなんだ!鈴を愛したことなんて一度もない、俺が愛してたのはずっとお前だけだ!一度でいい、ちゃんと説明させてくれ、頼む!」幼なじみたちまで加勢に現れ、恥ずかしげもなく大きなパネルまで掲げていた。【詩織ちゃん、帰ってきてくれ】「そうだよ詩織ちゃん、戻ってこいよ!俺たちはみんな、お前のためを思ってやったんだ!ほら、今はこんなに立派になったじゃないか!それこそ俺たちが望んでたことだろ?俺たちの苦労、どうしてわかってくれないんだ!」まわりには野次馬が何重にも集まり、あれこれ指さしながら囁き合っていた。詩織は大きなガラス窓の前に立ち、階下で繰り広げられているその茶番を見下ろしていた。こみ上げてくるのは嫌悪だけで、胃の奥がひっくり返りそうだった。「これが昔お前の好きだった男か。見る目は、あまり良くなかったみたいだな」背後から、炎の低い声がした。はっきりとした嫉妬がわずかに混じっていた。詩織は振り返り、炎の腰に腕を回して、その胸元に顔をうずめた。彼の体から漂う、安心できる匂いを貪るように吸い込む。「昔は目が曇ってたの。今はちゃんと治ったわ」炎は低く笑った。胸の奥がわずかに震え、そのまま彼女の髪に口づけを落とす。「俺が片づけようか。跡形もなく、きれいにできる」「いいえ。自分でやるわ。こういうゴミは、自分の手で掃除しないと」詩織は炎を連れて階下へ向かった。彼女の姿が見えた瞬間、景吾の目に歓喜の光が弾けた。まるで溺れる者がやっと見つけた救命具でも見るように、花束を抱えて駆け寄ってくる。「詩織ちゃん!やっと
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第9話
景吾たちは、情に訴えるやり方では通じないと見るや、今度はビジネスの手段で詩織を屈服させようとした。京城の複数の企業と手を組み、西園寺グループの京城での事業を締め出そうとし、挙げ句の果てには人脈を使って西園寺グループの案件の認可まで妨害し始めた。それどころか、メディアを使って大々的に中傷まで流した。炎は違法な手段でのし上がった軍閥崩れだ、人を殺すことしか知らない粗暴な野蛮人だ、詩織には釣り合わない――そんな噂をばらまき、世論の圧力で二人を引き離そうとしたのだ。「西園寺炎なんて、ただの粗野な野蛮人だ!詩織はあいつに洗脳されてる!俺たちが助け出さなきゃならない!」ある取引先の集まる酒席で、景吾は人前もはばからずそう言い放った。その目は、もはや狂気じみていた。自分のような名家の子息だけが、詩織にふさわしいのだと証明したかった。だが彼らは、炎を見くびっていた。同時に、詩織のことも見誤っていた。炎は鉱業王であるだけではなかった。金融の世界でも獰猛な牙を持つ巨獣だった。海外に持つ資産は、陸山グループの十倍どころではない。しかもその資本は、生まれながらに与えられたものではなく、血と汗で築き上げた揺るぎない土台だった。詩織が黙認する中、炎は一切の容赦なく動いた。今度は、これまでのような牽制程度では済まなかった。たった一夜で、景吾の会社の株は海外資本の空売りを浴びて暴落し、売買停止に追い込まれた。幼なじみたちの実家の企業も次々に致命傷を負い、税務上の問題や違法な運用が次々と暴かれ、資金繰りは完全に途絶えた。かつて好き放題に振る舞っていた京城の御曹司たちは、一瞬にしてどこへ行っても非難の的になった。その夜会でのことだった。逆上した景吾は、十数人のボディガードを引き連れ、炎と詩織の前に立ちはだかった。「西園寺!この卑劣な野郎!ここは京城だ、A国じゃない!絶対に痛い目を見せてやる!」景吾は目を真っ赤にし、酒瓶を手にしたまま、正気を失ったように怒鳴り散らした。まわりの招待客たちは巻き込まれるのを恐れ、慌てて距離を取る。詩織は眉をひそめ、警備を呼ぼうとした。だが炎は、そっと彼女の手を押さえた。大丈夫だと言うように視線を向け、口元には血の匂いを含んだ笑みが浮かんでいた。「どうやら陸山社長は、まだ人と
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第10話
陸山家は破産した。景吾はかつて雲の上から人を見下ろしていた御曹司の座から、借金まみれの一文無しへと転げ落ちた。豪邸は競売にかけられ、高級車も借金のカタに消え、今では寝泊まりする場所さえない。かつて彼のまわりに群がっていた友人たちも、彼が落ちぶれるや否や、蜘蛛の子を散らすように去っていった。中には西園寺グループに取り入るため、今度は彼を踏みつける側に回った者までいた。幼なじみの賢治と航平も、それぞれ零落した。家が潰れた者もいれば、塀の中へ落ちた者もいる。あれほど傲慢だったあの界隈は、もう跡形もなく崩れ去っていた。鈴に至っては、企業詐欺と違法な資金集めの容疑で、懲役十年の判決を受けた。聞くところによれば、景吾たちからの資金援助が途絶えたあと、体裁だけでも保とうとして無茶を重ねた末のことだったらしい。彼女は獄中で泣き崩れ、自分は帰国したことを後悔している、詩織に手を出したことを後悔していると繰り返したという。けれど、今さら悔やんでもどうにもならなかった。彼らを最後に見たのは、空港だった。詩織と炎は国内での買収案件を終え、子どもを連れてA国へ休暇に戻るところだった。景吾は洗いすぎて色の抜けたスーツを身にまとい、髪は乱れ、髭も伸び放題で、目には濁った色が宿っていた。空港ロビーの柱の陰に隠れながら、彼はその姿を貪るように盗み見ていた。詩織が高いヒールのせいで少し歩き疲れている。すると炎は何も言わず、その場でしゃがみ込んだ。人の行き交う空港の真ん中で、当たり前みたいに彼女を背負い上げる。詩織はその広い背中に頬を寄せ、子どものように笑っていた。手には、炎に買ってもらった綿あめまで握っている。小さな翔太はその横でぴょんぴょん跳ねながら、アイスクリームを手にして、ときどき父と母の口元へ差し出していた。一家三人の笑い声は、景吾の耳にも胸にも、鋭く突き刺さった。それはかつて、手を伸ばせば届いたはずなのに、自分の手で突き放してしまった幸せだった。炎の背に頬を預けたまま、詩織はふと何かを感じ取ったように振り返った。そして柱のほうへ視線を向ける。景吾は慌てて身を引いた。心臓が激しく脈打つ。見つけてほしい気持ちと、今のこの惨めな姿を見られたくない気持ちが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
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