LOGIN美和が颯真の助手席へ迷わず乗った日から、彼女は少しずつ私たちの生活へ入り込んだ。
颯真が森鷹製薬を辞めたのは、27歳の春だった。父の克彦が心筋梗塞で倒れ、栗田貿易を継ぐことになったのだ。
社員100人の生活がかかっている。そう言われれば、私に反対できるはずがなかった。
就任初日、颯真は濃紺のスーツで社員の前に立った。
「父が戻るまで、俺が会社を守ります」
拍手を受ける横顔は、自信に満ちて見えた。
けれど、その夜、私の部屋へ来た颯真は、鞄から見積書と資金繰り表を床へ落とした。
「数字を見ると頭が止まる。来月の支払いが足りない。真紀、助けて」
人前で見せた強さは消えていた。私は床へ座り、資料を拾った。
「まず、利益が出ていない取引を分けよう。売上が大きくても、運ぶほど赤字になる原料がある」
私は仕事を終えたあと、栗田貿易の数字を調べた。原料ごとの利益を出し、為替が動いた場合の損失を計算し、不採算だった仕入先と輸送ルートを3本切った。
午前2時、組み直した表を颯真へ渡すと、彼はようやく笑った。
「やっぱり真紀がいれば何とかなる」
「社員にも説明して。現場の協力がなければ続かない」
「分かってる。明日は俺が話す」
翌週、業績改善策は颯真の提案として役員会を通った。
「若いのに大したものだ」
克彦から電話で褒められた颯真は、私の隣で胸を張った。私の名前は一度も出なかった。
颯真が電話を切ったあと、私は尋ねた。
「私が作った表だと伝えなかったの?」
「いくらお父さんからって、社外の人間に経営資料を見せたなんて言えないだろ。結婚すれば、全部2人の実績になる」
そのときは、正しい順序の問題だと思った。結婚後に名前が並ぶなら、今は裏方でもいい。そう自分を納得させた。
2ケ月後、海外の仕入先から、支払条件を変えなければ出荷を止めると連絡が来た。期限は3日後だった。
颯真は高い金利で借り入れようとしたが、それでは翌月から利息が会社を圧迫する。
「倉庫に動いていない在庫がある。まず、それを別の取引先へ売って現金に替えよう」
「3日で買い手なんか見つからない」
「同じ原料を探している会社がある。営業から正式に提案すれば間に合う」
私は在庫の品質を確認し、売却できる量と最低価格を一晩でまとめた。颯真はその表を持って取引先を回り、2日目の夜に契約を取った。
支払いは間に合い、出荷も止まらなかった。社員たちは颯真を囲み、若い社長が会社を救ったと喜んだ。
颯真は私へ電話をかけてきた。
「真紀の読みどおりだった。みんな、俺を見直したよ」
「品質を調べた人の名前も、ちゃんと伝えて」
「細かいことを言うなよ。社長が評価されれば会社全体の評価になる」
電話の向こうで拍手が聞こえた。私は森鷹の分析室にひとり残り、自分が作った表を閉じた。
美和も颯真を支えた。東央バイオマテリアルの発注予定を早めに知らせ、商談では若い社長を立てた。
「真紀が頭脳、私が現場。颯真さんは幸せだね」
美和は笑って言った。颯真も否定しなかった。
3人で食事をするたび、颯真と美和だけが取引先の内輪話で盛り上がる時間が増えた。私が口を挟むと、美和はすぐに話題を変えた。
「真紀には難しい営業の話だから」
数字と品質の資料を作っているのは私だった。それでも、2人の前では外部の人間として扱われた。
最初の大口契約は、医薬部外品用の天然ラベンダー精油だった。
提出された検査表を見ると、香りの中心となる成分しか調べられていなかった。これでは、安い合成香料で似せても見抜けない。
「天然品であることを確かめるには、微量成分3項目も必要よ」
私が指摘すると、颯真はすぐに提案書へ書き加えた。
美和は資料をのぞき込み、眉を寄せた。
「3つも増やすの?検査にお金と時間がかかるでしょう。仕入価格だって高いし……」
「必要な3項目だけ。ここを外したら、天然と表示する根拠が弱くなる」
「真紀は厳しいね」
美和は笑ったが、目は笑っていなかった。
東央で規格が承認され、契約は成立した。年間売上は一気に1億円を超えた。
栗田貿易は業界誌で『若き2代目による再生』と紹介され、颯真は表紙に載った。撮影の日のネクタイも、記事で語った品質方針も、私が選んだものだった。
記事の発売日、美和が祝いの席を用意した。颯真の前には雑誌と花束が置かれ、社員たちが次々に写真を撮った。
「真紀、3人で撮ろう」
颯真に呼ばれて立ち上がると、美和は私へ携帯を渡した。
「その前に、社長だけの写真をお願い」
私は画面の中で並ぶ2人を撮った。美和は取引先の担当者なのに、颯真の肩へ触れる距離に立っていた。
撮影が終わっても、3人の写真を撮ろうという話は戻ってこなかった。
小さな違和感を口にすれば、成功を喜べない恋人になる気がした。私は何も言わず、2人のグラスへ酒を注いだ。
「結婚したら、正式に経営を見てくれ」
颯真は雑誌を閉じ、私の手を握った。
「その前に、専門家を雇って。私が無償で見続けるのはよくない」
「夫婦になるんだから、同じだろ」
彼が欲しかったのは対等な共同経営者ではなく、名前も報酬も求めない参謀だった。けれど、当時の私は、それを信頼と信じていた。
美和からも夜中に連絡が来た。仕事の不安、上司への不満、父親の介護。私は何度も話を聞き、相談窓口まで調べた。
ある冬、美和の父が倒れたときには、有給を取り、実家まで車を出した。
「真紀だけは、ずっと私の味方でいてね」
助手席で泣く美和の手を、私は握った。
「当たり前でしょう」
後部座席には颯真がいた。ルームミラー越しに2人の目が合い、美和は先に視線をそらした。
そのころから、東央へ納めるラベンダー精油の利益率が急に上がった。
「海外の生産者と直接契約できた。仕入れが安くなったんだ」
颯真の説明に、私は検査表を見せてほしいと頼んだ。
「美和の会社で確認してる。真紀は心配性だな」
美和も隣で笑った。
「私が購買にいるんだから大丈夫」
私は2人を信じたのではない。自分が作った基準を、2人がわざわざ壊すはずはないと思った。
数日後、颯真が私の机に置き忘れた東央向けの改訂案を開いた。
合成香料による偽装を見抜くため、私が追加した微量成分3項目だけが消えていた。
「どうして、この3つを外したの?」
「東央が検査を簡単にしたいってさ。まだ案の段階だよ」
颯真は私から書類を取り上げ、鞄へ押し込んだ。
「仕事のことまで疑われたら、家で休めないだろ」
颯真は私の肩を抱き、週末の式場見学の話へ切り替えた。会社の資料より、2人の未来を考えようと言われると、疑い続ける私のほうが冷たい人間に思えた。
私は改訂案の写真を残さなかった。恋人の仕事を盗み見るようで嫌だったからだ。信頼を守ったつもりで、証拠を手放した。
怒らせたことを申し訳なく感じ、私はそれ以上追及しなかった。
あのときの私は知らなかった。消された3項目が、颯真と美和をつなぐ最初の証拠になることを。
協議の日、栗田貿易の本社へ向かうと、以前とは違う静けさが建物を包んでいた。かつて颯真が私に見せた社長室の窓は暗い。駐車場に並んでいた高級車も減っていた。会社の仕事の一部は、取引先の協力で別の商社へ引き継ぐ話が進んでいた。希望した社員の多くも、そこで働ける見込みだという。守られようとしているのは、颯真の肩書ではなく、罪のない人たちの暮らしだった。話し合いの部屋には、先に美和がいた。以前のような艶のある服ではなく、灰色のスーツを着ている。その向かいに、颯真が座っていた。髪は乱れ、腕時計もなく、私を見ても立ち上がらなかった。美和が、私より先に口を開いた。「証拠を消せと言ったのは颯真さんでしょう」「お前が勝手にやった」「会社の回線を使わせたのは誰?」「お前が真紀みたいに有能だったら、会社はこんなことにならなかった!」美和はしばらく颯真を見つめ、それから乾いた笑いをこぼした。「最後まで、私を真紀と比べるのね。私を選んだんじゃなくて、真紀から奪えれば誰でもよかった」「お前だって同じだろ!」美和は鞄から鍵を取り出し、机へ置いた。「もう終わり。あなたの借金まで背負う気はない」弁護士が2人を制止し、協議を再開した。颯真は提示された返済案を見ようともせず、私をにらんだ。「お前が黙っていれば、会社は残った」「私が黙っていれば、偽物を売る会社が残っただけ」「7年も支えた会社だろ!」「だからこそ、あなたの嘘に私の名前を使われたままにはできなかった」颯真の口が動いたが、もう言葉は出なかった。私は必要な確認を終え、書類へ署名した。席を立ち、部屋を出た。廊下には、泰石が少し離れた場所で待っていた。助けが必要かどうかを、私が決められる距離だった。「終わりましたか」「終わりました」「何か温かいものでも、食べて帰りませんか」私は一度だけ、閉じた扉を振り返った。中から颯真と美和の言い争う声が聞こえたが、もう私の名前は呼ばれていなかった。「行きましょう」駅前の小さな店で、私たちは湯気の立つうどんを頼んだ。式を中止した日から、誰かと食事をしても味を覚えていないことが多かった。その夜は、だしの温かさが喉を通るのを感じた。「記者会見のあとにした話、覚えていますか」泰石が箸を置いた。「全部終わるまで待つ、と言った話ですね」「どうして、
調査報告会には、東央の役員、監査担当、法務担当が並んだ。栗田貿易からは颯真と父親の克彦が出席し、美和は会社側の席から離れて座っていた。テーブルの端には録音機が置かれていた。誰かの記憶ではなく、今日の言葉を記録に残すためだった。開始前、颯真は私へ近づこうとしたが、弁護士に止められた。美和は一度もこちらを見ず、指先で資料の角を折り続けていた。泰石は私の隣ではなく、半歩後ろに控えた。前へ出るのは私だと分かっている距離だった。「声が震えたら、代わります」「震えても、最後まで自分で話します」「では、震えていることを誰にも隠さなくていい」その一言で、肩から力が抜けた。強く見せることと、強くあることは同じではない。私は前に立ち、資料の1枚目を映した。「今回確認された問題は3つです。表示と違う精油が納入されたこと。検査表に不自然な変更があったこと。そして、仕入先から購買担当者へ不自然な支払いがあったことです」専門用語は使わなかった。誰が、何を、いつ変えたのか。確認された事実だけを、日付順に示した。外部検査の結果。元の規格表。削除された3項目。価格改定の根拠として提出された仕入れ資料と、東央への請求額。そこまで説明して、私は資料を閉じた。「ここから先は、監査室が確認した結果です」私は西村を見た。西村が立ち上がり、私と入れ替わるように前へ出た。「沢田部長に対す
美和は、始業前に私の部屋へ入ってきた。「昨日のデータ削除、私を疑ってるんでしょう」ドアを閉める音が強かった。昨日までの取り繕った笑顔はなかった。「だから、接続記録と入退室記録を照合している」「私を犯人にしたいんでしょう」「まだ誰も犯人だとは決めていない」「白々しい。颯真さんに捨てられたから、今度は颯真さんの会社ごと潰すつもり?」「東央が表示と違う原料を買わされていた時点で、もう個人的な問題ではない」美和は机に両手をついた。「正義を振りかざして、また私から全部奪うの?」「私があなたから何かを奪ったことはない」「その言い方が嫌いなのよ!自分は何でも持ってるから、奪ったことにも気づかない!」声が廊下まで響いた。私はそれ以上、二人きりで話を続けるべきではないと判断した。「高校のとき、私のやり方があなたを傷つけたことは謝る。でも、今の調査とは別よ」「何でも分けて考えれば、自分だけきれいでいられるものね」美和はそう吐き捨てると、ドアを乱暴に開けて出ていった。昼前、人事部から連絡が来た。美和が、私による職権乱用と嫌がらせを申し立てたという。訴えには、私が高校時代から美和を見下し、結婚式のあと、私怨から自分を調査対象にし、職を奪おうとしていると書かれていた。業務記録の間へ、個人的な恨みを混ぜた文章だった。社内ではすぐに噂が広がった。廊下で会話が止まり、会議室へ入ると視線が集まる。&n
翌朝、私は部下の立ち会いのもと、栗田貿易から届いた未開封のラベンダー精油を外部の検査機関へ送った。社内の検査結果だけを疑えば、私が結婚式の腹いせに騒いでいると言われる。だから、誰が調べても同じ答えになる形が必要だった。結果が届いたのは3日後だった。待っている間にも、同じ精油を使う製造予定は進んでいた。私は対象となる原料だけを保留にし、製造部へ理由を必要最小限に伝えた。「また品質部が止めたのか」と不満の声も上がった。結論が出る前に騒げば混乱を招く。止めなければ、問題のある原料を製品に使うかもしれない。どちらを選んでも誰かに責められる。その重さを引き受けるのが、今の私の仕事だった。報告書の最初のページをめくった瞬間、指先が止まった。天然のラベンダー精油なら検出されるはずの成分がほとんどなく、代わりに合成香料由来の成分が検出されていた。香りは似ている。だが、中身は別物だった。私は報告書を閉じ、泰石の部屋を訪ねた。「栗田貿易の精油から、表示と違う成分が出ました」泰石は報告書を読み、すぐには口を開かなかった。窓の外へ一度目をやってから、私を見た。「あなたと栗田社長の関係は、調査上どう扱いますか」「影響させません。ただし、私だけで進めれば、私怨だと疑われます」「なら、僕と監査担当を入れます。調べる人も、証拠を保管する人も分けましょう」泰石はすぐに製造、監査、法務の責任者へ順番に連絡した。対象ロットだけを保留し、証拠は監査室で保全する。栗田貿易への照会は、保全が終わるまで待つ。わずか数分で、製造全体を止めず、証拠も確実に保全で
東央バイオマテリアルから声をかけられたのは、退職の1か月前だった。当時、私は28歳で、部長経験はなかった。けれど森鷹では、輸入原料の表示内容と実際の成分に食い違いを見つけた際、分析結果を出すだけで終わらせず、製造と購買を巻き込み、製造計画を組み替えながら代替原料への切り替えまで主導していた。その対応を受入試験の手順書にまとめ、後輩が判断に迷ったときも同じ根拠へ戻れる仕組みにした。東央の品質本部長は、その手順書を業界勉強会で見ていた。採用担当によれば、東央が探していたのは、年齢や現在の肩書ではなく、品質上の問題を見つけたあとに部署をまたいで解決まで動かせる管理職だった。結婚後は栗田貿易を手伝うつもりだった私は、返事を保留していた。式を中止した翌朝、私は採用担当へ電話した。一晩、ほとんど眠れなかった。それでも、結婚式の写真を消すことも、颯真からの着信を拒否することもしなかった。怒りの勢いで人生を決めたと思われたくなかった。何より、自分自身にそう思いたくなかった。机の上に、森鷹時代の研究記録と東央の公開資料を並べた。採用されるなら、裏切られた花嫁としてではなく、ひとりの専門家として仕事に戻りたかった。「先日のお話がまだ有効でしたら、選考を受けさせてください」同情で採られたくなかった。面接では結婚式のことを一切話さず、公開されている過去3年分の自主回収事例と、選考課題として渡された品質資料を読み込み、改善案を提出した。面接官から、なぜ森鷹を辞めたのかと聞かれた。「結婚を機に退職しました。ただ、退職前に御社からお声がけいただき、自分が本当に品質の仕事を手放したいのか、改めて考えるきっかけになりました。
結婚式の半年前。ダイニングテーブルの向こうで、颯真が指輪の箱を開いた。けれど、口にしたのは愛の言葉ではなく、私の仕事のことだった。「原料分析では有機溶剤も使うだろ。妊娠したら体に良くないかもしれない。結婚を機に仕事を辞めてほしい」森鷹製薬には局所排気装置も防護具もあり、妊娠時は担当を変える制度もあった。すべての分析業務が妊娠へ悪影響を与えるわけではない。私はそう説明した。「辞める必要はない。担当を替えてもらえば続けられる」「そこまでして働く意味があるのか?」颯真は指輪の箱を閉じた。私の返事より先に、機嫌を損ねたことが伝わった。「意味があるから、いままで続けてきたの。担当している仕事にも、育てている後輩にも責任がある」「俺の会社には責任を感じないのか。父さんが倒れてから、俺がどれだけ必死に会社を支えてきたと思ってる」「大変だったのは分かってる。でも、それと私が仕事を辞めることは別でしょう」「結婚しても、俺より仕事を選ぶのか?」問いかけではあった。けれど、答えは一つしか許されていなかった。颯真は、仕事を続けることが、家庭を選ばないことだと言わんばかりだった。私が黙ると、今度は声をやわらげた。「俺の会社が落ち着くまででいい。真紀なら、またどこでも働ける。でも俺には今、真紀しかいないんだ」必要とされることと、選択を奪われることは違う。その違いを、私はまだ言葉にできなかった。けれど颯真は、私の母と祖母へ先に話をしていた。「真紀と子どもの健康を守りたい。生活は僕が責任を持ちます」母は、「そこまで考えてくれる人なら安心ね」と言った。颯真の父も、結婚後は栗田貿易で経営を手伝えばいいと勧めた。私は迷った。研究室から続けてきた仕事だった。自分の名前で出した分析法も、育てている後輩もいた。その一方で、颯真の会社は急成長の途中にあった。家族になるなら支えるべきだと、誰もが口をそろえた。「2年だけ。会社が落ち着いたら、真紀の好きな仕事に戻っていい」颯真はそう約束した。私は退職届を出した。最終出勤日、分析室の後輩たちがラベンダーの花束をくれた。白衣をロッカーへ置いたとき、自分の一部までそこへ置いてきたような気がした。後輩のひとりが、泣きながら小さなノートを差し出した。私が教えた検査の要点を、入社以来ずっと書き留めていたものだった。「沢田さんがい