Se connecter泥は、思ったより冷たかった。
スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。 それでも、俺たちは探し続けていた。 かつて線路が走っていた場所。 もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。 ここで、叶は死んだ。 そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。 手記には、そう書かれていた。 「……くそ」 俺は畦道の端にしゃがみ込み、ライトを左右に動かした。 草の根元。ぬかるみ。石ころ。錆びた空き缶。誰かが捨てたビニールの切れ端。 どれも違う。 探しているのは、そんなものじゃない。 けれど、頭の奥ではさっきから同じ考えばかりがちらついていた。 二十年前だ。 二十年も前に落ちた指輪が、今もここにあるのか。 誰かに拾われたかもしれない。雨に流されたかもしれない。農作業の途中でどこかへ紛れたかもしれない。そもそも、この場所に残っているという考え自体が、都合のいい願望なのかもしれない。 そう思うたび、胸の奥がざらついた。 今になって、ようやく不安が追いついてくる。 「穂乃果」 俺は顔を上げた。 「そっちにはあったか?」 少し離れたところでしゃがんでいた穂乃果が、スマホのライトをこちらへ向ける。頬にまで泥が跳ねていた。髪の一部も湿って、こめかみに張りついている。 「ま、まだ……さすがに、ないね」 穂乃果は苦笑いのような顔をした。 「夜だし、本当は昼間の方がいいんだけど……」 そこで、言葉が途切れた。 その先を、穂乃果は言わなかった。 昼まで待とう。 普通ならそう言うべきだった。こんな暗い中、スマホのライトだけで指輪なんて探せるわけがない。足場も悪い。今は撤去された廃線跡の近くで、夜にうろつく理由としては最悪だ。 けれど、俺にも分かっていた。 穂乃果も、あの手記を見てしまった。 叶を助けてほしいと願った、母親の最後の言葉を見てしまった。 あれを読んだあとで、明るくなるまで待とうなんて言えるほど、俺たちは器用じゃなかった。 俺は何も言わず、もう一度足元へライトを向けた。 その時だった。 胸ポケットの中で、スマホが震えた。 静まり返った田んぼ道に、間の抜けた着信音が鳴り響く。 「……ったく」 俺は舌打ちをして、泥だらけの指を制服の端で適当に拭った。 「こんな時に誰だよ」 画面に表示された名前を見て、少しだけ力が抜ける。 鬼龍院智哉。 今いちばん場違いで、けれど今いちばん想像しやすい名前だった。 「もしもし」 『おっすー! 今なにしてんだぁ?』 電話の向こうから、いつも通りの軽い声が飛んできた。 この湿った夜とはまるで関係のない、やけに明るい声。 「相変わらず、智哉は暇そうだな」 『へへ、まあな! もうすぐ夏休みだしさ。今回したいことあって誘いに来たんだ!』 「夏休みぃ? まだ早いだろ」 『なに言ってんだ! 今のうちに決めとかなきゃ、やりたいことだらけで何もできなくなるからよ!』 いつもなら、ここで適当に流していた。 けれど、今はそれどころじゃない。 「おい、智哉」 『ん?』 「悪いんだけどさ」 俺はライトを足元に向けたまま、息を吐いた。 「今、俺と穂乃果で探し物してるんだ。できれば、すぐにでも見つけたい。稲穂町の田んぼ道にいる。手伝ってもらえないか?」 電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。 『……稲穂町の田んぼ道?』 「ああ」 『げっ!? お、おまえ、それ霊が出た場所じゃねぇか!?』 「そうだな」 『そうだな、じゃねぇだろ!?』 智哉の声が裏返った。 穂乃果がこちらを振り向く。誰と話しているのか分かったらしく、少し驚いた顔をしていた。 俺は泥のついた指でスマホを握り直す。 「だから、早く見つけてやりたいんだ」 『……』 また、沈黙が落ちた。 風が田んぼの上を渡っていく。稲の葉が擦れ合い、暗闇の中でざわざわと鳴った。 やがて、電話の向こうで智哉が大きく息を吸う音がした。 『くっ……こえーけど、鬼龍院家の長男がそんなこと言ってられねぇよなぁ……』 「無理なら別に――」 『よっしゃ!』 被せるように、智哉が叫んだ。 『善法寺の鬼龍院智哉として、その捜索に参加してやろうじゃねぇか!』 相変わらず、よく分からない名乗りだった。 けれど、その声は震えていなかった。 「助かるよ」 『待ってろ! 今すぐ向かう!』 通話が切れた。 俺はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 「智哉くん、来てくれるの?」 穂乃果が尋ねる。 「ああ。怖がってたけどな」 「……そっか」 穂乃果は少しだけ表情を緩めた。 「智哉くんらしいね」 「まったくだ」 俺はスマホを胸ポケットへ戻した。 それからまた、足元へライトを向ける。 智哉が来るまでの間にも、探せるところは探しておきたかった。 * それから二十分ほどして、遠くから自転車のブレーキ音が聞こえた。 暗闇の向こうでライトが揺れている。 最初は怪異か何かかと思って身構えたが、すぐに荒い息と、やけに大きな独り言が近づいてきた。 「うおお……坂きっつ……! なんでこんなとこに来てんだよ、あいつら……!」 自転車が畦道の手前で止まる。 智哉は全速力で来たらしく、肩で息をしていた。額には汗が浮かび、前髪がべったり張りついている。 「智哉くん! 本当に来てくれたんだね!」 穂乃果が目を丸くした。 「おう! 手伝いに来たぜ!」 智哉は息を切らしながら、どうにか親指を立てた。 その直後、周囲を見回して顔を引きつらせる。 「……って、やっぱりここ、こえーな。灯りがなさすぎだろ……」 「スマホのライトでここまで探してきたんだけどな」 俺は泥のついた手を見下ろした。 「指輪なんて、やっぱり簡単には見つからない」 「指輪?」 「ああ。昔ここで亡くなった人のものだ」 「うへぇ……」 智哉は小さく身震いした。 けれど、逃げようとはしなかった。 そのまま俺たちの足元を見て、眉をひそめる。 「ん? おまえら、まさか田んぼの中ばっか探してんの?」 「ああ。そうだけど」 「おいおい」 智哉は呆れたように頭をかいた。 「田んぼってさ、水がいっぱい張られる時期あるだろ? 雨も降るし、泥も動くし。そういうの考えたら、端っことか排水路も見た方がいいぜ」 「排水路?」 俺は思わず聞き返した。 「でも、そんなところに流れてたら、もうとっくにどこか行ってるだろ」 「そういうのは一度見てからだって」 智哉は妙に自信ありげに言った。 「案外、奇跡的に引っかかって残ってるケースだってあるんだからよ。ほら、溝の隙間とか、泥の中とかさ」 むむむ。 まさか智哉に、こんなまともなことを言われる日が来るとは思わなかった。 「た、たしかに!」 穂乃果がはっとしたように顔を上げる。 「私も端ばかり見てて、排水路はちゃんと見てなかったよ」 「だろ?」 智哉は少し得意げに胸を張った。 「じゃあ俺はこっちから探すわ。見つかったらすぐ言えよ!」 「ああ」 俺たちは三方向に分かれた。 田んぼの端に沿って、排水路を覗き込んでいく。 コンクリートの溝には黒い水が溜まり、泥と枯れ草が絡み合っていた。スマホのライトを当てると、小さな虫が水面を滑るように逃げていく。 こんなところに、本当にあるのか。 そう思う。 思うたびに、指先が冷える。 けれど、探すしかなかった。 叶の未練が本当に指輪なら。 そして、それがまだこの場所に残っているなら。 俺たちが見つけなければ、彼女はずっとここにいる。 「あっ――!」 穂乃果の声が、夜を裂いた。 俺は反射的に顔を上げる。 「どしたぁ!?」 智哉も叫びながら駆け出した。 「輝流! 智哉くん!」 穂乃果は排水路の前にしゃがみ込んでいた。 スマホのライトを、震える手で一点へ向けている。 「あったよ! 指輪! 本当に、指輪があった!」 「な――」 息が詰まった。 俺はぬかるみに足を取られながら、穂乃果のもとへ駆け寄る。 ライトの先。 排水路の奥。 泥と枯れ草の塊に半分埋もれるようにして、銀色の何かが光っていた。 小さい。 けれど、確かに丸い。 ライトを受けて、鈍く、弱く、それでも失われきっていない光を返していた。 「これじゃね!?」 智哉が排水路を覗き込み、声を上げる。 「指輪探してんだろ!?」 「ああ」 俺は喉の奥で答えた。 けれど、手が届かない。 溝の上には重い金属の蓋がはまっている。隙間から指を伸ばしても、届く距離じゃなかった。 「どけ!」 智哉が制服の袖をまくった。 「持ち上げる!」 「おい、無理すんな」 「うるせぇ! ここまで来て無理とか言ってられっか!」 智哉は両手で蓋の端を掴む。 ぎし、と金属が嫌な音を立てた。 「ぐっ……お、おも……!」 歯を食いしばりながら、智哉が全身に力を込める。 蓋が少しずつ浮いた。 「ぐぉぉぉぉぉ! あ、輝流! 早く取れぇぇ!」 「分かってる!」 俺は地面に膝をつき、隙間から腕を差し込んだ。 冷たい泥が手首まで絡みつく。 指先が何か硬いものに触れた。 丸い。 小さい。 俺はそれを逃がさないよう、泥ごと掴んだ。 「取ったぞ!」 「ふ、ふい〜……!」 智哉が蓋から手を離し、その場にへたり込む。 重い金属音が夜の田んぼ道に響いた。 俺はゆっくりと手を開いた。 掌の上には、泥の塊があった。 長い年月を、この場所で過ごしてきたのだろう。泥は固くこびりつき、指輪の形さえほとんど隠していた。 けれど、ライトを当てると。 泥の隙間から、銀色の輪が、かすかに光を返した。 俺の手の中に、確かにあった。 叶が失くした指輪が。 彼女を二十年もここに縛りつけていた、小さな輝きが。静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く
――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。 そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。 けれど、すぐには動かなかった。 先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。 その声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 「……ああ」 俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この
部屋の中は、嫌なほど静かだった。 古い紙の匂い。 埃の積もった机。 閉じられた日記。 それらの全部が、俺たちの前で黙っている。 けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。 むしろ逆だ。 ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。 「……一回、整理しよう」 俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。 「整理……?」 「ああ。このままだと、情報が多すぎる」 俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。 「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」 「うん……」 「その時点では、まだ気のせいかもし
俺と穂乃果は、その場に立ち尽くしていた。 開かれた日記の最後のページには、もう何も書かれていない。 七月六日。そこで、叶の言葉は途切れていた。 妙な居心地の悪さが、胸の奥に沈んでいく。 白紙のページは、ただ白いだけだ。 なのに、そこには何かがびっしりと書き込まれているような気がした。 書かれなかった言葉。 書けなかった理由。 そして、その翌日に起きたこと。 背中を、冷たい汗が一筋流れた。 「輝流……これ……」 穂乃果の声も、ひどく小さかった。 考えたくはない。 でも、そういうことなのだろう。 叶は、その次の日に死んだ。 本来なら、新婚
老婆の後に続くと、書庫のさらに奥へ出た。 本棚と本棚の間に、細い通路がある。人ひとりが通るだけで肩が触れそうな幅だった。両側から古い本の背表紙が迫ってきて、埃と紙の匂いが濃くなる。 その突き当たりに、もうひとつ机があった。 長机ではない。もっと小さな、誰かがひとりで座るための机だ。窓から離れているせいで薄暗く、机の上だけが影の中に沈んでいる。 老婆は、その机の前で足を止めた。 俺が近づくと、また姿が薄れていく。血に濡れた肩も、皺だらけの手も、白く濁った目も、静かに空気へ溶けていった。 あとには、机だけが残された。 「……これは」 机の上には、一冊のノートが置かれ