ログインそれから、どれくらい経ったのだろう。
三十分は過ぎていた気がする。 けれど、正確な時間は分からなかった。 書庫の壁に掛かった古い時計は、針が止まっている。 スマホを確認しても、なぜか圏外の表示が出ているだけだった。時刻を見ることはできるはずなのに、画面の数字さえ信用できないような気がした。 この家に入ってから、時間の感覚が少しずつ曖昧になっている。 それは、俺たちが必死に探し続けていたせいかもしれない。 本棚を端から確認し、机の引き出しを開け、古い書類の束をめくる。 埃が舞い、喉の奥がざらつく。穂乃果は何度も小さく咳き込みながら、それでも手を止めようとはしなかった。 ただ、それでも限界はある。 ここにある本は、あまりにも多すぎた。 一冊一冊を開いていたら、夜が明けても終わらない。 「……駄目だな」 俺は本棚の前で息を吐いた。 その時だった。 目の前の空気が、ひやりと冷えた。 反射的に顔を上げる。 そこに、あの老婆が立っていた。 血に濡れた姿。白く濁った目。苦しげに歪んだ口元。 けれど、さっきまでより少しだけ輪郭が薄く見えた。 『こっ……ち……』 掠れた声が、空気の奥で鳴った。 穂乃果には聞こえていないらしい。少し離れた棚の前で、背表紙をひとつずつ確認している。 俺は小さく息を吸い、老婆に向き直った。 「……ありがとうございます。案内、お願いします」 老婆はゆっくりと背を向けた。 俺は穂乃果に気づかれないよう、静かに動き出す。 やはり、この老婆に敵意はない。 見た目だけなら、今でもまともに直視したくない。血まみれで、白目を剥き、苦しげに呻く姿は、人を怯えさせるには十分すぎる。 だが違う。 この人は、俺たちを脅かしたいわけじゃない。 導こうとしている。 何かを伝えるために。 もう自分では触れられないものへ、俺の手を届かせるために。 老婆は、本棚の前で足を止めた。 そこにあったのは、さっき俺が一度手に取った本だった。 ――霊との向き合い方。 著者、櫻井悠斗。 「えっ……?」 思わず声が漏れる。 「これに、あなたの記録が?」 老婆は、悲しげに顔を歪めた。 そして、ゆっくりと首を横に振る。 違う。 けれど、指はその本を差し続けていた。 俺は眉をひそめながら、その本を棚から抜き取った。 その瞬間。 ページが、勝手にめくれ始めた。 「わっ……」 紙が乾いた音を立て、ぱらぱらと流れていく。 俺が触れていないのに、見えない指が探し物をしているみたいに、ページが次々と送られていく。 やがて、あるところでぴたりと止まった。 そこに、紙片が挟まっていた。 本のページではない。 古いノートを破ったような、薄い紙。 そこには、達筆な文字がびっしりと書き込まれていた。 俺は慎重にそれを取り出す。 紙は古く、少しでも力を入れれば崩れてしまいそうだった。 そこに書かれていた最初の一文を見て、息が詰まる。 ――叶が、死んだ。 喉の奥が、ひどく乾いた。 俺は紙片へ目を落とす。 叶が、死んだ。 きっと、あの山に住まう恐ろしい神。 百貌様に祟られたのだろう。 あの子が、一体何をしたというの。 悪いことなんて、何ひとつしていないのに。 文字は整っているのに、ところどころインクが滲んでいた。 涙か。 それとも、震える手で書いたせいか。 どちらにしても、そこに残っているのは、ただの記録ではなかった。 母親の痛みだった。 俺は続きを読む。 でも、このままではいけない。 百貌様とは、その存在に魅入られた時点で、ほとんどの者が悲惨な死を遂げる。 現に、私も百貌様に目をつけられてしまったのだろう。 あのお姿が、見えるようになってしまった。 「っ……」 思わず、隣に立つ老婆を見た。 白く濁った目。血に濡れた顔。 この人にも、見えていた。 叶と同じものが。 婚約者と同じものが。 顔を貼りつけた何か。 俺はもう一度、紙片へ視線を戻す。 はるか昔、この地がまだ神鳴村と呼ばれていた頃から、その存在は確かにあった。 百貌様。 山に住まう、恐ろしい祟り神。 けれど、このままでは私は死ねない。 娘の未練を解き放たなくてはならない。 あの子は、永遠に苦しみ続けてしまう。 百貌様に祟られるとは、そういうことなのだ。 「なんて、理不尽な存在なんだ……」 声が漏れた。 叶は何もしていない。 ただ、幸せになろうとしていただけだ。 結婚して、旅行へ行くという約束。これからの家族の話をしていただけだった。 なのに、見られた。 魅入られた。 そして、死んだ。 死んでもなお、未練に縛られている。 ふざけるな、と思った。 俺の中にあるはずの恐怖は、やはり動かなかった。 その代わり、もっと別のものが胸の奥でじりじりと熱を持つ。 怒りに近い。 けれど、ただの怒りとも違う。 見捨てられたものを見た時に、喉の奥が詰まる感覚。 打ち捨てられた社を見た時と似た、説明のつかない痛み。 俺は紙片の続きを読んだ。 大丈夫。まだ解決策はある。 だから、この手記を、私はこの家を調査する誰かへ向けて遺すことにした。 名も知らぬ誰かへ。 百貌様とは、その存在自体がとても恐ろしい祟り神です。 けれど、その存在と出会うことは、ほとんど運のようなもの。 決して、何か悪いことをしたから魅入られるわけではありません。 私は、たまたま叶の傍にいた。 だから、呪われてしまった。 けれど、きっと誰かがこの家を調べる頃には、長い時間が経っているはずです。 その誰かに、お願いがあります。 私の娘、叶は、あの子が死んでしまった場所に留まり続けるはずです。 あの子の未練は、きっと指輪です。 あの子は、轢かれてしまったその日まで、指輪を身につけていました。 ですが、亡骸には指輪がありませんでした。 だから、これを見ることができた、見知らぬ誰か。 図々しいお願いをしてしまって、ごめんなさい。 でも、もし叶うことなら。 あの子の、叶の魂を解放してあげてください。 私には、もう時間がありません。 本当なら、私がしてあげたい。 母親である私が、あの子を迎えに行ってあげたい。 けれど、もうそれをする時間も、力も残されていないのです。 だから、どうかお願いします。 叶を、助けてください。 そこまでで、手記は終わっていた。 見知らぬ誰かへ向けた、母としての最後の言葉。 自分の死を悟っていなければ、こんなものは書けない。 助けを求める相手の顔さえ分からないまま、それでも誰かに託すしかなかった言葉だった。 「……」 俺は紙片を持ったまま、隣の老婆を見た。 老婆は、泣いていた。 白く濁った目から、ぼろぼろと涙がこぼれていた。 血で汚れた頬を伝い、顎から落ちる前に、空気の中へ溶ける。 声にならない呻きが、喉の奥で震えていた。 『どう……か……あの子……を……』 その声を聞いた瞬間、胸の奥が張り裂けそうになった。 怖いからじゃない。 悲しいからでも、たぶん足りない。 この人は、死んでもまだ母親だった。 叶を助けたい。 ただそれだけを抱えて、この家に残っていた。 俺は紙片を握り潰さないよう、指先に力を込める。 「……あなたの気持ち、ちゃんと受け取ったよ」 老婆の白い目が、俺を見る。 「安心してくれ。俺が、絶対に探し出してみせる」 自分でも驚くほど、迷いのない声だった。 「指輪だったよな。今も、叶さんが亡くなった場所の近くにあるのか?」 老婆は、静かに頷いた。 「……そうか」 なら、やることは決まった。 探しに行こう。 叶が死んだ場所へ。 指輪を見つけるために。 それこそが、叶の未練だ。 その未練を解きほぐすために、俺たちはここまで来た。 「穂乃果!」 俺は振り返って声を上げた。 「手がかりが見つかった!」 「えっ!? ほ、ほんと!?」 穂乃果が慌てて駆け寄ってくる。 俺の前で足を止め、手元の紙片を見た。 「叶さんが……いや、百貌様に殺された人の未練を解いてやればいいんだ」 「で、でも、それが何か……」 「指輪だ」 俺は手記を穂乃果に見えるように差し出した。 「彼女は電車に轢かれた時、指輪をなくしてる」 「そ、そんなことも分かったの!?」 「ほら、手記を」 穂乃果はおそるおそる紙片を覗き込んだ。 最初は怯えた顔をしていた。 けれど読み進めるうちに、その表情が少しずつ変わっていく。 怖さの奥に、痛みが滲んでいく。 「……なるほどね」 穂乃果は小さく呟いた。 「叶さんのお母さん……ずっと、助けたかったんだ」 「ああ」 俺は頷く。 「だから、行こう」 穂乃果は一度だけ目を伏せた。 そして、震えを押し込めるように息を吸う。 「……うん」 俺たちは手記を丁寧に本へ戻し、出口へ向かって歩き出した。 その時だった。 『あ……り……がと……う』 背後から聞こえた声に、足が止まる。 今度は、はっきりと聞こえた。 掠れていて、弱々しくて、それでも確かに言葉だった。 ありがとう。 俺は振り返る。 そこに、老婆が立っていた。 血に濡れた姿のまま、白く濁った目に涙を浮かべて。 けれどその表情は、初めて見た時よりも、ほんの少しだけ穏やかに見えた。静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く
泥は、思ったより冷たかった。 スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。 それでも、俺たちは探し続けていた。 かつて線路が走っていた場所。 もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。 ここで、叶は死んだ。 そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。 手記には、そう書かれていた。 「……くそ」 俺は畦道の端にしゃがみ込み、ラ
――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。 そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。 けれど、すぐには動かなかった。 先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。 その声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 「……ああ」 俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この
部屋の中は、嫌なほど静かだった。 古い紙の匂い。 埃の積もった机。 閉じられた日記。 それらの全部が、俺たちの前で黙っている。 けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。 むしろ逆だ。 ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。 「……一回、整理しよう」 俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。 「整理……?」 「ああ。このままだと、情報が多すぎる」 俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。 「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」 「うん……」 「その時点では、まだ気のせいかもし
俺と穂乃果は、その場に立ち尽くしていた。 開かれた日記の最後のページには、もう何も書かれていない。 七月六日。そこで、叶の言葉は途切れていた。 妙な居心地の悪さが、胸の奥に沈んでいく。 白紙のページは、ただ白いだけだ。 なのに、そこには何かがびっしりと書き込まれているような気がした。 書かれなかった言葉。 書けなかった理由。 そして、その翌日に起きたこと。 背中を、冷たい汗が一筋流れた。 「輝流……これ……」 穂乃果の声も、ひどく小さかった。 考えたくはない。 でも、そういうことなのだろう。 叶は、その次の日に死んだ。 本来なら、新婚