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一二八話:迦夜

작가: 渡瀬藍兵
last update 게시일: 2025-07-21 19:02:56

「ひっ……!!」

 喉の奥で、引きつった声がかすれた。

 そのとき目に焼きついたものは、幼い悠斗の中に、ただ「怖かった」の一言では済まない形で残ってしまう。やがて細部は薄れていき、目の前の異形の輪郭さえ記憶の底へ沈んでいった。それでも、あの夜に刻まれた恐怖だけは消えない。怨霊――迦夜との邂逅は、十年近い歳月を経てなお癒えぬ傷として、彼の内側に居座り続けることになる。

「悠斗っ!! 逃げなさい!!」

 遥の叫びが、境内に鋭く響いた。

『ヒヒヒ……』

 喉を潰したような笑い声。それが、足元から這い上がってくる。

「この……っ!」

 遥は一瞬だけ戸惑いを見せたものの、すぐに片手を振り抜いた。掌から放たれた紅の光が、あり得ない体勢のまま悠斗を覗き込んでいた迦夜の背へ叩きつけられる。

『ア゙ア゙ッ……!!』

 迦夜の顔がぐしゃりと歪む。けれど怯むどころか、次の瞬間にはその金の瞳が、ぎらりと遥を捉えていた。

 ――そして、蛇のようだった。

 紫色の身体がぬめるように持ち上がり、遥の足から腰へ、腰から胴へと一気に絡みついていく。骨のない生き物が、人の形を真似ているような動き。

「……っ!!」

 遥の息が詰まった。

 迦夜の顔が、遥の目の前まで迫っている。鼻先が触れそうなほどの距離。金色の猫のような瞳が、瞬きひとつせずに彼女を見据えていた。その至近で、遥の顔が恐怖に染まっていくのを、悠斗は初めて見る。

 これまでいくつもの霊を見届けてきた母が、目の前のそれにだけは、はっきりと怯えていた。

「うっ……!! 離して……っ!」

 声は掠れ、いつもの落ち着きなど欠片もない。

 遥の身体が地面へ押し倒される。枯葉と土が跳ね、白い指先が地を掻いた。そのまま迦夜は、獲物を巣へ引きずり込むように、遥を暗がりの奥へずるずると引いていく。

「お母さん!!」

 悠斗は叫んだ。

 けれど、足が動かない。膝が石のように固まって、逃げることも追うこともできなかった。ただ目の前で、母が闇に呑まれていくのを見ているだけ。

 それでも、完全に姿が見えなくなりかけたその瞬間、ようやく身体が弾かれたように動いた。

「待って!! お母さん!! 置いていかないでぇ!!」

 泣き叫びながら駆け出した、その先――

 林の向こうで、紅い光がひときわ強く閃く。

「お母さん! どこぉ!!」

 木々のあいだを見渡した悠斗の目に、すぐ近くの地面へ崩れ落ちる人影が映った。

 遥だった。

 悠斗は息を切らして駆け寄る。

「お母さん……?」

 肩を揺すっても、返事はない。瞼は閉じたまま、身体は冷たい土の上に投げ出されたきりだった。

 迦夜。

 その名をまだ知らない幼い悠斗の前に現れ、深い傷だけを残して消えた存在。

 そして、いずれ再び向き合うことになるその怪異について、このときの悠斗はまだ何ひとつ知らない。――ただ一人を除いて。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

「っはぁ……! はぁっ……!!」

 跳ね起きた勢いで、布団が足元へするりと落ちた。

 宿の天井は低く、部屋はまだ暗い。目を開けた直後の悠斗には、ここがどこなのかすぐに掴めなかった。障子の向こうにある夜は深く、細い隙間から覗く星だけが、冷えた光を散らしている。

「ゆ、夢……」

 掠れた声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。

 けれど、胸の内はその一言で片づけられる状態ではない。ただの悪夢ではないと、身体の奥が先に理解している。

 あれは夢じゃない。過去だ。

 そう思った瞬間、息がまた浅くなった。心臓が肋骨の内側を荒々しく打ち、額から首筋、背中へと嫌な汗が流れ落ちる。浴衣はすでに肌へ張りつき、不快な冷たさを残していた。

「……っ」

 悠斗は重たい身体を起こし、手探りで部屋の明かりを点けた。蛍光灯の白が一気に広がり、目の奥を鋭く刺す。畳の上に落ちた影が急にはっきりして、かえって現実味が薄れるようだった。

 ふらつく足で座布団の前まで進み、その場へ崩れるように腰を下ろす。

「僕の身に、母さんに何が起きたのか……やっと、はっきりした。あれが……迦夜……」

 口にした名は、ざらついた感触を舌の上に残した。

 美琴の家族を奪い、悠斗の母を襲った存在。

 その記憶を、悠斗はずっと失っていたわけではない。思い出せなかったのでもない。ただ、見ないようにしてきたのだ。あの夜に触れた瞬間、何もかもが壊れてしまいそうで、心のいちばん深い場所に無理やり押し込めていた。

「くそ……っ」

 吐き捨てた声が、誰もいない部屋の中へ落ちていく。返るものはない。ただ白い灯りだけが、冷たく畳を照らしていた。

 母の呪いを解くには、迦夜を祓うしかない。

 昼間、美琴が口にした言葉が、今になって重く胸へ沈んでくる。

 あれが迦夜。

 あんなものを、本当に祓えるのか。

 あの金の目。紫に濁った肌。人の形をしているのに、人ではないとひと目でわかる異形。遥でさえ恐怖を隠せなかった相手に、自分が立ち向かえるのかと思うと、喉の奥がまた強張った。

 それでも、祓わなければならない。

 祓わなければ、母は戻らない。

 考えはそこで何度も行き止まり、同じ場所を回り続ける。答えは出ないのに、焦りだけが胸の内で膨らんでいく。このままでは駄目だという感覚だけが、嫌になるほど鮮明だった。

 もっと強くならなければならない。

 今のままでは、届かない。

「……最悪な年明けだ」

 吐息混じりの呟きが、明るすぎる部屋の中にぽつりと落ちた。

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