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一二六話: 花を守る者の名は

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-07-20 19:59:04

 花守神社へ着くと、境内はすでに大勢の参拝客で埋まっていた。石段の下から社の前まで人の列が長く続き、山あいの静けさとは不釣り合いなほどの賑わいがあたりに満ちている。社のスピーカーからは祝詞が流れ、冷えた夜気の中に厳かな響きを落としていた。

「すごい人だね」

 悠斗が感心したように声を漏らすと、隣の美琴も人波の先へ目を向けた。

 悠斗は列に並んだまま、あらためて周囲を見渡した。見えるのは山、木々、冬の夜空――それだけのはずなのに、境内に集まっている人の数は三百を優に超えていそうだった。湯煙の立つ温泉郷の外れに、これほど人が集まる場所があるという事実が、少し不思議に思える。

 やがて、境内に流れていた祝詞の音がわずかに絞られた。代わって、落ち着いた男性の声がスピーカーから響く。

『皆様、本日は花守神社、ならびに花守温泉郷へお越しくださいまして、誠にありがとうございます。まもなく新しい年を迎えるこの折、年明けまでのひととき、こちら花守温泉郷と花守神社に伝わる由緒を、少しお話しさせていただければと存じます』

「……花守温泉郷の伝説まで語ってくれるんだ」

「ええ。花守巫女の伝説が、もう一度聞けそうですね」

 美琴の声には、わずかな期待が滲んでいた。悠斗も耳を澄ます。年越しを待つざわめきの中で、その語りだけが不思議と輪郭を持って聞こえてきた。

『この花守神社には、古くから語り継がれている一人の巫女様のお話がございます。かつてこの温泉郷を、幾度となく疫病や災いからお救いくださったお方です』

 神主の声は穏やかで、けれどよく通った。

『その巫女様は、人々を守るべき花のように慈しみ、数多の災いからこの温泉郷をお救いくださったと伝えられております。花は儚く、けれど懸命に咲くもの。巫女様は、そんな花のような人々を見つめ、散らせぬよう守り続けたのでしょう。その在り方に敬意を込めて、いつしか人々はそのお方を“花守巫女”とお呼びするようになりました。これが、この地に残る伝説の始まりでございます』

 境内のざわめきが、少しずつ静まっていく。参拝客たちも足を止め、耳を傾けているようだった。

『では、なぜ“花守巫女”という呼び名だけが残り、その方ご自身のお名前は伝わっていないのか。そこにもまた、ひとつ理由がございます』

 ひと呼吸の間を置いて、神主は続けた。

『今からおよそ千年前、この地を訪れたその巫女様は、ご自身のことを何ひとつ語られなかったそうです。この地の者たちは、せめてお名前だけでもとお尋ねしました。けれど巫女様は静かに首を横に振り、最後までお答えにはならなかった――文献には、そのように記されております』

 冷たい風が、列のあいだを細く抜けていく。白い息が、前に並ぶ人々の肩越しに淡くほどけた。

『その折、巫女様はただ一言、“名乗る名がありませんので”と仰せになったと伝わっております』

 名乗る名がない——その一言が、妙に耳の奥へ残った。意味はわからない。けれど素通りしてくれない。冷えた夜気の中で、ただその響きだけが胸の内側にそっと置かれていくようだった。

『そして——現在、皆様が立っておられるこの場所こそ、巫女様がそのようにお答えになった場所でございます』

 悠斗は思わず、美琴の横顔を見た。彼女もまた、まばたきひとつ少なく、その言葉を受け止めている。

 悠斗は視線を落とした。足の下にあるのは、ただの石畳のはずだ。けれどそう思った途端、自分の立っている一点だけが、境内の喧騒からわずかに離れていくような感覚があった。千年前、この同じ場所に誰かが立っていた。名前を持たないと答えた誰かが。

 隣で、美琴の睫毛がかすかに揺れる。悠斗がそちらへ目を向けたときには、もう元に戻っていた。

 年明けがもう目前まで迫っている。あと少しで新しい年になるのだと思うと、悠斗はようやく実感が湧いてきて、妙にそわそわした。冷えた夜気の中に立っているだけなのに、胸の奥だけが落ち着かない。

 そんな胸のざわめきを縫うように、神主の声が再び境内へ響く。

『巫女様はこの温泉郷を守るために結界をお張りになり、その力は千年の時を経た今なお、この地を見守り続けてくださっている――そのように伝えられております』

「あの結界のことだね」

 悠斗が小さく呟くと、美琴も静かに頷いた。

「ええ。千年という途方もない時間を越えてなお効力を失っていないなんて、本当に類い稀な霊能力を持っていたみたいですね」

 白い息が、言葉のあとにふわりとほどける。夜空の下、その一言には感心とも畏れともつかない響きがあった。

『もっとも、“結界などという目に見えぬものを、なぜそこまで信じられるのか”――そう問われることも少なくありません』

 神主はそこで少しだけ声を和らげた。

『ですが、何も起きていないからこそ、私はその守りが今も確かにあるのだと信じております。災いが遠ざけられているからこそ、私どもはこうして穏やかに新しい年を迎えられるのではないかと。――まあ、これはあくまで私個人の考えではございますが』

 冗談めかして締めくくる声音に、境内のあちこちから小さな笑いが漏れた。

 けれど悠斗には、それが飾りではなく真実を語っているように聞こえた。何も起きていないこと自体が、守りが働いている証なのだ。

 霊の姿も、結界も、見えない人からすれば作り話にしか思えないかもしれない。だが悠斗のこの眼には、確かに視えてしまうものがある。美琴のようにはっきり結界を捉えられなくても、この地を包む力の気配だけは、たしかに感じ取れていた。

『さて――最後に、花守巫女と呼ばれるようになった理由を、もうひとつだけお話しいたしましょう』

「えっ? 僕が見た伝説だと、そんな話どこにもなかったけど……」

 思わず漏れた声に、美琴は答えなかった。ただ、わずかに目を伏せる。

 神主はそのまま、静かな調子で続けた。

『巫女様は一本の桜の苗を、それはもう大切に育てておられたそうです。まるで、かけがえのない命を慈しむかのように。人々はそのお姿を見て、花を守る巫女——花守巫女と、いっそう深い敬意を込めてお呼びするようになったと伝えられております』

 少しの間を置き、神主は穏やかに結ぶ。

『以上が、花守巫女の伝説でございます。どうか皆様の新しい一年が、健やかで実りあるものとなりますように。ご清聴、誠にありがとうございました』

 その声が途切れると、境内のあちこちから拍手が起こった。夜の山に吸われていくような拍手の音が、境内にやわらかく広がっていく。

 美琴は、拍手には加わらなかった。ただ、夜空のほうへ小さく視線を上げている。

「……本当に、不思議な方ですね」

 ぽつり、と。独り言のようでもあり、悠斗に向けた言葉のようでもあった。

「不思議?」

「ええ。千年前の巫女様が、こうしてこの地に結界を遺している——それ自体は、まあ、ないことではないのですが」

 美琴はそこで一度言葉を切り、白い息をひとつ吐いた。

「私たちの世代より前の巫女は、基本的に村の外へ出ることを禁じられていました。掟として。破れば……それは、とても厳しい処分が下る決まりだったんです。長老が代替わりして、ようやく琴乃姉さんや私の代から外に出られるようになったくらいで」

「……え」

「ですから、千年前の巫女様が、どうしてこの花守の地までいらしたのか。どうしてここで結界を張ることになったのか。少し、引っかかるというだけの話です」

 美琴はそう言って、小さく微笑んだ。けれどその視線は、拝殿のほうへ向けられたまま、こちらには戻ってこない。

 悠斗は何か言おうとして、結局、言葉を見つけられなかった。美琴が今、何を考えているのか——そのかたちが、うまく掴めなかった。

 そして、いよいよ年明けまでのカウントダウンが始まった。

『さあ皆様、新しい年まであと五秒でございます。――五、四、三、二、一……』

 張り詰めた空気の中、声が重なる。

『明けまして、おめでとうございます』

 その瞬間、境内の空気がふっとほどけた。あちこちで祝いの声が上がり、冬の夜に熱が差し込んだ。

「美琴、明けましておめでとう」

 悠斗が隣を見ると、美琴もまた彼のほうへ顔を向けた。冷たい空気の中で、その表情だけがやわらかい。

「悠斗くん、明けましておめでとうございます」

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