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一二七話:影の奥で嗤う

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-07-20 20:12:45

 社の前に立つと、冷えた夜気が胸の奥まで澄んで入ってきた。新しい年が始まるのだという実感が、ようやくそこで形を持つ。胸の内には今年への期待があり、もうひとつ、まだ言葉にしきれない願いもあった。美琴と、もしかしたら——そんな淡い想像が、火照りにも似た熱を残している。

 悠斗は静かに手を合わせた。二礼二拍手一礼。人の気配がまだ残る境内の中で、その所作だけが不思議なほど静かだった。

 胸の内でそっと唱えた願いは、美琴のことだ。

 彼女が琴音によって呪われていることを、悠斗はもう知っている。けれど、その呪いが具体的に何を奪い、どこまで彼女を追い詰めているのか、そこまではまだ見えていない。少なくとも、琴乃も美琴も、あからさまに焦りを滲ませてはいなかった。だからこそ、祈るしかなかった。

 どうか、美琴と琴乃、二人にかかった呪いが解けますように。

「悠斗くん、なにをお願いしたんです?」

 隣から覗き込むようにして、美琴が小さく首を傾げる。悠斗は手を下ろし、少しだけ笑った。

「それは秘密だよ。でも、絶対に叶ってほしい願いを願掛けしたんだ」

「そうなんですか? 気になります……」

「はは、内緒なものは内緒だよ」

 そう返すと、美琴はむう、とわずかに唇を尖らせる。それ以上は追及してこなかった。その表情がどこか子どもっぽく見えて、悠斗の肩から少し力が抜ける。

 参拝を終えると、二人はそこで別れた。美琴は琴乃の家へ戻り、悠斗は温泉郷の宿へ向かう。

 部屋に入ったときには、ようやく一息つけるはずだった。けれど、知らず知らずのうちに気を張っていたのだろう。布団に入ると、意識はあっけないほど早く沈んでいった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 夢は、あの日の続きを映していた。

 母が倒れる、あの夜。幼い悠斗は廃神社の境内で、老人の成仏を見届けたあと、遥と手を繋いで歩いていた。夜の境内はひどく静かで、風に揺れる木々の音だけが、暗がりの奥で細く擦れている。

「お母さん」

「なぁに?」

 小さな手を握ったまま見上げると、遥はいつもの柔らかな声で返してくれた。

「りんねてんせいってなに?」

「輪廻転生はね、私たちが死んだあとに、もう一度この世に生まれることをいうんだよ」

 遥は子ども相手だからと誤魔化さなかった。言葉をわざと軽くもせず、けれど突き放しもせず、悠斗が受け止められると信じてそのまま渡してくる。あの頃の悠斗には少し難しい話だったはずなのに、その声音には不思議と置いていかれる感じがない。

「悠斗は、死んじゃうのは怖いって思う?」

 問われて、幼い悠斗は少し俯いた。

「うん……。楽しいこととか、わからなくなりそうで」

 そのときの自分は、きっと上手く言葉にできていなかったと思う。ただ怖かった。死んだあと、自分の意識がどうなるのか。何もかもが途切れて、自分という存在が無くなってしまうことが、たまらなく恐ろしかった。

「そっか」

 遥は否定せず、ただ静かに頷く。

「お母さんは怖くないの……?」

「私はね、怖くないよ」

「なんで?」

「うーん。どう言えばいいんだろうね」

 少し考えるように空を見上げてから、遥はゆっくりと言葉を選んだ。

「私は、死が一種の解放だと思うの。今まで生きていたしがらみとか、縁とか、未練とか。生きているあいだ、人はそういうものに取り憑かれてしまうでしょう?」

 幼い悠斗は黙って聞いている。遥はその歩幅に合わせるように、声をゆるめた。

「でもね、死んで、輪廻転生をしたら、そういうものから解放されて、まったく新しい人生を歩める。お母さんは、そう思うんだ」

「む、むずかしいよ……」

 正直な困惑に、遥はふっと笑う。

「ふふ、悠斗にもいつかわかるよ。お母さんとしては、わかってほしくないけどね」

遥がそう微笑んで告げた、その直後だった。

『バリッバリバリバリ……!!!!』

 境内の空気が、背後から引き裂かれる。

 木が折れる音でも、石が砕ける音でもない。もっと手前——そこに在ってはいけないものが、無理やり形をこじ開けて出てくる音だった。夜の裏側を素手でめくるような、湿って、軋んで、ずるりと這い出る響き。耳ではなく、骨の内側へ直接打ち込まれてくる。

 幼い悠斗の身体は、正体を理解するより先に震え始めていた。

 遥が振り返る。

 その横顔から、見る間に血の気が引いていく。綺麗な母の顔が、蝋のように白くなっていく過程が、悠斗の視界に焼きついた。

「今の音……なに……?」

 問いかけた瞬間、遥の手が伸びた。細く綺麗なはずの指が、ありえない力で悠斗の目を塞ぐ。

「見ちゃダメっ!!!!」

 鋭い声だった。普段の穏やかな母からは想像もつかない、反射そのものの叫び。悠斗の視界は奪われ、代わりに手のひらの熱と、わずかに震える呼吸だけが皮膚越しに伝わってくる。

 遥の呼吸が速い。

 母が怖がっている——その事実だけで、幼い身体の芯から温度が抜けていった。じわ、と内側が冷える。逃げろと身体が叫ぶのに、足の裏だけが石畳に貼りついて動かない。粘土のような冷たさが、背中を伝って首筋へ這い上がってくる。

「こんな所にまで追いかけて来るなんて……!! でも、残念だけど、あなたたちのことは私には救えない」

 闇に向かって放たれた遥の声に、返事のように笑い声が重なった。

『ハハハ……』

 ひとつではなかった。

 男とも女ともつかない声が、幾層にも折り重なる。十人が同じ喉を使って笑ったような、噛み合わない音。ひとつの笑いの中に別の笑いが混じり、その奥にもまた別のが混じっている。どこまで剥いても底が出てこない笑い声。

 湿った笑気が首筋を撫でた。耳元で囁かれたわけでもないのに、妙に近い。背後の暗がりが、ただの夜ではなくなっていくのがわかった。夜が、厚みを持ち始めている。

「悠斗、お願い。振り返らずに逃げて」

 遥の手が、今度は肩を掴んだ。身体ごと背を向けさせるような、ほとんど突き飛ばす勢い。

 けれど幼い子どもに、この状況が呑み込めるはずもない。聞いたことのない母の声。見えないのに確かにそこにいる何か。胸の奥で膨らんだ恐怖が足を竦ませ、喉の奥を詰まらせる。

「こわい……! なにがおきてるのぉ……!」

 泣き声混じりに叫びながら、悠斗は逃げるどころか振り返っていた。そのまま、遥の腰に縋りつく。

 その拍子に、見えてしまった。

 ——見ては、いけなかった。

 遥の足首を、地面の底から伸びた紫色の手が掴んでいた。

 人の手に似ていた。似ているだけだった。皮膚は死んだようにどす黒く紫へ濁り、指は関節の数が合わないほど細長い。先端の黒い爪が、艶もなく獣の鉤のように伸びて、遥の白い足に深く食い込んでいた。握っているのではない。喰い込み、離さない形に固まっている。

 そしてその手の先——遥の両足のあいだから、ぬるり、と顔が覗いていた。

 最初、悠斗はそれを認識できなかった。

 顔がそこにあるという事実を、脳が受け取ることを拒んでいた。遥の足の間という、あってはいけない位置から、人の顔の輪郭だけが浮かんでいる。奥行きが掴めない。距離感が壊れている。近いのか遠いのかも判断できないまま、それは、ただ、そこに、在った。

 金色の、猫のような瞳。

 焦点が合っていない。それなのに、悠斗のことだけを見ている。

 濡れた藻のような黒髪が、顔の半分を隠すように垂れ下がっていた。隙間から覗く皮膚は紫に染まりきり、生きた人間の色をどこにも残していない。口元が、裂けるように吊り上がっている。

 ——笑っている。

 笑っているのに、そこには喜びの欠片もなかった。悪意ですらなかった。喜びも悪意も、人の感情に属するものだから。それ以前の、人が本能で拒むものだけが、剥き出しのまま皮膚の表面に浮かんでいた。

 それは遥の足元にいるのに、遥の影の中から生まれたようにも見えた。地面から這い出たのか、影から湧いたのか、遥の身体のどこかから染み出したのか——その区別がつかない。存在そのものが、場所を持っていない。

 ぎり、

 と、黒い爪がさらに沈む。

 白い足首の肌が、ひと筋だけ盛り上がってから、ぶつりと切れた。小さな音だった。けれど耳で拾う前に、背骨の奥へ釘を打たれたみたいに響く。

 悠斗の喉が、無音のまま痙攣した。叫びの形だけが口の中で潰れて、代わりに唾が冷たく溜まる。

 金の瞳が、ゆっくり細くなる。焦点が合わないまま、こちらだけを狙って。

 そして——

 母の足の間からこちらを覗き込んだまま、それは、嗤った。

『ク……クク……』

 笑いはひとつではない。ひとつの声が鳴ったと思った次の瞬間、別の声が皮膚の裏を擦っていく。重なり、ずれ、増えていく。十、二十——数えようとしただけで頭が割れそうになる。

 笑っているのに温度がない。怒りも喜びもない。ただ「笑う」という形だけが、壊れた機械みたいに回り続けている。

 悠斗の身体の芯が、じわじわと凍りついた。手足の先から血が引く。目を逸らそうとしても、まぶたが動かない。視線の先で、金の瞳だけがほんのりと光っている。

 ——見ちゃいけない。

 わかっている。母が叫んだ。母が震えた。なのに、視線は縫い留められたみたいに離れない。

 それは、見られていることを知っていた。

 見られるたび、もっと深いところから這い出てこられる——とでも言うように。

 金の瞳が、ひとつ瞬きをした。

 その動きだけが妙に人間的で——だからこそ、悠斗は息を呑んだ。

 次の瞬間、唇の裂け目がさらに吊り上がる。

 愉しんでいる。悠斗の恐怖がすり減っていく音まで、舌先で味わうみたいに。

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