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一二九話:足を奪ったもの

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-07-21 19:14:43

 後日、悠斗は琴乃の家を訪れていた。先日の夢で見たことを、琴乃と美琴に伝えるためだった。

 畳の上に座り、言葉を探るように少しずつ話していく。あの夜、母が見せた静かな微笑み。死を「解放」と呼んだ穏やかな声。そして、その直後に現れた紫の影のことまで――。

「なるほどね。あなたのお母さんも、迦夜に……」

 琴乃が低く呟き、視線を落とす。布団の上に出た指先が、かすかに震えていた。

「琴乃姐さん」

 隣にいた美琴が、静かに口を開く。

「悠斗くんのお母様は、遥さんです。私の命を救ってくれた人だったの。昔、私がよく話していた人――覚えているでしょ?」

「なんですって……!?」

 琴乃の目が大きく見開かれる。掛け布団を握る手にも、はっきりと力が入った。

「悠斗君。アタシの身体が動くなら、今すぐにでも美琴を救ってくれたお礼を言いに行きたいところだけど……」

 その声音には、飾りのない悔しさが滲んでいた。動かしたくても動かせない身体。その現実を、琴乃は言葉の端々で噛み締めているようだった。

「いえ、お気持ちだけで十分です」

 悠斗は軽く頭を下げ、それから顔を上げる。胸の奥には、ずっと引っかかっていた問いがあった。

「それより……迦夜って、なんなんですか? 夢で、はっきり見たんです。紫の肌に、あの鬼みたいな顔……」

 瞼の裏に、あの夜の光景がよみがえる。母の優しい声を断ち切るように現れた、あの異形。

「迦夜は……本当に怨霊なんですか?」

 琴乃はすぐには答えなかった。しばらく天井を見つめ、何かを確かめるようにゆっくり息を吐いてから、静かに口を開く。

「……迦夜はね、ただの怨霊なんかじゃないわ」

 その一言で、部屋の空気がひとつ沈んだ。

「迦夜とは、古い時代にいた古の巫女たち――その怨嗟の集合体よ」

「っ……!」

 息が詰まった。知らないうちに、膝の上の手へ力がこもっている。

「悠斗君にも言ったけど、アタシたちは呪われている。そして、その呪いに対して、古の巫女たちは凄まじい怒りや悲しみ、絶望を抱えたまま死んでいった。そうした感情が溶けもせず、消えもせず、現代まで残り続けてしまったのよ」

 琴乃の声は淡々としていた。けれど、その平坦さの奥には、何代もの女たちが引きずってきた重みが沈んでいる。怒りをぶつけるでも、悲しみに濡れるでもなく、ただ事実として語られるからこそ、その話は余計に冷たかった。

 琴音のことも、千年前の出来事だった。そんな昔の呪いが今も現世に蔓延っている時点で、十分に異常だ。だが、迦夜の話はそれ以上に輪郭がはっきりしていた。もっと生々しく、もっと手触りのある恐ろしさとして、悠斗の前に迫ってくる。

 悠斗はごくりと唾を飲み込んだ。

「古の巫女たちの……怨霊……」

 口にしてみても、実感はまだ追いつかない。

 古の巫女の末裔である美琴は、強い力を持っている。人を救うための力を。その源にあるはずのものが、いま目の前では怨嗟の集合体として語られている。その歪さに、思考が一瞬だけ足を取られた。

「でも、不思議なこともあるのよね」

 琴乃が、少しだけ調子を変えて言う。

「うん」

 美琴がそのまま引き取るように頷いた。

「私、桜織で迦夜の痕跡を見つけたことがあるんです。でも――途中で途絶えているの」

 膝の上に置いた指先が、そっと組み直される。

「少なくとも、ここ数年は間違いなく現世へ現れていないはずです……」

「待って、美琴」

 悠斗は思わず身を乗り出した。

「現世に現れるって、どういうこと? まるで、あの世とこの世を行き来するみたいな言い方だけど……」

 美琴は一拍だけ黙り、それから静かに告げた。

「迦夜は――固有の結界を保持しているんです」

「結界……? 結界って、幽護ノ帳と同じ……?」

 禊火の儀で美琴が展開していた、あの光の膜が頭をよぎる。あれと同じものなら、まだ理解の手が届く気がした。

 けれど、美琴は静かに首を振った。

「違います」

 その声は、いつもより少しだけ硬い。

「私が使った幽護ノ帳は、防御結界です。迦夜の持つ結界は――その言葉通り、現世と異空間を繋ぐ結界なんです。迦夜が生み出した世界が、あるんです」

 現世と異空間。

 言葉の意味だけなら分かる。だが、それを現実として受け止めるには、話の規模が大きすぎた。古の巫女たちの怨嗟。千年を越えてなお凝り固まった呪い。そしてその果てに、自分たちの世界とは別の領域まで築き上げているという。

 悠斗は膝の上で、指先をきつく握った。

 自分に因縁のある怨霊が、そんな力を持っている。

 信じたくはない。けれど、目の前の二人は嘘をついていなかった。嘘をつける顔でもなかった。

「悠斗君。お母さんのこと、受け入れられないわよね……」

 琴乃の声は、ひどく優しかった。

「はい……」

 喉の奥が詰まる。

「無理ですよ……。迦夜を祓わなければ、母さんはずっとこのままなんですよね。そんなの、耐えられない」

 言葉にした瞬間、自分の声が少し遠く聞こえた。

 琴乃は何も言わない。

 美琴もまた、静かに目を伏せていた。

 祓いたい。その気持ちだけは、もう揺らがない。けれど、母が敵わなかった相手に自分が挑む。その現実を思い描こうとすると、どうしても最後のところで形が結ばれなかった。無茶だと、頭のどこかが冷たく囁いている。

 その沈黙を破ったのは、美琴だった。

「悠斗くん。迦夜を、一緒に祓いますか?」

 悠斗は顔を上げる。

「美琴……?」

 その瞳は静かだった。いつもと同じ、凪いだような眼差し。けれど奥には、普段あまり見せない熱が、確かに揺れていた。

「迦夜は、私にとっても因縁のある存在です。私は――彼女たちを、許すことが出来ません」

「……美琴、本気なの?」

 琴乃の問いに、美琴は迷わず頷く。

「うん。だって、おかしいよ。あんなに優しくて、素敵な遥さんが、呪われないといけないなんて。それは、私にとっても受け入れられないことだから」

 膝の上で、悠斗の指先がわずかに緩む。

 美琴が力を貸してくれる。その事実は、どうしようもなく心強かった。けれど同時に、胸の奥では冷たい何かも滲んでくる。彼女を巻き込むことへの怖さ。それだけではない、もっと形を持たない嫌な予感のようなものがあった。

 それでも、悠斗は口を開けなかった。美琴の目が、あまりにまっすぐだったからだ。

「……はぁ、まあそうね」

 琴乃が、ゆっくり息を吐く。

「美琴からはずっと遥さんの話を聞いていたから、そうなるとは思っていたわ」

 諦めというより、見送るような響きだった。止めても止まらないと、最初から分かっていた者の声だ。

「でもね、一つだけ覚えておいて」

 琴乃の声音が、ふと低くなる。

「迦夜を普通の怨霊だと思っちゃダメよ。あれは、千年分の負の感情を抱えた者たち。それだけでも十分危険なのに――相手は、私たちの先輩たちなんだから」

 先輩たち。

 その言葉に、悠斗の背筋へ冷たいものが走った。遠い時代の化け物ではない。同じ巫女として生き、同じ苦しみの果てに壊れていった者たちなのだという響きが、重く胸に落ちてくる。

「そう……ですよね……」

「そう。アタシの身体もね、迦夜によって呪われたんだから」

「えっ……?」

 悠斗は思わず顔を上げた。

 美琴は何も言わない。ただ、静かに目を伏せたままだった。おそらく、それを知っていたのだろう。

「アタシはね、迦夜と対峙したことがあるの」

 琴乃の声は静かだった。けれど、その一言一言には、埋めたはずの記憶を自分の手で掘り返しているような重さがあった。

「その時のアタシはまだ甘くて、迦夜の認識を完全に間違えていた。そうして――自分の足で立つことさえ、出来なくなってしまったの」

 布団の上に投げ出された手が、かすかに震える。その顔には、悔しさと後悔が確かに残っていた。長い時間をかけて何度も飲み込もうとして、それでもなお喉の奥に刺さったまま抜けないものを抱えている。そんな様子だった。

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