LOGIN静江の声が、暗がりに溶けた。
「……詩織。ありがとうね」 その言葉には、長い歳月をかけてようやく見つけた呼吸のような軽さがあった。涙の痕が頬に残ったまま、静江の口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。 竹中が静かに静江の横に並んだ。二人の視線は、詩織がいた場所——今はただ薄暗いトンネルの空気が揺れるだけの空間——に向けられている。 「逝ってしまいましたね……」 「……ああ。でもなんだろうね、ずっと心が軽くなったよ」 静江の声に、先ほどまでの張り詰めた響きはない。何十年もかけて背負い込んだものが、ほんの数分前に解けたばかりだとは思えないほど、その横顔は穏やかだった。 「僕もです。ちゃんとお別れを言えたからでしょうか?」 「そうだね。でも、あんた浮気は許さないよ」 冗談めいた声だった。けれどその軽口を叩ける程度には、静江の中で何かが収まるべき場所に収まったのだろう。竹中が困ったように眉を下げる。 「……これは手厳しい。なんて、する訳じゃないですか」 「あぁ。あんたはそういう人間だ」 静江が振り返った。悠斗と美琴の方へ向けられた目元が、ふっと和らぐ。 「あんたたちもあり……」 声が途切れた。 「美琴ちゃん!?」 静江の叫びがトンネルの壁を叩き、残響が暗闇の奥へ駆けていった。 「……えっ?」 悠斗が視線を動かした先——美琴の身体が、糸を切られたように傾いでいた。額に汗が浮き、顔色が懐中電灯の光でさえわかるほど青白い。足元が定まらず、一歩ごとに重心が揺れている。 考えるより先に、身体が動いた。悠斗は美琴の腕を掴み、崩れかける体を引き寄せる。 「美琴!? ど、どうしたの!?」 「……先……輩」 返ってきた声は掠れていた。呼吸が浅く、不規則に肩が上下している。制服の襟元が汗で肌に貼りついている。 「な、なんだ……!? さっきまでは普通だったのに……!」 ほんの数分前まで、美琴は平然と立っていた。詩織を見送ったとき、その横顔にはいつもの静かな強さがあったはずだ。それが今、腕の中で崩れていく。 「あ、あんた! 急いであたしんちに戻るよ! 悠斗! しっかり美琴ちゃんを支えてやんな!」 「今車を持ってきます!」 竹中の足音がトンネルの闇に吸い込まれていく。静江が美琴の顔を覗き込み、額に手を当てた。その手が一瞬、止まる。 「……悠斗、急ぎな」 短い一言に、それ以上の言葉が押し込められていた。 「ごめん、美琴! おぶるよ……!」 悠斗が美琴を背負い上げた瞬間、呼吸が止まった。 (──軽い) 軽すぎた。高校一年生の、一人の人間の重さではなかった。制服越しに伝わる体温はあるのに、肩甲骨の輪郭が掌に触れるほど薄い。この身体で、あれだけのことをやっていたのか。その事実が、背中から直接流れ込んでくるようだった。 エンジン音が近づく。ヘッドライトの光がトンネルの壁を白く舐めて、竹中が車を横付けにした。 「さぁ! 早く車へ!」 悠斗は美琴を背負い直し、開かれた後部座席へ急いだ。背中に感じる浅い呼吸が、一定の間隔を刻んでいることだけを確かめながら。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 車が静江の家の前に停まると、悠斗は美琴を背負ったまま玄関をくぐった。静江が先に立って廊下の明かりを点けていく。 「こっちだよ。奥の部屋が空いてる」 通された部屋は、きちんと整えられていた。埃の気配はない。使われなくなってからも、誰かが手入れを続けていたのだろう。詩織の部屋——その事実に気づいたとき、悠斗の足が一瞬だけ止まった。けれど背中の浅い呼吸が、立ち止まることを許さなかった。 布団を敷き、美琴をそっと横たえる。額に触れた指先が、異常な熱を拾った。 「美琴……」 「……」 返事はない。閉じた瞼の下で、眼球がわずかに動いている。呼吸はさっきより深くなっていたが、顔色は蒼いままだった。 (なんだ……? なにがあった? おかしなところは、なにもなかったはず……) 詩織を見送ったあの瞬間まで、美琴は確かに普通だった。崩れる兆候など、どこにもなかった——はずだ。 記憶を手繰る指先が、あるひとつの光景に触れて止まる。 (そういえば、静江さんを支えた時に、美琴から紅い霊気が流れていたような……。あれになにか原因が……?) あのとき見えた淡い紅の揺らぎ。気のせいだと流してしまうには、今の状況が符合しすぎている。だが確信には遠い。断片だけが頭の中で散らばって、まだ形を結ばない。 思考の糸を手放せずにいると、ふと——袖に、かすかな引力を感じた。 視線を落とす。美琴の指が、悠斗の袖の端をつまんでいた。力などほとんど入っていない。布の繊維がわずかに引かれる程度の、消えかけた指先の意志。 「……ごめんなさい。迷惑を……かけてしまって」 目は開いていなかった。意識の縁からこぼれ落ちたような、輪郭のぼやけた声だった。 「……いいんだ。いまはゆっくり休んで……」 「……あり……がとうございます……」 最後の音が消えるより先に、美琴の指から力が抜けた。袖をつまんでいた手がゆっくりと布団の上に落ちる。寝息が、静かに部屋を満たし始めた。 「……」 悠斗はしばらくその場を動けなかった。袖に残ったかすかな引力の感触が、指先からなかなか消えなかった。 こんこん、と控えめなノックが響く。 「入るよ」 静江が襖を開けた。部屋の中を一瞥し、眠っている美琴の顔色を確かめるように目を細める。 「……大丈夫そうかい?」 「はい、ひとまず落ち着いたようです」 「そうかい……。それならよかったが、酷い熱だった。少しそっとしておいてやろう」 静江は声を落とし、廊下の方へ顎をしゃくった。 「……きな。お茶を用意してある」 先に部屋を出ていく静江の背中を見送ってから、悠斗は立ち上がった。襖に手をかけたところで、もう一度だけ振り返る。 薄い掛け布団の下で、美琴の肩がわずかに上下している。その動きが途切れていないことを確かめて、悠斗は静かに襖を閉じた。 一階のリビングには、竹中と静江がテーブルを挟んで座っていた。湯呑みが三つ並んでいる。悠斗が腰を下ろすと、竹中が先に口を開いた。 「……彼女は大丈夫そうですか?」 「……ええ、なんとか」 「そうですか……」 竹中の声には安堵が滲んでいたが、その奥に拭いきれない不安の色が残っていた。静江が湯呑みを悠斗の前に押しやる。 「考えても、あたしらにはいまはこうしてやるしかないよ。裕二、きっと夜は遅くなる。この子達を車で送ってやってくれないかい?」 「よろこんで」 「すみません……ありがとうございます」 悠斗は頭を下げた。湯呑みの中で、茶葉の緑がゆらゆらと沈んでいく。その揺れをぼんやりと眺めながら、袖に残った指先の感触のことを、まだ考えていた。 「いやぁ……それにしても」 静江が湯呑みを両手で包んだまま、ふと天井を見上げた。 「まさかこの歳になって霊を信じることになるとはね」 「はは、そうですね」 竹中が小さく笑った。その笑みには、同じ驚きを共有した者同士の気安さがあった。 「それもこれもあんたたちのおかげだよ。本当にありがとう」 静江が悠斗に向かって深く頭を下げた。白髪まじりの頭がテーブルの上の湯気をかき分ける。 「僕からもお礼を」 竹中も続いて頭を下げる。二人分の感謝の重さに、悠斗は慌てて手を振った。 「いえ、僕はなにも……。彼女が今回おふたりを救えたきっかけを作ってくれましたから」 「美琴ちゃん……か。あの子は、異常なまでに大人びてるね」 静江の目がわずかに細くなった。トンネルでの美琴の振る舞いを反芻しているのだろう。 「はい。とても同じ高校生には感じられません」 悠斗の声に、無意識に熱がこもっていた。言うべきか迷った。けれど今夜、二人はあの場所で霊を見て、詩織と言葉を交わした。隠す理由は、もうないように思えた。 「実は彼女、巫女なんですよ」 「巫女だって?」 静江の眉が跳ね上がる。 「はい。なにやら古い時代から続く巫女の末裔みたいで、彼女は常人にできないことをやってのけるんです」 言いながら、悠斗の口元がほころんでいた。誇らしさを隠しきれない声色で語る自分に、本人だけが気づいていない。 「へぇ」 静江が感心したように息を漏らした後、ふと何かを思い出したように竹中の方を向いた。 「巫女といえば、温泉郷にもなんか伝説があったよね?」 「ええ、花守の巫女の伝説ですね。あそこは人生で一度は見るべき絶景スポットですよ」 竹中が頷きながら答える。 「花守の巫女……」 その言葉が、喉の奥に小骨のように引っかかった。理由はわからない。ただ、聞き流してはいけないという感覚だけが鳴っている。 「その巫女の伝説ってどんななんです?」 「えっと……なんだっけ?」 「すみません、僕もあまり……」 静江と竹中が顔を見合わせる。互いに記憶を探るような間があったが、どちらの表情にも確かな答えは浮かばなかった。 「まぁ、いままで生きてくる中で巫女なんて関わりがなかったからねぇ。悠斗は気になってるのかい?」 悠斗は頷いた。 「はい。彼女の力は僕から見ても普通じゃありません。それに……」 二階の天井を見上げる。その視線の先に、今も薄い布団の下で眠っている美琴がいる。あの異常な軽さ。燃えるような額の熱。袖をつまんだ指先の頼りなさ。 「……そうかい」 静江は悠斗の視線を追った。言葉にならなかった続きを、汲み取ったように小さく頷く。 「あっ、そういえば……。ちょっと待ってな」 静江は立ち上がると、リビングの隅にあるタンスの前にしゃがみ込んだ。引き出しを開け、中を掻き分ける手つきは、しまった場所を覚えているようで覚えていない人間のそれだった。 「えーっと、確かここに入れておいたはずなんだけど……。あぁ、あったあった」 静江が振り返り、二枚の紙を悠斗の前に差し出した。 「悠斗、はいこれ」 「これは……?」 受け取った紙に目を落とす。『温泉郷の宿ならどこでも無料券』——飾り気のない文字で、そう印刷されていた。### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
あの夏、あなたが連れていってくれた海。覚えてる? 呪いも戦いも関係ない、ただ二人きりの、初めての旅。 人魚の伝説が残る、あの小さな港町。 思い出すだけで、今も胸が温かくなるんだ。 ううん、温かいだけじゃない。少しだけ、泣きたくなるくらいに。 二人で探した宝物も、悠斗君が見とれてたあの水着も……ふふ、ちょっと恥ずかしかったけど、全部、全部が私の宝物。 見つけた「宝」が、人魚に贈られるはずだった指輪だと知った時、あなたは言ったよね。 「これは、他の人の手に渡ってはいけない」って。 その言葉が、どうしようもなく嬉しかったんだ。 足を痛めた私を背負ってくれた、あなたの背中。 思った
そして、私は力の使い過ぎで倒れてしまった。 きっと、この時また寿命を減らしてしまったのだろう。 それでも、彼の力になれたのなら、それでいいと、そう思えた。 だけど。あの時の彼の心配そうな顔が、私の脳裏にこれ以上ないほど強く焼き付いてしまったんだ。 私の無事を確認した彼は、本当に安心した様子で、微笑んだ。 ……どうしてだろう? 私は、そう思った。 私の命に、そんな価値など、ないはずなのに。 *** 次に、二人で初めての調査。温泉郷へと赴いた。 私はこの時、生まれて初めて──人生を「楽しい」と思えた。 これまでの私の記憶には、誰かと心穏やかに過ごす時間など、ひとつもなかった。遊
「っ……!」美琴が両手で口元を覆い、ただ僕を見つめていた。その瞳は、まるで信じられないものを見るかのように、震え、揺れ……やがて、堰を切ったように涙が溢れ始める。ぽろり、ぽろりと大粒の涙が頬を伝って落ちていく。その一粒一粒が、僕の胸を締め付けた。「……ずっと、好きだったんだ」この気持ちは、もうずっと前から始まっていたんだと思う。最初に出会ったあの桜の下で、一目見たその横顔に心を奪われて。でも、本当に惹かれたのは、君と一緒に過ごした時間の中で、その心に触れたからなんだ。ひたむきに努力して、霊たちに優しく寄り添っ
桜華さんたちが成仏されたあと、僕と美琴の間には、重く、気まずい空気が漂っていた。静まり返った迦夜の結界の中で、僕の心臓の、嫌な音だけが、やけに大きく響いている。 理由は…もちろん、桜華さんたちの記憶から僕の霊眼が捉えた、あの言葉だ。 『代償により……命を、削られ、苦しみ続けた』 それはつまり…美琴にも、当てはまるんじゃないのか? その、最悪の可能性が、僕の思考を支配し、全身の血の気を奪っていく。 美琴が、僕の傍から居なくなる…? そんなこと、想像するだけで、耐えられない。 「み、美琴…桜華さん達の、魂が削られるって…どういうこと……?」 声が、震える。今まで味わったことのない種