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九十八話:祓う覚悟

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-27 19:00:00

「美琴、本気なの? 君が……霊を祓うだなんて」

 口にしてから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。

 祓う。その一語が持つ重さを、悠斗はまだ正確には測れない。けれど、これまでの美琴を見てきた。廃病院でも、風鳴トンネルでも、彼女が選んできたのはいつも対話だった。霊に寄り添い、未練をほどき、自らの意思で旅立たせる——それが月瀬美琴のやり方だったはずだ。

 その彼女が、祓う、と言った。

「ええ。本来なら、話し合いで成仏していただくことが望ましいですが……彼の場合は別です」

 美琴の声は落ち着いていた。けれどその落ち着きは、迷いがないから生まれたものではないと、悠斗には分かった。

「彼は多くの人を殺め、逃げ続けた人です。……罰は下るべきだと、私は思います」

「そっか……」

 短く応じるしかなかった。美琴の言葉に異論はない。あの男に対話が通じないことは、身を以て知っている。それでも——彼女の瞳は確かに揺れていた。薄闇の中でもそれと分かるほど、まなざしの奥にためらいの影が差している。祓うと決めた自分自身を、まだどこかで問い続けているのだろう。

『……なぁ、あんたたち』

 石津が、ふいに声を挟んだ。

「はい?」

『俺も——いや、俺たちも手伝おう』

 そう言って、石津は悠斗の背後へ目を向けた。

『そうだろう? 恵』

 振り返ると、コンテナの入口に佐条恵が立っていた。

 身体を半分だけ鉄の縁に隠すようにして、こちらを窺っている。あの血まみれのスーツは変わらないのに、先ほどの狂気じみた怯えは薄れて、代わりに気まずさのようなものがその顔に浮かんでいた。

『工場長……。こんな所にいらしたんですね……』

『はは、みっともねぇだろ? こんな所で死んで、そのままだったんだぜ?』

『工場長は長い年月をこんな暗くて狭いコンテナの中で……?  それに比べて私は……』

「佐条さん……」

『ごめんなさい……。彼の姿を見たら、怖くなってしまって……』

 消え入りそうな声だった。悠斗は首を横に振る。

「それは仕方ないですよ。だって、あなたはあの殺人鬼に命を奪われてしまったんですから……」

 佐条は唇を震わせた。俯き、両手を胸の前で握り締め——それから、顔を上げた。

『で、でも……また逃げ出したら、あなたたちまで同じ目に遭わせてしまう。だから、私も……私も手伝います』

 声は震えていた。拳も、肩も。それでも目だけは、さっきまでとは違う光を宿していた。恐怖を消し去ったのではない。恐怖を抱えたまま、それでも踏みとどまろうとしている——その境界線の上に、佐条恵は立っていた。

 悠斗は二人を見つめた。

 石津明と、佐条恵。どちらも黒崎剛三に命を奪われた霊だ。その恐怖を誰よりも知っている二人が、もう一度あの男の前に立つと言っている。

 ありがたい、と素直に思った。同時に、胸の内を別の感情が浸していく。

 この選択は、二人にとって本当に最善なのだろうか。手伝うと口にした瞬間から、あの殺人鬼の刃の射程に、再び自分の身を晒すことになる。心に——負担をかけていないだろうか。

 言葉にはしなかった。ここで「無理しないで」と言えば、彼らの覚悟を軽くしてしまう。かといって「頼む」と軽々しく受け入れるのも違う。

 悠斗の中で、答えはまだ形を成さない。​​​​​​​​​​​​​​​​

「石津さん、佐条さん……ありがとうございます」

 美琴は二人に向き直ると、背筋を伸ばした。

「おふたりにはお願いしたいことがあります。殺人鬼は、私が食い止めます。あなた方には——他にいる被害者の方を、正気に戻していただけないでしょうか」

 石津と佐条が、同時に目を見開いた。

「気配からして、まだここには沢山の方が囚われているはずです……」

『そうだな』

 石津が顎に手を当てる。

『義信に隆之……あいつらの声は聞こえた気がするな』

『あと係長と一美さんも見ましたよ』

 佐条が小さく手を挙げて付け加えた。

『合計五人か』

 五人。この廃工場の中に、五人分の恨みと悲しみが渦を巻いている。美琴が石津たちに被害者の説得を頼んだ理由が、悠斗にもうっすらと見えてきた。黒崎にまとわりつく憎悪の数だけ、あの男は力を増す。ならば、その源を一つでも減らすことができれば——。

「五人もの方が、ここに囚われてしまっていたのですね……」

『ああ。これでも昔はそこらじゅうから呻き声が聞こえてたからな……。昔はもっといたはずだ』

「そう……ですか……」

 美琴の声がかすかに沈んだ。

 それは、きっと——そういうことだろう。呻き声が減ったのは、救われたからではない。魂が擦り切れて、消えてしまったのだ。石津が先ほど怯えた、あの「無になる」という結末を、すでに迎えた者たちがいる。

「……お願いできますか?」

『ああ、任せてくれ。俺たちの声を届かせてみせよう』

 石津が胸を叩いた。佐条も、まだ震えの残る手を握り締めながら、小さく頷く。

 二人がコンテナの入口へ向かうのを見届けてから、美琴は悠斗のほうを振り返った。

「先輩、大変かもしれませんが、私たちは——」

「殺人鬼の足止めだよね」

 先回りして言うと、美琴が一瞬だけ息を止めた。

「……はい」

 頷く横顔が、痛ましかった。唇の端が引き結ばれ、まつげが伏せられ、次の言葉を選びあぐねるように間が空く。その仕草のひとつひとつが語っていた。悠斗を巻き込みたくないのだ、と。できることなら自分だけで立ちたい。けれど一人では足りないことも分かっていて、だからこそ辛い——そういう顔だった。

「そんな顔しないでよ」

 悠斗は、できるだけ軽い声を作った。

「ふたりなら多分……大丈夫さ」

 大丈夫か、と問われれば、きっと大丈夫ではない。あの殺人鬼の刃は魂を裂く。掠めただけで、身体の内側をまるごと抉られるような痛みが走ることを、左腕がまだ覚えている。

 それでも、前を向かなければならない。

 美琴が一人で背負おうとするものを、せめて半分。その横に立つことが、今の自分にできる全てだとしても——その全てを、出し惜しみする理由はどこにもなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

 *

「殺人鬼!! 隠れた僕たちを見つけられないなんて、情けないなぁ!!」

 廃工場の広い空間に、悠斗の声が響き渡った。

 黒崎の背中に向かって叫んだその声は、自分のものとは思えないほど挑発的で——喉を通り抜けた瞬間、身体のほうが先に後悔していた。心臓が跳ね上がる。こんな台詞を吐く日が来るとは、今朝の自分に教えてやりたい。

 黒崎の肩が止まる。

 ゆっくりと振り返るその動作は、獲物を見定める獣そのもの。つり上がった眉、濁った瞳。口元が歪んで、笑みとも怒りともつかない形をつくる。

『あぁ!? てめぇ……。どこに隠れてやがった!!』

 怒声が鉄骨の森を震わせた。

「っ! きた……!」

 踏み込みは一瞬。黒崎の巨体が床を蹴る音すらなく、影が滑るように距離を詰めてくる。手にした刃が工場の薄い光を鈍く弾き、その軌道が空気ごと裂いた。

 悠斗は身を翻し、走った。錆びた機材の隙間を縫い、崩れかけた柱の陰を跳ぶ。背中に貼りつく殺気が、一歩ごとに膨らんでいく。振り返る余裕はない。振り返れば足が竦む。足が竦めば、あの刃が魂ごと——。

 歯を食いしばり、ただ前へ。美琴が準備を整えるまでの時間を、この足で稼ぐしかなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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