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九十九話: 賭け

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-06-27 19:00:00

「うわっ!!」

 右太ももに、焼けた鉄棒を押し当てられたような衝撃が走った。

 足が崩れる。膝が床を打ち、そのまま前のめりに倒れ込んだ。冷たいコンクリートが頬を擦り、視界が一瞬白く弾ける。痛みが遅れて追いつき、太ももの奥で脈打つように広がっていく——皮膚の傷ではない。もっと深い、魂の繊維を直接引き裂かれたあの感覚。

「や、やば……っ!」

 立たなければ。腕に力を込めるが、右脚が言うことを聞かない。震える指先がコンクリートの罅を掴む。

『終わりだなぁ!! 死ねよクソガキィィ!!』

 黒崎の哄笑が、真上から降ってきた。

 死ぬわけにはいかない。今、美琴はあの男を祓うための準備をしている。ここで僕が倒れたら、彼女は術の構築を中断して駆けつけるだろう。それだけは——。

 歯を食いしばった瞬間、脳裏に浮かんだのは数分前の会話だった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

「美琴」

「はい?」

「美琴はどうやって彼を祓うつもりなの? 今回は今までと違う。そんな彼を美琴がどんな手を使って祓うのか……僕も知っておけば、いざって時に動けるからさ」

 美琴は少しだけ間を置いてから、口を開いた。

「私が行うのは、いわゆる強制成仏というものです。術の名は——『禁術・禊火』」

「禁術?」

「これは、術を使う者に代償を支払わせます。酷い熱にうなされ、霊力の消耗で……きっと私は倒れてしまうでしょう」

 淡々と語るその声色が、かえって言葉の重さを際立たせた。

「それに、この術は受けた者にも想像を絶する苦痛を強いると、文献には書かれていました。多くの人を殺め、最後には逃げ出した彼には……この術が裁きの代わりになるはずです」

 瞼を伏せて、美琴はそう告げた。

 代償。その一語が頭の中で反響し、悠斗の脳裏にはあの夜が蘇る。風鳴トンネルで力を使い果たした美琴の姿。崩れ落ちるように膝をつき、顔から血の気が引いていくのを、ただ見ていることしかできなかったあの無力さ。それが喉元までせり上がってきて、気がつけば言葉が先に出ていた。

「なら、ダメだ」

「……! ですが、この術であれば安全に彼を祓えます……!」

「わかるよ。美琴がそうするべきかもしれないって思ったのも」

 声を落とした。感情のままに叫びたい衝動を、どうにか抑え込む。

「でも、きっとそれをしたらふたつの意味で苦しむのは美琴のはずだ」

 美琴の唇が、わずかに開きかけて止まる。

「君は優しいから、相手がたとえ殺人鬼だとしても、きっとそれをしたら自分を追い詰める。それに代償だって——」

「でも……」

「美琴、隠さないで」

 真っ直ぐに目を合わせた。

「僕の安全は二の次でいい。その禊火って術の他に、なにか手があるんでしょ?」

 美琴は答えなかった。ただ、その沈黙こそが答えだった。​​​​​​​​​​​​​​​​

 やがて、美琴は口を開いた。

「この御札を、この工場の指定する場所に貼ります。先輩、五芒星はご存知ですよね?」

 制服のポケットから取り出されたのは、薄い和紙の束。筆で描かれた紋様が、薄闇の中でもうっすらと光を帯びて見えた。

「えっと、星……だよね?」

「はい。それぞれの頂点は木・火・土・金・水を表していまして……えっと、分かりやすく言いますと、強力な結界を展開するのです」

 説明しながら指先で五つの点を空中に描く仕草に、悠斗は頷いた。

「あぁ、なるほど。つまり、その結界を使って彼を封じ込めるんだね?」

「はい。まぁ、封じ込めるとはちょっと違うんですけど——」

 美琴は言葉を選ぶように、一拍おいた。

「彼の魂は殺人という最も重い穢れを抱えています。清浄なこの結界の中に彼が入った場合……魂は形を保てなくなり、この現世では存在できなくなるでしょう」

「そっか。じゃあそれを——」

「でも、これには非常に時間がかかります」

 美琴が遮るように続けた。

「それに、この工場内の正確な位置に御札を貼らなければなりません」

 五芒星を構成する五つの点。広大な廃工場の中でその座標を定め、一枚ずつ貼っていく。当然、その間は無防備になる。

「だからこそ、私は禊火のほうがいいと判断します」

「……殺人鬼とも、きっと遭遇するよね」

「はい……。だからこそ……!」

「でも、やっぱりそれは認められない」

 悠斗は、はっきりと言い切った。

「美琴、君はその御札を持って結界術の準備をしてほしい。僕が——囮になる」

「それは反対です!!」

 声が、鉄の壁を叩いた。

 美琴が声を荒らげたのだ。あの美琴が。どんな局面でも冷静さを手放さず、感情を声量に変えることのなかった彼女が、今はっきりと叫んでいた。

「先輩はまだ、結界術を扱えません。それなのに彼の囮を務めるなんて、無謀すぎます!!」​​​​​​​​​​​​​​​​

「でも、僕は美琴に苦しい思いをしてほしくないんだ。僕なら大丈夫だよ。捕まらないように必死に逃げ回るから」

「っ……。それは……ずるいですよ……!」

 声が震えていた。ずるい、と言いながらも、その目は悠斗を責めてはいない。責められないことが、余計に苦しいのだと——その表情が語っている。

「あはは……ごめん。でも、僕にはまだ一発分の礫がある。いざとなった時はそれを撃つよ」

「……じゃあ、約束してください」

 美琴は悠斗の目を見据えた。

「少しでも危険を感じたら、私を呼ぶって」

 不安を隠しきれない声だった。悠斗が心配で仕方ないのだろう。だからこそ、自分も美琴が代償に苛まれる姿を見るなんて耐えられない。お互い様なのだ、と悠斗は思う。

 それに——少し浮かれていると自覚はあったが、彼女がこうして自分を案じてくれている、その事実が胸のどこかをじんわりと温めていた。恐怖は消えない。けれど、この温もりは確かな力になる。

「うん、約束するよ」

 *

 ——刃が、振り下ろされる。

 銀色の軌跡が視界を縦に裂いた。考えるより先に、悠斗は右手を突き出していた。

「星燦ノ礫ッ!!」

 手のひらから碧い光が迸る。喉元に刃の切っ先が触れた、まさにその刹那——放たれた光弾が、黒崎の胸を正面から貫いた。

『うぉ……!?』

 至近距離で叩き込まれた衝撃に、黒崎の巨体が紙切れのように弾け飛ぶ。吹き飛ばされた身体は背後の鉄壁にぶつかることなくすり抜け、その向こうの暗がりへと消えていった。幽霊の身体には、この工場の壁も柱も意味をなさない。

 だが、安堵している暇はなかった。

 膝から力が抜けかける。あの星燦ノ礫を放った直後の、身体の芯ごと絞り上げられるような疲労が一気に押し寄せてきた。視界の端が暗く滲み、指先の感覚が遠のいていく。

 止まるな。

 悠斗は奥歯を噛み締め、よろける足を叱りつけるように踏み出した。黒崎が態勢を立て直すまでの猶予は、きっと長くない。走れ。一秒でも多く、美琴の時間を稼げ。

 鉛を流し込まれたような両脚を引きずりながら、悠斗は再び廃工場の闇の中へ駆け出した。​​​​​​​​​​​​​​​​

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