LOGINその夜、颯斗はベッドの上で何度も寝返りを打った。眠りにつく前に練から聞かされた言葉が、頭の中を何度も何度も巡り続け、ようやく浅い眠りに落ちた頃には、時計の針は深夜二時を回っていた。翌朝目を覚ますと、案の定、目の下にはくっきりと濃いクマが浮かび、顔には拭いようのない疲労がにじんでいた。颯斗が陽子とともに病院へ向かい、病室へ入ると、博人はベッドの背にもたれ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。二人の姿を認めた途端、博人は露骨に顔をしかめ、颯斗とは口も利きたくないという態度を隠そうともしなかった。「お前みたいな出来損ないを育てた覚えはない。出て行け!」そう吐き捨てると、ベッドサイドに置いてあったリンゴをつかみ、颯斗へ向かって放り投げた。大病を患ったばかりで、リンゴを投げる力も弱々しかった。それでも、そのあまりに頑なな態度に颯斗も腹を立て、一晩かけて考えていた謝罪の言葉を、そのまま飲み込んでしまった。「分かったよ。出て行く。せいぜい清々してくれ」そう吐き捨てると、腹いせにドアを乱暴に閉め、病室を飛び出していった。結局、その日は一日中、親子の間で一言も言葉が交わされることはなかった。夜になり、一日の仕事を終えた練が病院のロビーへ姿を現した。片手には買ってきた弁当、もう片方の手には真っ赤なカーネーションの大きな花束を抱えている。颯斗は、練まで自分と同じように父親から追い返されるのではないかと心配し、何があっても病室へ入れまいとした。だが最後は練に押し切られ、母親が付き添うことを条件に、しぶしぶ病室へ入るのを認めた。
「それは……」練の視線が、わずかに揺れた。「どうした?嫌なのか?」練の瞳の奥で、一瞬だけためらいと動揺がよぎる。だが、それはすぐにいつもの静かな色へと戻った。「いや。お前がどうしてもそうしたいって言うなら、俺は止めない。ただ……」「ただ、なんだよ?」「この件は極力内密に進めたほうがいい。誰にも話さずにな。おばさんにもだ」「なんで?」「PTSD患者のトラウマを治療する場合、心界に入ったあと、俺たちが目にするのは患者本人の『精神の投影』じゃない。『記憶の投影』になるんだ」颯斗はすっかり頭がこんがらがったように聞き返した。「精神の投影?記憶の投影?何が違うんだ?」練は静かに説明を始めた。「まるで別物だ。精神世界は、現実離れしたファンタジーのような姿を取ることもある。だが、記憶は違う。どこまでも現実そのものだ。しかも、それが患者に深いトラウマを刻んだ記憶なら、一歩間違えれば患者の脳に取り返しのつかないダメージを与える危険がある」颯斗の手のひらには、じっとりと冷や汗が滲んでいた。「マジかよ……そんなにヤバいのか!?なんで精神の投影なら平気なのに、記憶の投影だと取り返しがつかなくなるんだ?」練は底知れない深みを宿した瞳で颯斗を見つめ、声を落として言った。「聞いたことがあるだろ。記憶は人格を形作る最も重要な要素だ。もし人の記憶が書き換えられたら、それに伴って
「お見合い」という言葉を聞いた途端、隣にいた練は危うく口のみかんを吹き出しそうになった。「違う違う、私が言いたいのは、そういう意味での敏感じゃないのよ。なんていうか……あの感じはうまく言葉にできないんだけどね。あんたが男の人を好きかもしれないって薄々気づいた頃、一度それとなく、父さんに同性愛についてどう思うか聞いてみたことがあるの。そしたら、どうなったと思う?」陽子は身振り手振りを交えながら、言葉を選ぶように話した。颯斗は呆然としたまま首を横に振る。「普通なら、自分には関係ないって顔をするか、嫌悪感を示すか、そのどっちかでしょ。でも父さんは違ったの。その言葉を聞いた瞬間、みるみる顔色が変わって、紙みたいに真っ青になってね。額には冷や汗がびっしり浮かんで、その場に突っ立ったまま、ピクリとも動かなくなったのよ。脳卒中でも起こしたのかと思って、本気で救急車を呼ぼうかって焦ったくらい」その話を聞いた瞬間、颯斗の胸はドクンと大きく鳴った。練と示し合わせたように顔を見合わせると、二人の表情は一気に強張る。「あれ、何て言うんだったかしら?そういう症状に名前があった気がするんだけど……」陽子は顎に手を当て、考え込んだ。「過剰なストレス反応ですね」練が落ち着いた口調で答えた。「そうそう、それよ。それ、ストレス反応」陽子はポンと膝を叩き、何度も頷いた。「ストレス反応?なんで?」颯斗は振り返っ
深夜の病院。救命救急センター・集中治療室前。颯斗は落ち着かない様子で廊下を行ったり来たりし、ときおり「手術中」と灯る赤いランプを見上げていた。その眩しい赤い光が、かえって胸の不安をかき立てる。「ハスキー犬みたいに目の前をうろうろしないでちょうだい。見てるこっちまで落ち着かないわ」ベンチに座る陽子にたしなめられ、颯斗はしょんぼりと肩を落とし、その隣へどかっと腰を下ろした。「母さん、俺、本当にわざとじゃないんだ。父さんがまさか……」すっかり動揺している颯斗とは対照的に、陽子は驚くほど落ち着いていた。「もういいのよ。起きてしまったことを今さら悔やんでも仕方ないでしょう。父さんは、カッとなって血圧が上がっただけよ。きっと大丈夫だから」「でも、俺は……」陽子はそっと手を伸ばし、颯斗の頭を優しく撫でた。目尻には穏やかな笑い皺が浮かんでいる。「母さんには分かってるわ。あんたが言ったことは、ただの売り言葉に買い言葉だったって。父さんだって同じよ。あんたたち親子は本当にそっくり。頭に血が上ると、すぐ心にもないことを口にするんだから。父さんは探偵を雇ってあんたたちを尾行させたって言ってたけど、実はそうじゃないのよ」颯斗は思わず顔を上げた。「違うのか?」陽子はバッグから博人のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでパスコードを入力してロックを解除した。そしてメールアプリを開き、受信トレイの中から一通のメールを表示する。スマホの画面を指差しながら、陽子は言った。「ほら、見てちょうだい。誰かが匿名で、父さんのメールアドレスにこんな写真を送りつけてきたのよ」「これって……!?」颯斗はスマホをひったくるように受け取り、添付ファイルを一枚ずつ開いて確認した。案の定、それは先ほど博人がA4用紙に印刷して突きつけてきた写真とまったく同じものだった。差出人名は、意味不明な文字化けの羅列になっている。「それだけじゃないの。この送り主、父さんに七、八通もメールを送りつけてきていてね。どのメールにも、同じような写真が山ほど添付されていたのよ。最初は父さんも、誰かの悪質ないたずらだろうって思ってたみたい。あんたの顔を他人の写真に合成したんだろうってね。でも後になって、専門家に写真を鑑定してもらったら、全部本物で、加工された形跡は一切ないって結果が出たの」颯斗
「父さん、一体何が言いたいんだ」颯斗は背筋を伸ばし、居住まいを正して父親を見つめた。博人は傍らのカバンを引き寄せると、中から数枚のA4用紙を取り出し、颯斗と練の目の前にあるローテーブルへ放り投げた。「見ろ、二人ともよく見てみろ。これは何だ」
「どうして急に!」颯斗は慌てて歩み寄り、両親の手からスーツケースを受け取った。颯斗は長年地元を離れて働いており、滅多に帰省することもなく、両親が彼を訪ねて東雲市までやって来ることもほとんどなかった。今回の親子の再会は、本来なら感動と喜びに満ちた場面になるはずだった。しかし、父親の鳴海博人(なるみ ひろと)は颯斗の言葉を聞くや否や、喜びの色を見せるどころか顔を強張らせ、ドスを効かせた声で言った。







