LOGIN皆川は伏し目がちにわずかに躊躇を見せた。その瞳の奥には、拭いきれない迷いの色が滲んでいる。「正直、最初は馬鹿げた話だと思っていました。でも、それ以外に納得できる理由が見当たらないんです」「それで、俺のところへ抗議に来た……というわけですか」「霧生先生」皆川は顔を上げ、真剣な眼差しで言った。「僕は、先生が以前してくださったことには感謝しています。先生がいなければ、僕は今も家に軟禁されたままだったでしょう。今日ここへ来たのも、責めるためじゃありません。ただ、青峰の身に何が起きたのかを知りたいんです」「どうしてですか」「どうして、とは?」皆川は虚を突かれたように言葉を失った。練はじっと彼を見つめる。わずかに吊り上がった口元から、白い煙が静かに漏れた。「どうして知りたいんです。知って、あなたはどうするつもりなんですか?」「それは……」皆川は二の句を継げなかった。練は落ち着き払った様子で口を開く。「今の青峰さんの生活は、ようやく軌道に乗り始めています。仕事に打ち込み、あなたも自由を手に入れた。青峰さんの突然の襲撃に怯える必要もなくなった。互いに干渉せず、それぞれの人生を歩む――それは、とても良いことじゃありませんか」皆川はしばらく呆然としたまま、虚ろな瞳で練を見つめていた。「霧生先生……僕に彼を忘れろ、赤の他人になれとおっしゃるんですか」練は肩をすくめた。「すみません。困らせるつもりはないんです。ただ、青峰さんは俺の患者だ。外部の人間に、むやみに患者のプライバシーを漏らすわけにはいきません」「僕が、外部の人間?」皆川の顔色が変わる。「青峰さんとは、もうお別れになったのでしょう?」「だからといって、彼との関係が完全に消えたわけじゃない」練は意味深に「ほう」と声を漏らした。「……つまり、皆川先生と青峰さんは、今でも恋人同士だということですか」皆川ははっと息を呑み、痛いところを突かれたように下唇を噛んだ。「霧生先生、長々と話をしておいて、結局それが狙いだったんですね」「誤解しないでください」練は至って真面目な顔で続けた。「青峰さんの身に何が起きたのかを知るには、催眠治療を受けるしかない――そう言いたいだけです」「催眠……治療?」「ええ。そうすれば、潜在意識を共有し、あなたを青峰さんの精神領域へ連れていくことができます
春のように暖かな深須から東雲へ戻った翌日、東雲には今冬初めての雪が降った。颯斗は、まるでジェットコースターのような急激な気温差を身をもって味わうことになった。正月が近づくにつれ、冷え込んでいくのは気温だけではない。街を行き交う人影も車の数もめっきり減り、慌ただしかった日常には、突然スロー再生のボタンが押されたかのような静けさが漂っていた。ようやく一息つけるかと思った矢先、練の診療所に一人の馴染み客が現れる。雪上がりの澄んだ陽光が差し込む午前。青峰は、風塵を巻き上げるような勢いで颯斗の前に現れた。「良いニュースと悪いニュースがあるんだ。どっちから聞きたい?」「もったいぶるなよ。……じゃあ、悪い方から」リビングのソファに腰を下ろした颯斗は、落ち着かない面持ちで答えた。「実はさ……」青峰は少し肩を落としたように言う。「例のドラマ、落ちちまったよ」最悪の事態まで覚悟していた颯斗は、その拍子抜けする内容に大きく安堵した。「なんだよ、それくらい。不治の病にでもなったのかと思ったぜ。オーディションなんて一度や二度落ちたくらいで終わりじゃない。まだチャンスはいくらでもあるさ。いっそ……」「いっそ、お前の診療所で食い扶持でも稼ぐか?」「ああ、歓迎するぜ。……で、良いニュースってのは?」青峰は身を乗り出し、声を潜めて告げた。「主役が決まったんだ」元々受けていた現代アイドルドラマには落ちたものの、その監督が青峰を気に入り、知り合いのプロデューサーへ紹介してくれたのだという。そのプロデューサーが手掛けるのは、ミステリー色の強い時代劇。撮影中、主演俳優が交通事故に遭い、急遽代役を探していた。青峰の持つ鋭さと陰鬱さが入り混じった独特の気質が役柄にぴたりと嵌まり、代役としての出演が即決したのだ。低予算ドラマとはいえ、配信先は世界最大級の動画配信サービス。しかも演じるのは珍しいダークヒーロー役――これを機に、“どん底からの大逆転”も決して夢ではない。「まさに『絶体絶命の淵で、新しい道が開ける』ってやつだな」感嘆した颯斗は、ぽんと彼の肩を叩いた。「ああ。合格の連絡をもらった夜なんて、嬉しくて一睡もできなかったよ」親友の幸運に、颯斗も心から嬉しくなる。反射的に、その言葉が口を突いた。「皆川先生が知ったら、きっと喜んでくれるぜ」その瞬間、空気が凍りついた
颯斗が火急の勢いで客室へと雪崩れ込んだ時、浴室からは飛沫をあげるような激しい水音が響いていた。練がシャワーを浴びている最中なのだろう。室内を見渡せば、ベッド脇の丸テーブルには案の定、食べかけの朝食が放置されていた。数口かじられたサンドイッチに、二つのコーヒーカップ。並べられたカトラリーも二人分。それは、誰かとここで朝のひとときを共にした、明らかな痕跡だった。綯い交ぜになった感情を抱えたまま、颯斗は重い腰つきでベッドの端に腰を下ろした。やがて水音が止み、下着の上にバスローブを無造作に羽織っただけの練が浴室から姿を現す。颯斗はゆっくりと顔を上げ、射抜くような視線で彼を凝視した。「……戻っていたのかい?」練は一瞬、面食らったような表情を浮かべた。「朝飯は、さぞかし美味かったんだろうな?」その言葉に、練の表情が硬く強張る。彼は肯定も否定もせず、ただ「ふむ」と短く鼻を鳴らした。そして何事もなかったかのように洗面台へと向かい、ドライヤーを使い始める。ごく自然な仕草を装ってはいるが、颯斗の目には、その一挙手一投足が何かを隠し、懸命に逃避しているようにしか映らなかった。颯斗は立ち上がり、音もなく背後から練に近づくと、その細い腰を力任せに抱きしめた。練は驚き、ドライヤーの手を止める。颯斗は大型犬さながらに、練の肩甲骨へと鼻先を押し付け、深く息を吸い込んだ。ボディーソープの清々しい香りと、嗅ぎ慣れた練自身の柔らかな体温の匂い。――よかった、他の男の臭いはしない。「……さっき、哲を見たぞ」嫉妬の混じった、低く苦々しい声が漏れる。「フロントの奴も言ってた。あいつがお前のためにルームサービスを頼んだってな」「相変わらず、無闇に焼きもちを焼くのが好きなんだね」練はため息をつき、自嘲気味に微笑んだ。そして颯斗の腕の中でくるりと向き直ると、至近距離でその瞳を覗き込む。「ああ、確かに哲と会っていたよ。だが、話していたのは仕事のことだ。D.I.A.について、彼に教えを乞うていたのさ」「D.I.A.?……あのシステムに、何か問題でもあるのか?」「前回の治療で、剣修と銀狐の間で交わされた『賭け』を覚えているかい?」「ああ、もちろんだ」あの時、銀狐は剣修への恋の呪いを解き、二人の記憶は一時的に練へと預けられた。もし十年後、それでもなお剣修が再び銀狐を愛したなら
翌日、再び目を覚ました時には、すでに外はすっかり明るくなっていた。颯斗が枕元のスマートフォンを探って確認すると、時刻は朝の八時を回っていた。隣では練が変わらず眠りについており、彼の手首を拘束していたベルトはすでに解かれていた。身支度を整えていると、颯斗のスマホに翼からメッセージが届いた。食事の誘いで、すでに彼と真梨が車でホテルの下まで来ているという。今日、颯斗と練は午後五時の飛行機で東雲市に帰る予定なので、時間はまだたっぷりある。練はまだ深い眠りの中にあり、当分は起きそうにない様子だったため、颯斗は着替えを済ませて部屋を出た。颯斗の姿を認めるや否や、目ざとい翼は彼のうなじにある薄い引っ掻き傷に気づいた。「おやおや、お前の彼氏さん、随分と激しいんだねえ」颯斗はうなじを片手で隠し、顔を真っ赤にして吐き捨てた。「黙れ!」翼は車を出し、地元で評判のレストランへと颯斗を案内した。本当は今日、颯斗と練の二人に食事を馳走するつもりだったのだ。昨日は結婚式の準備に追われ、個人的に語らう時間が持てなかったからだ。しかし、練が起きてこなかったため、予定していた四人での会食は、結局三人で行われることになった。食事の最中、颯斗は鞄から翼に返す約束だったホラーゲームを取り出した。その見慣れたパッケージを目にした瞬間、翼はどうりでずっと見つからないわけだと大声を上げた。颯斗が今もゲーム制作を続けているのかと尋ねると、翼は力強く頷いた。最近はアートデザインの下請けをこなしながら人脈を広げており、中には彼の作品に興味を示すパブリッシャーも現れ、現在は提携の交渉を進めている最中だという。うまくいけば、以前頓挫したプロジェクトが、本当に起死回生を果たす可能性もあるとのことだった。前途は依然として不透明だが、翼には彼を支える伴侶がいる。真梨は翼の起業を支持しているだけでなく、スタジオ設立の準備まで甲斐甲斐しく手伝っているのだという。親友が公私ともに充実している姿を見て、颯斗は喜ばしく思う反面、どこか羨ましさを感じずにはいられなかった。食事を摂る以上に、二人の甘い惚気話でお腹がいっぱいになってしまった。腹ごしらえを終えた後、夫婦は颯斗を乗せて市内をドライブしようと提案したが、颯斗は練のことが気掛かりだったため、十一時頃にはホテルに戻ることにした。ホテルの車寄せで別れ
荒い呼吸をしばし繰り返した後、練は涙に潤む瞳を上げ、恨みがましげな視線で颯斗を射貫いた。「その手口……一体、どこで覚えたんだよ」「話をそらすな」颯斗はまだ物足りないと言わぬばかりに、すでに萎えかけた熱を執拗に啜り上げた。練が苦痛に耐えかねて声を漏らすまでその行為を続け、ようやく唇を離すと、顔を上げて練を凝視した。「あいつも……こんなお前を見たことがあるのか?」練は濡れた睫毛を伏せ、深く長い溜息を吐き出した。「もう、ずっと昔のことだ。今更そんなことを追及して、何の意味があるんだ」「俺は、気に入らないんだよ」颯斗は嗄れた声で低く零した。「俺はお前の過去を何ひとつ知らない。この世界でお前と唯一無二の相棒だと思っていたのに。今になって、どこの馬の骨とも知れない『哲』なんて奴が現れて……。あいつはお前の師であるだけでなく、かつての相棒だったなんてな」颯斗は胸を詰まらせながらも、内に秘めていた鬱屈とした思いを一気に吐き出した。しかし、彼がそうして激情をぶちまけた後、今度は練が言葉を失う番だった。「颯斗、お前……」練は呆然と彼を見つめ、しばらくの沈黙の後、ようやく重い口を開いた。「もしかして、ヤキモチを焼いているのか?」颯斗は一瞬たじろぎ、気まずい沈黙の中で練と視線を交わしたまま、二秒ほど硬直した。「ああ、そうだよ。焼いてるよ!それが悪いかよ!?」もはや開き直りであった。真っ赤に上気した彼の顔を見て、練は一瞬呆気に取られたが、思わずふっと笑みをこぼした。「笑うな!まだ話は終わってないぞ。一番腹が立つのはそこじゃない。あいつの話になると、お前がまるで別人のようになることだ」「俺はただ、あいつに会いたくないだけなんだ」「会いたくないのか、それとも会うのが『怖い』のか?」練の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。「……どういう意味だ」颯斗は逃がさないと言わんばかりに彼をじっと見つめた。「自分が今もまだあいつを好きなんじゃないか、そう自覚するのを恐れている可能性はないか?」その言葉が投げかけられた瞬間、練の脳内で激しい衝撃音が鳴り響き、頭皮が痺れるような感覚に陥った。信じがたいことだった。颯斗は彼と哲の間に何があったのか、その詳細など何も知らないはずだ。それなのに、自身の直感とわずかな手がかりだけで、これほどまでの核心に辿り着いたというのか。練は乾
「マスター?それって何だ」「その名の通り、トップクラスの能力を持つ万能型エージェントのことだ。SAに匹敵する戦闘能力と感知力を持ちながら、SPに引けを取らない分析力と判断力も備えている。パートナーなしの単独任務もこなせる、まさにソウルエージェントの絶対的エースだな」哲がSAではないと知り、颯斗は密かに安堵の息を漏らしたが、それと同時に、心の中にまた別の疑念が湧き上がってきた。披露宴の最中、颯斗は二人から少し離れていたものの、ずっと練と哲の一挙一動を注意深く観察していた。哲を前にした時の練の態度が、どうにも意味深長であることに彼は気づいていた。「お前とアイツ、本当にそれだけの関係なのか」「そうじゃなきゃ何だって言うんだ。それ以外にどんな関係があるって」「もし本当にそれだけの関係なら、お前の心界にアイツの居場所を残したりするのか」練はハッとして、言葉に詰まったような反応を見せた。その躊躇いを察した颯斗は、自分の質問が急所を突いたことを確信し、すかさず畳み掛けた。「この前、幻蛇がアイツに化けた時もそうだった。お前が取り乱して、隙だらけになっていたのを俺ははっきりと覚えているぞ」二人は至近距離で視線を交ませた。颯斗は練の瞳をじっと見据え、その奥底に渦巻く霧を払い、練の心の奥に隠された真実を見つけ出そうとした。結局、先に折れたのは練の方だった。彼は瞳を揺らし、颯斗の視線から逃れるようにプイと顔を背けた。まただ。こいつはまた逃げようとしている。颯斗はついに自分が練の心の壁を打ち破ったことを悟った。今の練は、まさに最も脆くなっている状態だ。ここで一気に攻め込まなければ、もう二度とこんな絶好のチャンスは巡ってこないかもしれない。そう思った瞬間、長年胸の内に溜まっていた焦燥感が、火山のように激しく噴き出した。颯斗は有無を言わせず顔を近づけ、その薄い唇に思い切り噛み付いた。「痛っ……」練は驚いて息を呑み、もがこうとしたが、すぐに颯斗に手首を強く掴まれた。今回ばかりは、絶対に練を逃さないと颯斗は固く決意していた。渾身の力で練を組み敷き、同時に彼のバスローブの帯を抜き取ると、素早く両手を縛り上げ、頭の上で固く結び目を作った。「お前、正気か!?」練は顔色をサッと変え、必死に抵抗し始めたが、両手を縛られているため、どうにも抵抗のしようがない。それと同時に
颯斗は何も答えなかった。ただ、絵の中で今にも弾けようとする繭を凝視し、一歩、また一歩と歩み寄ると、肺腑の底まで空気を吸い込むように深く息を継いだ。直後、彼は衆目を凍りつかせるごとき暴挙に出た。固く握りしめた拳を振り上げ、あろうことかその絵画へ、真っ向から叩きつけたのだ。拳撃はキャンバスを貫き、そこには無惨な風穴が開けられた。一瞬の静寂が満ち、次いで会場は蜂の巣をつついたような大騒乱に包まれた。時を同じくして、地下水道でアルベインと対峙していた練の肌にも、奇妙な波動が伝播した。次の刹那、アルベインは何かに触発されたかのように激しく身を捩り、地下道全体を震わせる鋭い咆哮を上げた。狂乱
「馬鹿な狼だな、お前のせいじゃない……っ!」颯斗の舌が胸元を掠めた瞬間、練は思わず声を漏らし、深く息を呑んだ。練に言葉を挟ませまいとするかのように、柔らかな舌が執拗に露出した胸の尖りを弄ぶ。敏感なそこは、舐め回されるうちにぷっくりと円く潤い、硬く屹立して水光を放った。ほどなくして、練の胸元はぐっしょりと濡れそぼってしまった。その不埒な狼の爪が、ついに練の臀部の割れ目へと滑り込んだ時、練は驚いてその手をがっしりと掴んだ。「何を考えてる!?」「深層治療を……あだっ!」言い終わる前に、練の二本の指が颯斗の眼窩を容赦なく突いた。「何が治療だ!どさくさに紛れて俺の体を貪ろうとしただろう」
いつの間に、自分はこれほどまでに練に依存してしまったのだろうか。だが、こんな情けない自分が、果たして彼の「相棒」を名乗る資格などあるのだろうか。再び、練からの応答が途絶えた。アルベインとの応戦に余裕がないのか、あるいは自分を心配させまいと、あえて沈黙を守っているのか。いずれにせよ、練が絶体絶命の危機に瀕していることは間違いなく、自分はただ手をこまねいて見守ることしかできない。颯斗は無意識に拳を握りしめた。情けなさと苛立ちが渦巻く中、心の奥底でこんな声が聞こえた。――無駄な足掻きはやめろ。練ですら手に負えない相手に、何も知らないお荷物のお前が何をしたところで変わらないさ!「九十万、一
そうこうしているうちに、一作目の競売が始まった。スポットライトが舞台中央の絵画を照らし出し、司会者が情熱を込めて、この「抗争」と名付けられた作品を観衆に紹介する。歪んだ線が形容しがたい恐怖を描き出し、乱雑な色の染みは水面に浮く油のように、鮮やかさの中に不快な不気味さを漂わせていた。颯斗にはさっぱり理解できなかったが、何でもこの絵は病の苦痛に苛まれる患者を描いたものらしく、開始価格は十万リドルからだという。これが本当に、あの睦弥の作品なのだろうか。次々と上がる入札の声を聞きながら、颯斗は首を傾げた。目の前の絵に比べれば、最初に出会った時に見たあの少女の絵の方が、よっぽど好きだ。芸術