LOGIN取調室の扉は、颯斗の一蹴りで轟音と共に吹き飛んだ。
「マジかよ……こんなのアリか?」
颯斗はなくなった扉の前に立ち尽くし、呆然としていた。
つい先刻までは傷だらけで、立ち上がるのがやっとだったというのに、今はまるで別人のように生命力がみなぎっている。いかにも堅牢そうな鉄の扉でさえ、かくも容易く蹴り破ってしまったのだ。
どうやら、練は冗談を言っていたわけではなかったらしい。あの「治療」とやらは、本物だったのだ。
「大騒ぎするな」身なりの整った練が、彼の背後から姿を現す。「お前の本当の実力はそんなものではない」
「俺の……本当の、実力?」
颯斗が振り返って問い質そうとしたその時、練はどこからともなくハイテクなサングラスを取り出し、ゆっくりと装着した。
「霧生先生、ここは刑務所だぜ?なんでサングラスなんか……」
練は答えず、伸ばした指でフレームを軽くタップする。
その瞬間、レンズは透き通るほど幽玄な青色に染まり、複雑な回路を思わせる光の筋が表面を高速で交錯し始めた。レンズの奥の両目が微かに震え、瞳孔の深淵で怪しい光が明滅する。
その姿は、まるで颯斗がSF映画で観たアンドロイドそのものだった。
「霧生先生?」
颯斗が目の前で手を振ってみるが、練はそこに佇んだまま、険しい表情を崩さない。
わけが分からず、好奇心に駆られてその顔を覗き込もうとした、まさにその時。練の表情が凍りついた。
「来たぞ!避けろ!」
颯斗が反応するより早く、練に突き飛ばされる。それと同時に、凄まじい轟音が頭上で炸裂した。
もうもうと舞い上がる粉塵にむせ返り、声も出ない。嵐のように瓦礫が降り注ぐ中、颯斗はどうにか目を開け、そして愕然とした。
天井には巨大な風穴が穿たれ、周囲は瓦礫の山と化している。
そして、先ほどまで自分が立っていた場所には、巨大な岩塊が深々と突き刺さっていた。もし練がとっさに突き飛ばしてくれなければ、今頃自分の頭は砕け散っていただろう。
だが、当の練は少し離れた場所に倒れ、目を固く閉じたまま微動だにしない。
「霧生先生!」
颯斗が駆け寄ろうとした刹那、太く長い黒い影が、風を切って横殴りに襲いかかってきた。
――危ない!
それが脳裏をよぎった瞬間、奇妙な現象が起きた。
時間の流れが、不意に粘性を帯びたかのように緩やかになる。まるでスローモーション映像のように、颯斗はその黒い影の動き、いや、その正体まではっきりと捉えることができた。
それは一本の触手だった。成人男性の腕ほどもある肥大したそれに、ぬめぬめとした粘液がまとわりつき、びっしりと並んだ吸盤が見る者の肌を粟立たせる。
考えるより早く、颯斗は反射的に首をすくめた。触手は頭上すれすれをかすめて空を切り、背後の壁に凄まじい鞭痕を刻みつけた。
「あっぶねえ!」
冷や汗を流しながら振り返った颯斗は、正気を削り取られそうな光景を目の当たりにした。
天井をぶち破ったその生物は、さながら深海獣のようだった。あまりに巨体なためか、天井の裂け目からはその半身しか覗いていない。
暗赤色の肥大した触手を不気味にうごめかせ、垂れ下がった片方の眼球が、地面の揺れに合わせてゆらり、ゆらりと揺蕩っている。
おぞましいと評すべきか、あるいは滑稽と評すべきか、判断に迷う姿だった。
「刑務所にタコだと?俺がイカれたのか、それともこの世界が狂っちまったのか?」
颯斗の思考が混乱に呑まれた、その時。周囲から突如として、下品な口笛が一斉に鳴り響いた。
ふとあたりを見渡した颯斗は、自分がいつの間にかリングの上に立たされていることに気づいた。周囲は金網に囲まれ、リングの上空には巨大なスクリーンが吊るされている。
観客席は闇に沈み、そこに何がいるのか判然としない。しかし、そこからは騒々しい喧騒が聞こえ、闇の奥からは、欲望に濡れた無数の目が赤黒く爛々と光っていた。
それらの視線は一様に、ただ一点へと注がれていた。颯斗がその先を見上げると、そこには触手に捕らわれ、宙吊りにされた練の姿があった。
「霧生先生!?」
颯斗は息を呑んだ。腕ほどの太さの触手が、ゆっくりと練の体に絡みついていく様を、ただなすすべもなく見つめているしかなかった。
最初は太腿、次に腰、そして首筋へ。見る間に練の衣服は乱れ、その肌はぬるりとした粘液にまみれていく。
しかもその一部始終は、あたかも生中継のように、リング上空のスクリーンに克明に映し出されていた。
練が何かを言おうと口を開いた、その刹那。隙を見計らったかのように触手が口内へと侵入し、蠢き始める。
太い触手を無理矢理咥えさせられた練は、喉の奥でくぐもった呻きを漏らすのみで、言葉を発することは叶わない。
颯斗はただ呆然とそれを見つめ、ごくりと生唾を呑み込む。
――いつまで見ているつもりだ。
冷ややかな声が、再び颯斗の脳裏に響いた。
颯斗はきょろきょろと辺りを見回し、最後に練へと視線を戻す。そして、茫然自失のまま自分を指差した。
「俺に言ってるのか?」
――他に誰がいる。ここには俺とお前しかおらんのだろうが。
「おおっ!霧生先生、本当にあんたが喋ってたのか!」颯斗はぱっと目を輝かせた。「って、あのでかいタコに吊るされちまってるじゃねえか、先生!」
――うるさい。目は見えている。貴様に言われるまでもない。
練は顔を真っ赤に染め、恨めしげな眼差しでしばらく呻くと、心底うんざりしたように白目を剥いた。
彼のサングラスが明滅を繰り返している。どうやら口を封じられた練が颯斗と会話する術は、それしかないらしい。
――いいか、よく聞け。此処はお前の潜在意識の世界だ。先の囚人も、目の前の怪物も、この監獄のすべてが、お前の潜在意識が生み出した幻影に過ぎん。
「このタコ野郎も、俺の潜在意識の産物だってのか?」颯斗は気まずげに頭を抱える。「嘘だろ……俺の心の中って、こんなに薄汚れてんのか?」
――いわゆる潜在意識とは、元より人の心における最も暗い日陰の部分。決して表に出ることのない領域だ。何らおかしなことはない。
「いやいやいや、十分おかしいだろ!俺の潜在意識が監獄で、おまけにこんな口にするのも憚られるような怪物が棲みついてるってのか?
それに先生、あんた落ち着き払いすぎじゃねえか?なんでちっとも怖がってねえんだよ?」
――怖がっていては、ソウル・エージェントなど務まらん。
「ソウル……ジャケット?」颯斗はぽかんと口を開けた。
――ソウル・エージェントだ……ッ!
会話の最中にも、練の制服はとうに引き裂かれ、ずたずたになっている。触手は剥き出しの肉体に絡みつき、蠢く吸盤が胸にある二つの突起を執拗に弄んでいた。
闇に潜む観客どもは、あるいは歓声を上げ、あるいは卑猥な笑いを漏らしている。
しかし颯斗の身体からは急速に血の気が引き、背筋をただ冷たい汗が伝うだけだった。
目の前で繰り広げられるこの荒唐無稽な光景のすべてが、己の欲望の現れだというのか――。
「いったぁ!」颯斗は思わず顔に手をやり、指先に付着した血を見て顔をしかめた。「最悪だ……。これ、狂犬病とか大丈夫なのか?やっぱり注射を打ちに行ったほうがいいか?」「安心しろ。フロイトは狂犬病の検査も、虫下しも、ワクチン接種もすべて済ませてある」練は救急箱を持ってくると、綿棒と消毒用アルコールを取り出し、颯斗のもとへ歩み寄った。「ほら、顔をこっちに向けろ」自分で傷口を確認できない颯斗は、仕方なく言われるがままに顔を向けた。「猫は女と同じで、とんだ気まぐれ屋だからな」練はそう言いながら、アルコールを浸した綿棒を慎重に颯斗の頬へと当てる。颯斗は息をするのも忘れ、まるで木偶のように手足をこわばらせて立ち尽くした。現実でこれほどまでに練と接近したことなど、これまで一度もなかったような気がする。練が言葉を発するたび、その吐息が綿毛のように優しく颯斗の顔を撫でた。湿り気を帯びた生温かい息には、どこか人を惹きつける甘い香りが漂っている。知らず知らずのうちに、颯斗の鼓動は激しくなり、喉がからからに乾いていた。まるでチーズの香りに誘われる鼠のような気分だ。前方に危険が待ち受けていると分かっていながら、いつの間にか練のペースに乗せられ、一歩、また一歩と罠の深みへ誘い込まれていく。「なにを緊張している?」練も颯斗の異変を察したのか、手を空中で止め、じっと彼を見つめた。その表情はどこか面白がっているようにも見える。「緊張?俺が?」
不安は尽きぬものの、家を追い出された颯斗に選択の余地はなく、練の提案を受け入れるほかなかった。翌日、翼と別れの食事を済ませると、颯斗は大小さまざまな荷物を抱えて家を出て行く翼の後ろ姿を見送った。翼がいなくなると、家全体ががらんとして、まるで知らない場所のように感じられる。馴染み深いはずなのにどこかよそよそしい部屋で最後の夜を過ごし、翌朝早く、颯斗はドアのチャイムで目を覚ました。玄関を開けると、そこには練が立っていた。あの日、練の診療所へ引っ越すと決めた直後、練は颯斗から住所を聞き出し、車で荷物運びを手伝うと申し出ていたのだ。練がそこまで言うならと、颯斗もその好意に甘えることにして、住所を教えて引越しの時間を約束していたのである。「荷物、少なすぎないか?三年間住んで、これだけか?」ソファに座り、せっせと荷造りをする颯斗を眺めながら、練が思わずといった様子で口を開いた。翼と違い、普段から断捨離を心がけている颯斗は持ち物が極端に少なく、荷造りは一時間ほどで大きなスーツケース一つに収まってしまった。練がスーツケースを持ち上げてみたが、それほど重さは感じない。「いいじゃないか。そっちのスペースを圧迫しなくて済むだろう」颯斗は登山用リュックを背負い、スーツケースを引いて玄関へと向かった。「俺が引っ越すとなれば、少なくとも十箱か二十箱は必要だな」「十か二十!?何がそんなにあるんだよ」「着けばわかる」練の診療所は、颯斗が元いた場所から車で四十分ほどの距離にあった。閑静な住宅街に位置し、
翼はいつもの軽薄な態度をかなぐり捨て、その声には深刻な響きがまとわりついていた。ただ事ではないと察した颯斗は、練に「悪い」と一言断り、電話に出るため店の外へと足を向けた。「一体どうしたんだ」カフェの入り口まで歩み寄ると、颯斗はそう問いかけた。「颯斗、俺たちの家、売られちまった」一瞬、颯斗は呆気に取られた。「はあ?なんだって!?」「さっき大家が来て言われたんだ。娘が癌になって治療費に大金が必要だから、この家を売ったって。俺たちには三日以内に出て行ってほしいだとさ」「三日!?」颯斗は我が耳を疑った。「そんな無茶な話があるか。契約書には、どちらかが中途解約する場合でも一ヶ月前には通知するって書いてあったはずだ」「俺もそう言ったんだが、向こうは聞く耳持たずでな」「ったく……明日から家探しだな」翼の声が、すっと温度を失った。「お前だけで探してくれ。俺はもういい……俺、東雲を離れるつもりだから」「はあ!?」矢継ぎ早の知らせに、颯斗の頭はすぐには追いつかなかった。「どういうことだよ?実家に帰るってのか?」「ああ……」翼の声はひどく沈み込んでいる。「お袋がずっと、帰ってうちの温泉旅館を継げってうるさくてさ。今の時代、インディーゲー
最近、颯斗は誰かに尾行されているような気がしてならなかった。あの日、練の車にはねられて以来、颯斗は毎日のように練と出くわしていたのである。最初は単なる偶然だと思っていたが、こう度重なると疑わざるを得ない。練は決まって颯斗の面接が終わった後に姿を現すのだ。しかもその場所がまた絶妙だった。路上であったり、バス停や地下鉄の駅であったり、時にはコンビニであったりと、とにかく颯斗の面接会場の近辺にばかり出没する。颯斗は運命などという言葉は死んでも信じないし、この世にこれほどの偶然があるとも思えなかった。考えられる理由はただ一つ――間違いなく尾行されている。単なる尾行ならばまだ百歩譲って許せるとしても、問題は練が面接の邪魔をしてくることだった。例えば、今日がそうである。ある企業の採用担当者とカフェで会う約束をしていたのだが、席に着いた途端、練が入ってきて、二人の席からさほど離れていない場所に陣取ったのだ。面接の間、練はスマートフォンを掲げて自撮りを始めたかと思えば、立ち上がって店内をうろつき回ったりした。颯斗は相手にするまいと努めたが、練の一挙手一投足が気になって仕方がない。視界の端にその姿がちらつき、どうしても集中できなかった。そのせいで、担当者から何かを問われても、的外れな答えを返してしまう始末だった。穴があったら入りたいほど気まずい面接が終わり、ついに堪忍袋の緒が切れた颯斗は、練の前へと詰め寄り問い詰めた。「お前、俺をつけているのか」練のことだから適当にはぐらかして言い逃れるだろうと思っていたが、意外にもあっさりと認めたのである。「だとしたら、どうだと言うんだ」
睦弥は緊張のあまり服の裾を強く握りしめ、ひどくばつの悪そうな顔をした。「い、家に帰ってから……じゃだめかな」「だめだ、今すぐ、ここで脱いで見せろ」「奏……」睦弥の声は、今にも泣き出しそうに震えている。「二度言わせるな」奏が低い声で告げる。睦弥は腰に手をやった。一度口にしたことは絶対に曲げない奏の性格をよく知っているからだ。どんなに気が進まなくても、彼に選択の余地などない。ゆっくりとベルトを解き、ズボンを膝まで下ろした。スラリと伸びた二本の太腿が、夜気の中に晒される。深い闇に包まれながらも、股間のペニスが力なく項垂れているのがぼんやりと見て取れた。華奢で、大人しげな形をしていた。睦弥は顔を背けた。羞恥のあまり、奏と視線を合わせることができない。「後ろを向け」奏が続けて命じる。ここに至っては、無駄な抵抗をするつもりもない。睦弥は大人しく言われた通りに背を向けた。「もっと尻を高く上げろ」「こ、こう……?」睦弥は両手を壁につき、上体を少し前に倒して尻を高く突き出す。音もなく背後に密着した奏が、大きな掌で片方の尻を覆い、ゆっくりと愛撫し始めた。深夜の路地裏はただでさえ薄暗い。その上、睦弥よりずっと長身の奏がこうして彼を壁際に追い込んでいれば、たとえ表通りを誰かが通ったとしても、路地に人がいることになど気づきはしないだろう。
「冗談じゃない。潜在意識にそうやすやすと侵入できるとでも思っているのか」「ないなら、それでいい」颯斗はそう言われ、少し安堵したように座り直した。「ただ、思ったんだが……」車を走らせてしばらく経った頃、練が不意に口を開いた。「何をだ?」颯斗は彼の方を向く。言葉を飲み込んだ練の横顔を、ネオンの光が鮮やかに撫でていく。その鋭く怜悧な瞳の奥に、珍しく躊躇の色が滲んでいた。結局、練は首を横に振った。「いや。なんでもない」だが、すっかり好奇心を煽られた颯斗は、むっとして抗議した。「おい!話を途中でやめるのはよせ。わざとじらしているのか?」練は薄く笑った。「知りたいか?なら俺のクリニックに来て働け。助手になったら教えてやる」「お前、本当に諦めが悪いな」「当然だ。来いよ。うちのクリニックに来れば、毎日猫をモフれるぞ」「なんだと!?」颯斗はカッと目を見開き、明らかに興味をそそられた様子だ。「お前のところに猫がいるのか?この間は見かけなかったぞ」「あの時はまだな。だが今はいる」「今?」「今日、お前が助けたあの黒猫だよ。俺が金を出して傷の手当てをし、ワクチンも打ってやった。お前の猫じゃないと言うなら、当然俺の猫だろう」颯斗は呆れ返った。「お前は本当に思いつきで行動するな。猫を飼うのに、そんな適当でいいわけがあるか?」「適当なんかじゃない。有効活用、と言うんだ」練は真顔で訂正した