登入第6話
颯斗には、これまで彼女がいた経験がなかった。
中学の頃、恋に目覚めた級友たちがこぞって女子の周りをうろついていた時分も、颯斗だけは授業が終わるや否や、物理教師を質問攻めにしていた。
その教師は背の高い中年男性で、色白の知的な顔立ちに金縁の眼鏡をかけ、眉宇には理系男子特有の孤高と冷徹さが漂っていた。
彼に近づきたい一心で、もともと物理が得意ではなかった颯斗は夜を徹して猛勉強に励み、ついにはクラスの最下位争いから首席の座にまで上り詰めたのだった。
高校に上がった頃、颯斗が好んでいた男性アイドルがカミングアウトを宣言した。
巷ではそのアイドルのゴシップで持ちきりとなり、そこには猟奇的な憶測や悪意ある歪曲も少なからず含まれていた。
そうした流言飛語は否応なく颯斗の耳にも届き、彼の内面に強烈な拒絶反応を引き起こした。
その時から、彼は無意識のうちにそうした雑音を遮断し、自らの心を固く閉ざすようになったのだ。
自分の潜在意識は監獄なのだろうか。
考えてみれば、確かに似ているところが少なくない。
そして目の前の怪物は、おそらくは己の欲望の化身なのだろう。どれだけ心の扉を固く閉ざそうとも、この恐ろしい触手は足枷を突き破り、牙を剝いて本能を曝け出してしまう。
外野からの心ない噂話は、暗がりに潜むこの野次馬たちそのものだ。赤裸々な冷やかしと嘲笑に、颯斗は居ても立ってもいられないほどの羞恥に駆られた。
その時すでに、触手は図に乗って練の下半身に絡みついていた。
練は必死に抵抗し身を捩ったが、結局その太い触手の怪力には敵わず、両の長い脚を大きく開かされてしまう。
野次馬たちのどよめきも、その瞬間、最高潮に達した。
しかし、蛸のような怪物はまだ満足していないようだった。宙に浮いたあの目玉は、まるで相手を視姦するカメラのように、ゆっくりと練の全身をくまなく舐め回し、最も秘められた場所さえも見逃すことなく、すべてを大画面にありありと映し出した。
練はもはや抵抗する術もなく、ただ荒い息を吐くだけで、その瞳は次第に焦点を失っていった。
「やめろ!」
颯斗が、ついに大声で叫んだ。その言葉が放たれた瞬間、怪物の目玉はまるで呪文にかかったかのように、ぴたりと動きを止めた。
かつて、あの巨漢に打ちのめされていた時、練はこう教えてくれた。「抵抗したければ、心で念じていることを口に出せ」と。
自分こそがこの潜在意識の主――つまり、この世界のすべては己の言葉で操ることができるのだ。あの囚人も、そして目の前のこの怪物もまた然りである。
「何を見てやがる。それ以上見たら握り潰すぞ!」
もはや忍耐は限界だった。これ以上、我慢する必要などない。
颯斗はどこからともなく湧き出た怪力を発揮し、蛸怪物の触手を踏み台にして高く跳躍すると、その巨大な目玉をむんずと鷲掴みにした。
怪物が張り裂けんばかりの絶叫を上げる中、颯斗は情け容赦なくそれを引きちぎり、地面に叩きつけると、力任せに踏みつけて粉々に砕いた。
その瞬間、目の前で強烈な光が炸裂し、周囲のすべてが一瞬にして塵と化し、跡形もなく消え去った。
「霧生先生っ!?」
颯斗は大音声に叫び、びっしょりと冷や汗をかいて目を覚ました。
白い光が散り、ぼやけていた視界が徐々に焦点を結ぶと、目前には練の端正な顔があった。あまりの近さに颯斗は呆然とし、しばしの間、二人は至近距離で見つめ合う。
やがて、練が彼を見つめたまま、低く笑った。
「お帰り」
颯斗は汗で濡れた短髪をかきむしり、周囲を見渡した。そこは取調室でも、リングの上でもない。ありふれているが、どこか見覚えのある会議室だった。
ここは……診療所か?
「俺の目に狂いはなかったな」練は颯斗の肩から手を離して立ち上がった。「お前、なかなかやるじゃないか。勘もいいし、頭の回転も速い。それに貴重なコントロール系ときた」
突然褒められ、颯斗はどう反応していいか分からず戸惑った。
「ちょっと待ってください、霧生先生――」
「霧生練だ。練でいい」練は臆面もなく手を差し出した。「合格だ。おめでとう」
練の上半身は、シンプルな白シャツに深青色のベストを合わせ、袖口を無造作に肘までたくし上げている。下半身は折り目のついたスラックスで、簡素ながらも洗練された着こなしだ。
「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ」
颯斗はその手を握り返さず、勢いよく立ち上がると、足元に置いてあったリュックをひっつかんだ。
「こんな忘れ難い、刺激的な人生経験をさせてくれて感謝しますよ。でもはっきり言わせてもらいますけど、俺、この仕事には絶望的に向いてないと思うんで!」
そう言い捨てると、颯斗は踵を返し、会議室から飛び出した。
「なぜだ?うちの面接に合格する人間なんて滅多にいないんだぞ。半年以上探して、ようやく一人見つけたっていうのに」
練は彼の背後にぴったりとついてくる。
「地球上には七十億以上の人間がいるんですよ。根気よく探せば、俺より適任な奴なんていくらでも見つかるでしょう」
「お前より相応しい人間はいない。鳴瀬颯斗、お前は生まれながらにしてソウルエージェントになる素質があるんだ」
「そのソウルなんちゃらは知りませんし、なりたくもありません。俺はただ、普通の人生を送りたいだけなんです!」
颯斗はこの怪しげな診療所に一刻たりとも留まりたくなかった。話しながらも、すでに風のように廊下を駆け抜け、エレベーターホールにたどり着く。
練の診療所はこのビルの九階にあった。
引き留める隙を与えまいと、颯斗はエレベーターに乗り込むや否や一階のボタンを連打した。
「お前が必要なんだ」
練はバァンと片手でエレベーターのドアを押さえつけて閉まるのを阻むと、声を潜めて言った。
「俺のSAになってくれ、鳴瀬くん」
颯斗は頭を抱えて両手を合わせた。「霧生さん、頼むから他を当たってくれませんか?俺、小心者なんです。あんな体験、マジで一回でお腹いっぱいです。二度と御免ですよ」
練は無言で颯斗を見つめたまま、しばし口を開かず、ドアを押さえる手も離そうとしない。
「あのー、その高貴なお手をどけていただけないでしょうか?」
練はなおも沈黙していたが、向かい側から誰かが談笑しながら歩いてくるのを見て、聞こえないほど小さく舌打ちすると、不承不承といった体で手を離した。
「お前は必ず戻ってくる。気長に待つさ」
練はズボンのポケットに手を突っ込み、獲物を狙う獣のような深く鋭い瞳で颯斗を見据えた。
颯斗の背筋を冷や汗が伝う。
目の前でゆっくりとエレベーターのドアが閉まるまで、彼は顔を上げて練と視線を合わせる勇気がなかった。
一階に着くと、彼は大急ぎでビルの正面玄関を飛び出し、まるで脱兎のごとく一度も振り返ることなく逃げ去った。
霧生練と、あの診療所を、はるか彼方へと置き去りにして。
博人はもともと、かなり羞恥心の強い性格だった。先ほどから続いていた際どすぎる質問だけでも十分に不快だったが、口下手な彼には話題を逸らす術もなく、結果的に壮馬の好きなようにさせてしまっていた。だが、壮馬の手が通気性の悪い作業ズボンの中へ入り込んできた瞬間、ついに我慢の限界を迎えた。博人はその無遠慮な手を強く掴み、こわばった声で壮馬を怒鳴りつける。しかし、壮馬はまったく気にする様子を見せなかった。甘えるような声で「博人さん~」と呼びながら、にやにやと笑ってさらに身体を寄せてくる。「俺、寒いんだよ~」普段、他人の前で見せている明るく無邪気な姿とはまるで別人だった。この時の壮馬の声は、綿のように柔らかく、甘くとろけてしまいそうな響きを帯びていた。「寒いなら服を多めに着ろ。俺のコートをやる!」博人は低い声で言い返す。だが、壮馬が続けて放った一言は、小屋の中にいる者も、外で聞き耳を立てている者も、誰もが呆然と固まってしまうほど衝撃的なものだった。「誰があんたの服なんか欲しいって言ったんだよ。俺が欲しいのは……あんたに抱きしめてもらうことさ」「お前……俺に……何をしろって言うんだ?」博人の頭は完全に処理能力を失ったかのように混乱し、舌までうまく回らなくなっていた。そんな彼の様子を見た壮馬は、思わず吹き出すようにクスクスと笑い、もう一度同じ言葉を繰り返す。「俺は博人さんに抱きしめてほしいんだよ。ねぇ、試
三人は必死に力を合わせ、ようやく博人を木材の下から引きずり出すことに成功した。救出された時には、博人の脚はすでに鮮血に染まり、骨もあり得ない方向へと曲がっていた。そんな凄惨な光景を初めて目にした壮馬は、恐怖のあまり完全に取り乱していた。だが、当の本人である博人のほうが、激痛に耐えながらも冷静で、自分は大丈夫だ、少し休めば平気だと、逆に壮馬を励まし続けている始末だった。「ごめんよ、博人さん……俺、わざとじゃなくて……」壮馬は涙をこぼし、声を詰まらせる。「泣いていたって何になるんだ。早く傷の手当てをしろ!」父親が傷つけられた姿を目の前にして、颯斗が気が気でないのは当然だった。だが、謝罪と涙を繰り返すことしかできない壮馬の姿が、余計に颯斗の苛立ちを刺激し、思わず荒い口調になってしまった。颯斗に怒鳴られた壮馬は、すっかり萎縮し、何も言えなくなってしまう。「落ち着け。頭を冷やすんだ」練は颯斗の肩に手を置き、軽く叩いた。その穏やかな声に、熱くなっていた颯斗の頭は急速に冷えていく。颯斗は父親のそばへしゃがみ込むと、何も言わずにコートを脱ぎ、さらにその下に着ていたシャツも脱いだ。それを応急処置用の包帯代わりにして、博人の脚の傷口をきつく縛り上げる。その間、練は周囲を見渡した。「この近くに、寒さをしのいで休めるような小屋はないか?」「ある」博人は手を上げ、北東の方向を指差した。「あちらへ十
伐採エリアに到着すると、博人と壮馬はそのまま一日の作業に取りかかった。颯斗と練はトラックの中でただ待機するような真似はせず、視察という名目で影のように二人の後を追った。博人が担当しているのは、現場の最前線での作業だった。主に伐採、集材、積み込みなどの工程を担っており、どれも高度な技術と体力を必要とする重労働で、誰にでも務まる仕事ではない。幸いにも博人は農業大学の卒業生で、専門分野も林業と深く関わっていた。そのため、中卒の作業員が多いこの林業所では、ひときわ高い作業能力を発揮していた。さらに、真面目で勤勉、弱音や不満を口にすることもなかったため、林業所からは何度も表彰を受けているほどだった。一方、壮馬との関係は、二人を対等な相棒と呼ぶよりも、むしろ先輩と後輩と言ったほうが近かった。壮馬はまるで小さな付き人のように、いつも博人の周囲をちょこちょこと動き回っている。そんな壮馬に対し、博人は頼りになる面倒見の良い先輩そのものだった。分からないことがあれば一から丁寧に教え、経験不足から失敗しても決して怒鳴りつけることはない。どこが間違っていたのかを、根気よく諭すように説明していた。森での作業は、忙しくなればなるほど時間の流れが早い。気がつけば、いつの間にか昼食の時間になっていた。作業員たちの昼食はいたって質素なものだった。おにぎりに漬物、そして目玉焼き。それだけの簡素な食事である。ただ、壮馬だけは少し違った。博人の隣に腰を下ろすと、自分の弁当箱に入っていた玉子焼きを、箸でつまんで博人の椀へ入れた。「俺の母ちゃんが作った玉子焼き、すげえ美味いんだ。早く食べてみてよ」「
助手席に座る若者の名は、小林壮馬。博人と同じく、この赤峰林業所で働く作業員だった。颯斗と練が車に乗り込んでからというもの、彼の口はまるで止まることを知らなかった。「あんたたち、どんな仕事してるんだ?ここの作業員って感じじゃないけどな」壮馬は後ろを振り返り、練の顔を見ながら人懐っこい笑顔で話しかける。「特にそっちの兄さん、すごく雰囲気があるよな。一目見ただけで、教養のある人だって分かるよ」「俺たちは視察に来たんだ」練は、颯斗が今は話しづらい状態であることを察し、壮馬の尽きることのない話題に、無難な返答を返した。「視察?」壮馬は目を輝かせ、明らかに興味を示す。「もしかして、科学者なのか?」「県から派遣されて、現地調査に来た地質専門家だ。ここ赤峰林業所の自然環境を調べている。ただ、その途中で道に迷ってしまってな……そうだ、これが俺の名刺だ」そう言いながら、練はポケットからあらかじめ用意していた名刺を取り出し、壮馬へ手渡した。名刺には「環境生態研究所」「政府特派専門家」など、いかにもそれらしい肩書きが並んでいる。どれも練が作り上げた偽りの肩書きにすぎない。だが、専門外の人間を納得させるには十分すぎるほどの説得力があった。「なんだ、県から来た人だったのか!だったら早く言ってくれよ。何か必要なことがあれば、遠慮なく言ってくれ。赤峰林業所は全部、俺の親父が管理してるんだから」名刺を見るなり、壮馬は満面の笑みを浮か
言葉が落ちるや否や、颯斗の背中に焼けつくような激痛が走った。銃弾を受けたはずの魇は、まだ息絶えてはいなかった。死の間際の最後の足掻きで鋭い爪を振り上げ、颯斗の隙を突いて背中へと一撃を叩き込んだのだ。不意打ちの一撃を受けた颯斗は、体勢を崩して前のめりに倒れ込む。足元が突然、何もない空間へ踏み出してしまったことに気づいた時には、すでに全身が宙へ投げ出されていた。視界がぐるりと回転する。断崖から落ちる寸前、颯斗は反射的に何かを掴もうと空中でもがいた。そして、やみくもに伸ばした手が、必死に練の腕を掴み取る。「颯斗!!」「うおおおおっ!」二人の叫び声が重なる。颯斗と練は互いの体を抱え込むようにして一つになり、そのまま崖下へと転がり落ちていった。季節は厳冬。山に積もった雪は、優に一メートルを超える厚さがあった。断崖は高いと言えば高く、低いと言えば低い。目測では三、四階建てのビルほどの高さだった。即死するほどではないにせよ、半死半生の重傷を負うには十分すぎる高さだ。しかも運の悪いことに、二人が落ちた場所はちょうど山道の真ん中だった。そこへ、少し離れた場所から一台のトラックがこちらへ向かって走ってくる。颯斗はなんとか起き上がろうとする。しかし、全身の骨が砕け散ったかのような激痛が襲い、少し動くだけでも歯を食いしばるほどの痛みに耐えなければならなかった。手足はまるで自分のものではないかのように、言うことを聞かない。森の中に、耳をつんざくような急ブレーキの音が響き渡った。颯斗が恐る恐る振り
冬、赤峰林業所。早朝、木々の隙間から差し込む木漏れ日が、白雪に覆われた山道を淡く照らしていた。颯斗と練は、深く積もった雪に足を取られながら、一歩ずつ前へ進んでいく。刺すような北風が吹き抜け、颯斗は耐えきれず大きなくしゃみを一つ漏らした。「寒すぎるだろ……さすが氷点下十二度だな」「三十年以上前の気温は、今よりずっと低かったんだ。氷点下十数度なら、まだ暖かいほうだよ」練は口元に手を当て、白く煙る息を吐き出す。「正直言って、まだ実感が湧かないんだけどな」颯斗は呆然とした様子で周囲を見渡した。「俺たち、本当に三十年以上前の時代に来てるのか?」キーワードの解除に成功し、回帰の扉は開かれた。眩い白光に包まれた後、再び目を開けた時には、二人はすでに三十年前へと戻っていた。彼らが今、足を踏みしめている大地こそ、北西に位置する赤峰林業所だった。記憶の投影とはいえ、吹き荒れる寒風は、到着したばかりの二人に容赦なく襲いかかった。幸い、近くには集落があり、村人から防寒具をいくつか譲り受けることができたため、二人は一刻も早く林業所へ向かうことにした。目的は明確だった。颯斗の父親を、できる限り早く見つけ出すこと。時刻は午前九時半。本来なら、伐採作業員たちが山中を行き交い、活気に満ちている時間帯のはずだった。だが、広大な赤峰林業所はなぜか、死んだような静寂に包まれていた。不意に、練が足を止める。その視線は、鋭く前方へ向けられていた。颯斗が何事かと訝しんだ瞬間、耳元でざわめくような異音が響き、大地全体が小刻みに震え始めた。耳を澄ませば、それは遠方から迫ってくる、乱れた足音の群れだった。「避けろ!」練が叫んだ瞬間、黒い影が冷たい風を巻き起こしながら飛びかかってきた。反応が遅れた颯斗は、練に勢いよく突き飛ばされ、間一髪で正面からの一撃をかわす。雪の中から慌てて起き上がり、暗闇から突進してきた存在を見た瞬間、颯斗の心臓が大きく跳ねた。それは、凶暴で獰猛な野獣だった。青灰色の皮膚を持ち、全身は濃密な黒い毛で覆われている。「なんだよ、この化け物は!?狼か?それとも熊か?」体格だけなら狼を遥かに上回り、速度だけなら熊を凌駕している。正確に言えば、目の前の存在は狼と熊を掛け合わせたような、異形の怪物だった。だが、練の答えは違った。「どちらでもない。こ