INICIAR SESIÓN颯斗が火急の勢いで客室へと雪崩れ込んだ時、浴室からは飛沫をあげるような激しい水音が響いていた。練がシャワーを浴びている最中なのだろう。室内を見渡せば、ベッド脇の丸テーブルには案の定、食べかけの朝食が放置されていた。数口かじられたサンドイッチに、二つのコーヒーカップ。並べられたカトラリーも二人分。それは、誰かとここで朝のひとときを共にした、明らかな痕跡だった。綯い交ぜになった感情を抱えたまま、颯斗は重い腰つきでベッドの端に腰を下ろした。やがて水音が止み、下着の上にバスローブを無造作に羽織っただけの練が浴室から姿を現す。颯斗はゆっくりと顔を上げ、射抜くような視線で彼を凝視した。「……戻っていたのかい?」練は一瞬、面食らったような表情を浮かべた。「朝飯は、さぞかし美味かったんだろうな?」その言葉に、練の表情が硬く強張る。彼は肯定も否定もせず、ただ「ふむ」と短く鼻を鳴らした。そして何事もなかったかのように洗面台へと向かい、ドライヤーを使い始める。ごく自然な仕草を装ってはいるが、颯斗の目には、その一挙手一投足が何かを隠し、懸命に逃避しているようにしか映らなかった。颯斗は立ち上がり、音もなく背後から練に近づくと、その細い腰を力任せに抱きしめた。練は驚き、ドライヤーの手を止める。颯斗は大型犬さながらに、練の肩甲骨へと鼻先を押し付け、深く息を吸い込んだ。ボディーソープの清々しい香りと、嗅ぎ慣れた練自身の柔らかな体温の匂い。――よかった、他の男の臭いはしない。「……さっき、哲を見たぞ」嫉妬の混じった、低く苦々しい声が漏れる。「フロントの奴も言ってた。あいつがお前のためにルームサービスを頼んだってな」「相変わらず、無闇に焼きもちを焼くのが好きなんだね」練はため息をつき、自嘲気味に微笑んだ。そして颯斗の腕の中でくるりと向き直ると、至近距離でその瞳を覗き込む。「ああ、確かに哲と会っていたよ。だが、話していたのは仕事のことだ。D.I.A.について、彼に教えを乞うていたのさ」「D.I.A.?……あのシステムに、何か問題でもあるのか?」「前回の治療で、剣修と銀狐の間で交わされた『賭け』を覚えているかい?」「ああ、もちろんだ」あの時、銀狐は剣修への恋の呪いを解き、二人の記憶は一時的に練へと預けられた。もし十年後、それでもなお剣修が再び銀狐を愛したなら
翌日、再び目を覚ました時には、すでに外はすっかり明るくなっていた。颯斗が枕元のスマートフォンを探って確認すると、時刻は朝の八時を回っていた。隣では練が変わらず眠りについており、彼の手首を拘束していたベルトはすでに解かれていた。身支度を整えていると、颯斗のスマホに翼からメッセージが届いた。食事の誘いで、すでに彼と真梨が車でホテルの下まで来ているという。今日、颯斗と練は午後五時の飛行機で東雲市に帰る予定なので、時間はまだたっぷりある。練はまだ深い眠りの中にあり、当分は起きそうにない様子だったため、颯斗は着替えを済ませて部屋を出た。颯斗の姿を認めるや否や、目ざとい翼は彼のうなじにある薄い引っ掻き傷に気づいた。「おやおや、お前の彼氏さん、随分と激しいんだねえ」颯斗はうなじを片手で隠し、顔を真っ赤にして吐き捨てた。「黙れ!」翼は車を出し、地元で評判のレストランへと颯斗を案内した。本当は今日、颯斗と練の二人に食事を馳走するつもりだったのだ。昨日は結婚式の準備に追われ、個人的に語らう時間が持てなかったからだ。しかし、練が起きてこなかったため、予定していた四人での会食は、結局三人で行われることになった。食事の最中、颯斗は鞄から翼に返す約束だったホラーゲームを取り出した。その見慣れたパッケージを目にした瞬間、翼はどうりでずっと見つからないわけだと大声を上げた。颯斗が今もゲーム制作を続けているのかと尋ねると、翼は力強く頷いた。最近はアートデザインの下請けをこなしながら人脈を広げており、中には彼の作品に興味を示すパブリッシャーも現れ、現在は提携の交渉を進めている最中だという。うまくいけば、以前頓挫したプロジェクトが、本当に起死回生を果たす可能性もあるとのことだった。前途は依然として不透明だが、翼には彼を支える伴侶がいる。真梨は翼の起業を支持しているだけでなく、スタジオ設立の準備まで甲斐甲斐しく手伝っているのだという。親友が公私ともに充実している姿を見て、颯斗は喜ばしく思う反面、どこか羨ましさを感じずにはいられなかった。食事を摂る以上に、二人の甘い惚気話でお腹がいっぱいになってしまった。腹ごしらえを終えた後、夫婦は颯斗を乗せて市内をドライブしようと提案したが、颯斗は練のことが気掛かりだったため、十一時頃にはホテルに戻ることにした。ホテルの車寄せで別れ
荒い呼吸をしばし繰り返した後、練は涙に潤む瞳を上げ、恨みがましげな視線で颯斗を射貫いた。「その手口……一体、どこで覚えたんだよ」「話をそらすな」颯斗はまだ物足りないと言わぬばかりに、すでに萎えかけた熱を執拗に啜り上げた。練が苦痛に耐えかねて声を漏らすまでその行為を続け、ようやく唇を離すと、顔を上げて練を凝視した。「あいつも……こんなお前を見たことがあるのか?」練は濡れた睫毛を伏せ、深く長い溜息を吐き出した。「もう、ずっと昔のことだ。今更そんなことを追及して、何の意味があるんだ」「俺は、気に入らないんだよ」颯斗は嗄れた声で低く零した。「俺はお前の過去を何ひとつ知らない。この世界でお前と唯一無二の相棒だと思っていたのに。今になって、どこの馬の骨とも知れない『哲』なんて奴が現れて……。あいつはお前の師であるだけでなく、かつての相棒だったなんてな」颯斗は胸を詰まらせながらも、内に秘めていた鬱屈とした思いを一気に吐き出した。しかし、彼がそうして激情をぶちまけた後、今度は練が言葉を失う番だった。「颯斗、お前……」練は呆然と彼を見つめ、しばらくの沈黙の後、ようやく重い口を開いた。「もしかして、ヤキモチを焼いているのか?」颯斗は一瞬たじろぎ、気まずい沈黙の中で練と視線を交わしたまま、二秒ほど硬直した。「ああ、そうだよ。焼いてるよ!それが悪いかよ!?」もはや開き直りであった。真っ赤に上気した彼の顔を見て、練は一瞬呆気に取られたが、思わずふっと笑みをこぼした。「笑うな!まだ話は終わってないぞ。一番腹が立つのはそこじゃない。あいつの話になると、お前がまるで別人のようになることだ」「俺はただ、あいつに会いたくないだけなんだ」「会いたくないのか、それとも会うのが『怖い』のか?」練の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。「……どういう意味だ」颯斗は逃がさないと言わんばかりに彼をじっと見つめた。「自分が今もまだあいつを好きなんじゃないか、そう自覚するのを恐れている可能性はないか?」その言葉が投げかけられた瞬間、練の脳内で激しい衝撃音が鳴り響き、頭皮が痺れるような感覚に陥った。信じがたいことだった。颯斗は彼と哲の間に何があったのか、その詳細など何も知らないはずだ。それなのに、自身の直感とわずかな手がかりだけで、これほどまでの核心に辿り着いたというのか。練は乾
「マスター?それって何だ」「その名の通り、トップクラスの能力を持つ万能型エージェントのことだ。SAに匹敵する戦闘能力と感知力を持ちながら、SPに引けを取らない分析力と判断力も備えている。パートナーなしの単独任務もこなせる、まさにソウルエージェントの絶対的エースだな」哲がSAではないと知り、颯斗は密かに安堵の息を漏らしたが、それと同時に、心の中にまた別の疑念が湧き上がってきた。披露宴の最中、颯斗は二人から少し離れていたものの、ずっと練と哲の一挙一動を注意深く観察していた。哲を前にした時の練の態度が、どうにも意味深長であることに彼は気づいていた。「お前とアイツ、本当にそれだけの関係なのか」「そうじゃなきゃ何だって言うんだ。それ以外にどんな関係があるって」「もし本当にそれだけの関係なら、お前の心界にアイツの居場所を残したりするのか」練はハッとして、言葉に詰まったような反応を見せた。その躊躇いを察した颯斗は、自分の質問が急所を突いたことを確信し、すかさず畳み掛けた。「この前、幻蛇がアイツに化けた時もそうだった。お前が取り乱して、隙だらけになっていたのを俺ははっきりと覚えているぞ」二人は至近距離で視線を交ませた。颯斗は練の瞳をじっと見据え、その奥底に渦巻く霧を払い、練の心の奥に隠された真実を見つけ出そうとした。結局、先に折れたのは練の方だった。彼は瞳を揺らし、颯斗の視線から逃れるようにプイと顔を背けた。まただ。こいつはまた逃げようとしている。颯斗はついに自分が練の心の壁を打ち破ったことを悟った。今の練は、まさに最も脆くなっている状態だ。ここで一気に攻め込まなければ、もう二度とこんな絶好のチャンスは巡ってこないかもしれない。そう思った瞬間、長年胸の内に溜まっていた焦燥感が、火山のように激しく噴き出した。颯斗は有無を言わせず顔を近づけ、その薄い唇に思い切り噛み付いた。「痛っ……」練は驚いて息を呑み、もがこうとしたが、すぐに颯斗に手首を強く掴まれた。今回ばかりは、絶対に練を逃さないと颯斗は固く決意していた。渾身の力で練を組み敷き、同時に彼のバスローブの帯を抜き取ると、素早く両手を縛り上げ、頭の上で固く結び目を作った。「お前、正気か!?」練は顔色をサッと変え、必死に抵抗し始めたが、両手を縛られているため、どうにも抵抗のしようがない。それと同時に
「何だって!?屋上に行っただと!?」颯斗は信じられないという顔で練を見つめ、そう口にした。「そうだよ。俺と哲、それにカノンとで、屋上で少し話をしただけだけど、何か問題でもあるの?」シャワーを浴び終えた練はバスローブを羽織り、顔にフェイスパックを貼ったまま、ホテルの客室のベッドで悠々とくつろいでいた。手にテレビのリモコンを持ち、颯斗に答えながら無頓着にチャンネルを切り替えている。「何か問題でもあるのって……」練のその何食わぬ顔を見て、颯斗は怒りがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。今夜の披露宴が半ばに差し掛かった頃、颯斗は練の姿が見えないことに気がついた。いなくなったのが練だけならまだしも、厄介なことに哲とカノンまで姿を消していたのだ。練はどこへ行ったんだ?まさか何かあったのか?一瞬にして、次から次へと疑問が頭に浮かび、ぐちゃぐちゃに絡み合った。颯斗は披露宴など放り出して、今すぐ練を探しに行きたい衝動に駆られた。しかしアテンドという立場上、無責任に抜け出すわけにもいかず、披露宴の後半は心ここにあらずで、まるで魂が抜けたかのようになっていた。どうにか披露宴が終わるまで耐え抜いた時には、すでに夜の十時半を回っていた。颯斗が急いで客室に戻りドアを開けると、そこにはベッドに寝転んでテレビを見ている練の姿があった。「それがどれだけ危険なことか分かってんのか!?」「どこが危険なの?」颯斗の問い詰めに対しても、練はまったく緊張感を見せず、無表情のままため息をついた。「はあ、最近のテレビ番組はどんどんつまらなくなっていくな……」颯斗は二、三歩で駆け寄ると、練の手からリモコンをひったくり、ピッという音と共にテレビを消した。「屋上だぞ!しかもお前一人で、一対二でやり合うつもりだったのか!?」「だからこうして無事に帰ってきたじゃないか」練は怒ることもなく、ベッドの上で寝返りを打ち、そのまっすぐで長い脚を惜しげもなく颯斗に見せつけた。「ほら、腕一本、脚一本欠けてないでしょ」「そうだな、手足は欠けてない。欠けてるのはお前の心だ、この無神経野郎」練はこらえきれずに吹き出し、顔のフェイスパックまでシワになった。「こっちは真剣に話してんのに、笑うなよ!?」颯斗はぷんぷん怒りながらベッドの端に腰を下ろし、一人でふてくされた。練はフェイスパックを剥がしてベ
練は胸が詰まり、目頭を熱くしながら顔を背けた。「だが、嘘はいつか暴れられる。君は実験の真の目的に気づき、そして俺の前から完全に消えた」哲は掠れた声で続けた。「君の聡明さをもってすれば、あんなラボなど檻にはならない。それでも君が留まっていたのは、俺を信じ、期待してくれていたからだ。俺はその最後の期待を、自分の手で叩き壊してしまった。君は一言も残さず、潔いほど綺麗にいなくなったね」哲の独白を聞きながら、練は忌まわしい過去を追体験していた。今、自分がどんな感情を抱いているのか、自分でも説明がつかない。複雑な思いが渦を巻き、かつての喜びも悲しみも粉々に砕き、飲み込んでいく。二人は長い沈黙に陥った。哲がタバコを取り出し、火をつけた。振り向かなくても、その匂いだけで分かった。「ダンヒル・メントール」。哲の愛用している銘柄だ。彼がこれを吸う時は、必ず何か悩み事を抱えている時だった。哲がもう一本取り出し、練に差し出した。練は一瞬躊躇したが、やがてその手を受け取った。見慣れた仕草でライターを灯す哲に、練もまた習慣のように身を屈め、揺れる火をタバコの先に移した。深く吸い込み、一口ずつ煙を吐き出す。肺を巡る煙が、縺れた思考を少しずつ解きほぐしてくれるようだった。「ヘビースモーカーが二人も!子供の前で吸わないでよ!」カノンが背後で抗議の声を上げる。「こういう時だけ子供ぶるのか?」哲がカノンの頭を撫でる。カノンはあっかんべーをして走り去った。その無邪気な仕草が、重苦しい空気をわずかに和らげた。練は紫煙の中で目を細め、哲を見た。「カノンのことを、本当に愛しているんだね」哲が頷く。「おや、嫉妬かい?」練はその挑発に乗らず、さらに問いかけた。「本気で足を洗うつもりはないのかい?あの子のためだけでもいい」「足を洗う、か」哲は低く呟いた。「だが、この仕事以外に、俺に何ができる?」「あんたには金がある。商売でも何でもできるだろう。今日のウェディング会社だって、あんたの傘下なんだろう?だからこそカノンをフラワーガールとして堂々と潜り込ませられたんだ」「今だって『商売』をしているつもりだよ」「まともな商売をしろと言っているんだ。人殺しの片棒を担ぐような真似じゃなくね」「言うのは簡単だよ」哲は灰を落とした。「この世界に入った人間は、極道の人間と同じだ。一度沈め
だが、そんな不気味な怪物を前にしても、睦弥の表情は平静そのものだった。恐怖の色など微塵も見せず、それどころか相手を宥めるように、静かにこう言った。「腹が減ったのか?焦るな、すぐに飯にありつける」辺りの空気はいっそう冷え込み、危険がいつの間にか忍び寄っていた。練は睦弥を凝視しながら、警戒を緩めることなく、じりじりと後ずさる。「ルアンさん、これは一体……」「すまない、牧師さん」睦弥は振り返り、闇の奥から練を見据えた。その背後では、アルベインという名の怪物が不穏に蠢いている。「だが、アルベインはもう空腹で限界なんだ。頼む、彼を救ってやってくれ」練はアルベインの足元に広がる白骨の山に視
颯斗はあたりを見回した。「そういえば、アルベインはどこにいるんですか?まさか、彼もどこかへ行ってしまったとか?」睦弥は静かに首を横に振る。「いいえ。アルベインはずっとこの街に留まり、療養しています」アルベインの名が出た途端、睦弥の瞳はみるみる曇っていった。睦弥の話によれば、練と颯斗が去ってからのこの一年、彼はアルベインを治療するため、リド大陸中を渡り歩き、名医や秘薬を求めて奔走してきたという。だが、どういうわけかアルベインの傷は癒えるどころか、日に日に悪化する一方だった。「アルベインの病状は悪くなるばかりで……薬代だけでも、相当な金額が必要なんです」睦弥は目尻を赤くしながら語った。
「どうした?何か見つけたのか」練が訊ねる。颯斗は、一枚の原稿を前にして息を呑んだ。そこに描かれた光景が、脳裏に焼き付いて離れない、あの場面そのものだったからだ。深い霧が立ち込める夜更け。白銀の鎧を纏い、深紅のマントを翻す男が、傲然とそこに立ち尽くしている。その眼前には、空を埋め尽くさんばかりの黒い怪鳥の群れが蠢いていた。「あ……アルベイン?」我知らず声が漏れる。颯斗は信じられぬものを見るかのように目を見開き、その絵を幾度となく見返した。そこに描かれているのは、紛れもなくアルベイン。そして、あの黒い鳥は「鬼鴉」に違いなかった。「アルベインが、どうしたというんだ?」電話の向
「記事のことか?」颯斗は一瞬言葉に詰まったが、すぐに合点がいった。奏が口にしているのは、自分が女性とホテルへ入るところを撮られた、あの件に違いない。颯斗は困惑し、口ごもった。まずい――。本当のことを話すべきか否か、内心で激しく葛藤する。下手に口を開いて奏を刺激し、言い争いにでもなれば、たちまちあの記者どもに嗅ぎつけられ、逃げ場を失うだろう。「今はそんな話をしている場合じゃない。また今度にしよう」颯斗はそう言って話を逸らそうとした。「いやだ!」奏は咄嗟に颯斗の手を掴んだ。「頼む、知りたいんだ」意表を突かれた颯斗は、その澄みきった瞳を見つめ返した。「どうしても、今でなければだめか