تسجيل الدخول皆川が住んでいるのは、都心にほど近い住宅街だった。
建物自体はそれほど高くなく、一見すると地味で、年季さえ感じさせる佇まいだ。だが商業中心地にも近く、「閑静な都会の隠れ家」とでも呼びたくなるような、なかなかの好立地である。
ナナミの話によれば、皆川の両親は現在海外におり、彼自身は独身主義で長らく一人暮らしを続けているという。
賃貸なのか持ち家なのかは不明だが、寸土が金に等しいと言われるこの界隈で文筆業一本で生活しているとなれば、その収入は少なくとも中の上に位置するはずだった。
颯斗が車を走らせて敷地内へ入ると、管理センターの警備員はスマートフォンに夢中で、こちらへ視線を向けることさえしない。やはり古い集合住宅だけあって、警備体制も随分と緩いようだった。
車を停めた三人はエレベーターに乗り、八階へ向かう。やがて802号室の前で足を止めた。
同じ頃、一台の車が街灯の下に静かに停まっていた。颯斗は車窓越しに、路肩で固く抱き合い、互いの存在を確かめるように寄り添う二人の後ろ姿を見つめていたが、やがて視線を戻し、助手席で煙草をくゆらせている練の横顔へと目を向けた。「……一つだけ、どうしても腑に落ちないことがあるんだ」練は静かに煙をひと吐きした。「何だい?」「もし、あの剣修が本当に刑天岳本人だったとしたら、彼がかつて持っていたはずの凄まじい功力は、一体どこへ消えたんだ?内丹は?どうして俺たちは、彼の身体からその気配をまったく感じ取れなかったんだろう?」「それについては、いくつかの可能性に分けて考える必要がある」練は片腕を窓枠に預け、煙草の灰を外へ軽く払うと、冷静な口調で語り始めた。「内丹や修為を完全に失うケースはいくつかある。一つは致命的な『毒』。もう一つは、強敵との戦いで重傷を負い、全身の経脈を寸断された場合。そして最後は、修行中に気が逆流し、内臓を焼き尽くすほどの暴走を起こした場合だ。……だが、刑天岳の肉体は幻蛇に奪われる直前まで極めて健康だった。過去に異常の兆候も確認されていない。だから中毒の可能性はまず除外できる。さらに、彼の功法は非常に純粋かつ正統なもので、暴走の兆しも一切なかった。そうなると、辻褄が合うのは二番目の『重傷』だけだ」「そう考えると、やっぱり記憶を失う前、刑天岳と銀狐が白神岳の頂で三日三晩にわたって死闘を繰り広げた時、本気の勝負の最中に、銀狐がうっかり致命傷を負わせてしまった……って可能性も十分
皆川の顔は一瞬で強張った。颯斗を見て、次に練へと視線を走らせる。その刹那――これは最初から颯斗と練が裏で手を組み、食事に誘うという名目で仕掛けた罠だったのではないか、とさえ思った。青峰に自分の本心を聞かせるための罠だったのではないか、と。颯斗は「本当に違います」と言わんばかりに激しく首を振り、練もお手上げだと言いたげにため息をついた。もちろん、これは二人の計画などではない。だが、世の中というものは時に皮肉なほど出来すぎた偶然を用意する。その偶然の悪戯は、どれほど言葉を尽くして説明しても、皆川に信じてもらうのが難しいと思えるほどだった。しかし今の皆川は、すでに頭の中が真っ白になっていた。自分の失態への羞恥で、顔から耳の裏まで真っ赤に染まっている。そんな弁明に耳を傾ける余裕などなかった。これ以上その場に留まっていられず、彼は突然立ち上がると、引き留めようとする青峰を乱暴に振り払い、一度も振り返ることなく露天バルコニーの階段を駆け下りていった。「有栖!待ってくれ!止まって、俺の話を聞いてくれ!」皆川の頭の中は真っ白だった。自分がどこへ向かって走っているのかも分からない。ただ無我夢中で走り続けていたが、ものの数分で、体力ではるかに勝る青峰に追いつかれ、手首をしっかりと掴まれた。二人が立っていたのは大きな橋の上だった。橋の下には深く激しく渦を巻く大河が流れている。その荒々しい流れは、まるで今の皆川の心そのもののようだった。青峰は肩で荒く息をしながら、皆川の目を真っ直ぐ見つめた。「どうして逃げる?俺はお前を責めるようなことを一言でも言ったか?お前の行動を咎めたりしたか?」「僕は……どんな顔をして君に会えばいいのか分からないんだ」
皆川は首を横に振った。「一真のことが嫌いなわけじゃない。ただ、一真と一緒にいると、僕は『僕自身』でいられなくなるんだ。僕が嫌悪しているのは、自分の人生の主導権が少しずつ手からこぼれ落ちていく、あの感覚なんだよ」一目見れば分かるほど、皆川が青峰を深く愛していることは明らかだった。最初から彼は、その想いを周囲に隠そうともしなかった。それなのに、青峰の姿を見るたびに逃げ出したくなる――それはまるで、あの精神世界で銀狐が剣修に向けていた拒絶そのものだった。当初、颯斗も「これは皆川先生お得意の駆け引きの一種じゃないか」と疑ったことがある。しかし今になってようやく、その問題の根源が皆川の心の奥底に潜む「親密な関係への恐怖」にあるのだと理解した。この心の傷こそが、一連の騒動を引き起こした真の元凶だったのだ。その事実は、颯斗の予想をはるかに超えていた。「要するにね、僕はただの――恋愛に向いていない“大きな子供”なんだよ」颯斗は、目の前でかすかに肩を震わせる皆川を見つめながら、しばらく言葉を見つけられなかった。恋愛経験ゼロ、生粋のソロプレイヤーである自分には、この問題はあまりにも難しすぎる。理解するにも共感するにも、今の彼には荷が重かった。だが皆川自身も、颯斗から深い理解や共感を得られるとは最初から期待していなかったのだろう。ただ、自分の胸の奥底に長年封じ込めてきた本音を、誰かに吐き出すきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。「僕はこれまで何度か恋愛をしてきた。でも、そのどれもが最後は決まって僕の『逃避』で終わったんだ」皆川は顔を上げ、颯斗を見つめた。「本当に、ときどき君
練が予約していたのは、知る人ぞ知る隠れ家の名店だった。川沿いに佇む料亭で、彼はその中でもひときわ眺めの良い露天バルコニー席を丸ごと貸し切っていた。席に腰を下ろすと、川面をゆっくり行き交う渡し船の灯りと、宝石を散りばめたような街の夜景が一望できた。四月も上旬を過ぎ、季節は少しずつ春の深まりを見せていた。夜風はまだひんやりとしていたが、正面から吹き込む風は胸の奥まで染み渡るように心地よい。四人は欄干越しの景色を眺めながら、美しい夜景と料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わした。そして互いの近況やこれからの展望について、ゆったりと言葉を交わしていく。盃を重ねて大騒ぎするような宴ではなかったが、終始和やかな空気に包まれていた。数か月前、診療所で顔を合わせた時のあの気まずさとは、まるで別世界のようだった。腹も満たされ、身体もほどよく温まった頃、練は会計のために席を立ち、青峰も手洗いへ向かった。バルコニーには他に客の姿はなく、自分と皆川の二人きりになったのを見計らって、颯斗が意味ありげな笑みを浮かべながら身を乗り出した。「皆川先生、ちょっと野次馬根性で聞きたいんですけど、青峰さんの撮影も無事終わったことですし……お二人、これから一緒に住むんですか?それとも別々ですか?」皆川は、すべてお見通しだと言わんばかりに微笑んだ。「……一真がこのまま診療所に居座って、飯も寝床もたかり続けるんじゃないかって心配してるんだろう?」「い、いえいえいえ!」颯斗は慌てて両手を振った。「青峰さんを煙たがってるわけじゃないんです!純粋な好奇心ですよ。だって前にお二人が同居してた時、ちょっと揉めたじゃないですか。もしまた一緒に暮らすことになったら、これから先また衝突したりしないのかなって」皆川は静かに目を伏せ、その表情にわずかな陰りを落とした。「実は……あの時のことは全部、僕が悪かったんだ。彼を責める資格なんてないよ」「どういう意味ですか?」「あの頃の僕は、確かに彼にたくさん嘘をついていた。スマホの電源を切っていたことも、何の前触れもなく文字通り姿を消したことも、全部ね。彼の被害妄想なんかじゃなくて、僕が意図的にそうしていたんだ」皆川の声に大きな起伏はなかった。まるでありふれた日常の出来事を語るような、静かな口調だった。「意図的に?」颯斗は目を丸くした。「……どうしてそ
「……それって、本当に恋愛脳なのか?」青峰は両手で顎を支えながら、自分の抱いている感覚をどう言葉にすればいいのか考え込んでいた。その時だった。二人の少し後ろから、よく通る声が響いた。「それが恋愛脳かどうかは、先生の筆の下にいる登場人物たちが、どんな『選択』をするかで決まるんじゃないかな」振り返ると、そこには笑顔で手を振る颯斗と、両手をスラックスのポケットに入れ、仕立ての良いスリーピーススーツを隙なく着こなした練の姿があった。今の言葉を口にしたのは、ほかでもない練だった。「みなさん、どうしてここに!?」青峰は目を丸くした。「今日で無事クランクアップだって聞いたからな。お祝いと陣中見舞いを兼ねて来たんだよ」颯斗は朗らかに笑いながら歩み寄り、親しげに青峰の肩へ腕を回した。「霧生先生、先日は本当にお世話になりました」皆川は立ち上がり、練と丁寧に握手を交わした。「……今のお話ぶりからすると、もしかして僕の小説の結末について、何かご意見をお持ちなんですか?」「意見だなんて、とんでもない。以前、ナナミさんからこの作品の大まかなあらすじを聞かせていただく機会がありましてね。ですから、青峰さんが今どんなお気持ちなのか、ある程度は理解しているつもりです。青峰さんはもともと、ご自身の考えを言葉にするのが少し苦手なところがありますから、つい横から口を挟んでしまいました。どうかご容赦ください」「そんな、とんでもありません」&
「俺の意見?」青峰は目を丸くした。「いや、それはさすがにまずいんじゃないか?」「何が?」皆川は首を傾げる。「だって、これは先生の大事な作品だろ?」青峰は気まずそうに鼻先をこすった。「こんな重要な終盤の展開なんて、俺じゃなくて担当編集に相談するべきだよ。俺なんか文章のことは何も分からないし、まさに釈迦に説法だろ」「編集者の意見なら、もう耳にタコができるほど聞いてきたよ」皆川は苦笑した。「今僕が欲しいのは、純粋な読者としての感想なんだ」「そういうことか」青峰はわざとらしく咳払いをひとつした。「……じゃあ一言だけ言うけど、俺の意見が俗っぽくて幼稚だからって笑わないでくれよ」皆川は姿勢を正し、真面目な表情で頷く。「笑わないよ。思ったままを聞かせて」「この小説の本当の主人公が狐なのはちゃんと分かってるんだ。でも読んでいくうちに、どうしても俺は狐に感情移入できなかったんだよな」青峰は言葉を選びながら続けた。「その代わり、剣修のほうにはすごく共感したんだ。あいつはあんなに長い間、狐を追いかけ続けて、傷だらけになりながら頑張ってきたじゃないか。だから最後くらいは、少しでも報われてほしいって思っちまうんだよ」そこまで話してふと顔を上げる。すると皆川が、どこか意外そうな、驚きを含んだ眼差し
アルベインの計らいで、睦弥と颯斗たちは相席を許され、思いがけず豪華な食事にありつくことになった。睦弥はもとより小食なのか、あるいは遠慮しているのか、数口ほど運んだきりで箸を置いてしまった。ルアンと名乗ったその青年――睦弥の話によれば、家は町の北西に座す山の麓にあり、幼い頃から病弱で小柄なために力仕事はできず、絵を描く才に多少恵まれたことから、長らく絵を売って生計を立ててきたという。体力の消耗を極力抑えるべく、家に籠っては一歩も外へ出ず、飲食も忘れてひたすら絵
『闇は深く、霧は濃く。鬼鴉啼けば、戸を出るな』フォグレインに古くから伝わるこの童謡のとおり、夜になって町が濃霧に包まれると、黒い影が上空を旋回し、まるで通夜のような不吉な鳴き声が、そこかしこから響き渡る。そんな時、町の家々は例外なく門戸を堅く閉ざし、誰一人として外へ出ようとはしない。一寸先も見えぬ濃霧の中では、常人はおろか、狼のように卓越した五感を持っていたとしても、十メートル先の景色を識別することさえ至難の業だ。だが、颯斗は違った。何しろ彼には、専属の「カーナビ」がついている。「この先の分岐を左だ。そのまま直進、二百メートル先を右へ」練は瞬時にルートを解析し、
颯斗は、五文字を超える名前というものを、ことごとく忌み嫌っていた。「アルベイン、アドレ……ああ、もう!また噛んだ」颯斗は苛立ちを隠しもせず頭をかきむしると、拳で太ももを一つ叩いた。「やめだやめ、長すぎる。お前はもう『アル』でいい!」原野を抜けた先にあるフォグレインという名の小さな町。その入り口に佇む一軒の宿屋で、練と颯斗、そしてアルベインの三人は一つの食卓を囲み、肉を食らい、酒を酌み交わしていた。もっとも、心界では空腹を感じることはない。それでも、酒を飲み肉を食らうという快楽は確かに存在する。狼である颯斗が、肉と酒を前に遠慮するはずもなかった。かたや牧師である練は、許されているの
森を抜けると、沼沢の広がる原野に出た。雨はとうに上がり、暗紅の空には血のような月が懸かり、大地を血の海へと染め上げていた。空気は重く湿り気を帯び、胸の奥底までじわりと沈み込んでくる。それはあたかも、誰かの悪夢の底へ足を踏み入れてしまったかのようだった。颯斗が駆け出して間もなく、この世界に来て初めての敵と遭遇した。それが敵であると確信できたのは、二人の前に立ちはだかる者が、小柄で背の曲がった、尖った耳を持つ異形であったからに他ならない。それは明らかに――。「『魘』だ」練が険しい表情で呟いた。「いやいやいや!どう見てもゴブリンだろ、霧生さん!」颯斗が即座に言い返す。







