LOGIN娘の誕生日を祝おうと出かけた途中、俺たちは交通事故に遭った。 意識を取り戻した俺――相沢慎(あいざわ しん)は、病床を囲む家族を見渡し、冗談を口にした。 「すみません。どちらさまですか?」 笑いをこらえながら、記憶を失ったふりをする俺に、みんながどんな反応をするのか見てみたかった。 父や妻の藤崎葉月(ふじさき はづき)が心配そうに俺の手を握るのか。それとも、娘が泣きながら「パパ」と飛びついてくるのか。 ところが、彼らは一瞬驚いたあと、揃って安堵の表情を浮かべた。 最初に口を開いたのは父だった。どこか肩の荷が下りたような声で言った。 「忘れたなら、かえって好都合だ。実はお前は神崎家の養子で、修平が本当の息子なんだ」 葉月も俺を指し、娘に言った。 「この人のことは、慎おじさんと呼びなさい」 衝撃で何も言えずにいる俺の目の前で、命懸けで守った娘は振り返り、神崎修平(かんざき しゅうへい)の胸へ飛び込んだ。 「パパ!今日は一日中遊びに行ってたから、会いたかった!」 俺の「記憶喪失」は、彼らにとってまさに好都合だったのだ。 それなら、こんな偽りだらけの関係など、もう何もかも捨ててしまえばいい。
View More直樹があとから会議室へ入り、常温の水を差し出した。心配そうに俺の顔を見た。「大丈夫か?」俺はグラスを受け取り、一口飲んでから首を振った。「ああ。自分でも驚くくらい、何も感じなかった」本当に、何も感じなかった。再び二人と顔を合わせれば、痛みや複雑な感情が込み上げると思っていた。だが実際にそのときが来て、初めて分かった。俺の心はすでに、波一つ立たない海のように静まり返っていた。二人はもう、そこに何の波紋も起こせなかった。これで一件落着だと思っていた。ところが数日後、また招かれざる客が現れた。父だった。葉月以上に憔悴し、髪の大半が白くなっていた。顔には深いしわが刻まれ、この1年で一気に老け込んだように見えた。直樹に案内されてオフィスへ入ってきた父は、俺を見るなり涙を流した。抱きしめようと近づいてきたが、俺は体をずらして避けた。行き場を失った両手が、宙で止まった。父はしばらく動けずにいたが、やがて震える声で話し始めた。「慎……お前は俺の息子だ。俺が間違っていた。本当にすまなかった……」父は涙を流しながら、かすれた声で何度も謝り続けた。修平の言葉に惑わされ、判断を誤って俺を傷つけてしまったのだと訴えた。この1年、後悔と苦しみから逃れられず、病気も悪化したという。医師からは、残された時間は長くないと告げられたらしい。死ぬ前に俺の許しを得ることだけが、最後の願いだと言った。父はあのDNA鑑定書まで取り出し、震える手で差し出した。「慎、見てくれ。俺たちは本当の親子なんだ。俺を見捨てないでくれ!」以前の俺なら、心を動かされていたかもしれない。だが今は、ただ滑稽にしか見えなかった。鑑定書を受け取らず、冷めた目で父を見た。「もう芝居はやめろ」父は呆然とした。「慎、お前……俺を信じないのか?」乾いた笑いが漏れた。「何を信じろと言うんだ?真相を知りながら、修平が俺の人生を奪い続けるのを黙って見ていたことか?それとも自分を守るため、迷わず俺を養子だと言い張ったことか?」「俺は……」父は答えられなかった。「病気なら医者に診てもらえ。懺悔したいなら教会へ行け。俺のところへ来ても何も変わらない」俺は父の手から鑑定書を取り、目の前で破り捨てた。「謝
翌日、葉月は杏奈を連れ、直接スタジオを訪ねてきた。そのとき、俺はクライアントと打ち合わせをしていた。慌てた様子のアシスタントが会議室へ入ってくると、俺の耳元で小声で告げた。「相沢社長、藤崎と名乗る女性が、お子さんを連れて受付に来ています。どうしても社長にお会いしたいとのことです……」会議室にいた全員の視線が、俺へ集まった。俺は表情を変えず、クライアントに軽く頭を下げた。「申し訳ありません。少々失礼します」会議室を出ると、ロビーに立つ葉月と杏奈がすぐに目に入った。1年ぶりに見る葉月は、以前よりかなり痩せていた。目元には疲労の色が濃く、かつての自信に満ちた姿は見る影もなかった。杏奈も背が伸びていた。目を赤くし、落ち着かない様子で葉月の後ろに隠れていた。俺の姿を見た途端、葉月の表情が明るくなった。早足で近づいてくると、わずかに声を震わせた。「慎……やっと見つけた」俺はその場から動かず、冷ややかに葉月を見た。「藤崎さん、何かご用ですか?用がないなら、仕事の邪魔をしないでください」「慎、そんな言い方をしないで……」葉月は苦しそうに表情をゆがめた。「私が間違ってた。本当に反省してる。この1年、どうしてあんなことをしたのか、毎日後悔してきた。もう一度だけ機会をくれない?やり直したいの」「やり直す?」俺は鼻で笑った。「葉月、一度失った信頼は、もう元には戻らない。俺たちがやり直せると、本気で思ってるのか?」葉月は何も答えられなかった。そのとき、杏奈が葉月の後ろから飛び出し、俺の脚にしがみついて泣き出した。「パパ!パパ、ごめんなさい!私が悪かったの!嘘をついたり、慎おじさんなんて呼んだりしてごめんなさい!私を捨てないで、パパ!ずっと会いたかった!」子どもの泣き声は、否応なく周囲の同情を誘う。スタジオのスタッフたちも、痛ましそうな顔でこちらを見ていた。俺は視線を落とし、脚にしがみついて泣きじゃくる杏奈を見た。胸の奥が、わずかに揺れた。だが、それだけだった。一度塞がった傷は、もう以前のようには痛まない。俺は杏奈の指を一本ずつ、脚から引きはがした。そして、しゃがんで目線を合わせ、落ち着いた声で言った。「俺は杏奈のパパじゃない。杏奈のパパは修平だ。みんなに合わ
それから数日のうちに、俺は弁護士を通じて家庭裁判所へ離婚調停を申し立て、葉月の不貞を裏づける証拠をすべて提出した。同時に、婚姻中に築いた財産の分与も求めた。家庭裁判所からの呼出状を受け取った葉月は、対応に追われた。会社の危機を収拾し、世間からの批判にも耐えなければならない。そのうえ、俺との離婚問題まで抱えることになった。葉月は俺に連絡を取ろうとしたが、電話もSNSも、すべてブロックされていた。結局、弁護士を通じて和解を求めてきた。葉月側の弁護士によると、彼女は財産をすべて放棄する代わりに、俺に申し立てを取り下げ、これまでの騒動はすべて誤解だったと公に説明してほしいという。俺は自分の弁護士を通じ、こう返した。【構わない。市内で一番大きな広場に3日3晩ひざまずいて俺に謝るなら、考えてもいい】その返答を聞いた葉月は、怒りのあまり、オフィスの物を手当たり次第に壊したらしい。一方、神崎家はさらにひどい状況に陥っていた。父は大きな衝撃と屈辱に耐えきれず、寝込んでしまった。これまで大切にしてきた修平が、どれほど身勝手で悪意に満ちた人間だったのか、ようやく理解したのだ。そして、そんな男のために、たった一人の実の息子を自ら傷つけた。父は後悔していた。毎日のように電話やメッセージを送り、過ちを認めて許しを求めてきた。俺は一度も返信しなかった。傷つけたあとになって向けられる情など、何の価値もない。すでに取り返しのつかない傷を残しておきながら謝るのは、自分の罪悪感を軽くしたいだけだ。俺が許してやる理由など、どこにもなかった。俺はそこまで寛大な人間ではない。あいつらが、かつて俺に味わわせた苦しみの底へ、二度と這い上がれないほど深く沈んでいく姿を見届けたかった。離婚調停で合意には至らず、争いは訴訟へ移った。だが手続きは、予想以上に早く進んだ。動かしようのない証拠を前に、葉月には反論の余地がなかった。最終的に、財産分与と慰謝料を合わせ、婚姻中に築いた共有財産の7割に相当する額を俺が受け取ることになった。葉月は財産の大半を失った。会社も一連の騒動で経営破綻寸前まで追い込まれ、最後は競合企業に安値で買収された。やり手の経営者として名を知られていた葉月は、わずかな間にすべてを失った。
修平の誕生日パーティーは、とんでもない騒ぎのなかで幕を閉じた。翌日には、藤崎家と神崎家をめぐる騒動や、修平が俺の立場を奪っていた事実が青凪市中に広まり、世間の格好の話題となった。葉月が経営する会社の株価は急落し、取引先からも次々と契約解除を申し入れられた。神崎家の事業も、大きな打撃を受けた。その頃、俺は海外のスタジオにいた。明るい日差しが差し込む大きな窓の前でコーヒーを飲みながら、直樹が送ってきた会場の映像を見ていた。招待客が去ったあとの宴会場は、見る影もなく荒れていた。その中で、修平と葉月が激しく言い争っていた。「葉月!慎が記憶を失っていないと知っていたなら、どうして俺に言わなかった!全部自分の思いどおりになると言ってただろ!」修平が声を荒らげた。「私だって、慎が本当に記憶を失ってないなんて、確信してたわけじゃない!」葉月は修平へ詰め寄り、両手でその肩をつかんで激しく揺さぶった。「今さらそんなことを言って、何になるの!私の信用は地に落ちた。会社まで潰れかけてる!全部あなたのせいよ!あなたが余計なことをして、欲を出したからでしょう!」修平は信じられないという顔で葉月を見た。「今度は全部、俺のせいにするのか?俺を家に住まわせたのは誰だ?慎の前で、杏奈に『慎おじさん』と呼ばせたのは誰だ?俺にあれこれ世話をさせて、それを当然のように受け入れていたのは誰だよ!」修平は葉月の手を強く振りほどき、何歩か後ろへ下がった。その顔には皮肉な笑みが浮かんでいた。「お前だって俺に気があったんだろ?慎の冷めた態度にうんざりしてたんじゃないのか?俺に一度も心が動かなかったと言い切れるのか?」「あなたに気があった?」葉月は鼻で笑った。「修平、自分を何だと思っているの?」険しい表情で、一つ一つ突きつけるように続けた。「そばに置いていたのは、幼い頃から一緒に育ったあなたを放っておけなかったからよ。多少の責任があると思っていただけ。同情を恋愛感情と勘違いしないで。私は一度も、あなたに何かを約束したことなんてない。勝手に距離を詰めて、都合のいい未来を思い描いていたのはあなたでしょう。今になっても、まだ自分の立場が分からないの?私の夫は、最初から最後まで慎一人よ」その言葉は、修平に残っていたわずかな自尊心まで容赦
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