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二十年遅れの「公平」なんて、もういらない

二十年遅れの「公平」なんて、もういらない

By:  リョウでいいやCompleted
Language: Japanese
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私、御厨琴音(みくりや ことね)の家では、何より「公平」が重んじられている。双子の兄・御厨朔人(みくりや さくと)と姉・御厨彩葉(みくりや いろは)は、父と母が少しでもどちらかをひいきすると、すぐに張り合って喧嘩になるからだ。 そのため、家にあるものは何でもきっちり二人分。一つは兄へ、もう一つは姉へ。 幼いころ、何もわからず母に尋ねたことがある。「私の分は?」 返ってきたのは、怒鳴り声だった。「お兄ちゃんとお姉ちゃんだけでも大変なの!琴音まで面倒を増やさないでよ!」 やがて、家の車は7人乗りのミニバンに買い替えられた。家族は5人。 家族旅行に出かける日、空いた二席のうち、一つには姉の猫を入れたキャリー、もう一つには兄の犬。私は乗る場所もなく、雨の中、開いたドアの前に立ち尽くしていた。 兄は私を見るなり、犬をかばうように腕を回した。姉はあからさまに嫌そうな顔をする。「公平にするって決めたでしょ。誰も私の猫の席、取らないでよ」 父はまだ雨に濡れている私を、苛立たしげに見た。「琴音、何かほかに予定ないのか?」 寒さに震えながら、それでも私は笑って答えた。「あるよ。だから、私、行かない」 その場を離れた私は、大学の留学担当に海外交換留学の申請書を提出した。 20年待っても、私だけには一度も回ってこなかった「公平」もう、ここに立ち止まって待ち続ける必要はない。

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Chapter 1

第1話

一人で家まで歩いて帰ったころには、服の中まで雨が染み込み、全身びしょ濡れになっていた。

玄関に入ったところで、スマホが震えた。

家族のLINEグループに、母から私宛てのメッセージが届いている。

『この数日、一人でご飯どうするの?』

珍しく、私のことを気にかけてくれた。

そう思っただけで、胸の奥がきゅっとして、目の奥まで熱くなった。

けれど、返事を打つより先に次のメッセージが届いた。

『冷蔵庫の中のものには手をつけないでね』

『あれはお兄ちゃんとお姉ちゃんの分だから。二人に同じだけ行き渡るように、ちゃんと分けてあるの』

『琴音が食べたら公平じゃなくなるでしょう』

胸に浮かんだばかりの温かさが、すっと消えた。

じゃあ、私の分は?

そう打ちかけた指が止まった。

結局、その文は消して、短い返事だけ送った。

『わかった』

こんなことは、これまで何度もあった。

聞いたところで、誰も気に留めてくれない。

この家には、最初から私の分なんてない。

ずっと、それが当たり前だった。

スマホをしまい、何か食べられるものがないか家の中を探した。

見つかったのは、隅に置かれた箱の中の、賞味期限が切れて湿気た菓子パンだけだった。

寒さと空腹の中、どうにか眠りについた。

ところが真夜中、いきなり濡れた上着を頭に投げつけられ、はっと目を覚ました。

驚いて目を開けると、廊下には明かりがつき、リビングから騒がしい声が聞こえてきた。

父と母は、遠出しようとしたところで大雨になり、道路が通行止めになったと愚痴をこぼしていた。

入口には、姉が腕を組んで立っていた。

「何ぼーっとしてるの?これ見たら、洗ってってわかるでしょ」

上着には泥水が跳ねていた。

さっき頭に投げられたせいで、髪まで湿ってべたついていた。

眠くて、まぶたもまともに開けていられないまま、力の入らない声で頼んだ。

「お姉ちゃん、今日はもう寝かせて。明日の朝、起きたらすぐ洗うから」

姉はすぐに声を荒らげた。

「やりたくないならそう言えばいいじゃん。言い訳しないでよ!」

そこへ兄もやってきて、泥だらけのスニーカーを床に放った。

「彩葉のを洗うなら、俺のも洗えよ。さっさとやっとけ」

母は洗濯物を抱えたまま、私をちらりと見た。

そして眉をひそめる。

「うちは三人きょうだいなんだから、何でも公平にしないとだめでしょう。

お兄ちゃんとお姉ちゃんは朝からずっと出かけてて疲れてるの。琴音は家にいたんだから、洗濯くらいやってあげなさい」

家族全員から責めるような目を向けられているうちに、ふっと笑いたくなった。

この家の「公平」は、ずいぶん都合よくできているらしい。

何かを分けるときの「公平」は、兄と姉のためにある。

面倒を引き受けるときになって初めて、私も三人きょうだいの一人に数えられる。

もう何を言っても無駄だ。黙って泥だらけの服と靴を抱え、洗面所へ向かった。

全部洗い終わるまで、3、4時間かかった。

目の前が暗くなる。

空腹のせいで、低血糖を起こしかけているのがわかった。

壁に手をつきながらリビングへ行き、白湯を飲もうとした。

ちょうどそこへ、父が焼き鳥の袋を提げて帰ってきた。

私を見ると、父は反射的に袋を背中へ隠した。

それから、気まずそうに笑った。

「ちょうど四人分なんだ。琴音まで入れると量が半端になるし、お兄ちゃんとお姉ちゃんがまた揉めるだろ?

柿ピーならあるぞ。あの二人はいらないって言ってたから、琴音が食べればいい」

差し出された袋を見て、思わず笑った。

受け取らずに、静かに言った。

「お父さん。私、ピーナッツアレルギーだよ」

父の顔が、一瞬だけ固まった。

けれど、それだけだった。

姉に呼ばれるとすぐ返事をし、そのまま何事もなかったように私の横を通り過ぎていった。

その背中を見ながら、体の横に下ろした手をぎゅっと握った。

胸の奥がずきりと痛んだ。

それでも、もう泣く力さえ残っていなかった。

白湯を少しずつ飲み、ふらつきが治まるのを待ってから納戸へ戻った。

少しでも横になろうと、扉を開けた。

そこには、兄と姉が片づけていないキャリーケースや荷物が、部屋いっぱいに置かれていた。

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第1話
一人で家まで歩いて帰ったころには、服の中まで雨が染み込み、全身びしょ濡れになっていた。玄関に入ったところで、スマホが震えた。家族のLINEグループに、母から私宛てのメッセージが届いている。『この数日、一人でご飯どうするの?』珍しく、私のことを気にかけてくれた。そう思っただけで、胸の奥がきゅっとして、目の奥まで熱くなった。けれど、返事を打つより先に次のメッセージが届いた。『冷蔵庫の中のものには手をつけないでね』『あれはお兄ちゃんとお姉ちゃんの分だから。二人に同じだけ行き渡るように、ちゃんと分けてあるの』『琴音が食べたら公平じゃなくなるでしょう』胸に浮かんだばかりの温かさが、すっと消えた。じゃあ、私の分は?そう打ちかけた指が止まった。結局、その文は消して、短い返事だけ送った。『わかった』こんなことは、これまで何度もあった。聞いたところで、誰も気に留めてくれない。この家には、最初から私の分なんてない。ずっと、それが当たり前だった。スマホをしまい、何か食べられるものがないか家の中を探した。見つかったのは、隅に置かれた箱の中の、賞味期限が切れて湿気た菓子パンだけだった。寒さと空腹の中、どうにか眠りについた。ところが真夜中、いきなり濡れた上着を頭に投げつけられ、はっと目を覚ました。驚いて目を開けると、廊下には明かりがつき、リビングから騒がしい声が聞こえてきた。父と母は、遠出しようとしたところで大雨になり、道路が通行止めになったと愚痴をこぼしていた。入口には、姉が腕を組んで立っていた。「何ぼーっとしてるの?これ見たら、洗ってってわかるでしょ」上着には泥水が跳ねていた。さっき頭に投げられたせいで、髪まで湿ってべたついていた。眠くて、まぶたもまともに開けていられないまま、力の入らない声で頼んだ。「お姉ちゃん、今日はもう寝かせて。明日の朝、起きたらすぐ洗うから」姉はすぐに声を荒らげた。「やりたくないならそう言えばいいじゃん。言い訳しないでよ!」そこへ兄もやってきて、泥だらけのスニーカーを床に放った。「彩葉のを洗うなら、俺のも洗えよ。さっさとやっとけ」母は洗濯物を抱えたまま、私をちらりと見た。そして眉をひそめる。「うちは三人きょうだいなんだか
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第2話
荷物が多すぎて、床にはもう置き場所すら残っていなかった。それでも入りきらなかったのか、姉の猫用トイレまで私の布団の上に置かれていた。一瞬、頭の中が真っ白になった。思わず振り返る。リビングからは楽しそうな笑い声が聞こえていた。ちょうど母と目が合った。布団の上の猫用トイレも、どうしていいかわからず立ち尽くしている私も、見えていたはずだ。けれど母は、ちらりと見ただけで視線を戻した。こんなことは、今に始まったことじゃない。昔は、私にも自分の部屋があった。きっかけは、姉が「自分の部屋だけ兄より一畳くらい狭い」と泣いて騒いだことだった。困った父と母は、私の部屋の半分を姉の服やバッグを置く場所にした。それを知った兄は、何も言わなかった。ただ、あからさまに機嫌を悪くしてドアを乱暴に閉め、その日は夜まで帰ってこなかった。すると今度は、残った半分まで兄のゲームスペースになった。私は自分の部屋を追い出され、冬は寒く、夏はひどく暑い納戸で寝起きするようになった。外ではまだ雨が降っている。窓枠から入った雨水が、窓辺にたまっていた。たまった雨水を見ているうちに、ようやく気づいた。この家で何かが足りなくなるたび、いつも押し出されるのは私だった。前は自分の部屋。今度は、眠る場所までなくなった。私は扉を閉め、向こう側の笑い声を遮った。その晩は眠れなかった。そもそも、横になれる場所さえなかった。翌朝早く、大学の留学担当者から電話があり、大学へ向かった。「交換留学の学内選考、通りましたよ」ずっと待っていた知らせだった。けれど、まだ一つ手続きが残っていた。「長期の海外留学なので、こちらの書類に保証人の署名が必要なんです。ご家族には、もうお話しされていますか?」服の裾をつまんでいた手に、力が入った。それでも笑って答えた。「大丈夫です。なんとかします」書類を受け取って大学を出たところで、母と姉に鉢合わせた。姉は目を真っ赤にして、母の腕にしがみついていた。「お母さん、もうやだ。朔人はバスケの大会で優勝したのに、私だけ何もないんだよ?何の賞もないなんて恥ずかしいし、不公平じゃん!」母は何度も姉をなだめていた。昔なら、その親しげな姿を見るだけで、羨ましくて仕方な
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第3話
姉はトロフィーと副賞を受け取ると、すぐに写真を撮ってインスタに載せた。すると兄も張り合い始め、バスケの大会で優勝した自分のことも祝ってほしいと言い出した。結局、父と母は二人まとめてお祝いの食事会を開くことになった。その食事会に選ばれたのは、本来なら私の誕生日を祝うはずだった日だった。20歳の誕生日は、一度しかない。半年以上前から楽しみにして、家族全員がその日を空けられることまで確認していた。積み重ねてきた期待が、一気にばかばかしく思えた。ホテルの宴会場で、父と母は珍しくやさしい声で私をなだめた。「誕生日は別の日でも祝えるでしょう。お兄ちゃんとお姉ちゃんは昔から何でも張り合うんだから、今日は譲ってあげて」私はぎこちなく笑った。これが、この家で祝ってもらえる最後の誕生日になるかもしれない。その言葉は飲み込んだ。しばらくして、ケーキが運ばれてきた。兄と姉は並んでケーキの前に立ち、得意そうに笑っていた。親戚の一人が冗談めかして言う。「そういえば、琴音ちゃんも今日が誕生日でしょう?三人のお祝いなら、ケーキ一つじゃ足りないんじゃない?」そのときには、父はもうケーキを二人分に切り分けていた。こちらを振り返り、気まずそうに笑う。「三人分に分けるのは難しいから、琴音の分はまた今度な」また今度。子どものころから、何度聞いてきただろう。父と母の気持ちは、いつも兄と姉にばかり向いていた。私の番は、どれだけ待っても回ってこなかった。母は私が機嫌を悪くして場を乱すのを気にしたのか、私だけを端へ呼び、手伝うよう言いつけた。そのあとは、食事会の間じゅう、ホテルのスタッフのように動き回った。ようやく少し休もうとしたとき、母と父方の叔母の話し声が聞こえてきた。「上の双子がかわいくて、愛嬌があるのはわかるけど、琴音ちゃんだってずっと手のかからない子でしょう。あの二人ばかり可愛がるのは、さすがにかわいそうよ」気にしないと決めていたのに、思わず足を止めた。しばらくして、母の声が聞こえる。「あなたにはわからないわよ。あの双子は私たちにとって特別なの。琴音とは……やっぱり違うのよ。それに、あの子は昔から何を考えてるのかわからないでしょう?いつも黙ってるし、笑いもしないし……正直、か
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第4話
気づいたときには、姉のもとへ駆け寄っていた。親戚たちが驚いて見ている中、姉の前に手を差し出す。「返して」姉は一瞬ばつの悪そうな顔をし、すぐ母の後ろに隠れた。父が不満そうにこちらをにらんだ。「何騒いでるんだ」私は父を無視し、姉だけを見た。目の奥が熱くなった。「返してって言ってるの!」姉はブレスレットをつけた手を後ろに隠した。「なんでおばあちゃんは琴音にだけあげるの?私にはないなんて不公平じゃん。私だって公平にしてほしいだけだよ」怒りで声が震えた。「公平?小さいころから、親戚からお年玉やお祝いをもらうときだって、用意されるのはお姉ちゃんとお兄ちゃんの二人分だった。私だけにもらったものなんて、今までこのブレスレット一つしかない。それでも不公平なの?」姉は言い返せず、顔を赤くして目に涙をためた。そこへ兄がやってきた。姉の手首からブレスレットを外すと、そのまま床へ叩きつけた。糸が切れ、真珠が床に散らばった。散らばった真珠を、呆然と見つめた。兄は嫌そうに私を見て、冷たい声で言う。「ほら、これで三人ともなしだ。満足だろ」次の瞬間、母に強く頬を叩かれた。「いい加減にしなさい!」よろけながら頬を押さえ、信じられない思いで母を見る。母の顔には怒りと失望が浮かび、その目はひどく冷たかった。人前で私を叩いたことが気まずかったのか、今度は祖母へ怒りを向ける。「お母さん、前にも言ったでしょう!うちの子たちのことに、勝手に口を出さないでって!」祖母は青ざめ、ふらりとよろめいた。まるで自分が悪いことをしたみたいに、何も言わずうつむいた。頬も胸の奥も痛くて、何も考えられなかった。しばらくして、やっと声が出た。「おばあちゃんを責めないで。私が悪かったんだよ。欲しがったり、取り返そうとしたりしなきゃよかった。もう、何も欲しがらないし、取り合ったりもしないから」父と母に向かって笑ってみせた。それでも、涙は止まらなかった。涙が叩かれた頬を伝うたび、ひりひりと痛んだ。私はホテルのスタッフからほうきとちり取りを借り、床に散らばった真珠を一粒ずつ拾った。切れた糸や留め具と一緒に、ハンカチに包んだ。真珠を拾っている間、父が母に小声で尋ねた。「
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第5話
あの日の食事会のあと、親戚たちは父と母に、上の二人ばかりひいきしないほうがいいと何度も言った。母は人前でそう言われたことが気に入らず、その苛立ちをそのまま琴音へ向けた。納戸のほうを見て、わざと大きな声で言う。「今日から、琴音には誰も話しかけなくていいから。自分が悪かったと認めて、家族に謝るまで放っておきなさい」それから数日、家族は納戸に近づかなかった。誰も様子を見に行かなかった。何日たっても、中からは物音一つしなかった。母はとうとう気になり、父にこぼした。「琴音、どうしてあんなに意地張ってるのかしら。家族に悪かったって一言謝れば済む話でしょう?家族なんだから、謝れば許すのに」父も困ったように眉を寄せ、タバコをふかした。「ほんと、あんなに根に持つとは思わなかったな」母には、琴音がなぜそこまで怒るのか本気でわからなかった。親なのだから、誰をどれだけ可愛がうかは自分たち次第だと思っていた。食べさせて、学校にも通わせ、20歳まで育ててきた。だから琴音は、これまでと同じように、ずっと聞き分けのいい娘でいるはずだった。自分たちの怒りさえ収まれば、琴音はまたいつもどおり戻ってくる。父も母も、そう思っていた。しばらく考えたあと、母はため息をついた。「もういいわ。明日、琴音に服でも買ってくる。こっちからきっかけを作ってあげれば、あの子だって出てくるでしょう。それでも意地を張るなら、もう知らない」父は母の背中を軽く叩いた。「なんだかんだ言っても、俺たちの娘だろ。親と一生会わない子どもなんていないさ」母はその言葉に安心して、その夜は眠った。翌日、母は姉を連れて買い物に出かけた。帰ってきた姉は、何万円分もの服を嬉しそうに抱えていた。一方、琴音のために買ってきたのは、1000円もしないTシャツ1枚だけだった。母はそれを納戸の前に置き、わざと聞こえるように声を張った。「琴音!新しい服、買ってきたわよ。この前、誕生日を祝ってもらえなかったって言ってたでしょう?これ、誕生日プレゼントってことでいいわよね」以前の琴音なら、すぐに扉を開けて出てきたはずだった。母の頭には、うれしそうに目を輝かせて出てくる琴音の姿まで浮かんでいた。けれど、30分たっても扉は開かなかっ
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第6話
納戸の中は、がらんとしていた。琴音の服や本を入れていた古い段ボール箱もなくなっている。そこにはもう、琴音が暮らしていた気配さえほとんど残っていなかった。そこでようやく、父と母は気づいた。琴音はあの日、食事会から帰ってきていなかった。ここ数日、ずっと家にいなかったのだ。不安がこみ上げ、母は震える手でスマホを取り出した。『琴音、いったいどこにいるの!?』『あんなことで家まで出ていくなんて、何考えてるの!』父も顔を険しくしたまま、何も言わずタバコを吸い続けていた。いくら待っても、返事は来なかった。母はとうとう慌て、父の服の袖をつかむ。「どうしよう……何とかしてよ。琴音って、今までこんなことする子じゃなかったでしょう?家を出るなんて初めてよ。近くに頼れる親戚もいないし、泊めてもらえるような友達だって聞いたことないのに……どこへ行ったの?」父は不満そうに言った。「どこへ行こうが知るか。勝手に家を出て親に心配かけるような娘なんか、こっちから捜してやる必要ない。育てた甲斐もないだろ」そう言いながらも、父はスマホで連絡先を探し始めた。やがて大学の代表番号を調べ、電話をかけようとする。そのとき、リビングから兄と姉の言い争う声が聞こえた。「そうだよ。黒い服入れたの、俺だけど。それが何?彩葉が洗濯するなんて知らなかったし。だいたい、なんで母さんは彩葉にだけ服買って、俺には何もないんだよ。不公平だろ」姉の泣き声がさらに大きくなる。「知らない!だったらこのワンピース弁償してよ!買ったばっかりだったのに!」二人がまた揉め始め、父と母は疲れきった顔で目を合わせた。そして、琴音を捜すことを後回しにした。父は兄を連れてその場を離れ、母は姉をソファに座らせる。結局、その日も手間もお金もかけて、ようやく二人をなだめた。姉が泣き止むと、母に尋ねる。「お母さん、本当に琴音を捜すつもりなの?」母は少し黙ってから、うなずいた。「何だかんだ言っても、あなたの妹でしょう」姉はすぐに声を荒らげた。「妹って何?最初から私と朔人の二人だけでよかったじゃん。なのに、なんで琴音まで産んだの?今さら家出なんかして、私と朔人の真似してるだけでしょ。そのうち、何でも私たちと同じ
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第7話
兄は何の前触れもなく倒れた。家族はすぐに救急車を呼び、そのまま病院へ向かった。検査のあと、医師は父と母に説明した。「腎機能がかなり低下しています。まずは透析で状態を安定させます。今後の経過によっては、腎移植も検討する必要があります」「移植」という言葉を聞いた途端、姉の顔が青ざめた。一歩下がり、首を横に振る。「無理。私、やらないから」医師は姉に落ち着いた口調で説明した。「患者さんとは双子のごきょうだいなんですね?双子でも必ず適合するわけではありません。提供できるかどうかは、血液型などの検査をしたうえで判断します」母は姉の手をつかんだ。「お願い。まず検査だけでも受けて。朔人がこんな状態なのよ。家族でしょう?」姉はその手を振り払った。「なんで私なの!?自分の腎臓をあげることになるかもしれないんだよ?そんなの全然公平じゃないじゃん!」こんなときまで公平を口にする姉に、母は言葉を失った。父は我慢できず、姉の頬を強く叩いた。「お前は、こんなときまで自分のことしか考えられないのか!」姉は頬を押さえ、信じられないように二人を見た。父に叩かれたのは、これが初めてだった。怒りに任せて言い返す。「私の何が悪いの?そういうふうにしたの、お父さんとお母さんでしょ?うちではずっと、何でも公平に二つに分けてきたじゃん。私と朔人の分を、同じだけ。なのに朔人が病気になった途端、今度は私の体まで出せって言うの?だったら、お父さんかお母さんがやればいいじゃん。それが無理なら、琴音を呼び戻せばいいでしょ!」そう言い捨てて、姉は病院を出ていった。父と母は、その場に立ち尽くした。しばらくして、母が震える声で言う。「私たちがあんなに大事に育ててきたのに……どうして、あの子はあんなふうになったの?私たちの育て方、本当に間違ってたのかな……」父は何も答えられなかった。医師が二人に声をかけた。「ご両親も、条件を満たせばドナー候補にはなれます。ただ、年齢や持病、腎機能などを調べる必要がありますし、提供する側にも負担があります」母はしばらく黙り込んだあと、口を開いた。「琴音なら……あの子、ほかに行くところなんてないでしょう。きっと大学にいるのよ。昔から頼まれる
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第8話
母の顔から、みるみる血の気が引いていった。耳鳴りがして、手足まで冷たくなる。「今……何て?」留学担当者は戸惑ったように首をかしげた。「ですが、お母さまは、琴音さんの交換留学の書類に保証人として署名されていますよね?」「そんなもの、私は……」否定しかけた、そのときだった。母の頭に、あの日のことがよみがえった。琴音に、トロフィーと副賞を姉へ譲るよう迫った日。琴音は代わりに、1枚の書類へ署名してほしいと言った。母は、その書類をろくに見もしないまま署名した。母は青ざめたまま、震える声で尋ねた。「すみません……琴音が交換留学に申し込んだのは、いつですか?」担当者が日付を伝えると、母は目を閉じた。琴音はずっと前から、この家を出る準備をしていた。日付を聞けば、それは明らかだった。母は周りの目も気にせず、その場に膝をついた。「お願いします。どうか琴音に連絡してください。一度だけでいいんです。あの子と話をさせてください」母はそこで初めて、琴音がどれだけ我慢していたのかを思い知った。琴音は一時の怒りで家を飛び出したわけじゃない。ずっと我慢して、失望を重ね、その末に家を出たのだ。だから何度連絡しても、返事がなかった。そのころ私は、留学先でグループワークのミーティングを終えたばかりだった。大学の留学担当者からメッセージが届く。『今、お母さまが大学に来られています』『どうしても一度お話ししたいとのことですが、少しだけお時間をいただけますか?』少し考えてから、『少しだけなら大丈夫です』と返した。担当者が母に私の返事を伝えると、すぐに母からビデオ通話がかかってきた。画面に母の顔が映っても、驚きはしなかった。いつもどおり、少しだけ笑ってみせた。「お母さん、どうしたの?」声は自分でもわかるほど冷たかった。画面越しに、生き生きとしている私を見て、母はしばらく何も言わなかった。責めるつもりだった言葉も、喉の奥で止まったようだったやがて、かすれた声で聞く。「あなた、本当にこんな遠くまで行っちゃって……このまま一生、家に帰ってこないつもりなの?」少し考えて、答えた。「うん。そのつもりだよ。こっちのほうが、就職の選択肢も多いし。それに、お母さんもわかってる
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第9話
それでも、少しだけ心に引っかかっていた。そこで一晩かけて、これまで家で私にかかった食費や服代、生活用品などを、確認できる範囲ですべて整理した。最後に出たのは、思わず笑ってしまうほど少ない金額だった。100万円。通知を切っていた家族のLINEグループを開き、まとめた表を送った。すぐに母から返事が来た。『琴音、どうして急にこんな計算してるの?』続いて、父からも届いた。『100万円しかかかってないわけないだろ』私は淡々と返した。『急に計算し始めたのは、お父さんとお母さんの真似だよ』『小さいころから、家にあるものは何でも二人分に分けて、お兄ちゃんとお姉ちゃんに同じだけ渡してたでしょう』『でも、その中に私の分は一度もなかった』『この金額も、わざと少なく見積もったわけじゃないよ。二人にも、だいたい心当たりはあると思う』『だから、お兄ちゃんのためにドナーになるつもりはない』『この100万円は、できるだけ早く返すよ』すぐに母からボイスメッセージが届いた。声はかすれて震えていた。『そのお金を返したら……もう二度と帰ってこないつもりなの?』私は何も返さず、家族のLINEをもう一度通知オフにした。これ以上、答える必要はない。……一方、病院では、母が父にすがりついて泣いていた。「私たち……いったい何をしてきたの……琴音だって、私たちの実の娘なのに。どうしてあの子に、あんな思いばかりさせてきたの……もう完全に見放されちゃった。私、どうしたらいいの……」父は何も言わなかった。このところ白髪が増え、以前より背中も丸くなっていた。これまで自分がしてきたことを思い返し、父は自分の頬を何度も叩いた。母は止めようとしたが、力が入らなかった。琴音がずっと前から留学の準備をしていたと知ったあと、母はもう、琴音に腎臓の提供を頼むつもりはなかった。その後、母は自分がドナー候補になりたいと医師に申し出た。検査の結果、母は生体腎移植のドナーになれると判断された。手術は無事に終わった。術後、医師は母の検査結果を見ながら言った。「今のところ、経過に大きな問題はありません。ただ、生体腎移植は提供する側にも負担があります。これからも定期的に検査を受けて、ご自身の体調にも気をつけてく
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