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欠けた花を咲かす詩

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-08-12 09:00:00

靄の奥で、エスティアが両手を広げた。

「——《咎読詩・二節》」

その声と同時に、谷全体の靄が震え、無数の詩文の花弁が空中に咲き乱れた。

花弁は触れた瞬間、冷たい液体のように皮膚へ染み込み、脳裏に過去の映像を押し流してくる。

幼い自分が泣いている姿、言えなかった言葉、閉じたままの頁——。

思考が過去に引きずられ、足の感覚が鈍くなる。

「くっ……!」

ユウリは花紋を前にかざし、防御詩の結界を厚く展開した。

だが、守りを強めるほど攻撃詩の構築が遅れ、じわじわと押し込まれていく。

背後で、トアが短く息を呑む。

花紋の欠けた部分が、まるで熱を持った鉄のように脈打ち、痛みが全身に走る。

その痛みは歩を進める力を奪い、靄の中で立ち尽くすしかなかった。

エスティアは足を止め、楽しげに視線を流す。

「いいわ……その苦しみ。まだ咲かない花の痛みは、美しい」

靄はさらに濃くなり、花弁の舞いが暴風のように渦を描き始めた。

谷全体が、彼女の詩の舞台へと変わっていく。

「……ただの詩じゃない。これは——」

セリアは靄の流れを凝視しながら、花弁の中で形を変える文字列を追った。

それらは一つとして同じものがなく、全てが相手の心に基づいて生成されている。

「対象の記憶を直接参照して、詩文を作ってる……だから防御も突破されるのよ」

彼女は低く吐き捨てた。

「でも、その仕組みは裏返せる。記憶から詩を奪うなら、即興で“こちらの言葉”を流し込み、上書きすればいい」

ユウリが花弁を払いながら振り返る。

「即興詩なんて、普通は精度が低すぎるだろ」

「ええ、未完成の詩は暴発する危険もある。でも——」

セリアの視線が鋭く光る。

「私がやる。わざと狙わせて、その間にあなたたちは石碑へ」

そう言うと、セリアは防御詩を一瞬緩め、自ら靄の濃い方へ踏み込んだ。

花弁が彼女を包み、即座にエスティアの視線が移る。

「……面白い。自分から読むつもり?」

エスティアの口元に、ゆっくりと笑みが広
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