LOGIN昼休みが終わり、静かな活気が戻った午後の営業部。
そこに、空気を凍らせるような鋭い声が落ちた。「吉田。これでは前回の提案より明らかに質が落ちている。先方がこれで納得すると思うか?」
波多野の厳しい視線の先で、杏の同期である
「申し訳ありません……。ですが、ご提示いただいた予算内に収めるためには、どうしても一部の家具のグレードを下げる必要がありまして」
「予算が減ったからといって、安易に提案の質を落とすのは営業として三流のやることだ」波多野はピシャリと切り捨てた。
「今日中に、当初の品質を維持したまま予算に近づけた新しい提案を作り直せ」
無慈悲な指示に、風夏は言葉を失った。
すでに複数の取引先メーカーに頭を下げ、できる限りの価格調整を重ねた上でのギリギリの提案だったのだ。 これ以上、予算と品質を両立させるのはどう考えても限界がある。しかし、冷徹な部長を前に反論する勇気などあるはずもなく、風夏は悔しそうに俯くことしかできない。
周囲の社員たちも息を潜め、嵐が過ぎ去るのを見て見ぬふりでやり過ごそうとしていた。――そのときだった。
「部長。それは少し、無理があると思います」
静寂を破る穏やかな声に、風夏を含めた周囲の社員たちが弾かれたように顔を上げた。
声の主は、自分のデスクからすくっと立ち上がった杏だった。「……遠藤。今は吉田と話している」
波多野がわずかに眉間を寄せるが、杏はまったく怯むことなく彼の正面へと歩み寄った。
「はい。存じております。でも、吉田さんの仕事の進め方に問題があったとは思えません」
杏は普段と変わらないトーンで言葉を続ける。
「品質を維持することはもちろん重要です。ですが、予算が大幅に削減された以上、すべてを以前と同じ条件で揃えるのは現実的ではありません。現状で可能な選択肢をいくつもシミュレーションして提示した吉田さんの判断は、決して間違っていないと思います」
波多野は無言で杏を見下ろしている。それでも杏は、大きな瞳で彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「それに、今日中に全部やり直せとおっしゃいますが、メーカーさんからの回答がなければ再見積もりは進められません。波多野部長だって、それは重々ご存じですよね?」
口調こそ柔らかいが、その内容は一切の容赦がなかった。
周囲の社員たちがハラハラしながら見守る中、波多野はしばらく杏を見つめ返し――やがて、小さく息を吐いた。「……俺にそんなふうに堂々と言い返してくるのは、遠藤だけだな」
「仕事ですから。必要だと思えば遠慮はしません」杏が表情を変えずにきっぱりと言い切ると、波多野は一瞬だけ言葉を失ったように瞬きをした。
それから再び風夏の資料へと視線を落とし、じっくりと内容を確認し直す。「……わかった。確かに、この条件のまま今日中に作り直せというのは無理があったな」
あっさりと自分の非を認めた波多野に、周囲から静かな安堵の空気が漏れる。
「吉田。まずは先方に、削減された予算の中で何を一番優先したいかを確認してこい。その上で、品質を重視する部分と価格を抑える部分を明確に分けた提案を作成しろ」
具体的で理にかなった指示に、風夏はぱあっと顔を輝かせた。
「はいっ! ありがとうございます!」
指示を出し終えた波多野は、最後にチラリと杏を一瞥した。
「遠藤。君も自分の仕事を進めろ」
「はい。承知いたしました」杏がいつも通りに頭を下げると、波多野はそれ以上何も言わずに自分のデスクへと戻っていった。
広い背中が見えなくなった途端、オフィスに張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
風夏は小走りで杏のもとへ駆け寄ると、両手で杏の手をギュッと握りしめた。「杏、本当にありがとう! もうどうしようかと思って泣きそうだった……」
「えっ? 私は、自分が思ったことをそのまま言っただけだよ」杏がきょとんとして首を傾げると、風夏は心底呆れたように苦笑した。
「普通はあんなふうに、波多野部長へ正面から言い返せないってば。杏って本当に度胸あるよね」
杏にとっては、相手が上司であろうと間違っていると思ったことを伝えるのは、ごく当たり前のことだった。
そんな二人の近くからは、女性社員たちが波多野の話題で盛り上がっている声が聞こえてくる。「波多野部長って、仕事には本当に容赦ないよねー」
「でもさ、あの顔は反則じゃない? かっこよすぎでしょ」 「わかる! もうちょっとだけ優しかったら、私なんて即落ちしてるもん!」 「しかも創業家の御曹司で独身でしょ? もったいないよねえ」どうやら女性陣にとって、波多野は少し危険な香りのする憧れの的らしい。
しかし、杏はそんな会話を聞いても、まったく興味を惹かれなかった。 確かに顔立ちが整っていることは認めるが、毎日のように厳しい小言を言われている身としては、それどころではないのだ。(むしろ、あの性格で恋人なんてできるのかな……)
杏は一人で勝手に、上司の将来を案じて余計な心配をしてしまう。
「ねえ、杏は部長のこと、どう思ってるの?」
ふいに風夏から尋ねられ、杏は平然と答えた。
「うーん。仕事はすごくできる人だと思うよ」
「……いや、そういうこと聞いてるんじゃないんだけどな」風夏がやれやれと呆れたように笑う。
何がおかしかったのだろう。
杏は同期の反応を不思議に思いつつも、やりかけの資料を仕上げるべく、午後の業務へと意識を切り替えた。昼休みが終わり、静かな活気が戻った午後の営業部。 そこに、空気を凍らせるような鋭い声が落ちた。「吉田。これでは前回の提案より明らかに質が落ちている。先方がこれで納得すると思うか?」 波多野の厳しい視線の先で、杏の同期である吉田風夏が身を縮こまらせていた。 風夏が担当しているのは、長年付き合いのある企業の応接室改装案件だった。つい先日、先方から急な予算削減を求められ、風夏は泣く泣く家具や照明の構成を見直していたのだ。「申し訳ありません……。ですが、ご提示いただいた予算内に収めるためには、どうしても一部の家具のグレードを下げる必要がありまして」「予算が減ったからといって、安易に提案の質を落とすのは営業として三流のやることだ」 波多野はピシャリと切り捨てた。「今日中に、当初の品質を維持したまま予算に近づけた新しい提案を作り直せ」 無慈悲な指示に、風夏は言葉を失った。 すでに複数の取引先メーカーに頭を下げ、できる限りの価格調整を重ねた上でのギリギリの提案だったのだ。 これ以上、予算と品質を両立させるのはどう考えても限界がある。 しかし、冷徹な部長を前に反論する勇気などあるはずもなく、風夏は悔しそうに俯くことしかできない。 周囲の社員たちも息を潜め、嵐が過ぎ去るのを見て見ぬふりでやり過ごそうとしていた。 ――そのときだった。「部長。それは少し、無理があると思います」 静寂を破る穏やかな声に、風夏を含めた周囲の社員たちが弾かれたように顔を上げた。 声の主は、自分のデスクからすくっと立ち上がった杏だった。「……遠藤。今は吉田と話している」 波多野がわずかに眉間を寄せるが、杏はまったく怯むことなく彼の正面へと歩み寄った。「はい。存じております。でも、吉田さんの仕事の進め方に問題があったとは思えません」 杏は普段と変わらないトーンで言葉を続ける。「品質を維持することはもちろん重要です。ですが、予算が大幅に削減された以上、すべてを以前と同じ条件で揃えるのは現実的ではありません。現状で可能な選択肢をいくつもシミュレーションして提示した吉田さんの判断は、決して間違っていないと思います」 波多野は無言で杏を見下ろしている。それでも杏は、大きな瞳で彼を真っ直ぐに見つめ返した。「それに、今日中に全部やり直せとおっしゃいま
やがて杏のテーブルに、美しい焼き色がついたどら焼きと、湯気を立てる緑茶が運ばれてきた。 ふっくらとした生地の間には、艶やかな粒あんがたっぷりと挟まっている。 たまらず頬を緩ませ、さっそくひと口かじりついた。 しっとりした生地の優しい甘さと、小豆の豊かな風味が口いっぱいに広がる。「ん〜っ……!」 あまりの美味しさに、思わずとろけるような声が漏れた。 その瞬間、斜め向かいから強い視線を感じた。 ハッとして顔を上げると、まさに串に刺さったみたらし団子を口へ運ぼうとしていた波多野と、ばっちり目が合ってしまった。(しまった……!) 見つからないように息を潜めていたのに、自ら台無しにしてしまった。 波多野も一瞬、ピタリと動きを止めた。 まさか自分の部下に見られているとは思わなかったのだろう。常に冷静沈着な鉄仮面が、ほんのわずかに崩れたように見えた。「……遠藤?」 「こ、こんにちは。部長」 「……ああ」 何とも言えない気まずい沈黙が、二人の間にふわりと降り下りる。 波多野は手にしていた団子の串を静かに小皿へ戻すと、誤魔化すようにコホンと軽く咳払いをした。「遠藤。昼飯はちゃんと栄養のあるものを食べたほうがいい」 「それ、お団子を食べている部長が言います?」 杏はすかさず、彼の目の前に置かれたみたらし団子の皿を見つめた。波多野もつられたように視線を落とす。「俺は……今日はたまたま食欲がなかっただけだ」 「私は食欲ありますよ。このどら焼き、とっても美味しいですし」 「そういう問題じゃないだろう」 「部長だってお団子だけじゃないですか」 杏が小首を傾げて反論すると、波多野は珍しく言葉に詰まった。 普段のオフィスなら息もつかせぬ正論の連発で部下を完膚なきまでに論破する上司が、たかが昼食のメニューごときで言い返せなくなっている。 その不器用な姿がなんだかとてもおかしくて、杏はふふっと小さく吹き出してしまった。 波多野は目を丸くして杏を見つめ、すぐに気まずそうにスッと視線を逸らす。「……笑うな」 「すみません。でも部長も、こういう和菓子屋さんとかに来るんですね」 「悪いか」 「いえ。ちょっと意外だっただけです」 杏の中の波多野は、昼休みも高級なビジネスランチで優雅に商談をしているイメージだった。 少な
――遠藤杏、27歳。 家具や照明、空間デザインなどをトータルで手がける総合インテリアメーカー〝株式会社いろのわ〟に勤めて、今年で3年目になる営業部社員だ。 幼い頃に両親が離婚してからは母子家庭で育ち、現在は都内の小さなアパートで一人暮らしをしている。 仕事はそれなりに順調で、やりがいも感じている。 ただ一つ、直属の上司である波多野直樹営業部長との相性がすこぶる悪いことだけが、会社生活における唯一の悩みの種だった。 顔を合わせれば小言を言われ、冷たい視線で射抜かれる。 仕事ができるのは認めているけれど、どうにも苦手な相手だ。「遠藤。この見積書、どういうつもりだ?」 営業部のオフィスに、波多野の低く冷ややかな声が響いた。 提出したばかりの見積書を指差され、杏は小さく瞬きをする。 それは、取引先から依頼されたオフィス改装用の家具や照明のリストだった。先方の要望を最大限に取り入れた結果、一部の輸入家具が予算を少しオーバーしてしまっているのだ。「先方の予算は確認したのか?」「はい。ですので、品質を落とさずに価格を抑えられる代替案もご用意しています」 杏が手元のファイルから別の資料を差し出そうとすると、波多野はそれを目で制した。「ならば最初から比較できる資料としてまとめろ。相手に判断を委ねるつもりなら、必要な情報をひと目でわかるように揃えるのが先だ」「……おっしゃる通りです。申し訳ありません、すぐに修正します」 杏は反論することなく、素直に頭を下げた。 特に落ち込むこともなく、杏が資料の修正に取りかかろうとしたときだった。 波多野が背を向けて歩き去った途端、近くにいた男性社員たちがわらわらと杏のデスクに集まってきた。「遠藤さん、大丈夫? また波多野部長に絞られてたね」「あの人、遠藤さんにだけ当たりキツくない? 資料の修正、俺も手伝おうか?」「俺、ちょうど午後の予定空いてるからさ。手分けしようよ」 次々とかけられる労いの言葉に、杏はきょとんと首を傾げた。「ありがとうございます。でも、資料をまとめるだけなので、これくらい自分でできますよ」 杏は柔らかく微笑んで、気遣いを丁重に断った。 男性社員たちは、そんな彼女の反応にかえって鼻の下を伸ばしている。 杏は少し吊り上がり気味の切れ長







