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02.このどら焼きを、ひとつ持ち帰りで

last update publish date: 2026-10-24 15:21:07

 やがて杏のテーブルに、美しい焼き色がついたどら焼きと、湯気を立てる緑茶が運ばれてきた。

 ふっくらとした生地の間には、艶やかな粒あんがたっぷりと挟まっている。

 たまらず頬を緩ませ、さっそくひと口かじりついた。

 しっとりした生地の優しい甘さと、小豆の豊かな風味が口いっぱいに広がる。

「ん〜っ……!」

 あまりの美味しさに、思わずとろけるような声が漏れた。

 その瞬間、斜め向かいから強い視線を感じた。

 ハッとして顔を上げると、まさに串に刺さったみたらし団子を口へ運ぼうとしていた波多野と、ばっちり目が合ってしまった。

(しまった……!)

 見つからないように息を潜めていたのに、自ら台無しにしてしまった。

 波多野も一瞬、ピタリと動きを止めた。

 まさか自分の部下に見られているとは思わなかったのだろう。常に冷静沈着な鉄仮面が、ほんのわずかに崩れたように見えた。

「……遠藤?」

「こ、こんにちは。部長」

「……ああ」

 何とも言えない気まずい沈黙が、二人の間にふわりと降り下りる。

 波多野は手にしていた団子の串を静かに小皿へ戻すと、誤魔化すようにコホンと軽く咳払いをした。

「遠藤。昼飯はちゃんと栄養のあるものを食べたほうがいい」

「それ、お団子を食べている部長が言います?」

 杏はすかさず、彼の目の前に置かれたみたらし団子の皿を見つめた。波多野もつられたように視線を落とす。

「俺は……今日はたまたま食欲がなかっただけだ」

「私は食欲ありますよ。このどら焼き、とっても美味しいですし」

「そういう問題じゃないだろう」

「部長だってお団子だけじゃないですか」

 杏が小首を傾げて反論すると、波多野は珍しく言葉に詰まった。

 普段のオフィスなら息もつかせぬ正論の連発で部下を完膚なきまでに論破する上司が、たかが昼食のメニューごときで言い返せなくなっている。

 その不器用な姿がなんだかとてもおかしくて、杏はふふっと小さく吹き出してしまった。

 波多野は目を丸くして杏を見つめ、すぐに気まずそうにスッと視線を逸らす。

「……笑うな」

「すみません。でも部長も、こういう和菓子屋さんとかに来るんですね」

「悪いか」

「いえ。ちょっと意外だっただけです」

 杏の中の波多野は、昼休みも高級なビジネスランチで優雅に商談をしているイメージだった。

 少なくとも一人で下町の和菓子屋に入り、みたらし団子をつついている姿なんて想像したこともない。

「甘いもの、お好きなんですか?」

「……別に」

 そっけなく答えながらも、波多野は再びみたらし団子を口へ運んだ。杏はその様子を見つめながら、ますます不思議に思う。

(嫌いなら、わざわざ注文しないだろうに)

 心の中で首を傾げつつ、杏は残っているどら焼きをもうひと口かじった。

「んー、本当に美味しい……」

 幸せを噛み締めるように目を細める。すると、波多野がそんな彼女を横目でチラリと見てから、何気ない口調で尋ねてきた。

「……それは、そんなに美味いのか?」

「はい! すっごく美味しいですよ」

 杏は嬉しそうに、食べかけのどら焼きを見せる。

「部長も次に来たときは、絶対に食べてみてくださいね」

「……そうか」

 短く答えた波多野は、手元の湯呑みを取り上げてほうじ茶に口をつける。

 杏はそれ以上は気にせず、自分の幸せなティータイムを堪能した。

 しばらくして、先に食べ終えた杏が席を立つ。

「それじゃあ部長、お先に失礼します」

「ああ。午後の資料修正、忘れるなよ」

「はい。ちゃんと直しておきます」

 結局、最後はいつもの仕事の話で締めくくられてしまった。

(やっぱり部長は部長だなあ)

 そんなことを思いながら、杏は店員に会釈をして店を後にした。

 一方、店内に残された波多野は、杏が先ほどまで座っていた空の席をしばらくじっと見つめていた。

 やがて、彼女が幸せそうに頬張っていたどら焼きのメニュー表へ視線を移す。

「……すみません」

 通りかかった店員を、低い声で呼び止める。

「このどら焼きを、ひとつ持ち帰りで」

 普段は他人の動向にまったく興味を示さない、冷徹な営業部長。

 だが彼は、杏が以前からこの和菓子屋を気にしていたことを、実は知っていたのだ。

 給湯室で彼女が同僚と「ここのどら焼きがどうしても食べたい」と楽しそうに話しているのを、偶然耳にしていたからである。

 波多野は綺麗に包まれたどら焼きの紙袋を受け取ると、静かに店を出た。

 もちろん杏はそんな不器用な上司の秘密など、知る由もなかった。

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