Masuk「病院に行くの。香澄さんにやられた火傷を診てもらうの」 包帯の巻かれた左手を、玲司の目の前へ突き出す。 玲司の視線が、白い包帯に落ちた。 眉間が僅かに寄ったように見えたけれど、すぐにいつもの無表情へと戻る。 「乗れ。病院まで付き添う」 「何? 私が余計なことを言わないように、監視しようってわけ?」 「……そうじゃない」 「口では何とでも言えるわ。やましいことがあるから、放っておくのが不安なんでしょう?」 ありったけの皮肉を込め、吐き捨てるように言う。 玲司が一歩近づき、こちらへ手を伸ばしてきた。 「っ……何をするの?」 また乱暴に腕を掴まれるのかと思い、反射的に目を閉じて身体を縮こませる。 けれど、予想していた痛みはなかった。 恐る恐る目を開けると、玲司は掴んでいるのかもわからないほどの力で、そっと私の左手首に触れていた。 「予約もなしに、すぐ診てもらえる病院はほとんどない。俺のつての医者に診させる。来い」 玲司は私の返事を待たず、そのまま歩き出す。 有無を言わせない、強引な態度。 その姿に、ふと昔の記憶が蘇った。 以前、私が火傷をしたときもそうだった。 大したことはないと繰り返す私の腕を掴み、玲司は半ば無理やり病院へ連れていった。 相手を支配するためではなく、心配しているからこそ、本人の意思など無視してでも医者に診せようとする。 あの頃の玲司は、そうだった。 車に乗り込むと、高級住宅街を抜け、都市部へと入っていく。 歩道には通勤や通学へ向かう人々がまばらに行き交い、中には親しい友人と楽しそうに談笑している者もいた。 そんな穏やかな外の景色とは対照的に、車内にはひりつくような沈黙が満ちていた。 ビルの影に入るたび、窓ガラスに玲司の横顔が薄く映る。 いつもどおり、感情の見えない冷たい目で前方を見据えていた。 しばらく走ったところで、車が病院の駐車場へ滑り込む。 玲司のあとを追い、院内へ入った。 受付をしているあいだも、玲司は立て続けにかかってくる仕事の電話に応じていた。 「午前の会議は遅らせろ」 そうバッサリと告げて切ると、また次の電話の対応をしていた。そんなに忙しいなら、私の受診になど付き合わなければいいのに。 それでもここにいるのは、私が医師に余計な
「力になるって……どういうことですか?」 突然の申し出に、私は戸惑いを隠せなかった。「言葉どおりの意味です」 藤崎さんは静かに答える。「香澄様のことも、お母様のことも。そして三年前、本当は何があったのかを突き止めることについても、千景様に協力したいと思っています」「どうして、あなたがそこまで……」 玲司の秘書である彼が、なぜ私に手を差し伸べるのか。 警戒を解けずにいる私を見つめ、藤崎さんは一度、覚悟を決めるように息を吸った。「私も以前、紗良様が亡くなられた当時のことを調べたことがあります」「藤崎さんが?」「はい。玲司様から命じられた調査ではありません。私自身が、あまりにも不自然なことが多いと感じたためです」 藤崎さんは少しだけ声を落とした。「その際、当時の手術に関する情報を私へ提供してくださった方がいます」「それは誰なの?」 わずかな沈黙のあと、藤崎さんの唇が動く。「香澄様です」「……香澄が?」 思わず聞き返していた。 頭の中で、これまでの出来事が一斉に渦を巻く。「待って。玲司が紗良さんの死について調べ始めたのは、母が院長を辞めた三年前よね。その頃、玲司と香澄はまだ知り合っていなかったはずでしょう?」「はい、私が香澄様から情報を受け取ったのは、玲司様と香澄様が知り合う前のことです」「それを玲司は知っているの?」 藤崎さんは、ゆっくりと首を横に振った。「いいえ」「どうして隠しているの?」「香澄様から、玲司様には決して話さないよう固く口止めされております」「口止め……?」「私の口から玲司様の耳に入れば、困ることになると」 それまで淀みなく話していた藤崎さんが、そこで急に言葉を濁した。 伏せられた瞳に、明らかな怯えが浮かんでいる。「もしかして、何か弱みを握られているの?」 藤崎さんは答えなかった。 けれど、わずかにうなずいたその動きだけで十分だった。 背筋に冷たいものが走る。 香澄は、なぜ自分が情報を渡したことを玲司に知られたくないのだろう。 玲司に紗良さんの死を調べさせ、母への憎しみを植えつけるためだったのか。 それとも、三年前から今に至るまで、玲司の感情そのものを操っていたのか。「どこまで人を弄べば気が済むのよ……」 無意識に漏れた声が震えた。 私だけではなく玲司も、母も
微かな薬の匂いで、意識が浮上した。 ゆっくりと瞼を開くと見慣れた天井が視界に入り、自分が寝室のベッドに横たわっていることに気づいた。「……ここは、ッ!」 身体を起こそうとして、左手に鈍い痛みが走り顔が歪む。 見ると、左手には火傷用の薬が塗られ、清潔なガーゼと包帯が丁寧に巻かれていた。自分で処置した時の不格好な巻き方とはまるで違う。 汗と水で濡れていた服も、柔らかな寝間着に着替えさせられている。「お気づきになりましたか」 穏やかな声に顔を向けると、ベッドの傍らに座っていた人物に目を見開く。「藤崎さん……」 玲司の秘書である藤崎依織が、椅子から静かに立ち上がった。「急に身体を起こさない方がよろしいかと。まだ熱もあります」「あなたが、手当てを?」 尋ねると、藤崎さんは僅かに目を伏せた。「目を覚まされて安心いたしました」 藤崎は優しく微笑んで答えた。 その瞬間、佐伯さんが事故にあった時に見た冷え切った瞳で、血の海に倒れる佐伯さんを見下ろしている姿が脳裏に浮かぶ。「どうかされました?」 彼女の顔を見つめたまま黙っていたら、心配そうに眉を八の字にした藤崎さんが私の顔を覗き込んでくる。「え、ええ。別に大丈夫です」 思わず顔を逸らしてしまった後、チラと彼女の顔を見る。 その表情は本当に心配しているように見えて、余計に戸惑う。「ありがとうございます。服まで……ご迷惑をかけてしまって」「お気になさらないでください」 藤崎さんは水の入ったコップを差し出してくれた。 受け取ろうと右手を伸ばすと、彼女は私が落とさないよう、そっと底を支えてくれる。その仕草は驚くほど丁寧だった。 彼女からは敵意や負の感情というのは感じ取れない。事故の時に見た彼女の表情は見間違いだったのだろうか?「藤崎さん」 水を飲み、乾いた喉を潤し、少しはっきりした頭で彼女に向き直る。 「はい、なんでしょう?」「一つ、聞いてもいいですか?」 彼女は穏やかな微笑を浮かべたまま、私の言葉を待っている。「佐伯さんが事故に遭った日……あなたも、あの場所にいたんじゃないですか?」 藤崎さんの表情は変わらなかったけれど、ほんの僅かに目を細める。「あなたを責めたいわけではありません。ただ、何か知っているのなら——」 藤崎さんは人差し指を自分の唇へ当てた。
胸の奥で、ずっとギリギリのところで保っていた何かが切れた。 私は立ち上がると、右手で食卓の縁を掴んだ。「何を——」 私の雰囲気が変わったことに香澄が顔を引きつらせる。 そん彼女に構わず、残った力をすべて込めて食卓をひっくり返した。 鈍い音とともにテーブルが倒れ、料理や器が床へ投げ出される。砕けた陶器の破片が飛び散り、スープが絨毯へ染み込んでいった。「きゃっ!」 香澄が封筒を抱え、ソファの奥へ逃げる。 私は真っ赤に腫れた左手を胸元へ庇いながら、倒れたテーブルへ右手をついた。 皮膚にはすでに水疱が浮かび、脈打つたびに焼けつくような痛みが走る。それでも顔を上げ、香澄を真っ直ぐに見据えた。「その紙切れ、燃やしたければ燃やせばいい」「な……」 自分でも驚くほど低い声が出た。「私が何も言い返さないから、何をしても許されるとでも思った?」 香澄の顔から血の気が引いていく。 玲司の前では弱々しい女を演じ、私の前では好き勝手に振る舞ってきた彼女が、初めて言葉を失っていた。「次に同じことをしたら、絶対に許さない」 それだけ告げて、私は香澄に背を向けた。 腕を振るたびに激痛が走る。けれど、彼女の前で蹲ることだけはしたくなかった。 リビングを出て力任せにドアを閉めた途端、張り詰めていた糸が緩み、その場に崩れ落ちそうになった。「っ……!」 左手は赤く腫れ上がり、指先の感覚が薄れ始めている。 私は歯を食いしばって浴室へ向かい、水道の蛇口をひねった。勢いよく流れ出した冷水へ、左手を差し入れる。 皮膚に水が触れた瞬間、焼けた部分を刃物で抉られたような痛みが走った。「う……っ」 思わず手を引きそうになるのを堪え、冷水に当て続ける。 私にとって、指は命だった。 今の私は舞台から離れている。 それでも、弦を押さえ、弓を操り、音を生み出すための大切な手だ。 以前、料理中に指先をほんの少し火傷したことがある。 あの時は玲司が、私以上に青ざめて心配してくれた。『馬鹿、何をしている。早く水で冷やせ』 慌てて私の手を取り、流水に当てながら、何度も大丈夫かと尋ねてきた。 大した火傷ではないと笑っても、玲司は納得せず、夜遅くまで開いている病院を探そうとしていた。 遠い昔の記憶が、胸を締めつける。「思い出したっ
佐伯さんは、救急車で紫苑医科大学附属病院へ搬送された。 私は手術室の前で赤く点灯するランプを見上げ、無事を祈り続けた。けれど、長い手術を終えて現れた医師の表情は険しかった。「頭部と胸部を強く損傷しています。緊急手術は終わりましたが、現在も意識は戻っていません」「命は……助かるんですか?」「予断を許さない状態です。今夜が山場になる可能性もあります」 足元が崩れたような感覚に襲われ、壁に手をつく。「意識が戻る可能性は……」「今は何とも言えません。まずは全身状態が安定するのを待つしかありません」 医師は深く頭を下げ、去っていった。 面会を許されたのは、ガラス越しの僅かな時間だけだった。 無数の管に繋がれた佐伯さんは、まるで眠っているように見える。けれど、一定の間隔で鳴る機械音が、自力では生きられない状態であることを突きつけていた。「佐伯さん……」 震える指先をガラスへ押し当てる。 佐伯さんが車にはねられたのは、偶然ではない。電話口での切迫した様子からも、彼女は危険が迫っていることを知っていた。「私が、巻き込んでしまったんだ……」 手のひらに爪が食い込むほど拳を握り締める。そうでもしなければ、その場で泣き叫んでしまいそうだった。 ——紗良さんが亡くなった、あの日のこと。 その裏では、私たちの想像を超える何かが動いている。 佐伯さんの口を塞ぎ、私を真相から遠ざけようとしているのだ。得体の知れないものに狙われているような恐怖が、背筋を這い上がる。 それでも、立ち止まるわけにはいかない。 佐伯さんが命懸けで伝えようとしたことを、このまま闇に葬らせるわけにはいかなかった。 明日、もう一度紫苑医科大学を調べよう。 正式な診療記録が改ざんされているのなら、当時の勤務表や手術室の使用記録、看護記録には痕跡が残っているかもしれない。 私は眠り続ける佐伯さんへ、深く頭を下げた。「必ず真実を突き止めます。だから……佐伯さんも、戻ってきてください」 病院を出る頃には、すっかり日が落ちていた。 身体は鉛のように重く、歩くたびに眩暈がする。何も口にしていなかったけれど、空腹すら感じなかった。 明日の調査に必要なものをまとめたら、少しでも休もう。 そう考えながら家の門をくぐると、暗闇の中、リビングの明かりが灯ってい
玲司はスマホを耳に当て直し、私に背を向ける。 「……わかった。今から行く」 掠れていたはずの声には、もう迷いがなかった。 「玲司……?」 呼び止めても、彼は振り返らない。 さっきまで私たちの子供を、生まれてこない方がよかったと言っていた人が、別の女の妊娠を告げられた途端、そのもとへ駆けつけようとしている。 あまりにも残酷だった。 それでも一言ぐらい、私に何か言い残してくれるのではないか。 そう期待したけれど、玲司の足音は遠ざかっていくばかりだった。 やがてその背中は墓石の並ぶ道の向こうへ消え、私は冷たい風の吹き抜ける墓園に一人取り残された。 追いかける気力はなく足元から力が抜け、その場に膝をつく。 目の前には、白峰紗良と刻まれた墓標がある。 添えられた遺影の中で、紗良さんは穏やかに笑っていた。 「……あなたは、どう思うの?」 問いかけても、答えが返ってくるはずはない。 「玲司の言っていることは、本当なの?」 私の母が、娘である私を救うために紗良さんを見捨てた。 玲司の口から突きつけられた話は、あまりにも衝撃的だった。 母がそんなことをするはずがないとそう信じてきた。 誰よりも患者に真摯に向き合い、自分の時間を削ってまで命を救おうとしてきた人だ。 私に対して厳しいことはあっても、医師として間違ったことをする人ではない。 けれど、三年前の記憶が頭をよぎる。 病室で目を覚ました私を見下ろしていた母の顔。 無事だったことを喜んでいるはずなのに、なぜか泣きそうな表情をしていた。 安堵だけではなく、何かに怯え、悔やみ、自分自身を責めているような瞳だった。 あのときは、手術で私を救えなかったかもしれない恐怖が残っているのだと思っていた。 だけど、本当にそれだけだったのだろうか。 母は、私が眠っているあいだに何をしたの? 生まれて初めて、母に対する疑念が胸に芽生えた。 玲司が何かを誤解しているのだと思いたい。 それなのに、母のあの表情を思い出すたび、玲司の話を完全には否定できなくなる。 息をするたびに胸の奥が痛んだ。 私は乱れた心を落ち着かせるように、鞄からハンカチを取り出した。 墓石の表面には、雨に運ばれた砂埃が薄く付着している。 水を含ませたハンカ
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…







