Masuk【玲司side】 千影は念のため、今夜は病院で過ごすことになった。 病院をあとにしてからしばらく経つというのに、ハンドルを握る手は、いまだに小刻みに震えていた。 「……くそっ」 苛立ちを吐き出すように悪態をつき、ハンドルを握り直す。 千影が突然意識を失い、病院へ運ばれてからずっとこうだ。 医師から告げられた病名。 ――高リスクの骨髄異形成症候群。 正常な血液を作ることができなくなり、急性骨髄性白血病へ移行する危険性も高い病気だという。 そして、何より俺を動揺させたのは、そのあとに続いた言葉だった。 治療を受けなければ、余命は一年程度。 医師は一刻も早く治療を開始し、造血幹細胞移植に向けたドナーの探索も進めるべきだと説明した。 だが、その言葉を聞いてから、俺はまともに何を考えていたのかさえ覚えていない。 ただ、病室のベッドに横たわる千影の姿だけが、頭から離れなかった。 青白い顔に以前よりも痩せた頬。 そして、病名を知られたことを恥じるかのように、必死に虚勢を張っていた姿。 ――千影が、死ぬ? その考えが脳裏をよぎった瞬間、胸の奥を冷たい何かが這い回るような不快感に襲われた。 そんなこと、許されるはずがない。 あの女は、俺から紗良を奪った朝霧美玲の娘だ。 紗良の命を犠牲にして生き延びた女。 俺がどれほどの絶望を味わったのかも知らず、何食わぬ顔で幸せを享受してきた女だ。 そんなあいつが、俺への償いも果たさず、勝手に死ぬなど許されるはずがない。 そうだ。俺はまだ、あいつを許していない。 俺と紗良の人生を壊した罪を、あいつにはこれからも背負い続けてもらわなければならない。 だからこそ、こんなところで死なれては困るのだ。 それだけのことだ。 なのに、どうしてだ。 何度そう自分に言い聞かせても、胸の奥を締めつける感覚が消えてくれない。 怒りとも、憎しみとも違う。 もっと得体の知れない、身体の芯から冷えていくような感覚。 まるで、自分の身体の一部を無理やり引き剥がされるかのような――。 「……違う」 思わず声に出して否定した。 これは、復讐すべき相手が、俺の知らないところでいなくなってしまうことへの恐怖。 それ以外の何物でもない。 そうに決ま
「……まさか、医師から何も聞いていなかったのか?」 「それは……」 「それとも、説明を聞いても頭に入っていなかったのか。自分の命に関わることだというのに……ほとほと呆れるな」 その言葉を聞いた瞬間、頭にかっと血が上った。 ……呆れる? 今、呆れるって言ったの? ふざけないでよ。 あなたに、何がわかるというの? 突然、自分の命があと一年もないかもしれないと告げられた私の気持ちが。 これからどうすればいいのかわからず、ただ恐ろしくて、何も考えられなくなった私の気持ちが。 あなたにわかるはずがないでしょう。 だって、あのとき。 私が一人で医師の説明を受け、絶望のどん底に突き落とされていたとき。 あなたは私の傍になんていなかった。 私がどんな思いで病院をあとにしたのかも知らず、香澄と、子どもの誕生日をいわっていたでしょう? 私がどれほど苦しんでいたかなんて、知ろうともしなかったくせに。 それなのに、今さら夫のような顔をして。 どうして、そんなことを言われなければならないの? 「あなたに……!」 抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出そうとする。 あなたに何がわかるの。 今まで私をどんなふうに扱ってきたと思っているの。 そう叫ぼうとしたそのとき、玲司が不意に手を伸ばしてきた。 そして、ベッドの上に置いていた私の左手に、そっと自分の手を重ねた。 「……っ!」 ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。 何をするの。触らないで。 反射的に、そんな言葉が喉元までせり上がってきた。 私の身体に触れる、その手。 私以外の女を抱きしめ、私以外の女に愛を囁いてきた手。 香澄と過ごすために私を蔑ろにし、傷つけ続けてきた男の手。 そんな汚らわしい手で、今さら私に触れないでよ。 ましてや、そこはまだ火傷の傷が癒えきっていない左手だった。 玲司の指先が触れるだけで、香澄に熱湯をかけられたあの日の痛みと屈辱が蘇ってくる。 まるで、塞がりかけた傷口に塩を塗り込まれているようだった。 ……嫌。もう、これ以上傷つけないで。 私は重ねられた手を振りほどこうと、左腕に力を込めた。 けれど、その直後。 「……千影」 玲司が、私の名前を呼んだ。 いつもと違う、その声に。
鼻をつく薬品の匂い。 ここ数週間で何度嗅いだかわからないその匂いに、私はゆっくりと意識を取り戻した。 「……ん……」 重たい瞼を持ち上げる。 ぼんやりとした視界に映ったのは薄暗い室内。規則正しく響く医療機器の電子音。そして、腕には点滴の管が繋がれている。 顔を横に向けると、ベッドのすぐ脇に玲司が椅子に腰掛け、腕を組んだまま目を閉じている。 いつも隙のない姿ばかり見せる彼にしては珍しく、その顔には疲労の色が滲んでいた。 ……ずっと、ここにいたのだろうか? 「玲司……?」 「……目が覚めたか」 小さく名前を呼ぶと、玲司はすぐに目を開けた。 眠っていたわけではなかったのだろうか。 こちらを見つめる眼差しは、いつもと変わらず鋭い。 「ここは……?」 「紫苑医科大学附属病院だ。ちょうど近くを走っていたからな。直接運び込んだ」 「そう……」 短く答え、視線を天井へと戻す。 どうして玲司がまだここに残っているのかもわからない。 病院まで運んでくれたのなら、それで十分だったはずだ。 私のことなど放って、香澄のもとへ向かえばよかったのに。 そんなことを考えながら、何を口にすべきか迷っていると、玲司が不意に口を開いた。 「……高リスクの骨髄異形成症候群」 「…………っ!」 心臓が、どくりと大きく脈打った。 思わず玲司へと顔を向ける。 彼はそんな私の反応を確かめるように、わずかに目を細めた。 「急性白血病へ移行する危険性も高い病気らしいな」 「どうして、それを……」 「お前を診察した医師から聞いた」 ずっと隠してきた、私の病気。 それだけは、この男に知られたくなかったのに。 胸の奥から、冷たいものがじわじわと広がっていく。 病気のことを知られたからといって、今さら何が変わるというのだろう。 余命を告げられたとき、私は確かに絶望した。 どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないのだろうと、何度も運命を呪った。 けれど、そんな惨めな姿を、この男にだけは知られたくなかった。 どうせ、同情を引くための嘘だと疑われる。 たとえ信じてもらえたとしても、今度は哀れな女だと見下されるだけかもしれない。 私の苦しみも、残された命も、この男にとっては嘲笑うための材料で
墓地からの帰り道。 玲司が運転する車の窓から見える景色は、すっかり夜の闇に包まれていた。 街灯の明かりが流れるように過ぎ去っていく。 私は助手席に身を預けたまま、窓ガラスにうっすらと映る玲司の横顔を盗み見た。 墓地をあとにしてから、玲司はほとんど口を開いていない。 その表情からも、何を考えているのかはまるで読み取れなかった。 紗良さんが私に臓器を提供したこと。 その事実を告げたときの玲司の反応は、私が想像していたものとはあまりにも違っていた。 もっと激しく怒ると思っていた。 私を責め立てるか、あるいは、母への憎しみを募らせるのではないかと。 けれど、玲司は驚くほど冷静だった。 もしかすると、あの報告書を見た時点で、すでに何かを察していたのかもしれない。 臓器提供の事実が記された報告書。 その中にあった、不自然に黒く塗り潰された部分。 あれを見た瞬間、玲司は私が気づかなかった何かに気づいていたのだろうか。 だとしても、あまりにも静かすぎる。 仮に事前に予想していたとしても、紗良さん自身に臓器提供の意思があったとしても、それですべてが許されるわけではないはずだ。 助けられたかもしれない紗良さんの命を救わず、玲司に知らせることさえしないまま、私への移植が行われたのだとしたら。 そんなこと、簡単に受け入れられるはずがない。 血の繋がりがなくても、法的な家族ではなくても、玲司にとって紗良さんはかけがえのない家族だったのだから。 ましてや、玲司はこれまでずっと、紗良さんを失った悲しみと憎しみを抱えて生きてきた。 それなのに、どうして……。 私はもう一度、玲司の横顔を窺った。 相変わらず前方を見据えたまま、黙々とハンドルを握っている。 それに、もうひとつ気になることがあった。 玲司が妙だと口にしたこと。 榊原さんに話を聞けばわかると言っていたけれど、一体何を確かめるつもりなのだろう。 私が何かを見落としている? それとも、根本的なところで何かを勘違いしているのだろうか。 考えれば考えるほど、疑問ばかりが膨らんでいく。 けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。 「ねえ、玲司……」 意を決して問いかけようとした、その瞬間だった。 「……っ!」
病院をあとにした私は、そのまま墓地へと足を運んでいた。 夜の墓地には人の姿もなく、風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。 いくつもの墓石が並ぶ中、私は一つの名前を見つめていた。 ――白峰紗良。 少し前まで私はその名前も存在すら知らなかった。 最初にその名を知ったのは、玲司からだった。 自分には、かつて妹のように大切にしていた少女がいた。 その少女を私の母が死なせたのだと。 玲司が私を憎む理由。 私たちがこんな関係になった原因。 白峰紗良という少女は、私と玲司の今へと繋がる過去に存在していた人だった。 それだけだと思っていたけれど違った。 今度は、私の双子の姉妹だと知った。 玲司だけではなく、私自身の過去にも深く関わっていた。 そして今日さらにもう一つ私は知らされた。 「…………」 そっと自分の腹部へ手を当てる。 私はずっと紗良さんは死んだのだと思っていた。 もう、この世界のどこにも存在しない人なのだと。 なのに違った意味で彼女はずっと私の中にいた。 私が今こうして今日まで生きてこられたのは、紗良さんが自分の身体の一部を、私に与えてくれたからだった。 「……どうしたらいいのよ」 頭の中で何度整理しようとしても。 考えれば考えるほど、ぐちゃぐちゃになっていく。 「私……あなたに何て言えばいいの?」 墓石から答えが返ってくるはずもない。 私が生きていることに罪悪感を抱くこと自体が、紗良さんに失礼なのかもわからなかった。 その時背後から足音が聞こえた。 私はゆっくりと振り返ると、暗い墓地の通路からこちらへ歩いてくる人物の姿を見た瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。 母に聞かれた。 ――あなたには今、頼れる人がいる? ――何かあった時に、あなたを守ってくれる人はいる? その時頭へ浮かんだ人物。 私は病院を出てから、ずっと迷っていた。 本当にこの人でいいのだろうか、と。 だけど、心のどこかが訴えていた。 ——この人でなければ駄目だ—— 「玲司」 名前を呼ぶと、玲司は数歩離れたところで立ち止まった。 いつものように何を考えているのかわかりにくい、冷たい目で私を見ていた。 「……待ってたわ」 「こんな時間に呼び出しておいて、
「……ええ」 「どうして?」 自然と声が強くなった。 「玲司にとって、紗良さんは妹だったんでしょう?」 「わかっているわ」 「だったら、一言くらい……!」 玲司は紗良さんを殺されたと思い込み。 母を憎みそして私まで憎んだ。 その原因が今、目の前にある。 「玲司君には、手続き上の決定権がなかったの」 佐伯さんが静かに口を開いた。 「決定権?」 「その頃には玲司君はすでに星見の丘を出て、久我家の人間になっていた」 「……うん」 「玲司君と紗良ちゃんは、本当の兄妹でもなければ、戸籍上の家族でもない」 私は唇を噛む。 わかっている。 でも、それと気持ちは別だった。 「当時、紗良ちゃんの立場について責任を負っていたのは星見の丘だった」 そこで私は手元の資料へ視線を落とす。 「……榊原慧一郎」 「ええ」 佐伯さんが頷いた。 「当時の施設長よ」 臓器提供の承諾書。 そこに記されていた名前。 「だから、榊原さんが承諾した……」 「そういうことよ」 少なくとも。 そこまでは理解できた。 私は深く息を吐く。 「わかった」 二人を見る。 「玲司に法的な決定権がなかったことも。榊原さんが関わっていたことも」 でも。 「それなら余計にわからない」 母の顔が強張る。 「玲司が調べたんだけど」 私は資料を手に取った。 「当時の手術記録、おかしいところがあるんでしょう?」 「…………」 佐伯さんの表情も変わった。 「記録された時間が合わない。関わった医師の名前にも不自然なところがある。それに……あとから手を加えたような箇所もあるって」 「千影……」 「どうして?」 母の言葉を遮る。 「紗良さんは自分からドナーになるって言ってた」 「…………」 「榊原さんもそれを知っていた」 「…………」 「私は実際に移植を受けて助かった」 資料を強く握る。 「だったら、どうして記録を改竄する必要があったの?」 返事はない。 「ねえ」 胸の奥に嫌なものが広がっていく。 「移植の時、本当は何があったの?」 「…………」 「紗良さんに、何があったの?」 佐伯さんは目を伏せた。 母も唇を固く結んでいる。 「お母さん」 「…………」 「教えて」
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…







