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第七話

作者: 久遠遼
last update publish date: 2026-06-06 12:29:12

「え……?」

奏人先輩の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「いったい、どういうことですか?」

玲司と結婚しているのかなんて、そんなの当然だ。

彼から結婚を申し込まれて、婚姻届にも二人でサインした。

名字だって変わって、私はもう朝霧千景ではなく、久我千景なのだ。

それなのに、どうして奏人先輩はそんなことを聞くのだろう。

呆然と見つめる私から、奏人先輩は言いづらそうに視線を落とした。

「……久我玲司については、仕事の関係で何度か名前を聞いたことがある」

「仕事の、関係で……?」

「ああ。直接深く関わったわけじゃない。だけど、久我家の人間となれば、良くも悪くも名前は耳に入ってくるんだ」

奏人先輩はそこで一度言葉を切った。

次に続く言葉を選んでいるようだったけれど、その沈黙が怖かった。

私は掛け布団の下で、そっとシーツを握りしめる。

「……俺が聞いた範囲では、久我玲司に妻がいるなんて話は、一度も出てこなかったよ」

「……え?」

声が、掠れた。

「そんな……はず、ありません」

私はあの家で、彼の妻として暮らしてきた。

毎朝、食事を用意して。

帰らない彼を待って。

香澄のところへ向かう背中を見送りながら、それでも自分は妻なのだと、そう言い聞かせてきた。

たとえ愛されなくても。

たとえ必要とされなくても。

私は玲司の妻なのだと、その事実だけに縋ってきた。

「何かの、間違いでは……」

「嬉しそうに結婚の報告をしてきた君の顔を思い出して、俺もそう思いたかった」

奏人先輩の声は低かった。

それは怒っているようにも、苦しんでいるようにも聞こえた。

「だけど、少なくとも周囲では、久我玲司は独身という扱いになっているらしい」

独身。

その二文字が、鋭利な刃物のように胸へ沈んだ。

息の仕方が、分からなくなる。

私の知っている現実が、足元から音もなく崩れていくようだった。

「それだけじゃない」

「……まだ、何かあるんですか」

それは声というより、喉の奥からこぼれ落ちた呻きに近かった。

本当は、もう何も聞きたくなかった。

これ以上知ったところで、私の心が耐えられるとは思えない。

それでも、聞かずにはいられなかった。

知らないままでいるには、もう遅すぎた。

奏人先輩は私の顔色を見て、ためらうように口を閉ざした。

「朝霧、無理に聞かなくていい」

昔と同じように呼ばれたその名前が、今はひどく遠く聞こえた。

私はもう朝霧千景ではない。

そう思っていた。

けれど、久我千景であるはずの私も、玲司の世界では存在していなかったのかもしれない。

「……教えてください。どっちみち一緒ですから」

自分でも驚くほど、弱い声だった。

どうせ遅かれ早かれ聞くことになる。

それなら、まだ悪意ではなく、私を気遣おうとしてくれている声で聞きたかった。

そう思ってしまうほど、私はもう追い詰められていた。

奏人先輩の表情が歪んだ。

「最近になって、ある女性との噂が広まっている」

「女性……?」

「確か、名前は――鷹宮香澄」

その名前を聞いた瞬間、指先から体温が抜け落ちていくような感覚がした。

分かっていたはずなのに。

玲司の隣にいるのは、いつだって彼女だった。

それでも、第三者の口からその名を聞かされると、胸の奥が引き裂かれるようだった。

頭の中が、真っ白になり音が遠ざかる。

奏人先輩の声も、病室の空調の音も、自分の呼吸さえも、どこか遠くへ離れていく。

「周囲は、久我玲司が近いうちに鷹宮香澄と結婚するのだと思っているらしい」

その瞬間、私の中で、何かが音もなく崩れた。

私は妻だった。

そのはずだった。

彼に愛されなくても。

誰にも認められなくても。

それだけは、奪われないものだと思っていた。

けれど玲司の世界で、私は最初から存在していなかったのかもしれない。

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