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第六話

Author: 久遠遼
last update publish date: 2026-06-05 07:19:55

消毒液の匂いがした。

ゆっくりと瞼を開けると、見慣れない白い天井が視界に入った。

病室――そう理解するまでに、そう時間はかからなかった。

「……ここ、は」

「目が覚めたか」

聞こえてきた声に、私はゆっくりと顔を横へ向ける。

ベッドのそばにいたのは、玲司ではなかった。

「奏人……先輩……?」

そこにいたのは、大学時代の先輩である成瀬奏人(なるせかなと)だった。

「ああ、久しぶりだな。結婚報告をもらって以来か」

昔から面倒見がよく、誰にでも穏やかに接する人だった。

けれど、今の奏人先輩はひどく険しい顔をしていた。

私の目が覚めたことに安心したのか、彼は小さく息を吐く。

「よかった。急に倒れたから、本当に驚いた」

「どうして……奏人先輩が……」

状況が飲み込めず、私はただ戸惑うことしかできなかった。

「偶然、近くを通りかかったんだ。そしたら君が倒れるところが見えて、慌てて救急車を呼んだ」

「そう、だったんですね……」

弱々しく答えながら、私はゆっくりと体を起こそうとする。

けれど、少し動いただけで眩暈がして、思わず眉をひそめた。

「無理に起きるな」

奏人先輩が慌てて私の肩を支えてくれる。

その手は、温かかった。

優しくて、力強くて。

その温もりに、なぜか泣きそうになる。

今、一番そばにいてほしかった人は来てくれなかった。

なのに、偶然通りかかっただけの先輩が、こうして私のそばにいてくれる。

その事実が、情けないほど胸に痛かった。

「……ご迷惑をおかけしました」

「迷惑なんかじゃない。当然のことをしただけだ。見知った顔で、まして後輩ならなおさらだろう」

奏人先輩はきっぱりと言った。

大学時代から変わらないその真っ直ぐさが、眩しくて、心地よくて――けれど今の私には、少し苦しかった。

それきり、何を話していいのか分からず黙り込んでしまう。

「それにしても、驚いた。朝霧――いや、今は久我か。久しぶりに見かけたのが、あんな場面だとはな」

眉間に皺を寄せながら頭をかく奏人先輩の仕草は、大学時代とほとんど変わっていなかった。

その変わらなさに、思わず苦笑がこぼれる。

私は、こんなにも変わってしまったというのに。

「朝霧でいいですよ、奏人先輩」

「そうか? なら、そのほうが助かる」

奏人先輩は小さく笑った。

けれど、その笑みはすぐに消える。

彼は真面目な表情で、私を見つめた。

「それで、何があったんだ?」

その言葉に、心臓をきゅっと掴まれたような気がした。

奏人先輩は、ただ心配してくれているだけだ。

それでも、今の私の状況を、どう伝えればいいのか分からなかった。

自分の余命のこと。

母の治療費のこと。

それとも、玲司とのこと。

いくつもの言葉が頭をよぎり、私は小さく首を振る。

一度に多くのことが起こりすぎて、思考も感情も麻痺している。

それなのに、胸の奥でははっきりと分かっていた。

これは、口に出してはいけない。

玲司からあんな扱いを受けてなお、私は身内の恥部を人に話したくなかった。

人妻として、夫を貶めるようなことを言うべきではない。

そう思った。

けれど、違う。

本当は、ただ恥ずかしかったのだ。

私の幸せを心から願い、祝福してくれた人。

そんな相手に、今の惨めな私を知られたくなかった。

もう限られた命しか残されていない。

この先に幸せな未来などなく、ただ終わりへ向かっていくだけの身だというのに。

それでも私は、ちっぽけなプライドにしがみつこうとしていた。

「……少しだけ、家族のことで、夫と喧嘩しているだけです」

迷った末に、私は中途半端にぼかした答えを返した。

再び、私たちの間に沈黙が落ちる。

やがて奏人先輩は、深いため息をつきながら頭をかいた。

「朝霧……そのことなんだが」

手のひらに、じっとりと汗が滲む。

初めて見る、奏人先輩の険しい表情。

もしかして、奏人先輩は知っているのだろうか。

私が玲司――実の夫から冷遇され、その挙句、彼が別の女に愛情を向けていることを。

けれど、奏人先輩の口から告げられたのは、私の想像を超える言葉だった。

「お前は本当に、久我玲司という男と結婚しているのか?」

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