Masuk「……なんの、つもりだ……」
「血を見て、体がざわつかないか?」「ぼくは医者だ。毎日見ている」「そうか。だが、俺は違う。案外ヤクザは、そうそう血は見ないものなんだ」 ワイシャツの襟首に賢吾の手がかかり、あっという間に引き裂かれる、ボタンが千切れ飛び、フローリングの床の上に落ちた音がする。和彦は愕然としながら、まばたきも忘れて賢吾を見上げる。「あんた……、息子が男とつき合っていることを、嫌がってたんじゃないのか……」「つき合う相手によるな。手塩にかけて育てた大事な息子が、性質の悪い男に弄ばれて、バカに拍車がかかったら困る。うちの組絡みで、千尋を利用しようとしているのかもしれないしな。だが実際は、千尋がつき合っていたのは悪い男なんかじゃなく、遊び好きの美容外科医だった。しかも、俺たちに協力的な」 それが、今のこの状況にどう繋がるのかと言いたかったが、どんなとんでもないことを言われるのかと思い、走り出した車の後部座席で、普段より多い人や車の流れを眺める。せっかくの夏休みを、家族や友人、恋人と過ごす人は多いのだろうなと考えてから、我が身を振り返る。知らず知らずのうちに苦笑が洩れていた。 自分のことを〈オンナ〉にしている男たちのことを、世間ではどう呼ぶのだろうかと、少しだけ皮肉っぽく、そして自虐的に考えてみた。だからといって和彦は、長嶺の男を憎んだり、恨んでいるわけではない。執着され、庇護されるということは、一種の麻薬だ。苦しい反面、とても心地いいし、安堵感すら覚えるようになる。 まるで夏の陽射しだ――。 和彦はウィンドーに顔を寄せ、食い入るように外を見つめる。残念ながらスモークフィルム越しでは、どんなに強烈な陽射しも遮られてしまう。 ふと和彦は、ほんの数日前に味わった汗ばむほど熱い抱擁を思い出し、次に、こう心の中で呟いていた。 鷹津は今ごろ、何をしているだろうか、と。 ハッと我に返り、シートの上で身じろぐ。鷹津のことを気にかけた自分に驚いていた。 番犬として刑事の鷹津を利用し、必要に応じて体を与えるうちに情を通わせるようにはなっていたが、それでも離れてしまえば、心の隅に収納できるだけの冷静さ――分別があった。しかし今の和彦は、ごく自然に、まるで長嶺の男たちを想うように、鷹津を想った。〈オンナ〉という言葉の威力だろうかと、和彦は密かに慄然とする。鷹津とのやり取りが、いまさらながら耳元に蘇っていた。 マンションから本部に向かう途中、こまごまとした買い物を済ませるつもりだったが、そんな気分ではなくなっていた。 黙り込んだままの和彦を乗せ、 車は静かに総和会本部のアプローチを通り、駐車場へと入る。いつもより停まっている車の数が多いのは、明日の法要と関係があるのかもしれない。準備や警備などのため、今日出発する関係者もいるだろう。 ドアが開けられ、車を降りた和彦の傍らから、すかさず手が差し出される。「バッグをお持ちします」「いえ、大丈夫です。重くないですから」 何か言いたげな顔の護衛に対して、和彦は微笑で返す。そのまま歩き出したが、すぐにある光景が視界に入り、結局足を止めていた。 車
それでも、鷹津とのことを知られるわけにはいかなかった。当然、自分から口にするはずもない。 保身のためもあるが、自分のせいで鷹津が何かを失うのは、やはり嫌なのだ。「……何かあった?」 囁きながら千尋がもう一度唇を重ねてくる。和彦は、茶色の髪を優しく指で梳いた。「何も、と言いたいところだが、ここにいると、いろいろあるから……」 千尋の眼差しがスッと鋭さを帯びる。その変化を目の当たりにして和彦はドキリとした。「千尋?」「先生から目を離すと、危ないんだよな。自覚なく、性質の悪い男を引き寄せて、骨抜きにするから。――もしかして最近は、自覚があったりして」 口調は冗談っぽくありながら、千尋の表情は真剣だった。こういうときの千尋は、厄介だ。次の行動が予測できず、とんでもない暴走をしそうなのだ。 和彦の奔放さに対して、嫉妬や独占欲とのつき合い方は上手いと話す千尋は、事実、年齢に見合わない寛大さを示しているといえる。一方で、何かの拍子に激しい感情を発露させることもあるのだ。そうやって千尋は、荒々しい感情のバランスを取っている。とても危うく。 それを受け止めることは、自分の役割であり、義務ですらあると和彦は考えていた。「自覚があったら、ぼくを嫌いになるか?」「悪いオンナ、っていう自覚か……。エロい響き」 バカ、と一言呟いた和彦は、千尋の頭を軽く小突く。すぐに手を引こうとしたが、その手を千尋に掴まれた。子供が甘えてくるように額と額を合わせてきたかと思うと、頬ずりをされ、首筋に顔が寄せられる。肌に触れる息遣いがくすぐったくて、和彦は小さく笑い声を洩らした。「子犬にじゃれつかれているみたいだ」「子犬?」「……別に、可愛いという意味で言ったんじゃないからな」 和彦が念を押すと、千尋が唇を尖らせる。あざといほど子供っぽい仕種だが、和彦には効果的だと、千尋はよくわかっているのだろう。「悪いオンナの周りには、食えない大人の男ばかりだからね。――こういうのも新鮮だろ?」
「だってさあ、俺、せっかくの夏なのに、夏らしいこと何もしてないんだよ? 去年もそれなりに忙しかったけど、今年ほどじゃなかった。だからせめて、こういうときぐらい、楽しむとまではいかなくても、ゆっくりしたいなあ、って」「意地悪を言うつもりはないが、ゆっくりしたいなら、ぼくが行かなくてもできるだろ」「――長嶺の男たちが一堂に会するのに、あんたがいなくてどうする」 突然、二人の会話に割って入ったのは、いつからそこにいたのか、開いた襖の傍らに立った守光だった。入っていいかと問われて頷くと、守光が二人の傍らに座る。このとき、畳んだ服の山にちらりと視線が向けられ、和彦はさりげなく自分の背後に隠す。「すみません、片付けている途中だったもので……」「この部屋も、ずいぶんあんたの私物が増えた。どうにかしないとな」「クリニックが休みに入ったら、少しマンションに持ち帰ろうかと思っています」「いや、そういうことではなくて――……、まあ、今はそのことはいい。法要のことだ」 守光にひたと見つめられ、和彦は背筋を伸ばす。すると守光が、淡い笑みをこぼした。「堅苦しい話をするわけではないんだ。楽にしてくれないか、先生」「あっ、はい……」 そう言われて、和彦は肩からわずかに力を抜く。「先日、あんたが名簿を見たときに言っただろう。ちょっとした行事があると。それが、総和会が毎回執り行っている初代の法要だ。花見会は、世代を超えた交流会のような側面があるが、法要はあくまで内輪の集まり。花見会のように華やかな行事にはならん。形式にそって粛々と進むだけだ」 淡々とした口調でここまで話した守光が、次の瞬間、ニヤリと笑った。食えない笑い顔は、雰囲気が賢吾とよく似ている。「総和会として大事なのは法要だが、長嶺組……長嶺の家にとって大事なのは、そのあとだ」「あと、ですか?」「宿を移して、ささやかに休養をとる。今は、わしや賢吾だけじゃなく、長嶺の男として千尋もがんばってくれたからな。家族旅行のようなものだ」
畳んだ自分の服を抱え、和彦は小さく唸り声を洩らす。守光から与えられている客間は、すっかりもう和彦の自室という様相だ。 自宅マンションから必要に応じて服などを持ってきてもらっているためだが、客人らしく、遠慮しつつ部屋を使っているつもりだったのだ。なのに昨日、これを使ってくださいと、とうとう衣類用の収納ケースが客間に運び込まれてしまった。 勘繰りたくはないが、『和彦のために』と言いながら、これから本格的に家具が配置されていくのではないかと、つい身構えてしまう。「……少し、マンションに持って帰ろうかな……」 せっかくクリニックが休みになるのだし、と声に出さずに続ける。 世間はいよいよ、盆休みに突入する。多忙な生活を送っている和彦としては、堂々とクリニックを閉められる行事は歓迎したいところだが、ゆっくりできると素直に喜べるほど能天気ではない。これまでの経験で、休日を自由に過ごせた試しがないのだ。 明日から約一週間、クリニックを閉めることになるが、どれぐらい休日として過ごせるだろうかと、すでにもう戦々恐々としている。 できることならマンションに戻り、のんびりと寛ぎたいところだが、そういう希望すら、まだ守光に切り出せないでいた。 一人になりたいと思いつつ、一人になるのが少し怖いという気持ちも和彦にはあった。 数日前の鷹津との狂おしい行為を思い返した途端、胸の奥が妖しくざわつく。鷹津の腕の中で肉欲の獣に成り果てたときの高揚感は忘れ難い。同時に、鷹津の強引さに屈服させられた自身の浅ましさを、痛感もさせられる。 鷹津との間にあったことを誰かに知られたらと考えると、寒気がする。賢吾にもさんざん指摘されてきたが、和彦は隠し事には向かない性格だ。特に、特別な関係を持つ男のことについては。 長嶺の男は怖い――と、心の中でひっそりと呟いたとき、客間の外で騒々しい足音が聞こえてくる。和彦が知る限り、こんなににぎやかな気配を立てる人間は一人しかいない。ぎょっとすると同時に襖が開き、慌しく千尋が飛び込んできた。「――先生、海に行こうっ」 夏休みを待ちわびていた小学生かと思いつつ、和彦
早く体を離さなければと危機感を抱きながらも、心の大部分では、今味わっている心地よさを手放せないでいた。それは鷹津も同じらしく、再び緩やかに腰を揺らし始めたかと思うと、内奥に収まっている欲望が熱さと硬さを取り戻していく。まだ、興奮しているのだ。「あぁ――……」 和彦が吐息をこぼすと、鷹津がわずかに唇を緩めた。「まだ俺を、欲しがってるな。お前の尻がいやらしく吸い付いて、締まりまくっている。俺のオンナになれて、そんなに嬉しいか」「……うる、さい……」 内奥深くをぐうっと突き上げられて、喉を反らして尾を引く悦びの声を上げる。露わになった和彦の首筋を舐め上げて、鷹津が囁いてきた。「もう一度犯してやる。俺の汗と精液の匂いがこびりつくほど、たっぷりとな」 和彦が感じたのは恐怖でも嫌悪でもなく、狂おしい肉欲の疼きだった。すでに二度も精を放ったというのに、熱いものが出口を求めて、体の奥でドロドロと渦巻いている。 鷹津の舌先に胸の突起を転がされ、激しく濡れた音を立てて吸われてから、歯を立てられる。痕跡を残すなと、もう言えなかった。 蕩けた和彦を見下ろして、鷹津が真剣な表情で肌にてのひらを這わせてくる。〈オンナ〉となった和彦の存在を確かめるかのような手つきに、鷹津が変わったのか、自分が変わったのか、和彦はひどく感じてしまう。「あっ、やめっ――」 力を失った欲望をてのひらに包み込まれ、上擦った声を洩らす。「今の乱れっぷりなら、空になるほど精液を搾り取れそうだな」 淫らで物騒なことを呟きながら、鷹津の手が柔らかな膨らみにかかる。きつく揉みしだかれて、和彦は腰をくねらせて反応しながら、食い千切らんばかりに内奥で脈打つ欲望を締め付ける。すがるように鷹津を見上げると、どこか恍惚としたような笑みを向けられた。「……忌々しいほど、いいオンナだ。お前は。わかっていても、骨抜きになる。……クソむかつく」 次の瞬間、内奥から欲望が引き抜かれ、和彦の体は乱暴にうつ伏せにされて腰を抱え上げ
「――俺も味わいたくなった。お前をオンナにしている男たちの気分を」 快感で鈍くなった頭では、鷹津の言葉の意味を瞬時に理解するのは無理だった。和彦はゆっくりと瞬きを繰り返し、目の前で見たこともない表情を浮かべている男を凝視する。鷹津は、怖いほど真剣な顔をしていた。両目にあったドロドロとした感情の澱は払拭され、純粋な欲情だけを湛えている。 この男は誰だと、和彦は自問する。まるで知らない男が体の奥深くに居座っているようだった。 本能的な怯えから身を捩ろうとしたが、当然できるはずもなく、それどころか内奥を深く突き上げられて快感に身を震わせ、鷹津にすべてを委ねることしかできない。「はあっ、あっ、くうっ……ん」「なあ、俺のオンナになれ」 緩やかな律動とともに、鷹津が掠れた声で囁く。和彦は首を横に振ることも許されず、唇を塞がれる。体が鷹津に満たされ、窒息してしまいそうな危惧を覚える。「ダメ、だ。それは……、そんなこと、知られた、ら……」「長嶺の男たちに八つ裂きにされるか? なら俺が、そいつらを引き剥がしてやる」 無理だと言いたかったが、やはり鷹津は聞く気がないらしく、また口づけを与えられる。和彦から、欲しい返事をもぎ取る気なのだ。 律動が早くなり、和彦は必死に鷹津にしがみつく。下肢から送りこまれる肉の愉悦に、思考力が押し流されてしまいそうだ。そこに鷹津がつけ込む。「そう、深く考えるな。仮にも俺は、刑事だ。お前の生活を支配できる力なんてない。言葉遊びのようなもんだ。俺はただ、お前をオンナと呼んで、愉しみたいだけだ」「……どうして、そんなこと……。いや、ダメだ――」「お前が認めないなら、ずっと続けるぞ。俺はそれでもいいが、外でお前を待ち続けている連中は、さすがに何事かと思うんじゃねーか。電話をかけて様子をうかがってくるか、いきなりここまで上がってくるか。どっちだと思う?」 鷹津がこんなことを言い出した意味を必死に考えようとするが、返事を急かすように鷹津は動き続け、快感に弱い和
頭を上げさせられた和彦は、賢吾に引っ張り起こされ、向き合う形となって抱き締められる。その背後で千尋が身じろぐ気配と衣擦れの音を聞いた。「俺の息子に対しては、先生は徹底して甘いな。俺が妬けるほどだ」 賢吾の肩に額を押し当て、息を喘がせていた和彦は、その言葉を聞いて顔を上げる。楽しげに見える賢吾だが、大蛇を潜ませた目はじっとりとした熱を孕んでいる。この男も興奮しているのだ。 今朝まで、別の男に抱かれていた和彦の体に触れながら、賢吾は何を思っているのか。 想像の余地はあるが、深い闇を覗き込むような行為に思え、怖かった。 ただ、和彦に
「……別に。あんたの過去に興味はない」 「賢い奴だな。危険な蛇の尾を踏まないよう、余計なことは耳に入れたくないってことか」 「サソリの尾だって踏みたくない。あんたも、長嶺組長も、物騒すぎるんだ」 「俺は物騒じゃないだろ。あんなに丁寧にお前を抱いてやったんだ。けっこう、紳士なつもりだぜ」 言葉とは裏腹に、和彦の体はソファに押し倒され、傲慢に鷹津がのしかかってくる。きつい眼差しを向けると、それ以上の眼差しの鋭さで言われた。 「あまり、俺と長嶺を同類で語るなよ。同じ悪党ではあっても、俺とあいつは敵対関係であることに変わりはない。手を組む気はな
「なるほど。先生のきれいな指が、他の男の体を這い回るのかと思うと、少しばかりムカつくな」「変な言い方をするなっ……。用が済んだんなら、ぼくはこれで帰るからな」 立ち上がろうとした和彦だが、すかさず手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩して賢吾の胸元に倒れ込む。そのまましっかりと両腕で抱き締められた。「先生への本題はこれからだ」 嫌な予感がした和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。すると賢吾は表情を和らげてから、耳元に唇を寄せてきた。「頼みたいことがある」「……聞きた
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう