Masuk「内緒」
先日、千尋が入れるつもりの刺青の絵柄について尋ねたとき、千尋が答えた言葉をそっくりそのまま返してやる。本人もそれがわかったのか、短く声を洩らして笑った。「意外に根に持たれてる?」「ぼくは執念深いんだ」 ようやく髪が乾き、ドライヤーを置いた千尋が手櫛で整えてくれる。至れり尽せりだと、口元を緩めた和彦が立ち上がろうとすると、すかさず背後から抱きつかれた。「おい、千尋――」「なんか先生、今朝は妙に色っぽいよね。さっき俺たちの前に姿見せたとき、ちょっとドキッとしたもん」「何言ってるんだ……」 千尋の嗅覚の鋭さを、和彦はよく知っている。動揺を押し隠して腕の中から抜け出そうとするが、かまわず千尋は間近から顔を覗き込んでくる。「――長嶺の男って、結局、好みと行動が似てるのかな。気に入った人を逃がさないよう、長嶺の家に取り込んで、縛り付けようとする」 独りごちるように言いながら、千尋が和彦の首筋に顔を寄せて、ペロリと舐め上げてきた。熱く濡れそれでも、吐いてしまえば、驚くほど楽になった。体調が悪いというより、過度な緊張に胃が耐えられなかったのかもしれない。 和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。 おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」 ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」「まあ無理はしないでくれ」 改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。 見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。 ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。 和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。 情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。** 朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。 一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。 庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。
** 寝起きの気分は最悪だった。 和彦は布団の中で、体の節々が痛んでいることを確かめると、慎重に体を起こす。部屋の暖房が効きすぎており、額や首筋がじっとりと汗ばんでいた。 頭はぼうっとしており、すぐには思考が働かない。そもそも昨夜、自分はどうやって部屋のベッドに入ったのかすら、記憶は曖昧だ。 和彦は、カーテンの隙間から差し込む弱々しい陽射しを漫然と眺める。そうしているうちにやっと、自分の身に起こった出来事が蘇ってきた。 慌ててベッドから出ると、はっきりと筋肉痛を自覚する。もちろん、それだけではなく――。 和彦は唇を噛むと、落ち着きなく室内を歩き回る。そうしているうちに、ようやく思考が正常さを取り戻す。大きく息を吐き出したあと、ひとまずカーテンを開けた。 厚い雲の合間から、陽が差している。どこか神秘的ですらある光の帯がうっすらと伸びていたが、雲が流れたことによってあっという間に消えてしまう。そこで和彦も我に返った。 時計を見れば、午前九時を少し過ぎている。いつもより遅めの起床となったが、あまり眠った気はしない。 また横になりたい誘惑に駆られた和彦だが、ゆっくりしている場合ではないとすぐに思い直す。とにかくここを出たかった。こんなところに閉じ込められたままでは何もできないことは、昨夜痛感した。 ため息をついて再び窓の外を見ようとしたとき、突然、ドアをノックされる。和彦はビクリと体を震わせ、声も出せずにその場に立ち尽くす。 再びのノックはなく、いきなりドアが開いた。「――起きてたか、先生」 のっそりと部屋に入ってきた南郷が、和彦の姿を認めるなりニッと笑いかけてくる。その表情に馴れ馴れしさを感じたのは、ある種の被害妄想かもしれない。和彦は直視できず、反射的に顔を背ける。「下りてきて、朝メシを食ってくれ」 昨夜のことなど一切匂わせない南郷の言葉に、一瞬激高しかける。しかし、怯えが上回ってしまう。「食欲はないです……」「まあそう言わず、一口、二口でいいから、口をつけてくれ」「いりませんっ。放っておいてくださいっ―
無謀なことをしているとわかってはいるが、あの場を逃げ出さずにはいられなかった。このままでは守光の野心に食らい尽くされてしまうと、本能的に悟ったからだ。 せめて、抵抗の意思だけでも示さなければ――。 そんな和彦の想いは、しかしすぐに揺らぐことになる。 午前中、南郷の運転する車で通った道は、今は真っ暗だった。遠くにぽつんと街灯の明かりが見えるが、だからこそ別荘周囲の暗さが際立つ。足元さえよく見えないのだ。 慎重に歩き出しはしたものの、まだ残っている雪に足を取られそうになる。こんな状態で人家がある場所まで行けるはずもないが、前に進むしか和彦にはなかった。 サンダル履きで剥き出しとなっている爪先はすでに感覚がなくなっている。息をするたびに冷気が肺に突き刺さり、もうすでに息苦しい。ふらついた拍子に、道の脇に転がり落ちそうになり、咄嗟に木にすがりつく。地面に落ちた毛布を拾い上げる気力もなくなっていた。 このままではすぐに凍死するのではないかと、ふとそんなことが脳裏を掠める。思考まで凍り付きそうになっており、それもいいではないかと和彦が投げ遣りになった瞬間、まるで戒めるように、賢吾の顔が思い浮かんだ。 賢吾だけではない。自分に情を注いでくれた男たちの顔が次々と。「ふっ……」 嗚咽を一つこぼし、和彦はその場に立ち尽くす。もう、前にも進めなくなっていた。 耳元で聞こえる風の音に交じって、背後から近づいてくる音があった。半ば確信して振り返ると、懐中電灯らしき明かりがちらちらと揺れながら、こちらに近づいていた。しかも複数。 明かりに目を射抜かれて顔を背けていると、足音が側までやってくる。「そんな格好でいると、風邪をひきますよ」 声をかけてきたのは吾川だった。その後ろに二人の男たちがついているが、南郷はいない。 男の一人からダウンジャケットを受け取った吾川が、和彦の肩にかけてくれる。「さあ、別荘に戻りましょう。すぐに、温かい飲み物を準備しますね。落ち着いたら、部屋で休みましょう。やっぱりリビングだと、ストーブをつけていても寒いですから。ああ、飲み物と一緒に、鎮痛剤も出しておきま
「ぼくに、長嶺の男たちの側にいてほしいと言いながら、どうして、南郷さんと……」「あんたが、その長嶺の男たちにとって、大事で可愛いかけがえのないオンナだからだ」 会話が堂々巡りに陥りそうになっているのを察し、和彦は強い苛立ちを表に出す。守光は肝心なことを誤魔化そうとしているのではないかとすら考え始めていた。「――賢吾の大事なものが欲しかったそうだ」 和彦は数秒息を詰めたあと、ゆっくりと目を見開く。ぽんっと投げて寄越された守光の言葉を、すぐには受け止めきれなかった。「自分とは何もかもが違う特別な男と、同じものを手にしてみたいと……、そう、南郷は言っていた。わしが、何か欲しいものはないかと聞いたときに」「それが、ぼくだと……?」「ああ。あんたをわしのオンナにした時点で、南郷の希望を叶えることはできたが、それではあまりに情緒がない。だから少し無茶もしたが、あんたを南郷という男に慣らしていった。あんたの持つ性質なら、情を抱いて南郷を受け入れてくれるかもしれないと期待をしていたが、南郷のほうがよくわかっていたよ。あんたはそうはならないだろうと。ただ、だからこそ、互いに溺れることはないだろうと言われて、なるほどと納得した」 穏やかな口調で、この人は一体何を言っているのだろうかと、和彦は瞬きも忘れて守光を凝視する。自覚はなかったが、足が小刻みに震えていた。もちろん、寒さからではない。 自分の隣に座っているのは人の皮を被った怪物だと実感していた。「できることならもっと時間をかけて様子を見たかったが、あんたが佐伯家に里帰りすることになって、予定が変わった。あんたには、何があっても年明けにはこちらに戻ってきてもらわねばならん」 和彦は自分の膝をぐっと押さえつけてから、頭に浮かんだ疑問を口にした。「あんなことをされて……、ぼくが戻ってくると考えているんですか?」「仮にあんたが戻らないとして、どんな事態が起こり得るか、想像を働かせてみるといい。佐伯俊哉という男が、わざわざわしと連絡を取り合っていたのは、相応の理由がある。わ
大蛇が棲む肌の下に満ち満ちていたのは敵意だと、和彦は感じ取っていた。 それは、根拠のない噂によるものかと、浅薄に判断していた自分がいまさらながら口惜しい。賢吾はずっと、南郷を危険な存在として警戒していたのだ。それは和彦も同じだったが、まったく足りなかった。 もっとも、和彦のような存在がいくら警戒したところで、結果は見えていたが。「――眠れんのかね」 前触れもなく声をかけられ、危うく悲鳴を上げそうになる。振り返ると、丹前姿の守光が立っていた。口ごもる和彦にかまわず、守光がソファに歩み寄ってくる。仕方なく毛布を端によけた。「何か酒でも準備させようか」 隣に腰掛けた守光の言葉に、和彦は首を横に振る。「けっこうです……」「少しぐらい酔ったほうが、口も軽くなる。その勢いでわしを罵ってくれてもかまわんのだが」 この瞬間、和彦はカッとした。「あなたはそんなっ――」 腰を浮かせかけたところで、さんざん押し広げられた部分がズキリと痛んだ。狼狽した和彦はすぐに勢いをなくし、ソファに座り直す。そんな和彦を、守光は静かな目で見つめていた。「休む前に、鎮痛剤を持ってこさせよう。そうなると、酒はやめておいたほうがいいな」 守光は話をしたがっているらしく、和彦がどれだけ黙り込んでも立ち上がろうとはしなかった。 一方の和彦も、聞きたいことはいくらでもあるが、まだ頭は混乱しており、動揺もしている。しかし、今を逃せば、何も聞き出せない気がした。 傷ついた〈オンナ〉に、守光が多少なりと憐憫の情を抱いているなら、利用しない手はない。そう打算的に考える自分に、自己嫌悪に陥りそうになりながら、ようやく和彦は口を開いた。「……どうして、ぼくなんですか」 吐息を洩らすようにして守光は笑った。「夕方、あんたは、わかったような気がすると言っていたんじゃないかね」「それは……、あなたが、ぼくに興味を持った理由です。でも南郷さんは……」「同じだよ。賢吾が、あんたに興味
さきほど口にした、『尽くす』という言葉を実行しているかのように。 ふっと、疑問が口を突いて出ていた。「……あなたは、賢吾さんに成り代わりたいと思っているんですか?」 視線を伏せたまま南郷は笑った。「先生はどう思う?」「ぼくは……、権力争いや内部抗争とか、よくわかりません。ただ、長嶺組は、長嶺の血を引く男だけが跡を継げるんですよね」「毒されてるな、あんたも。さっきも言ったが、俺には長嶺の血は一滴も流れてない。俺ごときが、長嶺組をどうこうしたいとも思っていないしな。心配しなくていい。それについては」「心配なんて……」「総和会の中にいて、くだらん噂を耳にしたんだろう。例えば――第一の御堂あたりか」 和彦はムキになって否定したが、聞いているのかいないのか、南郷はいきなり内奥に指を挿入し、掻き出すような動きをする。ますます屈辱に身を強張らせ、和彦はきつく唇を噛んだ。「あの男は、見た目はほっそりとした優男で、いかにも荒事に向かない姿をしてるが、代わりに、毒を使う。流言飛語に真実を混ぜて、他人を翻弄する。そうやってどこかの組織を瓦解させた。と、俺は聞いたことがある。あまり御堂を信用するな、先生。あんたもうっかり利用されて、どう身を滅ぼされるか、わかったもんじゃないぞ」「……今、あなたがそれを言うんですか」 違いない、と至極まじめな顔で南郷は頷く。 下肢の汚れを簡単に始末されたところで、ようやく和彦は解放された。起き上がった途端に頭がふらつき、額に手を当てる。すると、肩から新しい浴衣をかけられた。「このまま浴場に行くといい。自分で体を洗いたいだろ。――別に、俺が手伝ってもいいが」 和彦が頷くはずがないとわかっていながらの、南郷の提案だった。萎えかけた気力を振り絞って浴衣に袖を通し、雑に帯を締める。 半ば逃げるように部屋を出た和彦は、次の瞬間ぎょっとする。廊下に吾川が立っており、和彦の姿を見ても表情一つ変えることなく、軽く頭を下げた。「浴場に向かわれるのでしたら、あ







