LOGIN卓上カレンダーを一枚めくった和彦は、複雑な感情の入り混じったため息をつく。
時間の流れが早いと、つくづく思う。ついこの間、慌しい年末年始を過ごしたはずなのに、明日から二月なのだ。 長嶺組の身内となってから、さまざまな出来事には事欠かない毎日だが、一月の波乱ぶりは際立っていた。クリニックの開業はもちろん、人間関係がますます複雑になってきたのが大きい。和彦の自業自得の部分もあるが、〈オンナ〉の立場で抗えないこともある。 その最たる出来事が、総和会会長である長嶺守光と出会ったことだ。騙まし討ちのような形で顔を合わせ、二人きりで食事をして、自宅に宿泊し、そして――。 和彦は、白衣を着込んだ体を小さく震わせる。ほんの一か月ほどの間に、これだけのことが自分の身に起こったのかと思うと、いまさらながら怖くなってくる。同時に、自分でも戸惑うような疼きが、胸の内で妖しく息づいてもいるのだ。 イスの背もたれに体を預け、和彦は右手をかざして眺める。自分の体が、周囲の男たちによって、何か別の生き物に造りかえられているような錯覚を覚える。それとも「わたしが円満に、先生を連れ帰りますよ。先生が今現在、どんな環境で、どんな人間に囲まれて生活しているか、一切うかがわせずに」「そうだ。いざというとき、ぼくを守ってくれるだけでいいなら、長嶺組の組員に護衛してもらえばいいんだ。だけど、ぼくが長嶺組の身内になっていると知られるわけにはいかない」 それでなくても、澤村には千尋と、英俊には三田村と一緒にいるところを見られている。その点、秦は表向きは青年実業家という肩書きを持ち、仮に素性を調べられたところで、裏での組やその関係者との繋がりの多さが、かえって長嶺組の存在を隠してくれる。 この計画で大丈夫だろうかと、頭の中でめまぐるしく自問を繰り返す和彦に、秦は芝居がかったように明るい声をかけてきた。「そうだ、先生、中嶋も連れて行っていいですか? あいつこそ、見た目は普通の勤め人に見えて都合がいい」 何を企んでいるのかと、和彦が胡乱な目つきとなると、秦はヌケヌケとこう言った。「先生の用心棒をしつつ、デート気分を味わおうかと思いまして」「……正体不明の怪しい男には似合わない、爽やかな言葉だな」「わたしだって、手探り状態なんですよ、中嶋との関係は。即物的な繋がりを求めている反面、それだけじゃいけないとも思っている。だからこそ、先生のしたたかでしなやかな存在感に、刺激を受けるんです。いい緩衝材であり、接着剤ですよ、先生は」 中嶋の首の付け根についていた赤い痕を思い出し、なぜか和彦のほうが気恥ずかしい気分になってくる。秦と中嶋の関係に、緩衝材や接着剤という言葉はともかく、和彦は搦め捕られ、惹かれている。純粋に、性的な興味を覚えているといってもいい。こういう経験は初めてで、手探り状態なのは和彦も同じだ。「せっかくなので、わたしと中嶋で、先生へのプレゼントを用意しますよ」 秦の申し出に、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。「正直、誕生日を祝われるのは慣れてないから、いつもと同じように接してもらったほうがありがたい。……昔から、おめでとうと言われても、どういう顔をすればいいのかわからないんだ」 わずかに目を細めた秦は、寿司を口に運んだあ
『先生のためなら、わたしはなんでもしますよ。なんといっても、命の恩人であり、わたしと中嶋の仲を取り持ってくれた人でもありますから』「仲を取り持ったというより、ダシに使われたんじゃないのか、ぼくは」 秦から返ってきたのは、意味ありげな笑い声だった。だがそれもわずかな間で、すぐにまじめな声が告げた。『せっかくですから、夕食を一緒にどうですか。わたしが今いる店の近くに、美味い寿司屋があるんです。ごちそうしますよ』「これから、すぐ行く……」 さっそく和彦は行き先の変更を組員に頼み、向かってもらう。 三十分後に、ある雑居ビルの前に到着すると、黒のロングコートを羽織った秦がすでに待っていた。すでに日が落ち、代わって周囲を照らす繁華街の明かりは、秦を舞台に立つ役者のように引き立てている。本人も、他人からどう見られているかよくわかっているのだろう。 こちらの存在に気づいた秦が艶やかな笑みを浮かべる。長い足でガードレールを跨いだかと思うと、颯爽とした足取りで車に近づいてきた。「店は、そこです。歩いて行きましょう」 ウィンドーを下ろすなり秦に言われ、和彦は多少面食らいながらも、車を降りる準備をする。その間に秦は、護衛兼運転手の組員にも声をかけた。「この先にコインパーキングがあるので、車を止めたら運転手さんも寿司屋に来てください。席を取ってあるので」 寒い中、自分を護衛してくれている人間を車に残し、自分たちだけ美味しいものを食べるのは気が引ける。和彦は、ぜひそうしてくれと組員に声をかけて、車を降りた。 秦が連れて行ってくれた寿司屋は、黒を基調とした落ち着いた内装でまとめられており、雰囲気としてはバーに近い。ただ、長いカウンター席や、魚の並ぶネタケースは、やはり寿司屋のものだ。 抜け目ない秦は席を予約しておいてくれたらしく、店員に名乗ると、奥まったテーブル席に案内され、少し遅れてやってきた組員は、その隣のテーブルについた。「――それで、わたしに相談したいことというのは?」 食べきれるのかと不安になるほど、量がたっぷりのにぎり盛りが運ばれてくると、箸を手にした秦が口火を切る。
「ぼくは、患者の肌に触れる仕事をしています。それだけじゃなく、危険な手術道具や、機械を扱いもします。だから気が散らないよう、アクセサリーはつけないんです」「だが、受け取ることはできるだろ。それに一日中、患者に触れて、メスを握っているわけじゃないはずだ。プレゼントを突き返すには、もう一捻り欲しい言い訳だ」 そういうつもりはないと、口中で控えめに抗議した和彦だが、南郷の冷たく冴えた眼差しの前では、はっきりと声を上げるのはためらわれる。それに、守光から贈られたものなら、受け取る以外に選択肢はなかった。「――……わかりました」 和彦の返事を受け、南郷は一旦は化粧ケースを閉めようとしたが、思い直したように言った。「せめて今、俺の前でつけて見せてくれないか、先生」「どうしてですか?」 率直に問いかけると、南郷は答えないまま、ただ口元に笑みを浮かべた。何かを企んでいるような、あまり性質のよくない笑みだ。「プレゼントをもらったら、愛想の一つでもほしいもんだな」 素っ気なく化粧ケースを投げて寄越され、和彦は反射的に両手で受け止める。つい、南郷にきつい眼差しを向けていた。「だったら、総和会第二遊撃隊隊長の権限で、ぼくに笑えと命令したらどうです」 このときの和彦は、本当に機嫌が悪かった。顔見知りの人間に見られるかもしれない場所で、いかにも筋者だとわかる大男と相対しているのだ。ひっそりとしたクリニック経営を望む和彦には、あまりに危険が大きい。「……どうやら、長嶺組長の〈オンナ〉を怒らせたようだ」 わざと和彦の神経を逆撫でるように、聞こえよがしに呟いた南郷がふらりと立ち上がる。和彦は意地でも、もう南郷に視線を向けなかった。何事もなかったように食事を再開する。 しかし実際は、心臓の鼓動が速くなり、背筋を冷たいものが駆け抜けていた。凶暴さを秘めた南郷を相手に虚勢を張るのは、限界がある。 幸運にも、冷や汗が流れ落ちる前に南郷は黙って立ち去った。その場に、物騒な空気の余韻だけを残して。 慎重に辺りを見回してから和彦は、手元に視線を落とす。自覚がないま
澤村から和彦の携帯電話の番号を聞いて、自分たちが連絡しようと考えないのだろうかと、非難めいた気持ちを佐伯家に抱いてはいるが、仮に自分の家族の声を聞いたとしたら、和彦は次の瞬間には電話を切る自信があった。 結局、澤村に厄介な役回りを押し付けている責任の一端は、和彦にあるということだ。そういう負い目もあって、澤村からの働きかけを無碍にはできない。 困惑気味に電話で話す和彦を、シャワーを浴び終えた賢吾はニヤニヤと笑いながら観察していた。電話を終えてから、一通り和彦が事情を説明すると、さらにおもしろがる表情で、賢吾はこう問いかけてきた。『それで、無邪気な子供のように、優しい両親からのプレゼントを受け取りに行くのか?』 嫌味な言い方をするなと、賢吾に対して怒った和彦だが、それでも、行かないとは答えられなかった。賢吾にしても、行くな、とは命令しなかった。それどころか、和彦の好きにすればいいとさえ言ってくれたのだ。 何を企んでいるのだろうか――。和彦の脳裏を、ふっとそんな言葉が過る。ただし、その言葉を向ける相手は賢吾ではなく、佐伯家に対してだ。 根に持っているつもりはないが、和彦は家族から誕生日プレゼントをもらった記憶がない。祝ってくれていたのは、常に他人だった。 携帯電話の画面に視線を落としたまま、無意識のうちに和彦は眉をひそめる。佐伯家の動向だけでなく、和彦を悩ましい気分にさせる事柄は他にもあるのだ。 守光の自宅で、顔にかけられた布の感触がふいに蘇り、反射的に頬を撫でる。次の瞬間、テーブルの傍らで人の気配を感じた。ランチが運ばれてきたのだと思い、無防備に顔を上げた和彦は、飛び上がるほど驚いた。「あっ……」 見上げるほど大きな体をスーツに包んだ男が、じっと和彦を見下ろしていた。南郷だ。 目が合った途端、身がすくむ。和彦が南郷に対して感じる怖さは、理屈ではなく、本能的なものだ。南郷から漂う粗暴さや猛々しさは、和彦が絶対受け付けられない種類のものだ。この男の側にいるだけで、痛みを感じてしまう。 警戒して身構える和彦の反応をどう感じたのか、南郷は唇を歪めるようにして笑った。「どうして、ここに――
卓上カレンダーを一枚めくった和彦は、複雑な感情の入り混じったため息をつく。 時間の流れが早いと、つくづく思う。ついこの間、慌しい年末年始を過ごしたはずなのに、明日から二月なのだ。 長嶺組の身内となってから、さまざまな出来事には事欠かない毎日だが、一月の波乱ぶりは際立っていた。クリニックの開業はもちろん、人間関係がますます複雑になってきたのが大きい。和彦の自業自得の部分もあるが、〈オンナ〉の立場で抗えないこともある。 その最たる出来事が、総和会会長である長嶺守光と出会ったことだ。騙まし討ちのような形で顔を合わせ、二人きりで食事をして、自宅に宿泊し、そして――。 和彦は、白衣を着込んだ体を小さく震わせる。ほんの一か月ほどの間に、これだけのことが自分の身に起こったのかと思うと、いまさらながら怖くなってくる。同時に、自分でも戸惑うような疼きが、胸の内で妖しく息づいてもいるのだ。 イスの背もたれに体を預け、和彦は右手をかざして眺める。自分の体が、周囲の男たちによって、何か別の生き物に造りかえられているような錯覚を覚える。それとも、恐ろしく貪欲な本質が露わになっているだけなのだろうか。 いまさらか、と自嘲気味に唇を歪めた和彦は、イスに座り直して、白衣の裾を軽く払う。 午前中、施術の合間にカウンセリングを行うなど、医者が一人しか常駐していないクリニックとしてはなかなか多忙なスケジュールをこなしたのだが、対照的に午後からは、予約は夕方まで入っていない。 そんな空気を嗅ぎ取ったわけではないだろうが、さきほどまで由香が訪れていた。先日、二重瞼手術を行い、その術後経過を診るため足を運んでもらったのだ。もっとも由香本人は、診察はついでとばかりに、遊びに来たようなものだろう。 差し入れとして持ってきたケーキを、すっかり打ち解けたクリニックのスタッフとともに味わい、おしゃべりを楽しんでいた。 由香を、いい家のお嬢様だと思っているスタッフたちは、彼女の本当の姿を知れば驚くだろうが、昼間のクリニックでは必要のない情報だ。由香にしても、実像とは違う自分を演じることを楽しんでいる節がある。誰も傷つかない、可愛いウソだ。 その、可愛いウソつきである由香は、和彦には特
「あの食えないジジイが、単に気に入ったという理由だけで、息子と孫のオンナに手を出すはずがない。ロクでもないことを企んでいるはずだ。だがきっと、長嶺のためだろうな。……先生と相性のいい長嶺の男は、そういう生き物だ」「……勝手に、ぼくと相性がいいと、決め付けるな」 喘ぎながらなんとか反論した和彦だが、その長嶺の男を求めて、大蛇の刺青にぐっと爪を立てる。内奥深くで欲望が脈打ち、その熱さに体の内から溶かされそうだ。 もう、何も考えられなくなるという絶妙のタイミングで、賢吾がそっと耳打ちしてきた。「先生が、総和会会長のオンナになると決心がつくまで、掛け軸の若武者と同じ姿をした長嶺の守り神に身を預ける、という形を取るか? ただの屁理屈だと思うかもしれんが、薄っぺらい布一枚分ぐらいは、先生を守ってくれる」 その布一枚が目隠しとなり、先に広がる物騒な現実を遮断してくれるのだと思えば、賢吾の言う『屁理屈』は、確かに和彦を守ってくれるのかもしれない。あくまで、一時の誤魔化しでしかないが。「ぼくは、総和会会長ではなく、長嶺の守り神のオンナになるということか……」「この場合、捧げ物、という表現が適切だと思うが」「だったらもう、生け贄でいい」 耳朶に触れたのは、賢吾が笑った息遣いだった。ささやかな気配にすら感じてしまい、和彦は微かに声を洩らす。すると、その声に誘われたように賢吾が緩く腰を動かした。「――生け贄なら、食われる覚悟をしないとな。長嶺の守り神が背中に背負っているのは、大蛇より怖い生き物だぞ。……まあ、先生が自分から、相手を見ようとしない限り、どうでもいいことだろうがな」 一体どんな生き物だろうかと思いはしたが、今は、大蛇に締め上げられる感触を堪能することにする。 総和会会長のオンナになれるかと、簡単に口にできるくせに、抱き締めてくる賢吾の腕は熱く、力強い。まるで、和彦に対して強い執着を持っているかのように。 その力強さに応えるように、和彦は掠れた声で何度も賢吾の名を呼んだ。**







