LOGINガキだ、と和彦は心の中で呟く。
わかってはいるつもりだったが、予想を超えて千尋はガキだ。しかも、厄介な癇癪を抱えた、二十歳のガキ。 和彦は露骨に大きなため息をついて、ゆっくりと足を組み替える。ガキの機嫌を取るほど、実は和彦にも心の余裕はなかった。 「――……何が気に食わないんだ、お前は」 そう問いかけると、正面のソファにあぐらをかいて座った千尋がふいっと顔を背け、ぼそっと答えた。 「何もかも」 「ああ、そうか。ぼくの存在そのものも気に食わないんだな。だったら、こうして向き合っていても時間の無駄だ。帰るぞ」 ぞんざいな口調で応じた和彦が立ち上がろうとすると、千尋が慌てた様子でテーブルに身を乗り出してくる。 「待ってよっ……。誰もそこまで言ってないだろ」 「話があると言って人を呼び出したのはお前だぞ。用件を早く言え。ぼくは忙しいんだ」 「……組の仕事があるから?」 子供のようにふてくされていた千尋が、今度は急に頼りない口調となる。 やっぱりガキだと、ま「嫌な、感じだ……」 南郷に体に触れられるのも嫌だったが、その南郷に賢吾が煩わされていると思うと、強い苛立ちを覚える。同時に、対処を他人任せにするしかない自分がもどかしい。 大事に扱ってくれる男たちに、せめて自分は何ができるだろうかと考える。佐伯家の事情に巻き込みたくないとは思っているが、和彦を取り巻く問題はそれだけではない。総和会と長嶺組の関係に、長嶺の男同士の関係も深く関わってくるのだ。 帰宅したら、せめて賢吾に電話しておこうと思っているうちに、車の心地よい振動に促されるように眠気が強くなり、抗えなかった。ほうっと吐息を洩らして目を閉じる。 軽い居眠りのつもりだったがしっかり寝入ってしまったらしく、軽く肩を揺すられる感触に、和彦の意識は少しだけ浮上する。 先生、と控えめに呼ばれて、夢を見ているのだと思ったが、冷たい空気に頬を撫でられて、眠気は一気に霧散した。パッと目を開けると、なぜか三田村の顔が近くにあった。状況がわからず硬直する和彦に、三田村は優しい眼差しを向けてくる。「もう少しだけがんばってくれ」 耳に馴染むハスキーな声で言われ、意味がわからないまま頷いた和彦はシートベルトを外し、差し出された手を反射的に掴む。車を降りてすぐに、小さく声を洩らす。自宅マンションに帰り着いたとばかり思っていたが、そうではなかった。三田村が、和彦との逢瀬のために借りているマンションの前に、車が停まっていたのだ。 いまだに状況が掴めず戸惑う和彦の傍らで、三田村は護衛の組員たちと手短に会話を交わし、荷物を受け取っている。「行こうか、先生」 三田村に促され、我に返った和彦はぎこちなく歩き出しながら、その場に留まっている組員たちを振り返る。心配ないと言いたげに、頷いて返された。 組員たちの姿が見えなくなり、車が走り去る音がしてから、ようやく口を開く。「――……こんな予定だなんて、聞かされてなかった」 言ったあとで、なんだか非難がましくなってしまったと、和彦は慌てて言い募る。「嫌というわけじゃなくてっ……、今晩は部屋に戻ったら、さっさと
店を出ても、さすがに組員はすぐに駆け寄ってきたりはしなかった。和彦は真っ直ぐクリニックに戻るわけにはいかず、とりあえずコンビニに立ち寄り、何げないふうを装って雑誌コーナーの前に立つ。 一分ほど遅れて、組員が静かに隣に立ち、雑誌を手にした。「――あのガキ、総和会の第二遊撃隊の者ですね」 その通りなのだが、吐き捨てるような『ガキ』呼ばわりに、和彦は苦笑する。「ああ。南郷さんから頼まれたと言って、これを持ってきた」 和彦は、紙袋を軽く掲げて見せる。当然のことながら組員は、なぜ、という顔をした。「ぼくに無礼を働いたから、お詫びのつもりらしい。それと、さっき一緒にいた子を、そのうちぼくの世話係にしたいと考えているようだ」「申し訳ないですが、その、先生に対する無礼というのをこちらは把握してないのですが。よろしければ、教えてもらっていいですか?」 不本意ながら和彦は、南郷が小野寺にした説明に倣う。さすがに、〈大事なもの〉についてまでは聞かれなかった。「……まったく、あちらには困りますね。うちにはなんの連絡も入ってませんよ」「ぼくを、あちら側の人間なんだから、わざわざ連絡する必要はないと思っているのかもしれない。もしくは、嫌がらせ――」 組員は不快そうに顔をしかめたあと、小さく舌打ちしたが、和彦の視線に気づいて慌てて謝罪してきた。「すみません。一番困っているのは、先生なのに」「困るというか、なんというか……。ぼくだって舌打ちの一つもしたいけど、振り回されすぎて、その元気もない」 力ない声でぼやいた和彦は栄養ドリンクを一本買うと、組員に見送られながらクリニックへと戻った。** 今日は賢吾からよくメールが送られてきたと、クリニックを施錠した和彦はエレベーターホールに向かいながら思う。 午前中は、昨夜治療した昭政組組員の様子を知らせる内容だったが、午後からは、小野寺が接触してきたことに関する内容へと変わった。 護衛の組員から報告を受けたというメールに始まり、さっそく総和会、さらには第二遊撃
和彦は大きくため息をつくと、小野寺をテーブルから追い払うのは諦める。南郷の指示なのだろうが、あえてクリニックの近くで接触してくるやり方に腹は立つが、寄越されたのが小野寺で、助かったとも思った。見た目だけなら、小野寺は無害そのものだ。あくまで見た目だけ。「あの人たちに、俺と佐伯先生の関係って、どんなふうに見えているでしょうね」「……さあ」「まさか総和会の人間同士だとは、思いもしないだろうな……」 思わずきつい眼差しを向けると、小野寺は皮肉っぽく唇の端を動かした。「今の佐伯先生の反応、もしかして、自分は総和会の人間ではないと思っているということですか?」「君に言う必要はないだろう。……無遠慮で無神経なのは、南郷さん譲りなのか。第二遊撃隊の人間をそんなに知っているわけじゃないが、少なくとも中嶋くんや加藤くんとは、話をしていて不愉快になったことはない」「加藤はよくわかりませんが、中嶋さんは――特別ですよ。あの人は、佐伯先生のために隊に呼ばれたような人ですから」 一瞬、小野寺の表情を過ったのは、嘲りの感情だった。第二遊撃隊の中の人間関係に興味がないわけではないが、それでなくても今は、自分のことでいっぱいだ。度を過ぎた好奇心は、今の和彦には単なる毒にしかならない。「君の言葉が本当なら、中嶋くんのことだけは、南郷さんに感謝しないといけないな。それ以外では――」 続きを聞きたそうな素振りを見せた小野寺を無視して、和彦は食事を続ける。大人げないと自覚するほど邪険な態度を取っているつもりだが、小野寺は痛痒を感ぜずといったところか、こんなことを言い出した。「中嶋さんだけじゃなく、俺にも慣れてください。南郷さんはどうやら、そのうち俺と加藤を――もしかするとどちらかを、佐伯先生の専属の護衛としてつけたいみたいなので」「この間、確かにそんなことを言っていたな。……ぼくの意見も聞かずに」 胃の辺りが一気に重くなるのを感じて、和彦は顔をしかめる。意見を求められない自分の立場を甘受してはいるのだが、南郷から一方的に押し付けられる
格好だけなら小野寺は、華のある甘い顔立ちもあって、苦労知らずの大学生に見えた。それが実は、世に悪名を轟かせる組織の中で、どんな仕事でもこなす隊に所属しているのだから、人の見た目は本当にあてにならない。 もっとも和彦の周囲には、そんな男がけっこういる。例えば――。「中嶋くんは?」 唐突な和彦の問いかけに、動じた様子もなく小野寺は首を横に振る。「俺だけです」「……加藤くんの件を知らないのか」 和彦は露骨に不機嫌な表情を浮かべたが、それでも小野寺は動じない。「それは、あいつがドジを踏んだから大事になったんです。俺は正式に、隊から……というより、南郷さんからの使いで来ました」 南郷と聞いて、和彦の口元はピクリと引き攣る。小野寺を睨め上げたが、その反応をどう受け止めたのか、和彦の承諾も得ないで向かいの席についた。「おい――」 和彦は抗議しようとしたが、すかさず差し出された紙袋に気を取られる。紙袋に印刷された上品なデザインには見覚えがあった。いつだったか患者が差し入れとして持ってきた、有名な洋菓子店のものだ。 どういうつもりかと理由を問おうとして、今度は頼んでいたランチが運ばれてくる。小野寺は居座るつもりらしく、ちゃっかりメニュー表を開いている。 声を荒らげるのも大人げなくて、呆れて小野寺を見ていた和彦だが、すぐに目を丸くする。 ここまで、不貞腐れているのかと思うほど無表情だった小野寺が、ウェイトレスの女の子に思いのほか優しい笑顔を見せ、柔らかな声音で注文をしている。この場面だけ切り取れば、目の前にいるのは完璧な好青年だ。 ただ、それなりに人を見る目を養ってきたと自負している和彦が感じたのは、女の扱いに慣れているなということだった。 ウェイトレスが立ち去ると、小野寺は無表情に戻る。意地悪や皮肉のつもりはなかったが、和彦は率直にこう口にしていた。「ぼくには愛想がないんだな」 さすがに虚をつかれたのか、小野寺は目を丸くする。その反応に、ささやかな満足感を覚えた和彦は、軽い口調で続けた。「そういえば、加藤くん
「えっ、ああ……、あの隊は、長嶺会長のためならなんでもしますからね。どの組にも隠したいことはあるが、犬並みの嗅覚で探り当てる、と言われています。そういう連中に対しては、どうしたって慎重になります。うちの組だけじゃなく、今回は長嶺組長にお世話になっているわけですから、これ以上迷惑をかけるわけにもいきません。当然、佐伯先生にも」「……第二遊撃隊全体のことはよくわかりませんが、南郷さんは鋭いですね。いろいろと」 和彦の口調に含まれる苦々しさを感じ取ったのか、怪我を負った男から気遣うような視線を向けられ、さらにこう言葉をかけられた。「佐伯先生も苦労されているようですね」 はい、と頷くわけにもいかず、和彦は曖昧に首を動かした。**** 賢吾が持たせてくれたクリニックに、和彦は愛着を抱いている。開業に向けて改装工事に立ち合い、インテリアなどを自分で選び、長い時間を過ごしている場所だ。 その場所を、南郷の無法な訪問によって〈穢された〉と感じる自分に、和彦は驚いていた。 こんな形で、クリニックが職場以上の価値を持つものであると痛感したところで、和彦はまったく嬉しくなかった。気分転換という表現も変かもしれないが、せめてもの対処として、契約している清掃業者にいつもより早めに入ってもらおうかと、本気で検討していた。 ビルから出ようとして空を見上げた和彦は、ため息をついて傘を差す。また、雨が降っていた。頭がひどく重いが、おそらく天候の悪さは関係なく、睡眠不足が原因だろう。 昨夜――治療を終えたときにはもう日付が変わっていたが、殺されかけた昭政組の組員は、今朝はもう車イスに乗って元気に事務所に出ていると、賢吾からのメールで教えられた。少しばかりの睡眠時間と引き換えにした甲斐はあったと、和彦が微笑ましい気分になったのは一瞬で、数日は安静にするよう指示を出した身としては、眉をひそめずにはいられなかった。 この世界で生きる男たちに、無理はするなと忠告するだけ野暮なのだろうとわかっていても。 ふいに強い風が吹き、和彦は咄嗟に傘の柄を強く握る。
「総和会を介さないで、人や物を組同士間で直接行き来させるのを、総本部は嫌がります。そういったことをよくご存知の長嶺組長ですが、〈心当たり〉のおかげで、今回は佐伯先生を寄越してくださったんでしょう」 和彦は黙って聞きながら、さっそく縫合に取りかかる。「最近、総和会の中で密やかに、ある噂が流れているんです。長嶺会長が、総和会の中の組織改革を目論む……というのは表現が悪いですが、計画しているようだと」「ぼくも、その噂なら聞いたことがあります」「その組織改革の一つに、創設当初から名を連ねている十一の組の数を変更するのではないか、というものがありまして……。佐伯先生も薄々とながら感じているでしょうが、十一の組の力は同等じゃありません。昔より、構成員の数と資金力の格差が大きくなっています。正直、力のある組に、力のない組がぶら下がっているという部分が、ないとも言えません。不公平だと不満を抱えている組があるのも確かです」 さすがに自分の体が縫われている様は直視したくないのか、話しながら男は、振り返るようにしてブラインドを下ろした窓に顔を向ける。 空調が利いていない室内は、血と汗の匂いが入り混じっている。できることなら窓を開けて換気したいところだが、それはさきほど止められた。外はすでに夜の闇に覆われ、普段使っていない部屋に電気がついていると目立つのだそうだ。「だからといって、総和会の今の枠組みを壊したいかというと……、どうでしょう。組を減らすにしても、増やすにしても、揉めることになるでしょう。あくまで噂レベルの話とはいっても、浮き足立つ組はあります。古き良き助け合いの精神なんてものは、締め付けの厳しいこの時代には足枷でしかないと、長嶺会長が言い出してもおかしくない。幹部会に提議するための下調べを、もう始めているとしたら――」 男がブルッと身を震わせる。その反応が、総和会会長としての守光の恐ろしさを物語っているようだった。 御堂と親しくなったことで和彦は、清道会という組織の一端に触れた。清道会組長補佐の綾瀬と知り合い、清道会会長に挨拶もした。それらの出会いの中で、総和会会長の交代劇に遺恨めい
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう