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脇から体温計を取り出した和彦は、微妙な表情を浮かべる。
朝、目が覚めて、いくらか体が楽になっていることに気づき、さっそく熱を測ってみたのだが、さすがに平熱に戻るほど甘くはなかったようだ。それでも、高熱が続くよりはよほどいい。 そう自分に言い聞かせながら、枕元に用意された新しい浴衣に着替えていると、内線が鳴った。これから朝食を運ぶと言われ、まだ食欲がない和彦は一度は断ったのだが、なんとなく押し切られてしまう。 慌てて帯を締め、脱いだ浴衣を畳んだところで、障子の向こうに人影が映る。「――先生」 呼びかけてきたのは、ハスキーな声だった。目を丸くした和彦が見ている前で障子が開き、トレーを手にした三田村が姿を現す。 三田村は、和彦の姿を見るなり表情を和らげた。「三田村、どうして……」 布団の傍らに座った三田村に問いかけると、答えより先に、肩に羽織りをかけられる。礼を言った和彦は、改めてまじまじと**** 普段の言動のせいですっかり忘れてしまいそうになるが、長嶺千尋の本質は決して、可愛い犬っころなどではない。 したたかでありながら激しい気性を持つ〈何か〉だ。それは、祖父の守光のような老獪な化け狐かもしれないし、父親の賢吾のような冷酷な大蛇かもしれない。もしくは、まったく別の獣か――。 クリニックを一歩出た和彦は、目の前に立つ千尋を一目見た瞬間、総毛立つような感覚に襲われた。明らかに千尋の様子が尋常ではなかったからだ。 細身のスーツにナロータイという、オシャレな若手ビジネスマンのような格好は、恵まれた容姿を持つ千尋を、育ちのいい青年に見せる道具としては効果的だ。だが、まるで炎をまとったように、激しい怒りを全身に漲らせている今の千尋は、ジャケットの前を開き、ナロータイを緩めているだけなのに、筋者らしい凶暴さを感じさせる。 こんな千尋に声をかけたくないが、まさか無視をするわけにもいかない。和彦はできるだけ、いつもの調子で声をかけた。「お前、こんなところで何をしてるんだ……」 千尋に歩み寄りながら、周囲に視線を向ける。通りを行き交う人たちが、この青年が長嶺組の跡目だとわかるとは思えない。しかしそれを抜きにしても、千尋の存在は人目を惹く。クリニックが入るビルの前で、目立ちたくなかった。「先生を待ってた」「それはわかるが……、せめて車で待つぐらいできるだろ。もし、お前の素性を知っている人間に見つかったらどうするんだ」「いいよ。そのときは、そのときだ」 低く抑えた声に、自暴自棄な響きを感じ取り、和彦は眉をひそめる。「お前――」「先生に話があるんだ」 そう言って千尋に腕を掴まれたが、反射的に振り払う。カッとしたように睨みつけてきた千尋を、和彦は睨み返す。「どうして、そんなに怒ってるんだ」「……先生に心当たりはあるはずだよ」「心当たりって……」「来週、会うんだろ。あんなに怖がってた、自分の兄貴に」
少しの間、ぼうっとしていた和彦だが、その間も、鷹津が次々に皿に肉を放り込んでくるので、仕方なく食事を再開する。「……あんた本当に、嫌な男だな」 ぼそりと毒づいた和彦は、網の上で焦げかけた肉を摘み上げ、鷹津の皿に放り込む。一瞬動きを止めた鷹津だが、文句も言わずその肉を食べた。「お前がひょこひょこと兄貴に会いに出かけて、あっさり連れ戻されても困るからな。こういう話を聞いておけば、多少は警戒心も芽生えるだろ」「警戒はしているっ。……ただ本当に、いろいろと予想外で、頭が追いつかない……」「だが、お前は受け入れる。これまでのとんでもない状況だって、結局受け入れているだろ。お前は自分が思っているより図太くて、したたかだ。俺程度の悪辣さなんて、可愛く思えるぐらいな」 貶されているようで、それだけとも言い切れない。ある考えがふっと和彦の脳裏を過ぎったが、鷹津に限ってそれはないと打ち消した。「――……あんたの口から、『可愛い』なんて単語を聞くとは思わなかった」「意外な単語を聞けたうえに、メシまで奢ってもらえて、今夜は得したな」「高くつきそうだ……」 ため息交じりに和彦が洩らした言葉に、すかさず鷹津が応じた。「当然だろ」** フロントガラスをぽつぽつと雨粒が叩いたかと思うと、あっという間に降りが強くなる。 助手席のシートに身を預けた和彦は、運動後に腹が満たされたうえに、雨音に鼓膜を刺激され、どんどん眠気が強くなっていくのを感じていた。 そんな和彦の様子に気づいたらしく、信号待ちで車を停めた鷹津が口を開いた。「ヤクザの組長のオンナが、よくまあ、刑事の車に乗って寛げるもんだな」「どうせぼくは、図太いからな……」「なんだ。俺が言ったことを気にしてるのか」 鷹津が低く笑い声を洩らす。不思議なもので、車全体を包む雨音に重なると、その声すら心地よく聞こえる。「まさか
ここまで聞いて、さすがに和彦も察するものがあった。眉をひそめて黙り込むと、何事もなかった様子で鷹津は金網に肉をのせていく。このとき和彦の視線は吸い寄せられるように、肉を焼く鷹津の右手に吸い寄せられていた。シャツの袖からわずかに、まだ生々しい傷跡が覗いているのだ。「――お前の考えは?」 鷹津に声をかけられ、ハッとする。「それだけじゃ、なんとも……。なんでもない二つの事実を、強引に関連付けているとも取れる」「今、お前が言ったんだろ。人脈を求める人間が、お前の父親と繋がりたがると。名門の佐伯家というだけでなく、佐伯家にいる独身息子個人も、かなりの価値があるしな。職業的に隙がなく、見た目も、申し分がない。結婚するとなると、高く売れそうだ」 露骨な表現に顔をしかめた和彦だが、否定の言葉は出なかった。あり得ないと断言できるほど、和彦は今の佐伯家の内情を知らない。つまり、あり得る話でもあるのだ。「……別世界の話を聞いているようだ。ぼくが家にいるときは、兄の結婚話なんて出たこともなかったから。そうか。もうとっくに、そういう歳なんだな……」 仲が悪いという以上に、殺伐とした兄弟関係であるため、和彦は兄である英俊の私生活に立ち入ることはおろか、あれこれと想像を巡らせることすら避けてきた。ここにきて、他人の口から思いがけないことを聞かされ、戸惑うしかない。 鷹津は、そんな和彦を興味深そうに見ていた。口元がわずかに緩んでいることに気づき、きつい眼差しを向ける。「変な顔をするな」「いや、途方に暮れたようなお前が、おもしろくてな。そうか、そんなに意外な話なのか」「あくまで、ぼくの感覚だ」「この件、もっと突っ込んで調べてやろうか?」 和彦が返事をためらう間、鷹津は淡々と肉を食べていた。その姿を眺めながらなんとなく、普段からこんな感じで、この店で一人で食事をしているのだろうかと、想像してしまう。それとも、誰かと悪だくみの相談をしながら――。「――……動くのは、少し待ってほしい。ぼくが実家のことを嗅ぎまわっていると知
和彦は後部座席のシートで身を固くしていたが、助手席に座る組員は平然と、携帯電話で誰かと連絡を取り合っていた。 おそるおそる背後を振り返ると、この数日で見慣れてしまった総和会の車はついてきていない。「相手もムキになって追いかけてはこなかったようですね」「……まあ、向こうにしても、本気で誰かがぼくに接触するとは思ってないんだろう。あくまで、ぼくに見せ付けるのが目的だったんじゃないか」 そんな会話を交わしているうちに、鷹津に指定された場所に到着する。飲み屋の多い一角で、人だけではなく、タクシーで混雑している。路地に入り込むと、抜け出すのに苦労しそうだと思い、和彦だけ車を降りる。「帰りは鷹津に送らせるから、今日はもうぼくについてなくていい。あと、車を撒いたことで何か言われたら、ぼくの指示だったと言ってくれ」「大丈夫ですよ。先生はご心配なく」 その言葉に送られて和彦は、にぎわう路地へと入る。鷹津には、とにかく路地を歩いていろと言われたのだが、その意味はすぐにわかった。「――今夜は、誰も連れてないのか」 前触れもなく、背後から声をかけられる。聞き覚えのある声に振り返ると、黒のソリッドシャツにジーンズという定番の格好をした鷹津がいた。いつの間に、と和彦は目を丸くする。すると鷹津は、ニヤリと笑った。「お前を誘拐するのは、簡単そうだな。護衛がついてなかったら、無防備そのものだ」「……仮にも刑事が、物騒なことを言うな。それより、実家の話って?」 和彦の問いかけは、あっさり無視された。先に歩き始めた鷹津の背を睨みつけた和彦だが、往来で問い詰めるわけにもいかず、仕方なくあとを追いかける。 鷹津は人気のない細い路地へと入り、その突き当たりにあるこじんまりとした古い店の前で立ち止まる。「ここだ」 素っ気なく言って鷹津は店に入り、ため息をついて和彦もあとに続く。 店に一歩足を踏み入れると、なんとも食欲をそそる匂いが鼻先を掠めた。あちこちのテーブルから煙が立ち上り、そこに、肉の焼ける音も加わり、反射的に和彦の腹が鳴る。肉が食べたいと自覚はしていな
中嶋から意味ありげな視線を投げかけられたが、和彦は露骨に無視する。タイミングよく、数人のグループがジャグジーにやってきたため、入れ替わる形で和彦は立ち上がる。あとを追うように中嶋もジャグジーを出ようとしたので、すかさず和彦はこう言った。「せっかく筋肉が解れたんだから、そのままプールで泳いできたらどうだ。ぼくはもう、たっぷり体を動かしたから、先に帰るけど」 更衣室までついて来るなという和彦の牽制がわかったらしく、中嶋は苦笑を浮かべる。「俺が、先生の一人の時間を邪魔したから、怒ってますね」「ぼくが怒っていると言ったところで、君は怖くもなんともないだろ」「いえいえ。先生に嫌われたらどうしようかと、内心ドキドキしてますよ」「――……本当に、秦に口ぶりが似てきたな」 そう言って和彦は軽く手をあげると、更衣室に向かう。さすがの中嶋も、今度ばかりは追いかけてはこなかった。** ジムを出た和彦は、湿気を含んだ風に頬を撫でられ、思わず空を見上げる。闇に覆われているせいばかりではなく、厚い雲も出ているのか、星はおろか、月の姿すら見ることができない。 そろそろ梅雨入りだろうかと、その時季特有の鬱陶しさを想像してため息をつく。それをきっかけに、一時遠ざけていた現実が肩にのしかかってきた。オーバーワーク気味に体を動かして気分転換をしたところで、抱えた状況は何も変わっていないのだ。 もう一度ため息をついて、ジムの駐車場がある方向を一瞥する。待機している長嶺組の車に乗り込むと、当然のように、総和会の車も背後からついてくるのだろう。さきほど中嶋と話した内容もあって、心底うんざりしてくる。 少しの間、一人で外の空気を堪能しようかと、間が差したようにそんなことを考える。魅力的な企みではあったが、数十秒ほどその場に立ち尽くしていた和彦は、結局、駐車場に向かっていた。長嶺組の男たちに迷惑をかけるのは、本意ではない。 和彦が駐車場に入ってすぐに、待機していた長嶺組の組員の一人が車から降り、出迎えてくれる。総和会の車は、駐車場の外に停まっていた。「――……気
護衛といいながら、精神的圧迫感を与えてくるだけではないかと、毒を吐きたい気持ちをギリギリで抑え、ジムに入ってやっとほっとしたところだったのだ。 和彦はさりげなく、中嶋の横顔を一瞥する。抜かりない、と心の中で呟いていた。「……何も、ジムの中まで追いかけてこなくていいだろ。こんな場所で、誰が何をできるって言うんだ」 和彦は大げさに周囲を見回す動作をする。平日の夜のジムは、仕事を終えて訪れる〈真っ当な〉勤め人たちが多いのだ。「何より、一歩外に出れば、怖い男たちが待機している」「先生の護衛という名目で、互いの組織が牽制し合っているようですね」「もしかすると、嫌がらせかもしれない」 皮肉っぽい口調で和彦が洩らすと、中嶋は不思議そうな顔をしたが、それも数秒のことだ。すぐに察したように、声を上げた。「ああ、先日の〈あれ〉ですか」「君の言う〈あれ〉が何を指しているのか、ぼくにはわからないんだが」 素っ気なく言い置いて、和彦は立ち上がる。「先生?」「ジャグジーに入る」「だったら、俺も」 遠慮してくれないかと、眼差しで訴えてみたが、清々しいほどに気づかれなかった。もしかすると、わざと無視されたのかもしれないが。 使うなと強制する権限が和彦にあるはずもなく、仕方なく、中嶋と連れ立ってジャグジーに向かった。「――ちょっとした噂になっていますよ」 少し待ってジャグジーに二人きりになったところで、中嶋がさらりと切り出す。全身を包む泡の心地良さにリラックスしかけていた和彦だが、慌てて我に返る。「何がだ」「〈あれ〉――、先生が、南郷さんを土下座させた件」 両手で髪を掻き上げた中嶋が、流し目を寄越してくる。濡れ髪のせいもあって妙に艶やかに見えるが、同時に、中嶋の中に息づく鋭さも垣間見える。和彦から何かしらの情報を引き出そうとしているのだ。 和彦はうんざりしながら応じた。「どうせ、理不尽な理由で南郷さんに土下座をさせたとか、そんな話になっているんだろ……」「総和会の人
「頼むから、部屋の外でそんなことを冗談でも言わないでくれ。ここの組員たちに睨まれたくない」 ヤクザの組長からこんなことを言われると、冗談とわかっていながらも心臓に悪い。ただ、憂鬱さに捕らわれそうになった気持ちは、賢吾のその冗談でふっと軽くなっていた。 コーヒーを啜った和彦が何げなく視線を上げると、賢吾がこちらを見つめていた。そして、自分が腰掛けているソファを指さした。こちらに座り直せと言いたいのだ。わずかにうろたえた和彦だが、結局、賢吾の指示に従う。 案の定、賢吾の隣に座った途端、肩を抱かれて引き寄せられた。 賢吾の大きな手が、ワイシャツの
「これが、総和会会長と長嶺組組長が会うということだ。話した内容なんて関係ない。会ったという事実が、重いんだ。……俺が、ここに近づきたがらないのも納得できるだろ?」 車が走り出してすぐに、和彦の手を握った賢吾が、皮肉っぽい口調で言った。完全に気が抜けた和彦は、シートに深く身を預ける。「だったら、会長が長嶺の本宅を訪ねてくることは?」「帰ってくる、という表現のほうが正しいんだろうな。あの家を建てたのはオヤジだ。俺は、長嶺組を継いだと同時に、あの家も継いだ。……まあ、総和会会長の肩書きがある間は、オヤジ
ノーネクタイ姿で、座椅子にあぐらをかいて座っている守光の姿は、やはりどう見ても物騒なヤクザには見えない。ところどころ所作に鋭さが出るものの、それでも立派な企業の経営者や重役で十分通る物腰だ。 この人は本当に総和会の会長なのだろうかと、今になって基本的な疑問すら抱いてしまう。 和彦の視線に気づいたのか、ふいに顔を上げた守光がニヤリと笑いかけてくる。「夢でも見ているような顔だ」「あっ、いえ……。まだこの状況が、信じられなくて」「今の生活だと、ヤクザなんて珍しくもないだろう」「でも、あなたはた
思案するように声を洩らした守光が、和彦の傍らに歩み寄ってきたかと思うと、なんの前触れもなくあごを掬い上げた。「……確かに、少し顔色が悪い。やはり、賢吾や千尋と一緒に過ごすほうがよかったようだ」「いえっ、そんなことはありません。お忙しい立場なのに、気にかけていただいて感謝しています」「次に会うときは、もっと打ち解けてくれ」 守光の指がさりげなくあごの下をくすぐる。極度の緊張を強いられた和彦が動けないでいる間に、守光は座敷を出て、廊下にいる南郷に話しかけた。二人の会話が和彦の耳に届く。「――南郷、先生を