LOGIN「三田村っ……」
思わず声を上げた和彦に対して、三田村がわずかに目元を和らげる。「届けものをしたら、朝メシを食わせてもらったうえに、先生の運転手を任された」 靴べらを差し出され、和彦は慌てて受け取って靴を履く。こうして三田村と会えたのは嬉しいが、頭の片隅では、賢吾なりの意図があるのだろうかと勘ぐってしまう。それは、和彦が抱える後ろめたさ故の感情ともいえた。 三田村に伴われて車の後部座席に乗り込むと、ほっと息を吐き出す。「久しぶりな気がする。こうしてあんたの運転する車に乗ったの。前は、毎日のように行動を共にしていたのに」 和彦が話しかけると、バックミラー越しに三田村がちらりとこちらを見た。「一月ぐらい前だったかな、こうして先生を車に乗せたのは」「……あんたに怒られたんだ。夜、一人でふらふらするなと言って」 あのときの和彦は、思いがけない里見からのメッセージに気持ちが掻き乱されていた。そんな和彦を支えてくれたのが、三田村だ「あの子が本宅で落ち着いた生活を送れるようになってから、ただの爺として会うつもりだ。あまり急いで、強面の男ばかりと会わせるのも酷だ。賢吾は平気だったが、千尋が小さい頃は、大人の男と引き合わせたあとはよく熱を出して寝込んでいてな。……千尋と稜人は似た体質のようだと、賢吾が言っていた」「……線は細いですけど、ずいぶんしっかりとした子でした。本宅では気後れした様子もなかったですし、千尋とも打ち解けているように見えました。でも、そう聞くと、心配ですね」「爺の杞憂であってほしいがな。育った環境が落ち着かなかった分、自分の立ち回り方を理解している……しすぎているというのもかわいそうだ。子供は多少わがままで、親を振り回すぐらいでいい」 守光はアルバムを傍らに置くと、ひたと和彦を見据えてきた。反射的に背筋が伸びる。「稜人はもうじき長嶺の家に入る。生まれた時点で長嶺の姓を背負い、特殊な環境で育ってきた賢吾や千尋とは違う。すでに物心もついているからこそ、戸惑うことのほうが多いだろう。たった数時間、初めて訪れた場所で過ごすのと、ずっと暮らすのとでは、稜人にかかる心理的な負担も違うはずだ。そこで、あんただ」「ぼく、ですか」「あんたも、〈外〉の世界から、わしらの世界に連れてこられた人間だ。稜人とはだいぶ年齢も立場も違うが、一部で感覚を共有することはできる。だからこそあの子の理解者になれる――いや、なってほしい」「……ぼくは、他人ですよ? 稜人く……稜人のサポートは、やっぱり家族が一番だと思います。健康面で気を配ることはできますが、それ以外は長嶺家の方針というのもあるでしょうし、どこまで口を挟んでいいか……」「思うことがあれば、あの子の父親と祖父にぶつければいい。あんたは遠慮なく長嶺の男を振り回せるだろう」 守光の言う役割は、一般的な家庭では母親が担うものではないのかと思ったが、口には出さない。言っても益体もないことだ。 長嶺の家には女性がいない。偶々の結果なのか、あるいは明確な意志を
** 明日は朝早くにここを出なければならないと、緊張と居たたまれなさを誤魔化すために、和彦はそんなことを考えていた。実際、重要なことなのだ。なんといっても明日はまだ平日で、クリニックも通常通り診療を行っている。本部を出て着替えのためにマンションに立ち寄っても、ゆっくり座る暇もないのを覚悟しなければならない。 他人の都合で振り回されることに腹が立たないのは、気づかないうちに自分も他人を振り回しているはずだと自覚があるからだ。 夕食後、勧められるままシャワーを浴びて出ると、当然のように浴衣が準備されていた。袖を通してから、何げなく脱衣所の壁にかかった鏡に目を向ける。いくらか気疲れした様子の自分自身と目が合い、居たたまれなさから視線を逸らす。 脱衣所を出て、人気のないキッチンで冷たい水を飲んでから、守光の部屋に向かう。すでに床が延べられており、シャワーを浴びたばかりで火照った肌が、さらに熱を帯びる。 いまだに、守光と体を重ねることに慣れない。行為自体は慣れ親しんでいるともいえるのだが、相手が守光ということに気後れするのだ。 守光は布団の傍らに珍しく胡坐をかいて座り、手元に視線を落としていた。肩越しにちらりと視線を向けられ、誘われるように和彦も隣に腰を下ろす。守光の手元には、アルバムがあった。覗き込むまでもなく、守光は開いたアルバムを見せてくれる。「これは――」「稜人の写真だ。母元にいる間は、写真を送ってほしいと直接頼むわけにもいかんかったからな。賢吾が手に入れたものを、珍しくわしに分けてくれた」 写真には、今よりもずっと幼い頃の稜人が写っていた。野外で小さな体を丸めて遊んでいたり、スーパーらしき場所でベンチに腰掛けている姿、一人で歩道を歩いているものもあるが、稜人がカメラに気づいている様子はない。ほぼ隠し撮りのような画角ということもあって、賢吾がどんな手を使ったかなんとなく予想がついた。 次々と写真を見ているうちに、明確な変化が現れる。稜人がカメラを認識したうえで写真を撮られるようになっていたのだ。おっかなびっくりで大きな目をまん丸にしているが、少なくとも嫌がってはいないようだ。「うちの親類に稜人を預けてからは、とき
「そのあたりの経緯は、軽くですが青道会の綾瀬さんから聞いたことがあります」「その二人が御堂を〈オンナ〉にした経緯も含めてかね」 単刀直入な問いかけに、和彦はやや間を置いて頷く。「御堂が若かったということもあるが、ずいぶん過保護に扱っていたようだ。オンナに骨抜きになると、自然とそうなるものなのかもな」 ここで守光が御堂の名を出すのは、単にかつて龍造のオンナだったという理由だけではないはずだ。御堂と第一遊撃隊の動向を、南郷の指示を受けて第二遊撃隊は警戒している。その南郷の行動はすべて守光のためだ。桐栄区に〈前線基地〉を置いて、中嶋を動かしているぐらいだ。警戒は本格的なものだ。「伊勢崎は、今も御堂と繋がっている。なのに、あえてあんたを通してわしに接触しようとしている。そのあたり、気にならんかね?」 柔らかな口調の問いかけに、ゾクリとした。和彦もまったく同じ疑問を抱いていたからだ。 守光は再び手紙に視線を落としている。当人同士は直接連絡を取り合わず、配下の者たちを介して会談の詳細を詰めたい――とは龍造からの要望だ。電話に履歴を残したくないのだろう。そこまでして、組織の大物二人は、顔を合わせての会談を必要としている。「――回りくどいと思うだろう? だが、仰々しい肩書きを持つ者が動くと、どうしても大事になる。そうなると、知られたくない者にも動きを知られる。結局のところ、伊勢崎が書いてあるような方法を取るほうが手間がかからんし、秘密を知る者も最小限に抑えられる」「その最小限の中に、ぼくも……」「巻き込まれて災難だな、先生。もちろん、最後までつき合ってもらおう」 天を仰ぎたくなったが、さすがに自重した。しかし微妙な表情の動きは隠せていなかったらしく、守光は楽しげに喉を鳴らす。「今回は、賢吾と千尋にも外れてもらう」 和彦と守光の間で秘密を抱える。気は進まないが、長期に渡るものではない。おそらく一か月もかからないだろうとは守光の言葉だ。「事が済んでから、賢吾にはわしから話す。ただ、我が息子ながら、あれは勘がいい。特にあんたに関することでは。そのうえあんた自身、隠し事が上手くない。賢吾と千
そんなに夢中で食べていたかと、和彦は苦笑いで返す。守光は目を細めると、吾川にこう指示した。「明日の朝食は、残った炊き込みを握り飯にしてくれ」「ヤマメは残っていますから、朝、また炊きましょうか」「それがいいな。先生に持って帰ってもらう分と、うちの者たちに――」 朝食、という言葉を聞いた和彦は、自分の予定が当然のようにすでに決定していることを知る。口を挟む余地はない。 野菜たっぷりの鶏団子汁とひじき入りのサラダなども堪能し、すっかり腹が満たされる。ここで、今晩自分は何のために守光の元にやってきたのかを思い出す。味わい深い夕食と、守光と吾川の穏やかな会話にすっかり寛いでいた。 急にそわそわし始めた和彦の様子に察するものがあったのか、守光に軽く目配せをした吾川が茶を淹れ直して二人の前に置くと、テーブル上の食器をトレーに乗せる。目の前のキッチンは使わず、吾川は速やかにトレーを持ってダイニングから消えた。「――さて、相談事とやらを聞こうか」 口元には穏やかな笑みを浮かべつつ、守光の冴え冴えとした目がひたと見据えてくる。息を呑んだあと、和彦は断りを入れて一旦席を立つ。客間に戻り、あらかじめ準備しておいた白封筒を手に戻る。これにまず目を通してほしいと守光に手渡した。 老眼鏡をかけた守光は丹念に封筒の表裏を確認して、便箋を取り出す。手紙を読み始めてすぐに上目遣いに視線を向けられ緊張したが、守光は何も言わず今度はじっくりと手紙を読んでいく。二度、三度とさほど長くない文章を読み返したようだが、手紙を置き、老眼鏡を外すと、軽く息を吐き出した。「――……すみません」 反射的に謝罪の言葉が口を突いて出る。和彦としては、厄介事を持ち込んだという自覚は嫌ほどがあった。自分一人で立ち回れる度量も人脈もなく、結局頼れる人間に丸投げするしかない。 守光は、手紙と和彦を交互に見て、ふっと表情を和らげた。「あんたはよくよく、難事に事欠かんな。まあ、あんたにとって最大の難事である長嶺の男が言えることではないが」「いえ、そんな……」「しかし、わしに会いたいとは、な」
**** クリニックでの仕事を終え、本部に立ち寄った和彦を出迎えた守光は、傍目にもわかるほど機嫌がよかった。 何かあったのだろうかという疑問は、荷物を置くため客間に足を踏み入れた瞬間に氷解した。板の間の掛け軸には、小さな体に持て余し気味の立派な鎧をまとった幼子が描かれている。今が五月ということを考えれば、何を意図したものかは明白だ。稜人をようやく長嶺家の一員として迎え入れられたことを、守光なりに祝っているのだ。自分が〈用意〉した女性と千尋との間に子が成され、時間をかけつつ長嶺のテリトリーに囲った。さらに平和的に母親を遠ざけられて、守光としては言うことはないだろう。 そのことを悪し様に言うつもりは毛頭ない。長嶺の男たちは当然のこととして血を守り、繋いだのだ。 グラスに口をつけていると、目の前では守光と吾川が穏やかな表情でやり取りをしている。 龍造からの手紙が届いたのは昨日だ。クリニックを閉めてからすぐに和彦は守光に連絡を取った。電話に出たのは吾川で、守光に相談したいことがあると切り出したところ、今は少し遠出をしていると告げられた。電話の取り次ぎも不可能な場所で、何やらしていたらしい。よろしければ相談事を伝えておくと言われたが、それは断った。総和会に内密にということは、守光の判断待ちではあるがひとまず吾川にも話さないでおくのが無難だ。 一旦電話を切ったあと、夜半に吾川から折り返し連絡があり、本部で夕食をとることが決まった。相談事はそのときに、ということだ。 気は逸ったが、手紙には特に緊急だとも記されていなかったため、こちらの都合で事を進めてかまわない――と受け止めた。 そもそも最初から、電話で済ませられるような用件ではなかったなと、ひっそりと自省する。 守光の居住スペースのダイニングで夕食をとりながら、給仕を務める吾川を交えての話題は、昨日参加していたというゴルフコンペについてだ。終了後はゆっくり温泉に浸かったというので、どういったメンバーでの集まりだったかは会話から知ることはできないが、話す守光の表情から気心が知れた相手だったようだ。その相手が土産として持たせてくれたという品が、今夕食のテーブルにのってい
頭に浮かんだのは、兄である英俊の姿だ。婚約者である西宮光希と結婚して、もし甥か姪が誕生したとき、自分はどんな気持ちで対面するのだろうか。兄弟でありながら、和彦は生まれた時点で佐伯家と和泉家の秘事を背負っており、そして和彦自身が、後ろ暗い世界での生活を選択した。佐伯家の長男として生まれ、父親を追うように官僚となり、将来は政治家となるかもしれない英俊とは何もかも違う。 そもそも我が子との対面など、英俊が許してくれないだろうなと、ひっそりと苦笑を洩らす。 名残惜しいがスマートフォンをデスクの引き出しに仕舞ったところで、スタッフが届いた郵便物を持ってきてくれる。大半がダイレクトメールで、差出人を確認して選り分けていく。 テンポよく作業をしていた和彦だが、最後に残った白封筒を手に取ったところで首を傾げる。悪筆とまでは言わないが、なかなか癖のある字が綴られている。 一体誰からだと、封筒をひっくり返して差出人を確認したが、まったく知らない男の名だ。急に胸がざわつくのを感じながら開封する。折り畳まれた便箋を開いて手紙をこわごわと読み始める。 時候の挨拶の次に書かれた文章に、イスから転げ落ちそうになった。『先日は息子が迷惑をかけた』という一文で、手紙の本当の差出人がわかったからだ。 動揺から鼓動が激しく乱れる。スタッフが診察室に入ってこないうちに、急いで手紙を読み進めるが、差出人――伊勢崎龍造の本当の目的は、息子の不始末を詫びるためではなかった。 さほど長くない手紙を最後まで読み終えて、たまらずため息をつく。つい声に出してぼやいていた。「父子揃って、クリニックを都合よく利用しないでほしいなあ……」 手紙の内容を簡潔にまとめると、総和会会長と会って話をしたいため、和彦に間を取り持ってほしいというのだ。しかも、長嶺組と総和会に内密でという条件付きだ。 総和会会長と、北辰連合会の大物幹部による密談の仲介役。想像しただけで胃がぎゅっと引き絞られる。なぜ自分が、というのが率直な気持ちだった。龍造が働きかけるなら御堂経由でもいいのではないかと一瞬考えたが、すぐに打ち消す。御堂の守光に対する隔意を無視できないし、龍造も把握しているはずだ。