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座卓についた和彦は、何度目かのため息を洩らすと、所在なく室内を見回す。
監禁されているわけではないため客間を出てもいいのだが、夜、あんな騒動があったあとで、組員たちとまともに顔を合わせられない。いつも和彦の食事の面倒を見てくれている組員も、そんな和彦の心情を慮ったらしく、朝食をわざわざ客間に運んでくれた。ただ、その朝食は喉を通らなかった。 衝撃的な出来事の余韻は、数時間ほど布団に入ったぐらいで消えるはずもなく、まだ呆然としているような状態だ。クリニックのスタッフや、予約を入れていた患者には申し訳ないが、今日は無理をして出勤したところで、仕事にはならなかっただろう。 賢吾は和彦の状態を見越すだけではなく、隠し事すらを見透かしてしまう。いまさらながら、自分はとてつもなく怖い男の〈オンナ〉なのだと痛感していた。 針が刺さった腰の辺りを、羽織ったカーディガンの上からまさぐる。針は決して深く刺さったわけではないし、もしかすると肌の上を滑っただけなのかもしれないが、和彦の「オヤジは将来、俺に、その総和会のトップに立てと言う。もちろん、俺にその気は毛頭ない。ただオヤジのほうは、総和会を守ることが、長嶺組の将来に役立つと信じているようだ。頑固な息子にどうやって言うことを聞かせようかと、ずっと考えていたんだろうな……」 賢吾がゆっくりとこちらに歩み寄ってくるので、和彦もじりじりと移動し、なんとか距離を取ろうとする。本気で追い詰められたら、当然、逃げられない。「オヤジは、お前の存在が俺に火をつけると確信している。――残酷なことをしていると思わねーか? ガキの大事なオモチャを取り上げて、目の前で別のガキに与えようとしている。オヤジがやってるのは、つまりはそういうことだ。取り上げられたほうは、怒り狂うか、泣き暮れるしかないだろ」「ぼくは……、オモチャじゃない」「単なる例えだ。とにかくお前は、あまりに価値がある。オヤジと縁のある佐伯俊哉の息子で、医者で、淫奔で情が深い。そのうえ順応性が高くて、精神的にタフだ。オヤジにとっては使い勝手がよすぎる人間なんだ」 ふいに賢吾が素早く動き、あっという間に腕を掴まれた。引き寄せられて足がよろめき、気がついたときには賢吾の両腕の中に閉じ込められる。慣れ親しんだ体温と匂いを感じた途端、和彦は一切の抵抗を放棄していた。 込み上げてくる感情に、両目がじわりと湿っていく。今の自分に泣く権利はないと、必死に奥歯を噛み締める。 賢吾の唇が半乾きの髪に触れた。「……許してくれ、和彦」「何を、だ……」「俺は、南郷という男を見誤っていたらしい。あいつのことは昔から知っている――いや、視界に入っていただけだな。オヤジに上手く取り入って、気に入られて、総和会の中で好き勝手やっていることで満足している男だと思っていた」 バカな男だと、賢吾が低く毒づく。しかしその声には嘲弄めいた響きはなく、どこかほろ苦さが入り混じっていた。「オヤジの野心に踊らされて、あいつは何を夢見ているんだか」「賢吾……」「――年明けに、南郷に大層な肩書きが
賢吾が隣に腰を下ろした途端、反射的に立ち上がっていた。濡れたバスタオルを部屋の隅のカゴに入れたあと、所在なく立ち尽くしていると、賢吾がこちらに手招きをしてくる。しかし、足が動かなかった。「今日のお前は、怯えた小動物みたいだな。大蛇に丸呑みされるとでも心配してるのか?」 いつもなら軽口で応じるところだが、和彦は顔を強張らせたまま答えられない。「――和彦」 名を呼ばれた途端、体の中を衝撃が駆け抜けた。賢吾がもう一度手招きをする。「座れ」「……話なら、ここからでもできる」 賢吾は軽く息を吐き出して立ち上がる。思わず後退ってしまったが、その様子を見た賢吾が澄ました顔で言った。「コートを脱ぐだけだ。ついでに手を洗わせてくれ」 和彦は、一連の賢吾の行動を慎重に観察する。一方の賢吾はキッチンで手を洗ったあと、じっくりと室内を見回した。「ここが、お前を〈飼う〉ために、オヤジが用意した部屋か」 痛烈な言葉だった。心を切りつけられ、そこから血が流れ出していくようだ。「そんな、言い方……」「居心地はいいか?」「いいわけないだろっ。でも、ここを飛び出して、ぼくはどこに行けばよかったっ? ……あんたや千尋に電話しても、繋がらなかった。三田村もだ。他の組員に聞いても、何も教えてくれない。言われるまま、ここで過ごすしかないだろ。この世界では、ぼくは誰かの庇護の下じゃないと生活できない」 ケンカ腰に話をしたかったわけではないのだ。しかし、平然としている賢吾を見ていると、動揺していたのは自分だけだったのだと嫌でも思い知らされる。オンナの処遇すらも男たちの間では決定しており、長嶺組にはもう必要のない存在だと見限られたのかもしれないという想像が、現実感を伴い始める。 和彦は、賢吾を前にしても、不安で怖くて堪らなかった。「――お前には明かせない準備があったんだ。いろいろと。うちの組の連中は、お前に甘い。特に甘いのが、俺たち父子と、三田村だ。電話越しとはいえ、お前に哀願されたら……、無茶し
「……四階はいつも通り静かでしたから、わかりませんでした。そんなこと」「会長は、今夜は外泊となります。そこに、〈彼〉も同行しています。いつも以上に静かですよ、きっと」 はっきりと名を出されなくても、存在を匂わされるだけでドキリとする。和彦は反射的に、吾川に鋭い視線を向けていた。「部屋に、戻ります……」 和彦がエレベーターホールに向かうと、当然のように吾川もついてくる。上がる階が一緒なので仕方ない。「会長が不在ですから、夕食は先生の部屋にお運びします。クリスマスイブですから、特別なものを。おそらく、ケーキもあるはずですよ」 吾川の不思議な言い回しに内心首を傾げつつも、和彦は頷いておく。一刻も早く、クリスマスイブなど関係ない、自分だけの空間で一人になりたかった。どうしようもない寂しさを抱えた姿を、誰にも見られたくない。 寂しさは、人恋しいとも言い換えられる。誰でもいいわけではない。ただ、一人の男の顔が見たくて、せめて声が聞きたくて――。 四階に着くと、エレベーターの前で吾川と別れて足早に部屋に戻る。和彦はエアコンを入れると、部屋が温まるのを待つ時間が惜しくて、着替えを抱えてバスルームに向かう。 気を抜いた途端、ベッドに転がって動けなくなるのが目に見えていた。本当は食欲もない。今夜は早々にベッドに潜り込んでしまおうと考えながら、熱めの湯を頭から被った。 シャワーを浴びて出たところで和彦は、ドアをノックする音に気づく。もう食事が運ばれてきたのかと、急いで体を拭き、スウェットの上下を着込む。 バスタオルを肩からかけてドアを開けると、目の前に立っていたのは吾川――ではなかった。 驚きのあまり、声すら出なかった。ただ目を見開いて立ち尽くしていると、大きな袋を両手に提げた賢吾が薄い笑みを向けてくる。「髪も拭かずに出てきたのか。びしょびしょじゃねーか」 官能的なバリトンが耳の奥に届いた途端、体中の細胞が一気に沸き立ったようだった。「ど、して……」「お前とクリスマスイブを一緒に過ごすために」 冗談
優也の叔父である城東会組長の宮森は、和彦だけではなく、優也にも何か言ったのか、まるで日記のようなメールが送られてきたのだ。それがきっかけとなり、時間があるときは和彦も他愛ない内容の返信をしており、二、三日に一度程度のやり取りが続いている。「どなたか、イイ人からですか?」 揶揄するように中嶋に問われ、和彦は大仰に顔をしかめて見せる。「元患者だ。今は……、友人になりかけ、だな」「おやおや、そんなことを言うと、嫉妬する人がいるんじゃないですか。俺も最初は、先生の友人のつもりでしたから。つまり――」「……君の今の物言い、秦にそっくりだ」 率直な感想を述べたのだが、意外に中嶋には響いたのか、分が悪いと言いたげに正面を向く。和彦は笑いを噛み殺しながら、何げなくコンビニに目を向ける。この時期らしい派手な飾り付けにいまさら気づき、そういえば、と呟いた。「ぼくのことなんて気にかけている場合じゃないだろ、明日は」「そうです。クリスマスイブですよ。悲しいかな、俺は仕事がありまして。だから、先生のお供ってことにして、抜けられないかなと企んでいたんです。よければ、クリスマスケーキも買っておきますよ」「ぼくは……、今年はそんな心境じゃないな。おとなしくして過ごすよ。君には悪いけど」 去年のクリスマス時期は、クリニックの開業準備が大詰めであったり、英俊と思いがけない形で遭遇したりと、気持ちの浮沈が激しかった。それでも、充実したクリスマスだったと思い返せるのは、和彦を大事に扱ってくれる男たちが、絶えず傍らにいたからだ。 それが今は――。 傍らに置いた携帯電話に視線を落とし、和彦はため息をつく。すぐに、今は自分一人ではないことを思い出して、誤魔化すようにホットミルクを飲んだ。**** 性質の悪い冗談なのだろうかと、総和会本部のエントランスホールに立ち尽くした和彦は、無表情のまま目の前のものを眺める。 普段の和彦は、エントランスホールではなく、裏口から出入りしている。だから、〈こ
「――秦さんの行方がわからなくなりました」 驚きのあまり、声が出なかった。顔を強張らせる和彦に、信号待ちの車の列に加わった中嶋は、肩越しに笑いかけてくる。「安心してください。今はわかってますから。……俺が部屋に行ったとき留守になっていたんですけど、どうにも不自然で。それで、階下で営業している人に話を聞いたら、いかつい男たちに囲まれて車に乗せられていったと言われたんです。秦さん、前に襲われたことがあるでしょう? 携帯に連絡しても電源は入っていないし、店にも顔を出していない。どうしたって最悪な状況が頭を過って、これは長嶺組に連絡をすべきかと思ったんですよ」「それで、今はわかっているというのは……?」「秦さん、長嶺の本宅にいたんです。長嶺組長の命令で」「……どうして、そんなこと……」「さあ、そこまでは。かなりきつく口止めされたらしくて、秦さんは教えてくれませんでした。ただ、暴行を受けたというわけではなかったので、そこは安心してください。――長嶺組長からは、俺もしっかり釘を刺されたんです。面倒に巻き込まれたくなければ、当分、うちの組には近づくなと。そう言われたら、ね?」 和彦は、賢吾と連絡が取れないというのに、一方で、賢吾の指示を受けて動いている者たちがいる。 自分がつま弾きにされていると感じ、和彦はきつく唇を噛み締めていた。賢吾から釘を刺されたという中嶋に、これから本宅に向かってくれとも言えず、胸苦しさだけが増していく。 和彦の様子に気づいているのかいないのか、中嶋が話を続ける。「長嶺組では何か起こっている……というより、起こそうとしているのかもしれませんね。御堂さんも、そんなことをちらりとこぼしていましたが」 危うく聞き流しそうになったが、ハッと我に返る。「御堂さんと話したのかっ?」「ええ。忘年会が流れた代わりにと誘われて、会ってきました」 そうか、と和彦はひどく納得する。護衛がついている自分とは違い、御堂と中嶋なら、所属する隊が違うといえど、やり方次第で会うの
クリニックを出て少し歩いたところで、走ってきた車が和彦の数メートル先でぴたりと停まる。この瞬間、少しだけ期待したのだが、すぐに失望する。迎えの車は、総和会のものだった。 別荘から戻った日から、和彦は総和会本部に滞在している――正確には、滞在させられている。当然、クリニックでの勤務中、外で待機していたのは総和会からつけられた護衛だ。二つの組織の間でどんなやり取りが交わされたのか、今に至るまで、長嶺組の人間は影すら見せない。 総和会が遠ざけているのか、長嶺組が身を引いたのか、和彦には知りようがなかった。それというのも、誰も教えてくれないからだ。 知る限りの長嶺組の組員たちの携帯電話に連絡し、総和会とはどういう状態になっているのか尋ねてはいるが、言葉を濁される。本当に何も知らされていないのか、隠しているのか、問い詰める術を和彦は持たない。 肝心の賢吾はというと――。 つい立ち止まってしまうと、急かすように短くクラクションを鳴らされる。和彦は憂鬱なため息をつき、仕方なく車に乗り込んだ。 ハンドルを握る人物に気づき、あっ、と声を洩らす。「先生、ドアを閉めてください」 中嶋から澄ました声をかけられ、機械的に従ったあとで、和彦は顔をしかめた。シートベルトを締めると同時に車が発進し、ひとまず座席に体を預ける。仕事で疲れているところに、不快な感触で神経を撫で上げられたようだ。 そう、本部に滞在し始めてから、ずっと和彦は不快なのだ。「……南郷さんに言われたのか?」 低い声音で問いかけると、中嶋は軽く肩を竦める。「違うと言ったところで、信用しないでしょう」「ぼくが塞ぎ込んでいるから、手っ取り早く機嫌を取りたいと考えたんだろう」「塞ぎ込んでいるんですか?」 バックミラーに映る中嶋の目元が、柔らかな笑みを滲ませる。それを見た和彦は、八つ当たりしたいところを寸前で踏みとどまったものの、内心では怒りと苛立ちが込み上げてくる。 クリニックで忙しく立ち働いている間は、余計なことを考えなくて済むのだ。しかし、こうして総和会の車に乗り込んで、自分にとってのもう一つの現実に身を置く