LOGINワイシャツの上から南郷の脇腹に触れさせられた。指先で感じるのは硬い腹筋の感触だが、姿が隠れている百足の蠢きが伝わってくるようで、和彦は顔を強張らせる。
耳元に顔を寄せた南郷がひそっと囁きかけてきた。「忘れるなよ、先生。あんたが可愛がった刺青の姿を」 体が離れてほっと息をつく間もなく、玄関まで連れて行かれる。 急いでいるというのは本当らしく、コートに袖を通す和彦をその場に置いて、南郷は慌ただしく二階へと駆け上がっていき、すぐに戻ってきた。片手には和彦のスーツが入ったゴミ袋を、もう一方の手には南郷自身のジャケットを掴んでいる。 車を停めてある庭に出ると、早朝の冷たい空気に和彦は大きく身を震わせる。コートの前を掻き合わせながら、昨夜はよくわからなかった庭の光景を改めて目にする。どの遊具も塗装が剥げているだけではなく、壊れかけてボロボロだ。昨夜は気づかなかったがかつては花壇だったらしいものもあるが、もちろん荒れている。「――経営者は、この庭でくたばったそうだ」 車のロックを解除した南郷が、さらりと物騒な** 嵐というより、局地的な突風に巻き込まれたような一時だったなと、精神的疲労からぐったりとしながら和彦は思う。 なんとか無事に自宅マンションに帰り着くと、寛ぐ前に明日の仕事の準備を整える。クリニックに届いていた学会誌に目を通しておきたい気持ちもあったが、今晩はもう頭を使うのは限界だ。手早くシャワーを済ませると、ダイニングテーブルについて大きく息を吐き出す。無意識のうちにスマートフォンを手元に引き寄せ、画面を覗く。不気味なほど誰からも連絡が来ていない。 ひとまず賢吾に報告をしておこうと、車中から簡潔にメッセージは送っておいたのだ。詳細は護衛を通じて報告されるとわかってのことだが、本宅ではどういう状況になっているか、想像するとうっすらと首筋が寒くなってくる。 まだ十代の青年が、無謀な情熱で突っ走っただけだと話せば、賢吾は納得してくれるだろうか。仮に怒っていたとして、それを鎮めてくれるだろうか。 和彦としては、玲が無難な大学生活を送ってくれることを願っており、長嶺組が関わる事態は避けたかった。 しかしここで大切なのは、玲が自らの立場をわきまえて行動できるかということで――。「……怖いなー。若さって」 そんなことを独りごちてから苦笑する。今日の玲の様子では、もう二度と和彦とは会わない、とはならないだろう。あっさりと告げられた玲の気持ちを、麻疹のようなものだと笑う気にもなれず、忘れることもできず、だからこそ和彦は困るのだ。自分が少しだけ彼を大人にしてしまったという負い目もある。 脳裏を過るのは、いかにも食えないヤクザである伊勢崎龍造の反応だ。あちらはあちらで息子の暴走に頭を抱えているのだとしたら、さらに申し訳ない。 所在なく座っているのも落ち着かないため、コーヒーでも淹れてこようかと腰を浮かせかけたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示される番号に見覚えがなくて困惑したものの、誰がかけてきているのか気にはなる。おそるおそる電話に出ていた。『今、話しても大丈夫かい?』 高くも低くもない落ち着いた声が耳に届く。そこからひんやりとした温度を感じ取ってしまうのは、電話の向こうにいる人物の秀麗な
玲は納得しきれていないようだが、だからといって抗弁もしてこない。多少なりと警戒心が芽生えてくれたらと願わずにはいられない。「無茶をするのは今日でやめます。次からはきちんと連絡して、佐伯さんと約束を取り付けるようにします」 ううーん、と唸って和彦は首を捻る。それはそれでこちらが困るのだと言いかけたとき、テーブルの上に置いてある玲のスマートフォンの画面が光った。どうやらメッセージが届いたらしい。スマートフォンを取り上げた玲が、しまった、という顔をする。「父さんからだ……」 ぽつりと呟いて、顔をしかめながらメッセージを確認している。「何て書いてある?」「……めちゃくちゃ怒ってます。父さんには言わないで、今日ここまで来ましたから。でも――」 二人揃って外の通りに目を向ける。外で待機している男たちは、必死で玲を追跡してきたのだろう。名も知らぬ男たちに対して急に労わりの気持ちが湧いてくる。本人は不本意だろうが、伊勢崎組の人間を引き連れてとなると、玲を普通の大学生と称するのはかなり無理があった。そこに総和会の第一遊撃隊も加わっているかもしれないとしたら、なおさらだ。 物言いたげな和彦の視線を受け、玲はもごもごと言い訳のように呟いた。「俺としてはバレないよう動いてたつもりですけど、行動を読まれてたみたいです」「君についてる人たちは有能なんだよ。ほら、今から帰るって、お父さんには早く連絡するんだ。さらに大事になったら困るだろ」 和彦の呆れた表情からさすがに危機感が芽生えたのか、玲は慌ただしくメッセージをやり取りをしていたが、急に大きくため息をついてガクリと肩を落とした。「大丈夫、か?」「すぐ帰って来いと言われました。帰ったら絶対、ぶん殴られます」「顔はやめてもらうんだよ」 本気で気遣う和彦に、玲は情けない顔をして頷く。財布を取り出そうとしたので、ここは自分が払っておくと告げる。 立ち上がった玲が片手を差し出してきた。何事かと首を傾げた和彦を、ただじっと玲が見下ろしてくる。おそらく握手を求めているのだろうと察して、おずおずと手を握る。
「好きなんです、佐伯さんのこと。去年の秋から、あなたのことばかり考えています。父さんはこういうのを、『骨抜きになった』と言うんでしょうけど」「ぼくは……、君の一回り以上も年上なんだよ?」「でも、長嶺組の跡目と俺は、そんなに歳は変わらないですよね」 これも、前に同じようなやり取りをした。 こんなに押しが強い子だっただろうかと思ったが、そもそも玲を深く知るほど一緒にいたわけではない。千尋が甘えながら自分の主張を押し通すのに対し、玲はただ一直線に向かってくる。搦め手で迫ってくる男たちのほうがまだ、打算含みで相手をしやすい。 和彦の中には、玲を傷つけたくないとか、穢したくないとか、どこか庇護欲にも似た情があるのだ。 さりげなく周囲に目を向け、念のため誰もこちらに注意を払っていないと確認すると、和彦は声を潜めて言った。「君は……、お父さんの影響なのかもしれないけど、〈オンナ〉に夢を見すぎているんじゃないか。いまだに、君の中で美化されている気がする」「俺の中で美化されていたとしても、こうしてあなたを目の前にして、俺はすごく嬉しいです。それはダメなことですか?」」「ぼくは厄介な存在で、君は普通の大学生でありたいなら、これ以上関わるべきじゃない」「俺のことを、心配してくれているんですね」「……それは、当たり前だろう……」 よかったと、玲はほっとしたように笑み浮かべる。断固とした態度を取るべきだと和彦も頭ではわかっている。それが玲のためであり、余計な揉め事を長嶺の男たちや長嶺組に持ち込まないためにも最善なのだ。 そう、和彦が自分に言い聞かせていると、少し困ったように玲は眉を八の字にした。「玲くん?」「すみません。うそをつきました。ただの大学生なんて言って、俺、御堂さんのところ――総和会の第一遊撃隊でしたよね。そこの人たちにときどき尾行されています。監視というより見守られてる感じではあるんですが、それで……、それがわかっていながら、佐伯さんに会いに来ました」
見るからに緊迫した様子の男たちに、和彦は軽く眉をひそめる。少し前の玲の蛮勇を思い出したのだ。「この間、無茶しただろう」「無茶?」「ぼくに……会いに来てくれただろう。この店の前まで」 申し訳なさそうに玲が目を伏せる。一応、自覚はあるようだ。「正直、君が伊勢崎組の人間を使ってぼくのことを調べさせていたというのは、けっこう……ショックだった。なんて手段を使ってるんだ」「俺じゃなくて、父さんが勝手に調べさせたとは考えなかったんですか?」「伊勢崎組長だったら、用があれば御堂さんを通してまた接触してくると思った。……先日のやり方は迂闊だ。おかげでぼくの周囲がピリピリして大変だったんだからな」 すみませんと素直に頭を下げた玲に、さらにきついことは言えない。玲のつむじをたっぷり数十秒眺めてから、和彦はテーブルに身を乗り出して手荒く頭を撫でてやった。「……もう、気は済んだだろう? こうして再会して、話もできた。ぼくは、君の元気そうな姿が見られて満足したよ。まっとうな大学生なんだから、自分から面倒事に突っ込むようなことは――」「大学生という身分だからこそ、俺は自由だと思いませんか?」 ぐっと顔を上げた玲と目が合う。眼差しの鋭さに一瞬和彦は怯む。 同じような会話は、玲と体を重ねたときに交わしている。それでも言ってしまうし、玲も律儀に応じる。「俺は、会いたいときに佐伯さんに会いたいんです。そのことで誰にも制限されたくない」「いや、それは……」「クリニックで俺の顔を見て、佐伯さんが少しでも嫌そうな顔をしたら、素直に帰るつもりだったんです」「……実際、すごく困ったんだけど」「それは気づきませんでした」 そう言い切った玲が自分のスマートフォンをいきなり差し出してくる。意味がわからず和彦は首を傾げた。「佐伯さん、今スマホ持ってますか?」 和彦がジャケットのポケットからスマートフォンを取り出
玲の前にはすでにアイスコーヒーがあったため、速やかにドリンクバーを注文した和彦は、自分の分のオレンジジュースを入れてくる。改めて席についてから、辺りを見回す。「店の中にはいませんよ。父さんのところの組員は」 玲のこの言い方は少し新鮮だった。同じく組長の一人息子である千尋ならしない言い方なのだ。現役の大学生とヤクザの違いだなと、和彦は一人納得する。 そして、正面に座る玲の顔を改めてじっくりと見つめる。さきほどは言えなかった言葉が口から出ていた。「垢抜けたね」 途端に玲が複雑そうな表情を浮かべる。世辞ではなく、実際そうなのだ。白いシャツの上からジャケットを羽織り、細身のパンツを身につけた姿は、シンプルな組み合わせながら野暮ったくないうえに育ちのよさも感じられる。「あっ、いや、ごめん。前に会ったときは純朴な高校生だったから、そのギャップをどう表現していいか……。女の子からよく声をかけられるんじゃないか?」「そんなこと、ないです」「大学で友人はできた?」「俺と同じように地方から出てきた男子たちと、よく一緒にいます。友人……と言っていいかな」「サークルか部活には入った?」「……いえ、どちらも入ってないです。なかなか忙しくて」 玲の微苦笑を目にして、和彦は自省した。「あー、これじゃあ、事情聴取だね」「というより、うちの母さんと同じこと聞いてますよ、佐伯さん」 乾いた笑い声を上げた和彦だが、すぐに深々と息を吐き出す。「本当に、君が希望していた大学に合格できてよかったよ。ぼくが悪影響を与えたんじゃないかと心配だったんだ」「――地元を離れられて、父さんの希望も叶えられたら一石二鳥だという程度にしか考えてなかったんです。今は、いい選択をしたと思っています」「大学生活に満足してるんだ」「それもありますけど、こうして佐伯さんに会えるようになったことが、何より嬉しいです」 はっきりと玲から言われ、和彦は即座に反応できなかった。 じっと玲が見つめてくる。熱
「今のところニキビもシミもシワもない肌に、施術はもちろん、あえてアドバイスも必要ないと思いますね。……あっ、脱毛は興味ありませんか?」 和彦はぐいっと身を乗り出し、玲の顔を間近から覗き込む。数秒の間を置いて、玲は視線をさまよわせてから顔を赤くした。「いえ、あの……、脱毛は、いいです、かな……」 玲が赤面した理由にうっすらと思い当たったところで、和彦の頬もじわりと熱くなってくる。それを悟られる前にカウンセリングを終えた。「興味のある施術がありましたら、またお気軽にどうぞ。今日のように説明させていただきますね」 スタッフがドアを開けて一旦診察室を出る。玲がそれに続こうと、立って見送ろうとした和彦の側を通り過ぎる。ほんの一瞬の出来事だった。「あっ……」 和彦が思わず声を洩らしたときには、右手に小さな紙片を押し付けられていた。危うく落としそうになり反射的に握り締めたが、ハッとして顔を上げたときには玲は診察室を出て行ってしまう。あとを追いかけるわけにもいかず、動揺を押し殺しながらイスに腰掛ける。 一人となっている今のうちにと、そっと紙片を開くと、細かい字がびっしりと書き込まれている。内容は、クリニックが終わったあと、和彦と二人きりで会いたいというものだった。しかも場所まで指定されている。行動を制限されがちな和彦に一応気をつかってくれたのか、ときどき通っているクリニック近くのファミリーレストランだ。 面倒なことになるのは目に見えているので無視するのが賢明なのだろうが、ご丁寧なことに、来てくれないなら毎日クリニックに通うと書かれていては、こちらが取れる手段は限られる。 和彦は大きくため息をつくと、紙片をスラックスのポケットに突っ込んだ。** 和彦の立場上、誘われたからといって無防備に出向くわけにもいかず、速やかに長嶺組の護衛に予定の変更をメッセージで伝え、次に、賢吾には判断を仰ぐメッセージを送る。こちらは文章を考えるのに少々頭を捻った。賢吾が玲に会うなと言えば従うしかないが、できれば二人で話してみた







