LOGIN「紗香と俊哉さん、それに先生との間で何があったのか、わたしにはわかりません。紗香は頑なに口を閉ざしたまま逝ってしまったし、俊哉さんは曲者。先生は……、何も知らされていなかったのかもしれません」
「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」 総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿ら総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。 顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」 目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。 女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」 頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。 こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。** 食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。 和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。 和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。 なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。 部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。 ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体
「小屋に泊まっている間、紗香はあなたに水も食料も与えてなかったようです。悪意があってのことではなく、頭になかったと思いたいですが、結果として、あなたを殺しかけたことは事実です。自分の子をやっと手元に置いて、笑いかけて、言葉をかけて、抱き締めて……。それで母親に戻れると、あのときの紗香は信じたのでしょう」 ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。 本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。「和彦さん?」 我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」 深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」 それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」 和彦はようやくこう切り出す。「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」 目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけ
「今回、ぼくを呼べたということは、相手方と和解なりできたということですか?」 いいえ、と告げた総子の声と表情は、冷然としていた。その様子が、和彦の中で綾香と重なる。「――断絶しました。事業が行き詰まってから、あっという間でしたよ。皆、見ているものですね。和泉家に対する仕打ちが広まって、誰も手を差し伸べなかったようです。失意と絶望は、簡単に人を弱らせる。その家にはもう誰も……」 何もかもが因果応報なのだと、総子は続ける。和泉家も、名を大事にした結果、本来であれば将来家を支えるはずだった紗香を失い、その紗香が生んだ和彦を手放すことになった。「あなたを和泉家には戻さないと、俊哉さんなりの決意の表れなのですよ。〈和彦〉という名前は」「ぼくの名前……?」「和泉家から受けた恩と、かけてしまった迷惑を忘れない。だが、この子を和泉家に戻すことはないと。その証として、〈和〉という字を名前に入れたようです」 自分の名の由来など、和彦は告げられたことはなかった。兄である英俊には俊哉の一文字が入っており、跡取りとそうでない次男との間に、明確な線引きをされているのだと、そう感じていただけだった。「家名と家族を守ることに必死だったわたしたちは、紗香の気持ちを顧みていませんでした。産んですぐに子から引き離されて、母親が平気でいるはずがない。そんな当然のことに気づかなかった……。いえ、気づかないふりをしていた」 紗香が精神的に不安定だったという理由は、話を聞いただけの和彦でも推測できる。俊哉や〈先生〉、家族との関係。妊娠・出産を経る間に、さまざまな軋轢にも立ち向かわなければならなかったはずだ。自業自得という言葉では済まないつらさを伴っていただろう。「何もかもが落ち着いたと思っていたある日、紗香の療養先から、紗香の姿が見えなくなったと連絡が入りました。同じ日に、今度は綾香から、四歳のあなたが連れ去られたと半狂乱になって連絡が。すぐに紗香の仕業だとわかりましたが、警察に連絡もできず、わたしたちは心当たりを探すしかできませんでした」「母が、半狂乱……」
「紗香と俊哉さん、それに先生との間で何があったのか、わたしにはわかりません。紗香は頑なに口を閉ざしたまま逝ってしまったし、俊哉さんは曲者。先生は……、何も知らされていなかったのかもしれません」「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」 総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿らせる。「俊哉さんは当時、ここから近い自治体に単身で出向していて、仕事と子育てに忙しい綾香に代わり、紗香がお世話に通っていました。そのときに何かあったと考えるべきなのでしょうが、それでも、紗香の目は先生だけに向いていたような気がして……。ただ先生は、紗香の妊娠について何も知らなかったようです。出産からあとのことも、すべて我が家と彼のお父様との間で進めましたが、紗香が亡くなったと知らせたときは、ずいぶん悲しまれて、こっそりお墓にも来てくれました」 これは言うべきなのだろうかと逡巡した和彦だが、医者として黙っていることはできなかった。「……今なら簡単に、親子鑑定ができます。ぼくと父が――」「結果がどうあれ、あなたが紗香の子であることに間違いはありません。本当に、そっくり」 両親からの説得にも関わらず、紗香は和彦を出産し、手放した。手元に置くことだけは、和泉家の総意として許さなかったのだという。何より、〈父親〉である俊哉が、赤ん坊を佐伯家で引き取ることを熱望したという話に、和彦は
「……医者にしたいと、母が先に言っていたようです」『母』という呼び方が、どうしてもしっくりこない。戸籍上の母親である綾香に対しても、『母さん』と呼ぶことに、和彦はずっと引け目のような感情を抱き続けていたぐらいだ。和彦にとって母親とは、手を伸ばしても届かない幻のような存在なのだ。そのため思慕の念を抱くのは難しい。 堪らず、総子にこう訴えていた。「あの、母を名前で呼んでもいいですか? 頭ではわかっているんですが、まだ混乱していて……。ぼくを産んでくれた人は、ずっと前に亡くなったと聞かされていたし、記憶からも抜け落ちているんです。それが、ここにきて急に、存在がはっきりとした輪郭を持ち始めて、なんだか――」 怖い。知りたいはずなのに、知ることが怖いのだ。そこには、自分がいままでとは違う生き物になってしまいそうな危惧も含まれる。「呼びたいようにお呼びなさい。母と呼ぶことに抵抗があるのなら、それは仕方のないことで、あなたは悪くありません」 ただ、と総子が続ける。「紗香が、本当にあなたの誕生を望んでいたことだけは、知っていてほしいのです。あの子なりに必死に考えて、足掻いた結果だとしても」「父も、同じ気持ちだったと思いますか?」 総子が一息つき、湯飲みを口元に運ぶ。和彦はじっとその行動を見守っていた。 どんな返事があったとしても受け止めるつもりだったが、総子が口にしたのは意外なことだった。「わたしは本当は、あなたは俊哉さんの血を引いていないのではないかと思っています」 和彦は、自分でも不思議なほど冷静だった。実の母親に殺されたかけたと告げられただけで、十分すぎるほど衝撃を受け、まだ気持ちが持ち直していないところにこの言葉だ。もう、どう驚いていいか自分でもわからなくなっていた。「さっき言われた、母の……、紗香さんの前に現れた男性、ですか?」「紗香は、俊哉さんとの子だといい、俊哉さんも、それを認めた。だけど当時、紗香が想いを寄せていたのは――」 当時医学部に通う学生だったと総子は言った。学生の父親が、正時たちの働きかけに
和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。「ぼく、が……」 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。 それを待って総子が再び語り出す。「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」「婿?」「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」「ぼくの父、ですか?」「いいえ」 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はし