FAZER LOGIN「――元はレンガ敷きの道だったが、工事車両が出入りするのに不便でこうなった。今、舗装材を手配してもらっているから、少しの間、見た目が悪いのは我慢してくれ。先生」
前触れもなく話しかけられ、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。パッと振り返ると、いつの間にか玄関のドアが開いており、男が立っていた。厚みのある大柄な体を真っ白なワイシャツで包んだ南郷だ。 存在を認識した途端、和彦は総毛立つ。自分とこの男との間に起こった出来事が、一瞬にして脳裏に蘇っていた。 顔色をなくして立ち尽くす和彦にかまわず、南郷はさらに話しかけてくる。「総括参謀なんて肩書きがつくなら、本部の一室にネズミみたいにいつまでも棲みついているなと、使っていた部屋を追い出されたんだ。ちょうど、テニスコートを潰して若い奴らのための寮のようなものでも造るかという話が出ていたから、俺は体のいい管理人みたいなものだな。そうでなかったら、こんなシャレた建物に住むことなんて、一生なかったはずだ」「ここに、住んでいるんですか……?」「オヤジさん南郷の口調はいつの間にかわずかな熱を帯びていた。どこか誇らしげでもある表情を目にした和彦は、この男は長嶺の血に縛られることに焦がれているのかもしれないと、嫌悪とも憐憫ともつかない複雑な感情を抱く。「――……もしかして、あなたが長嶺会長の隠し子だという噂は、あなた自身が流したんですか?」「どうだろうな。そう思わせるよう振る舞ったかもしれないし、誰かが邪推して流したのかもしれない。特定したところで意味はない。利用できる噂話だから、表立って否定はしていないし、オヤジさんもそれを良しとしている。腹に何かしら抱えていると、下衆な期待をする奴もいる。本妻の子と妾腹の子が後継者の座を巡って争えば、おもしろいことになるかもしれない、とかな。俺と長嶺組長が反目し合っていると思わせるほうが、何かと動きやすい」 和彦は意識しないまま、小さく声を洩らしていた。 そんな二人の関係が、和彦の登場によって険悪さを増したと周囲は思っているだろう。賢吾がかつて南郷を殴った原因は、和彦だった。総和会と長嶺組の緊張感が高まったのも和彦によるところが大きく、そんな中で、南郷が和彦の後見人となったのだ。誰もが、賢吾の神経を逆撫でる決定だと感じたはずだ。「ぼくとあなたは、組織どころか父子の仲を引き裂きかねない。それが、さっきの同志という言葉に繋がるんですか……?」「長嶺組長と長嶺組の安寧は、総和会での絶対的な立場にいることで約束される――と、オヤジさんは考えている。あの人は、ずっとそうだった。総和会で誰を蹴落とし、誰かと誰かを共食いさせてじわじわと影響力を削ぎ落とし、そうしながら常に頭にあるのは、長嶺組と、長嶺の血を継ぐ男たちのことだ。だが、肝心の長嶺組長は総和会を忌避したがっていた」 歯がゆい、とはっきり南郷は言い切った。「警戒心の強い蛇なんだと、いつだったかオヤジさんが、長嶺組長の気質を語っていたことがある。巣穴にこもった蛇を外に引っ張り出すのは容易じゃない。美味い餌でおびき出すか、燻し出すか――」 ここで南郷に向けられた視線に、和彦は顔をしかめて返す。露骨な当て擦りに、いまさらムキになって反論はしない。「あんたはきちんと、
突然の提案に呆然としたあと、我に返った和彦はきっぱりと拒否する。前にも南郷から同じ提案をされたことを思い出した。 和彦の返事は予想通りだったのだろう。南郷は気を悪くした素振りを見せるどころか、むしろ満足げな表情を浮かべている。揶揄われていると感じて席を立とうとしたが、次の南郷の言葉で動きを止めた。「俺とあんたは、敵同士ではなく、限りなく同志に近いと思っている」「えっ……?」「――長嶺組長の将来について話をしようか、先生」 ぎこちない動きで和彦は座り直していた。南郷は窓のほうに視線を向けると、何かを思い出しているのかふっと遠い目をした。「去年の末の総和会の別荘での出来事については、俺はまったく謝る気はない。必要だから実行した。興味もあったしな。長嶺の男に愛されるあんたの体に」「……謝らなくていいです。どうせ、一生許す気はないですから」「それでこそ、特別な〈オンナ〉だ」 何も感じないわけではないのだ。服の下では肌が粟立っているし、じっとりと冷や汗もかいている。和彦は、たまらなく南郷が怖い。だが賢吾の話題を出されては、逃げ出すわけにはいかない。 南郷に負けたくないと強い対抗心を持つのは、目の前にいる男が賢吾に抱く特殊な感情に気づいているからだ。「あんたが元刑事のもとへ逃げ出したのは、想定外だった。そして、がっかりもした。俺の見込み違いだったのかと」「見込み違い?」「あんたは自分の人生を、長嶺組長に賭けたんだと思っていた。――俺がそうであるように」 賭ける相手は守光ではないのかと、和彦は大きく目を見開く。その反応の意味を、南郷は正確に読み取っていた。「俺にとってオヤジさんは、大恩ある人だ。肥溜めみたいな世界から掬い上げて、獣から人にしてくれたんだからな。あの人が成し遂げたいことがあるというなら、俺は喜んで命を差し出す。長嶺組長は、そんなオヤジさんの一人息子だ。俺は当然、何かあれば身を挺して守るつもりだったが……、自分は本当にそんなことで納得するのかと思い始めたんだ。納得というのは、そのまま満足して死ねるかと
エントランスの正面には受付カウンターが設けられているが、誰もいない。左右に廊下が分かれており、南郷は左に進んだので和彦もスリッパに履き替えてついていく。 新築の建物特有の匂いに軽く鼻を鳴らし、歩きながら天井を見上げる。壁だけでなく天井も真っ白だ。二階までの吹き抜けとなっており、高い位置にある窓から差し込む陽射しによって、白さが際立ち目が眩む。ここは白い回廊だなと、愚にもつかないことを考えてしまう。「うわっ」 立ち止まった南郷の背にぶつかってよろめく。「ここから先が、俺個人が自由に使えるスペースだ。さっきの廊下を右に行ったら、若い連中の居住スペースになってる。個室がいくつか。今はプライバシー重視で、一つの部屋でまとめて雑魚寝生活というのは嫌われるらしい」「……若い連中というのは、第二遊撃隊の人たちですか?」「総和会の資金が注ぎ込まれている手前、そういう露骨な贔屓もできない。いろいろ、だ。俺を慕っている者も、反感を抱いている者もいるだろう。もしかして、俺の動向を探る目的の奴も入り込んでいるかもな」 第一遊撃隊の人間も入居していると、思わせぶりな口調で南郷は付け加えた。「隊や組を超えた交流が必要だ。縄張り意識だけ強くなった頭の固い人間は、この先の組織運営には障害となる――とオヤジさんの言葉だが、俺も同感だ」 ドアを開けた南郷に促され、おずおずと部屋に足を踏み入れる。広々としたリビングダイニングには、まるでモデルルームのように趣味のいい家具が一通り揃っている。キッチンも見えるが、使っている形跡はない。「メシは、本部の食堂で食ったほうが手間がかからなくていい。ここには、寝に通ってるようなもんだ」 南郷が階段にちらりと視線を向ける。二階に寝室があるとわかって和彦は本能的に体を強張らせたが、気づいているのかいないのか、南郷はリビングダイニングを通り抜け、さらに奥に続くドアを開けた。白い回廊とは対照的な、薄暗く狭い廊下が伸びている。 南郷に招き入れられたのは、廊下以上に暗い部屋だった。まだ片付いていないのか段ボールが部屋の隅に積み上げられているが、和彦が興味を惹かれたのは、壁際の大きな書棚だった。傍らには
「――元はレンガ敷きの道だったが、工事車両が出入りするのに不便でこうなった。今、舗装材を手配してもらっているから、少しの間、見た目が悪いのは我慢してくれ。先生」 前触れもなく話しかけられ、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。パッと振り返ると、いつの間にか玄関のドアが開いており、男が立っていた。厚みのある大柄な体を真っ白なワイシャツで包んだ南郷だ。 存在を認識した途端、和彦は総毛立つ。自分とこの男との間に起こった出来事が、一瞬にして脳裏に蘇っていた。 顔色をなくして立ち尽くす和彦にかまわず、南郷はさらに話しかけてくる。「総括参謀なんて肩書きがつくなら、本部の一室にネズミみたいにいつまでも棲みついているなと、使っていた部屋を追い出されたんだ。ちょうど、テニスコートを潰して若い奴らのための寮のようなものでも造るかという話が出ていたから、俺は体のいい管理人みたいなものだな。そうでなかったら、こんなシャレた建物に住むことなんて、一生なかったはずだ」「ここに、住んでいるんですか……?」「オヤジさんが会長を引退するまでは、一応ここが、俺の家ということになる。わかりにくいなら、表札をかけておこうか?」 決して懐かしさを覚えたわけではないが、皮肉っぽい物言いが南郷らしいと実感させられる。この男とまともに会話を交わすのはいつ以来かと、つい頭の中で数えていた。最後に顔を合わせたのは和泉家から戻ってきた日の駅構内だった。総和会の男たちに追われ、駆け出した先で鷹津に救われたのだ。そこからおよそ三か月経って、またこうして南郷と相対している。「今日、あんたがここに来ると聞いていたから、お披露目しておこうと思ってな。――あんたとも無関係の場所ではないし」 それはどういう意味かと和彦は眉をひそめる。南郷はスッと視線を逸らし、土が剥き出しとなっている一角に目を向けた。「ここに頑丈な柵を立てて、犬を飼おうかという話が出ている。番犬のような男揃いの本部に、いまさら本物の犬を飼うのもどうだという話だが……、先生なら、この空き地をどう使う?」「ぼくは、関係ないので」 和彦の返答に、南郷は軽く肩を竦める。
総和会本部の建物内については知り尽くしているとまではいかなくとも、各階に何があるかを大まかながら把握している和彦だが、建物外のこととなると、何も知らないに等しい。元はある企業が、税金対策に建てた研修施設だったというだけあって敷地はそれなりに広い。かつてはグラウンドなどもあったという話だが、守光の指示によって造園工事が行われたのだそうだ。 守光の場合、自然派だとか緑を愛しているとか、そういう理由からではないだろう。長嶺の本宅の中庭を見ていても感じるが、〈整えて〉いることに満足を覚える性質なのかもしれない。 和彦は少し首を傾けて、車の後部座席から空を見上げる。次いで、周囲に目を向ける。敷地内をゆっくりと車は進む。いつも車が停まる建物の裏口や駐車場ではなく、今日はさらに奥へと進んでいた。まさに、守光が造園工事を命じたというエリアだ。 呼ばれたのをこれ幸いと、あれも聞きたい、これも聞きたいと勢い込んでやってきたものの、当の守光は、今は来客の対応をしているという。拍子抜けしたのだが、だから先に、和彦を案内したいところがあると言われて移動中だ。 敷地には車が通る道以外に、屋根つきの歩道も通っている。念入りに植裁を行っているのか、樹木が頭上から覆い被さるように生い茂っており、緑の回廊を作り出している。ちょっと見惚れるほどの光景だが、見栄え云々ではなく、上空からの視線を警戒したのではないかと和彦は推察する。少し前ならヘリコプターでの空撮だっただろうが、今なら一般人でもドローンを簡単に入手できるのだ。 建物の窓から見下ろしていたときは、広い敷地で手入れが追い付かないにしても、少々鬱蒼としすぎているのではないかと感じていたが、間近で見ていると途轍もない手間がかかっていると知る。 ところどころ小綺麗なベンチも設置されているので、普段から立ち入りが禁止されている場所というわけでもないようだ。実際、こうして目にすると、和彦自身、自分の足で歩き回ってみたくなってくる。建物自体を檻と認識していたため、敷地内を散歩できる場所だと想像もしていなかったのだ。 唐突に緑の回廊を抜ける。目の前に現れたのは一軒の建物だった。目的地はここだったらしく、車は正面玄関で停まる。降りるよう告げられたので、仕方なく指示に従う。
**** 今朝の朝食が、自分だけ粥が準備されていたのはどんな意味があるのだろうかと、和彦は食後のお茶を啜りながらずっと考えていた。 目の前では賢吾が悠然と新聞を開いており、和彦の隣では千尋が、朝のニュース番組をチェックしつつ、トーストにかぶりついていた。ちなみにこれで三枚目だ。 若い千尋の健啖ぶりはいまさらといえばいまさらだが、昨夜あれだけ体力を使えば、食欲に拍車もかかるのかもしれない。一方の和彦は、限界まで体力と精を搾り取られて、シャワーを浴びに行くのも苦労した。 客間で一人で休みたかったが、その前に朝メシを食えと言われて、賢吾の部屋に連れ戻された。 テレビを観ていた千尋がふいに、和彦の前に置かれた空の椀を覗き込んでくる。「和彦、あんま食ってないだろ。パンでも頼む?」 千尋のせっかくの気遣いだが、和彦は胃の辺りをさすって首を横に振る。「お粥で十分腹いっぱいになった」 横から口を挟んできたのは賢吾だ。「昨夜は肉をたらふく食ったからな。軽めに、と笠野に注文しておいた俺の読みは正しかったわけだ」「……なんでお粥なのかと思ったら、あんたか」「その代わり、昼には美味いものを食いに連れて行ってやる。鰻なんてどうだ?」「今から、昼なにを食べるか聞かれてもなー。というか、昨日の今日で、出歩いて大丈夫なのか……」 和彦が何を気にかけているか、当然賢吾はわかっている。「秋慈から、伊勢崎龍造に連絡して軽く牽制してもらうことになっている。実際の目的がどこにあるのかはっきりしないが、少なくともお前相手に狼藉を働こうという気はないはずだ。そんな気があったら、もっと早くに動いていただろうしな」「前に会って食事をしたときは、悪い印象は受けなかった。もちろん堅気じゃないから怖くはあるんだけど、玲く――息子に対する情愛を感じられたんだ」「……お前を騙すのは簡単だな」 そう言って賢吾は苦笑し、千尋は苦虫を噛み潰したような顔をしている。父子揃って、和彦







