Masuk賢吾の言葉で、和彦はあることを思い出す。千尋に絡んできたり、組事務所の近くで見かけた不審な男のことだ。
「――あの男のこと、何かわかったのか?」 和彦の問いかけに、再び賢吾がこちらを向く。寸前まで機嫌がよさそうだったのに、このとき賢吾の両目には、ひんやりとした質感が宿っていた。組長としての目だ。「先生のような人間が知る価値もない、下衆な男だ」「ヤクザに下衆呼ばわりされるなんて、大したものだ」「#蛇蝎__だかつ__#のごとく嫌うって言葉があるだろ。蛇は、俺の背中にいる。だとしたら、あの男はサソリかもな」 指で和彦の頬をくすぐりながら、賢吾が低い笑い声を洩らす。そんな賢吾を、畏怖を込めた眼差しで見つめていた和彦だが、手慰みのように頬や髪を撫でられ続けているうちに、肩から力を抜く。 すると賢吾が、もう片方の手を差し出してきた。その手と賢吾の顔を交互に見てから、和彦は大きな手の上に、自分の手を重ねる。痛いほど握り締められた。「……忙しく日帰りするつもりだったが、気が** どんなおどろおどろしい場所に連れて行かれるのかと身構えていた和彦だが、目の前に建っているのはごく普通のマンションだった。いわゆる低層マンションというもので、三階建てだ。外観は小洒落たデザインで、よく手入れされた樹木が、エントランスの出入口の両サイドを彩っている。「入るぞ」 さっさとオートロックの操作パネルを押した賢吾が、そう言ってエントランスの扉を潜る。荷物持ちの組員と、護衛担当の組員たちと一緒に乗り込んだエレベーターは三階まで上がる。 エレベーターから一番遠い部屋のドアをさっさと賢吾が開ける。部屋に最初に入ったのは荷物持ちの組員で、買い込んだものを手早く室内に置くと、速やかに出てきた。賢吾に腕を掴まれた和彦は玄関に押し込まれ、先に中で待っているよう言われる。どうやら共用通路で何か打ち合わせたいらしい。 和彦は仕方なく部屋に上がる。至って普通の2DKのようで、自分以外に人がいないことを確認するため、部屋のあちこちを遠慮しつつ覗いて回る。すぐに違和感を覚えて首を傾げる。一通りの家具や電化製品が揃っていながら、生活感が乏しいのだ。 二つある部屋はどちらも、ベッドとサイドテーブルに小さなワードローブが置かれている。どこかで見たことがある光景だなと思ったら、ビジネスホテルの一室だ。余計なものがない。 観察し甲斐のない部屋から目を逸らし、買ってきたものをとりあえず仕舞おうと冷凍庫を開ける。こちらは、袋入りの氷しかなかった。まさかと思って次に開けた冷蔵庫も、水のボトルしかない。日常的に使っていないのは一目瞭然だ。おそらく今日はこの部屋に宿泊するはずだが、一体どういう場所なのかまったく予想がつかない。 手早く作業を終えても賢吾が部屋に入ってくる様子はない。室内が少し暑いと感じた和彦は、通りに面した窓を開ける。ベランダに出てみたかったが、履き物が置いてない。それでも外の景色を眺めることはでき、つい本宅がある方向を身を乗り出して見てみる。 住宅街の一角に建つ、特別なものなど何もないマンションだ。その周辺も同じで、ありふれた光景が広がっている。正直、本宅の周辺一帯は組員たちが目を光らせていることもあってある意味安全ではあるが、独特の緊迫感のようなも
「ちょっと軽率すぎるんじゃないか。堂々と通りを歩くなんて」「ほお、お前からその言葉を聞くとはな」 ニヤリとする賢吾の軽い皮肉に、残念ながら和彦は反論できない。 向かったのは、古めかしい外観の小さな定食屋だった。昼休みの時間帯前とはいえ、中に入ると席は埋まりかけている。かろうじて二人掛けのテーブル席につくことができ、注文は賢吾に任せる。慣れた様子から、かつてこの店に通っていたのだろうと推測できたからだ。「――俺が通ってた頃は、年寄り夫婦が切り盛りしてたんだが、さすがに代替わりしたようだな」 座っている場所から見える厨房では、中年の男女が忙しく立ち働いている。「通ってた?」「ああ。本宅でメシを食うのが煩わしい年頃でな。そもそも、たまに銃弾が撃ち込まれたり、トラックが門に突っ込んだりして、何かとにぎやかな頃だった」「それ……、にぎやかで済む話じゃないだろ」「オヤジの代の頃は、しょっちゅう本宅は改築してたな。その結果、今のような造りだ。門から玄関までが少し離れていて、建物の中もちょっとわかりにくい構造になった」 活気があるというより緊張感に満ちた毎日だったようだが、話す賢吾はどこか楽しげだ。和彦も、過去の組や本宅の様子を聞けるのは新鮮で、食事時に交わすにはどうかと思うが、少なくとも会話は弾んだ。 仲良く焼きサバ定食を食べ終えて店を出ると、すでに目の前には車が停まっており、流れるように乗り込む。次はどこに向かうのかと思えば、大型書店だった。画集でも欲しいのだろうかと思ったが、賢吾は一階の雑誌売り場で週刊誌を何冊か手に取る。「時間潰しにいいかと思ってな。お前も、欲しい本を持ってこい」 賢吾が一緒なら、のんびりと他の階を見て回るわけにもいかない。新刊が並ぶ台で文庫本を数冊選ぶと、賢吾に渡してまとめて支払ってもらう。書店を出るとさらに車で移動して、次はスーパーだ。賢吾はカートを押しながら、カゴに次々とアルコール類や水、手軽に食べられる冷凍食品やつまみになりそうな乾物などを放り込んでいく。つられて和彦もちょこちょこと商品を入れていくが、そもそもなんのためにこうして買い物をしているのかがわからない。
とっくに把握しているだろうが一応話しておいたほうがいいかと、玲には伊勢崎組の護衛――というより世話係がついていることと、御堂による第一遊撃隊の監視がついていることも報告したが、賢吾は特に表情は変えなかった。ただ、龍造が和彦に会いたがっていたという件では、何事か考えるようにあごに手をやる。「お前の存在がお守り代わりになると本気で考えるほど、楽天的な男ではないと思うが。少なくとも、お前を怖がらせたという点で、俺の、伊勢崎父子に対する印象はなかなか最悪だ」「直接脅されたわけじゃないんだけど……」「お前は、自分の立場というものをもう一度じっくりと噛み締めるべきだな」 それに、と賢吾は続ける。「無自覚に怖い男を骨抜きにする、自分の性質の悪さを」「なっ……、に、言って……」 ふん、と軽く鼻を鳴らした賢吾は、ここでやっと少しだけ不機嫌な横顔を見せる。それでいて、手は握ったままなのだ。「今日は、美術館に行ったあと、昼メシを食ってから少しぶらついて、ぜひともお前を連れて行きたい場所がある。今日は、そこで泊まりだ」「どこに?」「ここでバラしたらつまらねーだろ。せっかく俺が趣向を凝らしたんだ。――お前を楽しませるために」 魅力的なバリトンが、吐息のような囁きによって一層威力を増す。しかし和彦が感じたのは寒気で、反射的に手を抜き取ろうとしたが、ぐっと力が込められ叶わない。 やはり賢吾は、玲と再会してしまったことを怒っているのだと、さすがに察した。執着心の強いこの男が、素知らぬ顔をするはずがなかったのだ。そもそも、玲との再会以前に、和彦は南郷とも共に時間を過ごした。あのときも、賢吾の反応は穏当ともいえるものだったが、内心ではどう感じていたのか和彦にはうかがい知れない。 如何なる目に遭うにしても覚悟を決めるしかないと、和彦はぐっと唇を引き結んだ。** どんな無茶で振り回されるのかと、最初は全身を強張らせて緊張していた和彦だが、その状態は長くは続かなかった。 提案通りに、前回とは別の美術館に連
**** 土曜日の午前中に姿を見せた賢吾は、いつになく色艶がよかった。血色がいいといえばそうなのだが、しっとりとした艶をまとっているようで、男前ぶりが普段より二割ほど増して見える。珍しいことに白の薄手のニットを着ており、車内にあってもハッとするほど鮮烈に目に映る。 ずいぶん寛いだ姿に瞬きを繰り返す和彦に、後部座席のシートにゆったりと身を預けた賢吾が軽く手招きをしてくる。「早く乗れ」 ぎくしゃくとぎこちない動きで指示に従うと、和彦がシートベルトを締めるのを待って静かに車は発進する。 和彦は背筋を伸ばしたまま、隣の賢吾をうかがう。特に不機嫌なようには見えないが、土曜日の午前中から連れ出された理由は一つしかないため、嫌でも緊張する。すると賢吾が、口元に笑みを浮かべた。「別に、お前を取って食いやしない。そう怖がるな。それとも――何か心当たりがあるのか?」「……性格悪いって言われないか」 玲と会ったあと、御堂に続いて電話をかけてきた賢吾に、有無を言わせず土日の予定を押さえられた。おかげで今日まで胃が痛くて仕方なかったが、自業自得だという自覚はあるため文句はない。 だからといって恐ろしいわけではなく、いよいよ折檻でもされるのではないかと、最悪な想像をした和彦はそっと身を震わせる。追い打ちをかけるように賢吾が言った。「お前とじっくり話すために、土日は仕事の予定を入れてない」「二日も必要なのか? 忙しいんだろ」「俺のオンナに関することだ。いくらでも融通は利かせる。張り切りすぎて、朝からサウナに行ってきたぐらいだ」 だから色艶がいいのかと納得したと同時に、嫌でも和彦は覚悟を決める。「それで、今からどこに……」「ひとまず美術館に行くか。せっかくだから俺ものんびりしたい」 ご自由にと答えて、ようやく和彦はシートにもたれかかる。あくまでさりげなく賢吾が切り出してきた。「――久しぶりに伊勢崎玲と会った感想はどうだ」 鼓動が一回だけ大きく跳ねたが、動揺は表に出さない。和
『せっかくの大学生活で羽を伸ばせるかと思ったら、父親どころか、その父親の子分たちまでぞろぞろついて来たんだ。子供の頃から知っている子だから、わたしもちょっと肩入れしてしまってね。なるべく彼には関わらずに、堅気らしく自由に過ごさせてあげたかったんだけど――』 どう相槌を打っていいものかと迷った挙句、曖昧な声を洩らす。くすっと御堂の小さな笑い声が聞こえた。『君の身近にいる人間から聞いているんだろう? いろいろと』「あっ……、えっと……」 ちらりと頭に浮かんだ南郷の顔を、慌てて追い払う。『その前提で話すけど、北辰連合会がちょっときな臭いことになって、伊勢崎組長は新規事業を始めるという建前で、こちらに避難しているようなものなんだ。当然、その動きを総和会も把握して、息を潜めて成り行きを観察している』「観察ですか……」『こちらが巻き込まれない限り、ご自由に、という姿勢だ。ただ、伊勢崎組長はおとなしくしているつもりはないようだけど』 意味ありげに言葉を切られる。和彦は、小さく呻き声を洩らす。わざわざ御堂が電話をかけてきた意図を察したのだ。「……だったらなおさら、玲くんがぼくと接触するのはまずいですよね」『わかってるはずなんだけど、彼も。そこはもう、恋は盲目というやつかな』「冗談になってないですよ」『そう。冗談では済まないかもしれない。例えば、息子との火遊びの責任を取れと、今になって伊勢崎組長がねじ込んできたとき、君は要求を突っぱねることができるかい?』 相手は海千山千の極道だよと、ぞっとするほど優しい声音で囁かれて、和彦は身を震わせる。「要求というのは、もしかして――」『興味深い歴史がある場所に、和泉家所有のビルがあり、そこに君という要素が加わることで、とてつもない価値を持つようになる。伊勢崎組長にとっても、その伊勢崎組長に何かしらの利害が絡んでいる人間……組織にとっても』「ぼくは、何もできません。和泉家の内情なので詳しくは話せませんが、ぼくの一存
** 嵐というより、局地的な突風に巻き込まれたような一時だったなと、精神的疲労からぐったりとしながら和彦は思う。 なんとか無事に自宅マンションに帰り着くと、寛ぐ前に明日の仕事の準備を整える。クリニックに届いていた学会誌に目を通しておきたい気持ちもあったが、今晩はもう頭を使うのは限界だ。手早くシャワーを済ませると、ダイニングテーブルについて大きく息を吐き出す。無意識のうちにスマートフォンを手元に引き寄せ、画面を覗く。不気味なほど誰からも連絡が来ていない。 ひとまず賢吾に報告をしておこうと、車中から簡潔にメッセージは送っておいたのだ。詳細は護衛を通じて報告されるとわかってのことだが、本宅ではどういう状況になっているか、想像するとうっすらと首筋が寒くなってくる。 まだ十代の青年が、無謀な情熱で突っ走っただけだと話せば、賢吾は納得してくれるだろうか。仮に怒っていたとして、それを鎮めてくれるだろうか。 和彦としては、玲が無難な大学生活を送ってくれることを願っており、長嶺組が関わる事態は避けたかった。 しかしここで大切なのは、玲が自らの立場をわきまえて行動できるかということで――。「……怖いなー。若さって」 そんなことを独りごちてから苦笑する。今日の玲の様子では、もう二度と和彦とは会わない、とはならないだろう。あっさりと告げられた玲の気持ちを、麻疹のようなものだと笑う気にもなれず、忘れることもできず、だからこそ和彦は困るのだ。自分が少しだけ彼を大人にしてしまったという負い目もある。 脳裏を過るのは、いかにも食えないヤクザである伊勢崎龍造の反応だ。あちらはあちらで息子の暴走に頭を抱えているのだとしたら、さらに申し訳ない。 所在なく座っているのも落ち着かないため、コーヒーでも淹れてこようかと腰を浮かせかけたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示される番号に見覚えがなくて困惑したものの、誰がかけてきているのか気にはなる。おそるおそる電話に出ていた。『今、話しても大丈夫かい?』 高くも低くもない落ち着いた声が耳に届く。そこからひんやりとした温度を感じ取ってしまうのは、電話の向こうにいる人物の秀麗な