Mag-log in本当に三田村に心配をかけてしまったのだと、いまさらながら痛感する。和彦は背を何度も撫でてから、ぽそりと言った。
「……喉、渇いた」「ああ。それと、何か食おう。ここに来るとき、いろいろ買ったから、温める」 やむなく繋いでいた体を離し、和彦はしどけなく両手を投げ出す。三田村はそんな和彦の胸元や腹部に何度か唇を押し当ててから、スウェットパンツだけを穿いて立ち上がる。 向けられた三田村の背にある虎の刺青は、汗に濡れている。寸前まで、自分はこの背を撫でていたのかと思うと、ゾクリとするような疼きを和彦は感じた。 三田村の姿がキッチンに消え、聞こえてくる物音に耳を傾けながら、心地よい空気を味わう。 本当は、問題は何も片付いていないのだ。ただ和彦が、抱えた秘密を三田村に打ち明けただけで、三田村から報告を受けた賢吾がどんな対処をするかもわからない。 自分はどんな罰も受けないと考えられるほど、和彦は楽観論者ではなかった。 それでも今は、三田村とこうして一緒の時間を過ごせていることが嬉しい。明日の朝までは、この時間を堪能できるはずだ。 和彦がゆっくりと体の向きを変えようとしたとき、ベッドの下で和彦の携帯電話が鳴った。長嶺組の人間ではない。三田村と一緒にいる間は、連絡しないことになっている。だとすれば、かけてきているのは――。 けだるい体をベッドから乗り出すようにして、床の上に落としたジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。表示を見ると、鷹津の携帯電話からだった。 鷹津から連絡がきたのはこれが初めてだが、よりによって、というタイミングだ。すぐにでも電源を切ろうとしたが、あの男のことなので、ここに来るときも尾行していたとしても不思議ではない。電源を切った途端、押しかけられそうで、結局和彦は、電話に出ていた。「もしもし……」『今、どこにいる?』 和彦はうつぶせの姿勢で鷹津と話す。寸前まで三田村の囁きをたっぷり耳に注ぎ込まれたせいか、鷹津に対する嫌悪感がいくらかマシだった。ただ、鷹揚な話し方と声は、やはり不快だ。「……今日はぼ「それでも減らず口を叩く度胸は褒めてやる。だが、頭はよくない。この状況でそういうことを言えば、半殺しにされても文句は言えんぞ」 鷹津の片手が振り上げられるのを見て、咄嗟に顔を背けてきつく目を閉じる。殴られると思ったのだ。だが、鷹津は予想外の行動に出た。 和彦が着ているシャツの襟元を掴み、一気に引き破ったのだ。声も出せず見上げた先で、鷹津は下手なヤクザよりよほど獰猛な笑みを浮かべていた。「自覚がないようだから、教えてやる。お前は弱くはない。むしろ、したたかだ。したたかで妖しい、〈オンナ〉だ」 鷹津の彫りの深い顔が近づいてきて、有無を言わせず唇を塞がれた。和彦は喉の奥から引き攣った呻き声を洩らし、足をばたつかせ、顔を押し退けようとしたが、鷹津は容赦なかった。 あごを掴む指に力が加わり、骨が砕かれそうになる。同時に、もう片方の手が下肢に伸び、カーゴパンツの上から和彦のものは強く握り締められた。 痛みに、身じろぎもできなくなる。何より、筋肉質で厚みのある鷹津の体は、圧倒的に和彦より重い。この体勢では押し退けられない。 和彦の反応に満足したのか、鷹津は一度唇を離し、じっくりと見下ろしてくる。「恨むなら、長嶺を恨めよ。あの男が俺を挑発した。自分のオンナを、俺に見せびらかした。あいつがイイ〈女〉を抱く分には、俺はなんとも思わない。たった一度しか抱かない、遊びですらない女をいくら見せびらかされたって、地面に落ちてる石ころと一緒だ。意識なんざしない。だが、お前は違う――」 鷹津の手に、手荒く敏感なものを揉まれる。痛みに声を洩らすと、すかさず唇を熱い舌で舐められ、あまりの気持ち悪さに和彦は身震いしていた。剥き出しの神経に、不快なものを擦りつけられているような、そんな耐え難さだ。「こんなものを付けた色男で、医者なんてしているエリートだ。それこそ、イイ女にも金にも不自由しないだろう。そんなお前を、あの蛇みたいな男が抱いて、よがらせている。……妙に興奮するものがある。あいつが一度だけ抱いた女を俺が抱いたところで、なんの感慨もないが、お前は違う。何度も何度も長嶺に抱かれている。奴にとって、特別なオンナだ」 鷹津の手にカーゴパンツと
和彦の言葉に、ただでさえ嫌な険を宿した鷹津の目が、さらに険しくなる。相変わらずこの男の目は、ドロドロとした感情の澱が透けて見え、和彦の嫌悪感や警戒心を煽り立てる。「当たり、みたいだな。……組の人間は、あんたがヤクザ相手に何をしでかしたのか詳しく話してくれないし、ぼくも聞こうとは思わなかった。あんたを悪党だという組長の言葉と、あんた自身を見ていたら、十分だ」 鷹津が大股で側にやってこようとしたので、和彦はすかさず逃げ、ソファセットを挟んで対峙する。隙を見て寝室か書斎に駆け込めば、中から鍵がかけられるうえに、そこから電話ができる。「刑事だからと調子に乗りすぎて、ヤクザにハメられたんだろ。あんたがクズだと見下していた連中は、さぞかし気分がよかっただろうな」「……ああ。ご丁寧に、わざわざ俺の目の前で、嘲笑ったクズがいた。ぶちのめしてやったら、血塗れの顔でのた打ち回ってたな」 鷹津が下卑た笑みを口元に浮かべ、和彦は怖気立つ。鷹津の凶暴性が怖いと同時に、血の濃厚なイメージが重なり、吐き気がした。さきほど肩を捻り上げられたせいで、痛みを想像するのも容易だ。 よほど顔色が変わったらしく、鷹津はニヤリと笑った。「長嶺のオンナのくせに、ずいぶんお上品で繊細だな。俺の話を聞いただけで、顔が青くなったぞ。さっきまでの強気はどうした」 和彦は反射的に、寝室に通じるドアにちらりと視線を向ける。これ以上、鷹津と対峙するのは無理だと思ったのだ。 次の瞬間、鷹津がソファを乗り越えて、テーブルの上に立つ。驚いた和彦は思わず立ち尽くしてしまうが、すぐに我に返って逃げようとする。だが、鷹津が獣のように飛びかかってくるほうが早かった。「あっ」 乱暴に絨毯の上に押し倒され、衝撃に数瞬息ができなくなる。その間に、鷹津は悠然と和彦の上に馬乗りになっていた。 あごを掴み上げられた和彦は、なんとか身を捩ろうと足掻きながら、鷹津を睨みつける。一方の鷹津は、余裕たっぷりに笑っていた。その顔がまた、和彦の嫌悪感を増幅させる。触れられているところから、まるで毒が染み込んでくるようだ。「何が、目的だ&helli
ビクリと肩を震わせて、和彦は振り返る。鷹津が軽くあごをしゃくり、仕方なく受話器を置く。部屋に上がるまで、ずっと腕を捻り上げられて痛みを与えられ続けていたせいで、激しい反抗心まで捻じ伏せられたようだ。 鷹津は、逆らえば容赦なく、和彦に痛みを与えてくる。その点はヤクザと同じだ。「このリビングだけで、俺が寝起きしている部屋の何倍だろうな」「……ぼくに、なんの用だ」「この間、いいものを見させてもらったから、礼を言いに来た」 ようやく和彦は、鷹津を睨みつける。秦の店での、賢吾との行為を指しているのだと、すぐにわかった。あんなものを見せつけられて、屈辱に感じない男ではないはずだ。礼どころか、報復に来たのだ。「礼なら、長嶺組長に言えばいい。あんなことをしでかしたのは、あの男だ」「お前のご主人さまだろ。その言い方はよくねーな」 ゆっくりとした足取りで鷹津がこちらに向かってくるので、和彦は後退るようにして距離を取ろうとする。緊迫した空気の中、一瞬たりとも気が抜けない追いかけっこをしているようだ。 沈黙が訪れるのが怖くて、必死に頭を働かせる。話題はなんでもよかったが、この状況で和彦は、長嶺組のために情報を引き出そうとしていた。「――……あんた昨日、長嶺組のシマのことで、何かしたか?」 和彦の問いかけに、鷹津は無精ひげが生えたあごを撫でる。「シマ、か。ヤクザの言葉が身についてきたみたいだな。……お前が言うそのシマを担当区域にしている警察署の生活安全課に、長嶺に飼われているネズミがいると、俺が教えてやっただけだ。ウソの手入れ情報を流してネズミを泳がせ、ヤクザを踊らせる――なんて悪辣なことまでは、俺は関知していない」「長嶺組に対する嫌がらせか」「嫌がらせ? 俺は刑事だぜ。あいつらを駆除するのがお仕事だ。長嶺には、総和会なんて厄介なものまで引っ付いてるんだ。一気に潰すのは不可能だが、じわじわと弱体化させるのは可能だ。俺は、ヤクザが嫌がる手口をよく知ってるからな」「……手口をよく知るぐらい、ヤクザとべ
もっともそれは、夜道を歩いていて、背後を気にする程度のものだが――。 背後から誰もついてきていないことを確認して、和彦は足早にマンションのアーチをくぐる。エントランスのロックを解除しようと、操作盤に触れたそのときだった。こちらに近づいてくる足音に気づく。 マンションの住人だろうかと、顔を上げた和彦は、そっと息を呑む。悠然とした足取りでやってくるのは、鷹津だった。 アーチから正面玄関にかけて、照明によって明るく照らされているのだが、黒のソリッドシャツにジーンズという見覚えのある格好をした鷹津の姿は、やけに不気味に見える。 無精ひげを生やした口元が、ニヤリと笑みを刻む。ハッと我に返った和彦は、慌てて部屋番号を入力してエントランスに入ったが、突然駆け出した鷹津も、素早く身を滑り込ませてきた。 和彦は本能的に駆け出し、エレベーターに乗り込もうとしたが、扉が開く前に鷹津に腕を掴まれる。「離せっ」 鋭い声を上げ、手を振り払おうとしたが、次の瞬間、掴まれた腕を捩じ上げられた。肩まで痺れるような傷みに和彦は呻き声を洩らし、動けなくなる。手からコンビニの袋が落ちそうになり、鷹津に奪い取られた。「黙って、部屋まで行け。なんならこの場で、肩を外してやってもいいぞ。――大の男が絶叫するような痛みを味わってみるか?」 鷹津は、和彦が極端に痛みに弱いことは知らないはずだ。普通の男であっても、鷹津のような粗暴な刑事からこんなことを言われれば、従うしかない。鷹津の本性の一端を知っている和彦であれば、なおさらだ。 睨みつける気力もなく、促されるままエレベーターに乗り込んだ。 当然のように部屋に上がり込んだ鷹津は、胡乱な目つきですべての部屋を見て回り、リビングで立ち尽くす和彦は痛む腕の付け根を押さえながら、そんな鷹津を目で追う。 自分の迂闊さを悔やんだが、もう遅い。自分は危なっかしいと自覚したところで、まだ事態を――鷹津を甘く見ていたのだ。危機感すら欠けていた。 和彦は、鷹津の姿が寝室のほうに消えたのを見て、電話に駆け寄ろうとする。長嶺組に助けを求めようとしたのだ。しかし、受話器を取り上げたところで、待ちかねていたように鷹津の声がした。
どこかに出かけるとき、和彦には必ずといっていいほど護衛がつき、外で一人になることはほとんどない。この生活に入ったばかりの頃は、比較的自由だったのだが、今となっては、その頃の解放感が懐かしい。 長嶺組での和彦の重要性が増したうえに、ある男の登場によって、自由は侵食されつつあった。 そんな状況下で、夜のコンビニにふらりと出かけることは、和彦のささやかな楽しみとなっていた。もちろん、組員たちはいい顔をしないが、賢吾が何か言ったのか、黙認される形となっている。 マンションからコンビニまで、片道ほんの数分ほどの道のりをのんびりと歩きながら、濡れた髪を掻き上げる。秋めいてきたとはいえ、日中は陽射しの強さによっては暑いぐらいのときもあるのだが、さすがに夜風はひんやりと冷たくなってきた。ただ、シャワーを浴びて火照った頬には、その風が心地いい。 このまま夜の散歩といきたいところだが、さすがにそれは自重しておく。 和彦は、昨夜、三田村から聞かされたことを思い出し、そっと眉をひそめていた。 結局、警察による手入れはなかったが、風営法違反の際どいサービスを行っている店もいくつかあったため、警察に踏み込まれるのを恐れて臨時休業したらしい。手入れがあるという情報がもたらされた以上、しばらくは警察の動きを警戒して、まともな営業は望めないそうだ。 情報に振り回されたと、三田村は淡々とした口調で電話で話していた。警察内で何が起こっているのか和彦には知りようがないが、〈誰か〉は、長嶺組がこの状態に陥ることを狙っていたはずだ。この程度で組が危機に陥ることはないが、煩わされるのは確かだ。 落ち着くまで長嶺の本宅で過ごしたらどうかとも三田村に言われたのだが、さすがにそれは断った。一日、二日をあの家で過ごすのはかまわないが、何日ともなると、和彦の精神が参りそうだ。 そもそも和彦は、人と一緒に暮らすことに慣れていない。これまで何人かの恋人とつき合ってきたが、同棲にまで至らなかったのは、そのためだ。 コンビニで牛乳とガムを買い、まっすぐマンションに戻っていた和彦だが、ふと足を止めて振り返る。三田村と交わした会話のせいではないが、さすがに和彦も、自分の危なっかしさを自覚し、最低限の自衛手段
「今、対応を話し合っているそうだ。俺も戻ってから、若頭の元に顔を出さなきゃいけない」 和彦は返事をしないまま、残っていたコーヒーを飲み干す。すると、すかさず伸びてきた三田村の手に缶を取り上げられた。二人はゴミ箱の前で立ち止まり、示し合わせたように互いの顔を見つめる。「……今、警察がイレギュラーな動きをしていると聞くと、ある男の顔がまっさきに頭に浮かぶんだが、ぼくの考えすぎか?」 和彦の言葉に、三田村は首を横に振る。「警察の詳しい内情まではわからないが、鷹津が長嶺の周辺をうろついている限り、考えすぎということはないだろう。慎重すぎるほど慎重になって間違いはない。特に、先生は」 三田村に促され、並んで歩きながら車へと戻る。「いざとなれば組は、誰も立ち入れない鉄の壁そのものになる。必要とあれば、誰かが犠牲になるが、それすら、組を守るためだ。その中で先生は、組長だけじゃなく、組そのものにとっての弱点になる。かけがえのない存在だからだ。だからこそ俺たちは守るし、反対に、警察は目をつけるかもしれない」「なんだか、大事だな……」「怯えて暮らしてくれと言っているわけじゃない。ただ、俺たちに守られてほしいんだ」 三田村が〈助手席〉のドアを開けてくれ、乗り込みながら和彦は、ため息交じりに洩らした。「そんなにぼくは、危なっかしいか」「ようやく自覚してくれたな、先生」 生まじめな顔で三田村に言われ、和彦としては苦笑を洩らすしかなかった。**** 冷蔵庫を開けた和彦は、あっ、と小さく声を洩らす。シャワーを浴びて出て飲むつもりだった牛乳がなかったからだ。必要なものがあれば、連絡さえしておけば組員が買ってきてくれるのだが、頼むのをうっかり忘れていた。 ペットボトルのお茶はあるので、それで我慢しておこうかとも思ったのだが、欲しいものが冷蔵庫にないと、気になって仕方ない。 少し考えてから和彦は、着込んだばかりのパジャマから、カーゴパンツとシャツに着替え、その上から上着を羽織る。髪は