Se connecter瞳は、そっと袋ごしに鉛筆をつまむと静かに目を閉じた。
ここからは、お金に見合っただけの苦しみを味わわなくてはいけない。この事件の真相に触れて、ちゃんと結果を伝える。
そう自分に言い聞かせて大きく息を吐くと、全身にとんでもない重力が押し寄せて来た。
苦しい……重い……
それは、この鉛筆を持っていた者の苦しみか? それとも、過去に遡る自分への負荷なのか? その境界線が分からなくなっていく。最初に景色が広がって見えたものは、真っ赤な血の海だ。
覚悟はしていたが、その光景は目を背けたくなる惨状だった。 瞳は、自分に見えたものを、流星に事細かに伝えるように努力する。「この鉛筆は……男の子が持っている。でも、この子はすでに死んでるわ」
男の子が力なくだらりとしている。
すでに胸が動いていない。衣服が血まみれだ。(もう少し遡ろう。鉛筆はこの過去を知っている)
鉛筆に血はついていないが、間違いなくこの現場の景色を見ていた。そのため、その少し前の時間に遡るように意識する。
だが、瞳は少し息苦しい感覚に襲われ始めた。
「男の子の手にこの鉛筆は固く握られているわ。そして……男の子は刺されたのね。包丁もこの鉛筆の周りも血まみれ……鉛筆は……男の子が握っていて、血溜まりと手は距離があるから血はついていない」
「見えるのか?でも、これは被害者は握ってないぞ。現場には落ちていたが……」
流星の声は、瞳にはぼんやりとしか届いていない。
遠くの世界でその声が聞こえる感じだ。返答をしすぎると、今の時間に戻ってしまうが、この声があるから戻りやすいとも言える。
瞳は、そのぼんやりとした声に答えていった。「うん、そうね。死んで手の力が抜けて……今、コロコロ転がった。そばでは、男の人と女の人がすでに刺されているわ。最後に殺されたのが子供だったのね……母親が殺された後、どうして?おじさん!そう叫んでいた」
瞳の見ている前で刺された男の子は、恐怖と刺された痛みで目を見開き、短時間で生気を失い血溜まりの中に沈み込む。
その男の子が死に至る経過が示され、瞳はうっと吐きそうになる。すでに目の前には子供も含めて三人が死んでいる。
(鉛筆は、犯人の顔を見ているかしら?)
「目の前では、男の子を守ろうとしたのかしら?子供より先に女の人が死んでる……もう少し前にもどるわ」
(顔を見ることが出来たら、容疑者の候補の写真から絞り込めるわ)
瞳は、吐き気に襲われながら、さらに、もう少し遡るように念じて鉛筆を握る。
「女性は男の子の母親ね。子供を庇って刺された……やめて……あなたを愛していたのに……なぜ?殺される前、誰かにそう言っている」
(まだ犯人の顔は映らない。これで母子が顔見知りに殺されたことはわかったけど……男の人は二人より前に死んでいる。もう少し前に……戻ろう)
瞳の体にさらに負荷がかかる。
その負荷で、体が潰されそうな錯覚に陥るがこれは幻だと言い聞かせて、さらに前に遡るように念じた。「あれ?男の人と母子が死ぬ時間に、少しタイムラグがある。この鉛筆がここに来た時、もう、男の人は死んでる……床に座ったままだわ。この人はすでに……刺されている……」
瞳は、ごくっと息を呑んだ。
女性に近づいてくる男性の体が見える。「あなたとの事が夫にバレてしまった。揉み合いになって……殺すつもりはなかった……優希さん!どうしたらいい?って女の人が泣いてて、子供も亡くなった男の人にパパって叫んでる……」
「優希……さん?川村係長の名前と同じ!それ本当か?」
目を閉じている中で、遠くから届く流星の声が聞こえて、瞳は頷く。
「女性が血まみれの刃物を持ってる……それを……あ、川村が映った。受けとって……川村は、手袋をしている……悪いようにはしないけど、証拠品になるから……って」
「だから、指紋は奥さんのものが残されているだけだったのか……」
そんな呟きが聞こえる。
「他に川村以外の人は映ってない。目の前の女の人が子供を庇って刺され、次に子供が死んだわ。少なくとも殺害された時川村はこの現場にいた。男の人は女性と揉み合って刺されたようだけど……男の人が亡くなった後に、鉛筆がこの現場に来ているから、決定的なものは見えない。あと何か聞きたいことはある?」
瞳は、どんどん負荷に耐えきれなくなり、意識が途切れそうになるのを必死で堪える。
今、自分は20年前の殺人現場にいる。
これ以上は……「……え、川村係長が……本当にそこにいるのか?」
「早く何が聞きたいか……教えて……私ずっと殺人現場にいるの。そろそろしんどい……」
「ええっ!な、何か川村係長は言ってない?何か」
流星の慌てた声が、自分が見ている20年前の子供の泣き声、女性が叫ぶ声と混ざり、何が現実かわからなくなっていく。
「あなたを愛していたのに……なぜ?一緒になろうって……お父さん!お父さん!……」
何を自分で言っているのかわからなくなる。
鉛筆の記憶……男の子の……女性の……苦しみが伝わってくる。息が……苦しい。
うううううっ!と首が締まったような息苦しさがより一層増すと、体が思い通りに動かない状況になる。
「おい!大丈夫か?もういいから……もう……」
遠くで、そんな知っている声が聞こえてくる。
「苦しい……苦しい!」
瞳は、自分の体が思い通りに動かなくなり、バタバタして暴れ始める。
「お、おい!おい!」
その瞬間、その声と自分にしか触れる温かい感触が瞳の体にあり、こっちが現実だと自分が帰るべき方向が見えた。
誰かが支えようとしてくれている……
瞳は急いでその方向に手を伸ばそうと思って、目を必死で開こうとした。
ぼんやり何かが視界に映り始める。
これは依頼人……の大川……流星……「おい!救急車呼ぼうか?おい!」
ダメ……医療費……ダメ!
頭の中にそんな言葉が浮かび、瞳はハッと現実に戻っていく。
だが、必死で薄目を開けると、目の前に流星、そして背後に何かの気配が――「あぶな……」
だが、そこまでで、瞳の意識はがくっと落ちる。
瞳が必死で目を開いた時、流星の後ろにいた人物。それは、ナイフを持った川村だった。
その頃の流星は、まさか瞳がそんな修羅場の渦中に巻き込まれていることなど、想像もしていない。そして、自分自身の身にもとんでもないことが起きていた。「川村が……死んだ?」流星は、久保田を助手席に乗せて幕田警察署に急ぐ。本当は、奈央のことが終わったら、帰りに瞳を乗せて下心ありの夜のドライブデートに連れ出そうと思っていた。まさかこんな事になるとは……ハンドルを握る手に力が入る。久保田も、もう退職まであと2週間ほどだ。何も、こんな土壇場で川村が出てこなくても……という気持ちになる。「先ほど渋谷主任から連絡が入った。自殺だろうと……」「自殺……まあ、逃げ場がありませんよね」流星の脳裏に、最後に温泉で会話をした記憶や、見たこともない形相で自分に刃を向けてきた最後の姿が蘇り、ぞわっと震えた。逃亡すると言っても、職はない。持っている金を使い果たして終わりになる。日雇いやホームレスにも限界があるだろう。署に着くと、室内はすでに騒然としていた。川村が元係長というポストにいたこともあり、全員が彼を知る関係者だ。過去の事件も関係していることから、現場に向かう者と、情報整理や報道向けのプレス準備をする者に別れる。「現場に行って、川村の顔を見たらすぐ戻ってくるよ」久保田の言葉に、周りの人間もその複雑な心境を慮って頷く。「俺も……行かせてもらっていいですか。その……川村と最後に会ったのは俺だから……」流星も、先輩刑事たちに頼み込む。「まあ……お前も複雑だよな。だけど、マスコミが来るからここで情報の整理をしてもらえないか」「いや……でもさ、署内で息子から事情を聞いてるんですよ。流星は被
どうしよう!奈央さんっ!待ってください!瞳は、タクシー代を立て替えたあと、ピンクのネオンが光るホテルの中に飛び込んだ奈央を必死に追った。当たり前だが、瞳の人生においてラブホテルに入るのは初めてだ。 こんなことなら、富山さんがラブホテルの潜入調査の話をした時に、早めに入っておけば良かった!一瞬、怖くなり足がすくみそうになるが、もう入るしかない。だが、ピラピラとカーテンがはためく中に入った後は、静かに並ぶ車が見え、人の影はない。更には、奈央の姿も夫の姿も、誰の姿も見えず不安になる。うそっ!もうホテルの中に入ってしまったの?瞳は、急いでホテルの入口と思われるところを探した。小さな自動扉が目立たない様に見える。「あれかしら?」瞳は、急いでその入り口の柱に触れようとした。そこを奈央とその夫たちが通ったかどうか確認するためにだ。だが、そんなことをする必要はなかった。何やら、自動扉の先で、すでに修羅場が始まったと思われる凄まじい怒鳴り声が聞こえていた。「奈央さん!待って!」証拠を取るんじゃなかったの?当初の予定と全く変わっている。瞳は、慌てて止めに入るために、声の方向に向かって走り出した。入ってすぐそこには、薄暗いホールに多くの部屋の一覧とそのボタンの明かりが光っている。そして奈央とその夫と愛人と思われる3人が揉めていた。「奈央さん!」瞳は、急いで側に駆けつけると、奈央が涙交じりに夫を罵っていた。「彼女が体調が悪いというから、とりあえずここに連れてきただけだよ」奈央の夫と思われる男が、ブスッと不貞腐れた顔で言い放つ。「よく言うわ。この人が元気よく歩いてる時から、私たちはつけていたわよ、しかも今まで手まで仲良くつないで!ねぇ!」そう同意を求められて「は、はい!」と瞳も思わず返事する。「お前は誰だ?」奈央に新たな加勢が加わったことで、殺してやると言わんばかりの勢
流星さん……すいません。接点を持たないように気をつけているのに、あんなに他人のふりをしたのに……どうやら私は、筋金入りの巻き込まれ体質のようです。瞳は奈央に腕を掴まれたまま、早足でバス停から離れ、奈央の夫を追っていた。「あっ!あいつ、車に乗ってどこかに行くわ。ちょっと私たちもタクシーに乗るわよ!」「へっ!」いや、きっと奈央だって怖くて不安なのだろう。瞳の腕を握るその手は、明らかに震えていた。だからこそ、ここで「さようなら」と瞳は言えなかった。(巻き込まれだけでも十分なのに、私は運が悪すぎるわ!)ただハンカチを届けるだけなら、事務所への帰りが遅ければ富山もおかしいと気づいてくれただろう。流星だって、こんな日に呼び出しがなければ、家に帰ってこない瞳を心配してくれたのかもしれない。つまり、誰からもこの状況に気づいてもらえない。どうすればいいの!瞳は、言われるがまま、奈央の夫をつけるためタクシーに乗っていた。「前の車をつけて!」「ええっ?」タクシーの運転手もあまりない指示に怪訝な顔つきになる。「夫と愛人が乗っているの。お願い……」「はあ、わかりました。やってみますけど……頭を引っ込めといてくださいね」タクシーの運転手も、動揺しつつ後ろを追いかける。奈央の夫は、よくある白のコンパクトカーに乗っていた。車のナンバーは「・410」だ。「4月10日は私たちの入籍日なの。その車を使って不倫なんてどんな神経してるんだろう」奈央の顔が般若の様につり上がり、車内の雰囲気がピリピリし始める。「……あの女の人は知り合いですか?」「直接の面識はないけど、私や夫のSNSにいいねをしてきてたの。今から思えばマウントを取りに来てたのね」「いいね…&he
川村……って言ったよね?久保田さんと流星さんが慌てて席を外さなければならないことが、起きたんだ瞳は、川村から襲われそうになった日のことや、その息子の浩介から石を投げられた憎悪の表情を思い出し、思わず目をつぶった。だが、室内にシクシク泣く声がする。奈央だ。「あ……あの……コーヒーにしましょうか」瞳は、こんな時にどう声をかけていいか迷って、知らんふりを決め込んでいる富山に視線を送った。じーーーっ!瞳のなんとかしてくださいという視線のおかげか?富山の困っている人は放っておけない性格がやっと発動したのか?富山は、渋々、奈央に声をかける。だが――「お前もあのヘタレが好きなのか?」やれやれという顔つきで、富山は渋い顔をして奈央に声をかけた。富山さんっ!「お前も」の「も」はおかしいでしょう!!瞳は思わず目に力を込めて富山に抗議するが、富山は素知らぬ顔だ。「へたれ……ホントそうですよね。あの頃、明らかな素振りで絶対私のこと好きだろうなって分かっていたのに……」奈央は呟くように笑いながら答えた。「も」についてはスルーされたようだ。瞳は、ぐったり脱力した。「好きなのかどうか……夫がいうように忘れてなかったのかもしれませんし、思い出が美化されているからかも……もしくは、夫に不倫相手がいるから対抗したいのかもしれません。オープンマリッジっていうのかな……」「オープンマリッジ?」瞳と富山は何それ?という顔で見合わせる。「結婚生活を続けながらそれぞれに相手がいる形です……別れずこのまま結婚生活を続けている、お互いそれで……私も相手がいるからって言いたいだけかも&h
奈央は、瞳が手袋の過去からみた姿とは少し違っていた。今日は胸元まである髪を下ろしている。綺麗に化粧も施されていて、百貨店に勤めているだけありおしゃれな可愛らしい大人の女性だった。これで、私と同じ歳!初めて安い化粧品で化粧を始めたばかりの自分とは、全く違う。更に、瞳は衝撃を受けた。奈央が、自分と同じショコラブラウンの髪色で同じ髪型だったからだ。流星が美容師に指示したわけではなく、流行のカットにしただけだ。それでも動揺は隠せず、瞳は奈央を案内した後は、お茶を入れるふりをしてその場から離れた。深く息を整える。とにかく、動揺を気取られないようにしなければならない。ほぼ同じ時刻に、久保田と流星もやってきて、瞳は机に全員の茶を置き、気配を消すように応接セットから素早く離れた。瞼がパンパンに腫れている瞳を見て、久保田はハッとしたように息を呑んだが、奈央の手前他人のふりをするしかない。声をかけずに知らないふりをしながら、久保田は雑談を続けた。同様に、流星からも少し視線を感じたが、奈央が流星に声をかけたので、そのまま瞳から奈央に視線が移動していった。「夫と結婚したのは、この4月で……でも交際期間は高校からだから8年付き合いました……」奈央が、みんなに経過を説明している声が聞こえる。流星が、高校で告白しそびれた話をしていたし、長い付き合いだったのねと感じながら、瞳は離れた事務机で溜まった仕事をしようと手を伸ばした。だが、離れていても気になる。能力を使って、この溜まった依頼の証拠を探さないといけないのに集中できない。結局、一件も着手出来ないまま、聞き耳を立て続けた。「結婚式でも仲良かったし、誰が別の女性がいるようには感じなかったけどな……」流星の相手を気遣うような優しい声が聞こえてくる。それが自分にかけてくれる温かい声と重なり、瞳の胸をチクっと刺した。「それが&
寝たか……一人で病院まで行くだけでも緊張したのだろうに、その後スマホで知った過去の仕事のその後を受け止めるだけでもう精神的にも限界だったのだろう。流星が抱きしめて5分もしないうちに瞳は寝息を立て始めた。 暗闇の中で顔が見えないのが悔しい。 きっと可愛い寝顔に違いない。流星は、さりげなく抱きしめる腕に力を入れる。 だが、同時に瞳を言いくるめるようにして、こんな関係になっていることに後悔もしていた。どう考えても友人の域を超えた。 どさくさに紛れて一緒に寝る提案をしてしまったが、やっぱりこの距離感は恋人から夫婦の距離だ。理由をつけて好きな子を抱きしめたいという自分の欲に負けたのもあるし、本当に誰かが瞳を抱きしめてやらないと、壊れる気がしたし……ここまで許してくれたなら告白しては? いや、告白しない方が不誠実なんじゃないか? もっと、いやらしい考え方をして仕舞えば、ここまでの関係になれば、瞳は告白されたら断られない気がしていた。だが……瞳さんの性格を考えると……流星の不安な部分は、瞳は、信じると決めた人への心のハードルが低すぎるのが問題だった点だ。 自己肯定感の低さから、どんどん悪化している。普通の女性なら、こんなふうに誘導されたら拒否するか、私のことをどう思っているの?と聞くだろう。 ところが、ここまでされても断らず、身を委ねる瞳の性格を考えると、告白はやはりないと思いとどまった。どんなに断ってもいいと伝えても、言われたから付き合わなければならないと思いかねない。 信じた人から嫌われるのが怖いのか、信じている人に言われたら仕方ないと考えてしまうのか。ああ……流星は、これから瞳が自立して家を出るようになる頃まで告白ができないことを考えて、自分が保てるのか不安になってくる。 今だって、どさくさに紛れてキスしたい衝動に駆られているのに。厄介なのは、多分、自分も瞳以上の女性ともう出会えない気がしていて、片想いなのに誰かと両思いになるより上の存在になっていることだ。