LOGIN大地は怒りに任せて電話を切った。しかし、凪は気にも留めなかった。以前のミツキホールディングスの資金繰りでは、プロジェクトが本格的に動き出すまで持ちこたえるのは難しかっただろう。だが、明里からまとまった資金を回収した今、その心配はほとんどない。「じゃあ、私が最後まで持ちこたえられるか、見ていればいいわ」凪は微笑んで携帯を伏せ、仕事に戻った。もっとも、今夜の祝賀パーティーが終われば、二宮グループの取引先とも会わなければならない。しかも、大地直々の指名だ。本当に、あの人はいつだって水を差してくる。同じ頃。二宮グループの社長室。大地は憤怒し、携帯を床に叩きつけた。「凪がいつまで強がっていられるか、見ものだな!黒崎グループが仕事を回してくれたところで、まさか運転資金まで現金で注ぎ込んでくれるわけじゃあるまい。いずれ持ちこたえられなくなって、俺を頼ってくるさ」その言葉を聞いた葵の瞳が、ぎくりと揺れた。数日前までなら、父の脅しは本当に効いていたかもしれない。だが、自分と母は凪に12億円を渡したうえ、さらに数千万もの口止め料まで払っている……葵は恐怖に喉を鳴らした。もし父が、ミツキホールディングスが例の邸宅の売却代金で持ちこたえていることを知れば、母も自分ももう終わりだ。ならば今やるべきことは一つ。新しいプロジェクトを取って、大地の目をそちらへ向けるしかない。葵は急いで社長室を出ると、携帯を取り出し、連絡帳を開いた。大輔の名前をじっと見つめる。黒崎グループの仕事さえ取れれば、父もミツキホールディングスの資金なんて気にしなくなる。そうすれば、あのお金がどこから出たのかもばれないだろう……そう考え、葵は大輔へ何通もメッセージを送った。だが大輔は、以前の失敗をまだ根に持っているらしく、一向に返事を寄こさない。しびれを切らした葵は、大輔が今夜ホテルで商談をすることを突き止めた――今夜直接会いに行こう。家へ戻り、衣装部屋で服を選んでいた葵の目が、セクシーな赤いキャミソールドレスで止まった。唇に笑みが浮かぶ。「今夜こそ、絶対に話をつける」たとえ、もう一度身体を差し出すことになっても…………夜。ホテルへやって来た葵は、スタッフを買収し、大輔の部屋のカードキーを手に入れた。メッセージに返
渉は、その場に呆然と立ち尽くした。一方、沈んでいた凪の瞳は、一瞬で明るくなる。けれど、すぐに唇を引き結び、込み上げる喜びを必死に押し隠し、そして責任者が、正式な契約書を目の前へ差し出すまでじっと待った。「おめでとうございます。これから、末長いお付き合いをお願いいたします」「こちらこそ」凪は席を立ち、短く握手を交わすと、すぐさま契約書にペンを走らせた。この助成プロジェクトがあれば、ミツキホールディングスはきっともう一度大きく飛躍できる。凪の胸は期待で満ちあふれていた。一方で、渉はすっかり意気消沈した様子で、その場に立ち尽くしている。今日のところは、ただ契約を結んだにすぎない。プロジェクトの詳細については、後日両社で調整する必要があるのだ。30分後。契約書を手にした凪はビルを後にした。陽菜に吉報を伝え、車を取りに駐車場へ向かう。車の鍵を開け、ふと顔を上げると、すぐ横に渉が立っていた。凪は自然と歩みを緩める。「自分の車は?運転手もいないの?まさか、私に送れって?」「凪――」渉はかつての甘い声で凪を呼んだ。少年のようなあどけなさで甘えてくる姿は、当時の恋人を惑わせたあの甘美な雰囲気を漂わせている。「黒崎グループのプロジェクト獲得、おめでとう」昔のように話しかけてくる時は、大抵ろくな話ではない。凪は渉を無視して通り過ぎ、運転席のドアを大きく開けた。「ありがとう。じゃあ、私は行くから」「待って!」凪があまりにも淡々と立ち去ることに驚き、渉は慌てて車のドアを押さえた。溜息混じりに話し始める。「君が株を手放したとはいえ、恒業グループには君の名前がずっと残っている。今日、このプロジェクトを取れたら、君と一緒にやろうって考えてたんだ。でも結果は逆だった。だから、俺たちと提携しないか?そうすれば、これからも何度も顔を合わせられるし……」何のために?凪は笑みを浮かべている渉の顔を冷ややかに見つめた。しかし、もう胸はほんの少しも揺れない。確かに、もし渉が案件を取っていたら、本当に自分へ仕事を分けようとした可能性はある。だが、もし本当にそうなったからといって、自分がそれを受け取るつもりはない。そして今、渉が逆に自分へ協力を求め、仕事を分けてもらおうとしている。当然、それに応じるつもり
まとまった資金が入ったことで、ミツキホールディングスの経営状況は、一気に好転した。資金繰りが改善したことで、宏介がかつて手に入れた顧客リストが再び活き始め、投資の獲得から案件の進捗まで、すべてが順調に進んだ。陽菜は若く、仕事への意欲に溢れていて、接待も仕事も次々とこなす働きぶりだった。快進撃を続けているミツキホールディングス。凪もまた、分刻みのスケジュールに追われる日々だった。それから2日後。黒崎グループの支援プロジェクトで、採用企業が発表される日。ミツキホールディングスか、あるいは恒業グループか?凪は白を基調とした、すっきりとしたビジネススーツ姿で会場へ向かった。会議室には、まだ黒崎グループの関係者は到着していない。しかし、黒いスーツに青いネクタイを締めた渉は、すでにかなり前から待っていた。二人の視線が交差する。渉は、自分の勝利を確信している様子だった。中島グループを後ろ盾とする恒業グループは、この街で全国に名を馳せる大企業の一つ。対する凪のミツキホールディングスは、瀕死の状態にある二宮グループを背負っているに過ぎない。それでも凪が傷つく姿は見たくないと考え、渉は口を開いた。「今日どんな結果になっても、凪を手ぶらで帰したりはしないから」それを聞いた凪はゆっくり椅子を引き、腰を下ろした。脚を組み、わずかに顎を上げる。「まだどちらが選ばれるか決まってもいないのに、今から勝った後の話をしないでくれる?」渉が眉間にしわを寄せた。「そこまで自信があるってことは、黒崎さんが何か約束してくれたのか?」凪の目に、冷ややかな光が走った。「もしコネを使えば確実に案件が取れるなら、あなたは今ここで何してるの?落選するために座って、自分から恥をかきに来たの?」渉は再び黙り込んだ。どうしても凪と空を結びつけて考えてしまう。だが、冷静に考えれば、その通りだった。もし空が本当に凪へ案件を与えたいのなら、こんな表向きの選考などする必要はなく、直接仕事を回せば済む。渉は少し考えたが、それでも口を開いた。「悪かったな、凪。ただ、俺は凪のことが心配なんだよ。あんな年上の男に振り回されて、最後に傷つくんじゃないかって……」「ここはプライベートの話をする場ではないの。そんなに薄っぺらい愛情を語りたい
凪は考えた末、挨拶の粗品の山から赤ワインを一本手に取った。「これは私が直接届けるから、残りは先に持っていって。うちからの贈り物だとだけ伝えればいいから。私や空さんの名前は伏せておいてね」自分の目で確かめに行こう。使用人たちは恭しく頷いた。まず彼らが贈り物を持って訪問し、そのあとを追うように凪も車で向かう。玄関へ入った途端――葵が嬉々として使用人たちから贈り物を受け取っているのが見えた。そして凪に気づくなり、わざと声を張り上げる。「さすがK市の最高級住宅街ね。見ず知らずの隣人なのに、I国の高級ブランドを贈ってくれるなんて!」「……」凪は耳が痛くなるほど騒がしいと思った。贈り物を届けに来た使用人が、顔が青ざめて凪をちらりと見る。凪は淡々と視線だけ返した――私をいないものとして扱って。意図を察した使用人たちは、それ以上凪へ視線を向けることなく、贈り物だけ置いて帰っていった。一方の葵は、まだ高価な贈り物に夢中で、凪へ挑発するような笑みを向けた。「そっちはあなたのお母さんが残した古びた別荘を持っていったけど、私たちはこんな素敵な家に住むことになったの。羨ましくて仕方ないんじゃない?」葵は凪が用意した贈り物を指先でなぞりながら言った。「お金持ちの隣人に、美しい景色、美味しい空気……それに親と一緒に過ごす幸せ。どれも羨ましいでしょう?」コトン――凪は持ってきた赤ワインをテーブルへ置いた。リボンの向きを整え、きれいな贈り物の形に戻す。そして穏やかに微笑む凪の瞳には、柔らかな光が浮かんでいた。「子どもの頃の私なら、たぶん本当に羨ましかったと思う。でも、大人になった今見てみると、売られた家や、賃貸で借りているこの邸宅、互いに秘密を隠し合う夫婦に、姑息な真似を繰り返す妹がいるだけ。何一つとして、羨む価値なんてない」葵を見た瞬間、凪の中ではすでにすべてがつながっていた。名義が変わった邸宅、それを売って明里が得た12億円。そして今の明里には家を買い戻す力などなく、おそらくただの賃貸だろう。そして明里が損を承知でそんな真似をする理由、それはただ一つ。彼女が今も頼り切っている男――大地に、別荘を売った事実を知られたくなかったから。凪の最後の言葉が落ちた瞬間、葵の目から、挑発も得意げな色も消えた。彼
12億円の借金を返し終えたその夜。明里は、これでようやく安心して眠れると思っていた。ところが、大地の頭の中にはまだ息子のことがある。「新しく買った邸宅は、川沿いで眺めも空気も最高だ。いっそ一緒にあっちへ引っ越さないか?お前もそこでゆっくり体を休めて、早く元気になれば、俺たちも早く息子に会えるんじゃないのか?」その瞬間、明里の眠気は完全に吹き飛んだ。冗談じゃない!ついさっき、その邸宅を売り払ったばかりなのだ。しかも手にした12億円は、すでに凪に渡してしまっている。今さら引っ越すと言われても、住むところなんてどこにもない。「大地。あの子は今住んでる家で授かったから、やっぱりここに住んでいた方が、息子も戻ってきやすいと思うよ」「急がなくていいさ。まずは向こうで体を整えて、お前が完全に元気になったら、またこっちへ戻ればいい。せっかくあんな高い邸宅を買ったのに、空けたままじゃもったいないだろ?」明里を強く抱きしめ、大地の言葉の端々からは愛おしさが溢れている。明里は少しでも引き留めようと反論したが、拒絶しすぎて不信感を抱かれるのを恐れ、とりあえず大地をなだめて寝かせ、明日の策を練ることにした。またしても、一睡もできない夜になった。翌日。大地はすっきりした顔で起きると、秘書に引っ越し業者を手配させ、家財道具の整理まで始めさせた。もう逃げ道はない。明里は、このままでは真実が露見すると焦り、すぐ葵を呼びつける。「私のへそくりが数千万円あるから、今すぐ人を探して、売った別荘を借り戻して!お父さんが向こうへ引っ越して、家がもう私たちのものじゃないって気づいたら、私たちはもう終わりよ!」青ざめた葵は、冷や汗をかきながら急いで売り払った邸宅を借りに向かった。買い手は、昨日売ったばかりなのに今度は借りたいと言い出した売り手を不思議には思ったが、金を払うというなら、断る理由もない。「年間の賃料として数千万なら、高くはないでしょう」買い手は平然と吹っかけてきた。葵は危うく怒鳴り返しそうになったが、大地の引っ越しはもう始まっているため、涙を飲んで了承した。「分かりました。でも、この件は口外しないようにお願いしますね」「もちろん」あっさり承諾した買い手。葵は年間賃貸料として、身を切られるような思
明里は、葵の期待をばっさりと切り捨てる。「もったいないなんてことはないわよ。早く凪に12億円を返しちゃえば、もう脅されることもない。その時こそ、二宮グループは私たちだけのものになるんだから。邸宅なんて、一軒どころか、十軒だって買えちゃうんだから」「はーい」葵は名残惜しかったが、売却の手続きを進めることにした。12億円は決して小さな金額ではなかったが、別荘は立地もよく、相場も高かったため、すぐに内見希望者が現れ、そのまま購入の話まで進んだ。明里は大喜びで契約へ向かい、署名を済ませて代金を受け取ると、そそくさとその場を離れた。背後から、ずっと見張られているとも知らずに……猫のワクチン接種に出かけようとしていた凪のもとに、明里を監視させていた人から報告が入った。【明里さんが大地さんに買ってもらった邸宅を売りました。金額は12億円です】【決済はもう済んだの?】【2時間前には決済済みです。銀行から出てくる明里さんも確認しました】2時間……それなのに、明里からは何の連絡もない。まさか12億円を手元に置いて運用し、ぎりぎりまで増やしてから返そうとしているのか?だが明里に金を増やす才覚があるなら、そもそも今日のような状況にはなっていない。あの女の手元に置いておけば、消えてなくなるのと同じだ。それに、今のミツキホールディングスには資金が必要だった。凪はすぐに明里へメッセージを送る。【12億円はまだ?】【もう少し待ってよ。そんな大金、簡単に用意できるわけないでしょ?】明里はそう返しながら、株や投資信託の冊子を次々めくっていた。せっかく手に入った12億円を、そのまま全部凪へ渡すなんてもったいない。先に少し運用して増やし、その利益だけでも自分のものにできれば――そんなことを考えていた矢先に、凪から電話がかかってきた。「お金があるのに返さないで、投資で溶かしたら何で返すつもり?」「なっ……なんでわかったのよ!」明里は驚きすぎて、手にしていた冊子を放り落とした。慌てて周囲を見回す。だが、誰かに見張られている様子はない。それなのに、なぜ凪は12億円を手にしたことを知っているのだ?電話の向こうで、凪が笑った。「さっきまでは知らなかったけど、今、確信に変わった」明里の顔は、一瞬で青ざめ
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ
渉の目に一瞬、気まずそうな色が浮かんだ。「凪ちゃん、直美のマンションがリフォーム中で、ペンキの匂いがひどくて、体に良くないから……」凪の心はきつく締め付けられた。もう気にならないと思っていたのに。でも、息が詰まるほどの痛みが、全身に広がっていく。「ホテルに泊まるお金もないっていうの?」直美は目を赤くしながら、バイオリンを片付け始めた。「私のせいで喧嘩しないで。今すぐ出ていくから」彼女は慌てて荷物を取りに行こうとして、テーブルの角に体をぶつけた。「痛っ」と声を漏らし、胸を押さえる。その息遣いは、か弱くて艶めかしい。「大丈夫か?なんて不注意なんだ。どこをぶつけた?薬
今回は文章はなく、写真だけだった。それは、眠っている渉の写真だった。男は後ろから直美を抱きしめ、腕の中にすっぽりと収めて、深く眠っていた。直美は恥じらうような笑顔を浮かべている。唇は腫れあがり、開いたネグリジェの襟元からは、キスマークがいくつも見えていた。昨夜、何があったかは言うまでもない。凪と渉は五年付き合って、一番深い関係には一度もならなかった。付き合い始めの頃、気持ちが抑えきれない渉は、凪を強く抱きしめてこう言った。「凪ちゃん、早く大人になって……」その後、渉はもうそんな風に凪を抱きしめることはなく、ただ、結婚してからにしようと、なだめるだけだった。凪はず