Mag-log in凪は空の胸に顔をうずめた。冷たい夜風の匂いがした。それでも、触れた体はとても温かかった。誰かの腕に抱かれるのはいつぶりだろう。凪が空のぬくもりを感じていると、背中に回された腕に、ぐっと力がこもった。「どうした?」心配そうな空の声に、凪はハッと我に返った。いけない、猫を探さなきゃ!さっきはドアを閉め忘れていた。猫が最上階にいなければ、きっとエレベーターに紛れ込んで外へ行ってしまったはずだ。凪は気恥ずかしそうに空の胸から離れると、1階のボタンを押した。「さっきゴミを出しに行った時にドアを閉め忘れて、猫が下に逃げちゃったみたいなんです」「どんな猫だ?」と空が尋ねる。「小さな三毛猫で、右耳がオレンジ色で、だいたいこのくらいの大きさなんですけど」凪は腕を伸ばし、白い手首を見せながら、猫の大きさをジェスチャーで示した。空は、凪が薄着でいることに気づいた。夜は冷え込む。上着すら羽織らずに出てくるなんて。エレベーターが1階に着くと、空は外へ出て行こうとする凪を引き留めた。そして自分のコートを脱いで、凪の肩に掛けた。凪は空が薄いシャツ一枚になったのを見て、少し眉をひそめた。「夜はこんなに冷え込むのに、大丈夫ですか?」「俺は今帰ってきたばかりで、体が温まっているから大丈夫だ」そう言って袖をまくり上げた空は、周囲を見回しながら、植え込みの陰を一つひとつ丁寧に探し始めた。空の好意を拒む理由はなかった。ならば素直に受け取ろう。凪はサイズの大きいコートに包まれながら、同じようにかがみ込んで辺りを探し始めた。二人は周囲をくまなく探し回った。凪がマンションの管理室で防犯カメラの映像を見せてもらえないかと考え始めたその時、近くからか細い猫の鳴き声が聞こえてきた。凪は声がした方向へ顔を向ける。空は植え込みをかき分け、枝を払いのけながら姿を現した。その腕には、じたばたともがく小さな猫がしっかりと抱きかかえられていた。猫の体には泥や葉っぱが付いていて、必死に四肢をばたつかせていた。きっとさっきエレベーターやドアの音に驚いたのだろう。「この猫か?」空は凪の前に戻り、身にまとっていた上質なシャツは、枝に引っかかってボロボロになっていた。むき出しになった腕にも、所々に赤い傷がついている。凪
凪の言葉が終わると、葵の顔は悔しさで青ざめた。どう見ても、この二人の方が場違いな格好をしているのに。なぜ凪に言われると、まるで自分の方がこのレストランにふさわしくないみたいになるのだろう?葵は言い返そうとしたが、後ろにいた令嬢たちがクスクスと笑い始めた。葵は顔を真っ赤にして、向けられた冷ややかな視線に気づくと、馬鹿にされているのは自分のほうだとようやく知った。「なによ、お父さんに言いつけてやるから!」葵はそう言い捨てると、その場から逃げ去った。凪はため息をついた。「親を頼ることしかできないのかしら?お父さんもよく、あんな我が儘な子をそばに置いてイライラしないわね……って、お二人とも何でそんな目で見てるんですか?」振り返ると、杏奈と陽菜がキラキラした目で自分を見つめていて、凪は不思議そうに首を傾げた。陽菜が真っ先に口を開いた。「すごすぎます!さっきカードを取り出したときの仕草、すっごくかっこよかったです!私もたくさんお金を稼いで、嫌な人たちを見返してやりたいです!」「本当にそうよ!凪に庇われると、私のズボンについている泥さえ、なんだかオシャレに見えてきちゃうわ!」杏奈が今にも凪に抱きつきそうな勢いだ。凪は苦笑いしながら、彼女を優しく押し返した。「だとしても、泥は綺麗に落としたほうがいいわよ」「わかってるって。もう最高の友達!」杏奈はさらに甘えてきた。3人は和気あいあいと楽しい食事の時間を過ごした。お腹がいっぱいになったあと、凪は二人を家まで送り、スーパーに寄ってキャットフードとおやつを買った。帰宅すると、自作の器を棚から取り出し、子猫に水と餌をあげた。猫は嬉しそうに凪の体に擦り寄ってきた。上機嫌の凪は、ふたつのマグカップを玄関の棚に並べた。空は、ロールスロイスを貸してくれたのだ。柿の置物だけでは、感謝の気持ちを伝えられない。このふたつのマグカップは、窯出ししたなかでも一番きれいに仕上がった自信作だ。空が戻ってきたら、プレゼントとして渡そう。凪はそう考えながら部屋の中を片づけた。ゴミ出しから戻ってきたところで、琴音から着信が入った。「凪が作った曲、みんなから大絶賛だよ!」「本当!?」凪は玄関でドアを閉めるのも忘れ、琴音との会話に夢中になった。琴音は興奮気味
杏奈ははっとして目を見開いた。「そうね!凪、会社の人手は足りてる?」陽菜は、「うそでしょ、こんな身近にすごい人がいたってこと!?」と驚き、慌てて一枚の履歴書を取り出した。そして背筋を伸ばし、注文を終えた凪に向かって丁寧に自己紹介を始めた。陽菜は周りの視線など気にせず、ハキハキと話した。落ち着いて、愛嬌のある人柄が伝わってくる。凪の目がキラリと輝いた。ちょうどミツキホールディングスを自分のものにした今、まさに良き人材を探しているのだ。しかし、うまくはいかなかった……実は、今のミツキホールディングスは業績があまり良くないのだ。陽菜ほど優秀な人が、自分の誘いに首を縦に振ってくれるだろうか?凪がためらっているのを見て、陽菜はすかさず言葉を添えた。「私に必要なのはチャンスだけです。『杏奈の友人だから』とか、そんな気を遣っていただく必要はありません」「いえ、それを気にしているんじゃないんです、コネを使うなんてこの界隈ではよくあることですから」凪は苦笑いしながら、すぐに今のミツキホールディングスの状況を説明し、さらにこう付け加えた。「最初は基本給を保証することくらいしかできません。軌道に乗るまで……早ければ数か月、遅ければ数年かかるかもしれませんので、慎重に考えてほしいです」凪が言い終わると同時に、陽菜はふっと笑った。「ぜひ、ミツキホールディングスで働かせてください」「将来がかかっているんだから、本当によろしいのですか?」凪は彼女の即決ぶりに驚いた。陽菜は首を横に振った。「考えるまでもありません。類は友を呼ぶと言いますし、杏奈の友達なら、きっと同じように優秀な人間です。そんな人の元なら、どんな仕事でもうまくいくと信じています。それに、ずっと欲しかったチャンスが巡ってきたなんて、願いが叶ったのと同じです!」杏奈はぱちぱちと拍手を送り、陽菜の勇気を称えた。凪は思わず微笑んだ。陽菜のことがますます気に入り、杏奈の人を見る目の確かさに感心した。話がまとまると、凪と陽菜は連絡先を交換し、近いうちに改めて打ち合わせをすることにした。3人が食事を楽しもうとした、まさにその時だった。「ちょっと、貧乏人がこんなところで何をしているの?お姉さん、本当に友達を選ぶセンスがないわね。そんな二人と連れ立って、空
渉は凪のあとを追いかけようとした。しかし、その手首を直美にきつく掴まれた。「渉さん!バイオリンが本当に必要なのは私だって、わかっているはず!前は凪さんのためにあんなに色々してあげていたのに、どうして私には……少しも優しくしてくれないの?」直美は目を赤くして、肩を震わせながら泣いていた。呼吸は乱れ、今にも発作が起きそうなほど苦しそうだ。渉は仕方なく足を止め、困り果てた様子で直美をなだめ始めた。エレベーターに乗り込んだ凪は、背後で繰り広げられる茶番に心を痛めることもなく、ただおかしくてたまらなかった。「自業自得ね。あちこちにいい顔していると、最後にはすべてを失うのよ」最上階にある自宅に戻ると、凪はベッドに入り、すぐに深い眠りに落ちた。次に目を覚ました時には、カーテンの隙間から沈みかけの夕日がうっすらと差し込んでおり、空腹感も覚えた。まさか、丸一日眠りこけてしまうとは。起き上がると、スマホを手にとって画面を確認した。杏奈からメッセージが届いていた。【凪が送ってくれた陶磁器のおかげで、仕事がとてもスムーズに進んだよ、ありがとう。今日の夜、一緒にご飯を食べに行かない?】それから、峰行からのメッセージもあった。【窯出しは順調です。展示用の作品も、凪さん用の皿や茶碗も、上手くできています。時間のある時に取りに来てください】時間を見ると、峰行のアトリエはもう閉まっているはずだ。幸い、凪は予備の鍵を持っていた。凪はすぐに車を出し、まず峰行のアトリエに立ち寄って自分のものをすべて車に載せてから、杏奈と合流することにした。車に乗り込んだ杏奈は、綺麗に梱包された陶磁器を見て驚いたように声をあげた。「これ、凪のお母さんの……」「ううん、私が作ったレプリカよ。本物にそっくりでしょ?」凪はアクセルを踏んだ。杏奈と、新しくオープンしたレストランで夕食を取ろうと考えていた。杏奈はしげしげと陶磁器を見つめた。「この腕前、凪のお母さんとそっくりだわ。お母さんが生きていたら、きっと喜んでくれるはずよ。ねえ、また陶芸の仕事を始める気はないの?」「もちろんよ」凪はきっぱりと答えた。街の明かりが、彼女の瞳にきらめいて映っていた。しばらくの沈黙の後、凪は深くため息をついた。「でもね、まずは奪われたものを全て
電話の向こうで、直美は歯を食いしばった。昔はお金がなくて楽器が習えなかったけれど、今は渉に愛されて、お金もある。だけど、自分の懐事情はあまりよくなかった。晴香の前で見栄を張りたい直美は、渉に渡されたカードを握りしめた。「河野さん、いくらでもお支払いしますよ」「それなら安心ね、さっそく次のレッスンの準備をしますから」晴香は嬉しそうに微笑むと、値段を高くしたレッスン料金と口座番号を直美に送信した。ほどなくして、お金が振り込まれた。晴香はそこに表示された桁数を眺め、思わず笑みをこぼした。「お金持ちの愛人は、本当に太っ腹ね!これで、しばらくは遊んで暮らせるわ!」これからも直美をうまくだましてお金を引き出そう。そしてルナオーケストラなんかよりずっといいところに入るのだ。一方で直美は、晴香の企みに少しも気づかなかった。時計を確認した直美は、そろそろ渉が帰ってくる時間だと思い、可愛い洋服に着替えて駐車場へと向かった。……駐車場にて。凪は車を走らせ、ひどく疲れた様子で帰宅した。ここ数日は昼間の仕事で大忙しで、夜は陶芸や作曲にも追われ、本当にくたくただった。だから今日は思う存分ゆっくり寝るつもりなのだ。しかし車のドアを開けた途端、直美の弾んだ声が聞こえてくる。「渉さん!手に持っているのは、私のために買ったバイオリンなの!?」ああ、面倒くさい。なんてついてないんだろう。昼間から顔を合わせるなんて。凪がうっとうしそうに顔をあげると、車から降りた渉が、手にバイオリンのケースを持ってこちらを見ていた。やっと凪に気付いた直美が、慌てて渉にすり寄り、勝ち誇ったように凪に声をかけた。「凪さん、すごい偶然ね、昼間にここで会えるなんて。渉さん、朝早く出かけるって言ってたのは、私のためにバイオリンを買いに行ってたのね!ここのオーダーメイドはすごく高価なんでしょう?最近私の演奏が良くなったから、ご褒美に買ってくれたんでしょう?」そう話しつつ、直美はこれ見よがしに渉の腕にぴったりと身を寄せ、バイオリンのケースを見つめていた。こんな高価なバイオリン!ちょっと出かけたその足で、すぐに用意してくれるなんて。直美は凪を見つめ、意地悪そうな笑顔をみせた。「凪さん、ごめんなさいね。つい舞い上がっち
「河野さん、無断で外仕事でもしてるんじゃないの?さっき他の人から聞いたんだけど、このところ連日遅刻が続いているそうね」それを聞いて、周りのみんなは驚いて、一斉に晴香のほうを見た。ルナオーケストラの給料は十分に良いはずなのに、どうして他所で稼ぐ必要があるの?晴香は焦り、とっさに嘘をつこうとした。だがそこへ、凪が静かに近づいてきた。「その仕事の相手って、『山下さん』って人でしょう?」「……」言葉が喉につかえ、晴香は一言も返せなかった。なんでバレてるの!?この女、前は自分が出演するはずの演奏会の席を横取りした。今度は、私が外で別の仕事を請けていることまでバラすなんて……晴香は怒りのあまり声を荒げた。「私をこっそり調べたのね!そうやって私を追い出して、私の代わりに自分がルナオーケストラに入るつもりでしょ!?」凪は晴香が急に騒ぎ出したことに驚いた。しかし、すぐに冷静になって言った。「あなたの外仕事の件、もうみんな知っていますよ。ルナオーケストラでの立場を守りたいのなら、ルールを破るべきではありませんでしたよ」言い終えた凪は、自分が部外者であることをわきまえて、対応を琴音に委ねた。自分でボロを出してしまった晴香は、ここで初めて事の重大さに気づいた。「松尾さん、違うんです……」「言い訳は聞きたくないわ。河野さん、今日をもってあなたはクビよ。退職の手続きは後で連絡するわ」琴音はそれ以上の弁解を許さなかった。他のスタッフに晴香をドアの外へ追い出させて、笑顔で周りのメンバーに向き直った。「これで全員揃いましたね。さあ、練習を始めましょう!」部屋に美しい音色が響き渡る。そこにはもう、晴香の居場所などなかった。晴香は唇を噛み締めながら、みじめに去っていった。凪は琴音の決断力に好感を抱いた。そして、空いている席へと腰を下ろした。オーケストラのメンバーが熱心に練習する中、凪は静かに作曲に打ち込む。3時間後、すべてのインスピレーションを書き留め終えた彼女は、完成した楽譜を琴音に差し出した。琴音は嬉しそうに凪に抱きついて言った。「これでまた一緒に仕事ができるわね!」「ええ、一緒に作曲するのなんて久しぶりだわ」凪も琴音を抱き返した。二人は顔を見合わせ、微笑み合った。琴音はまだオ
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ
今回は文章はなく、写真だけだった。それは、眠っている渉の写真だった。男は後ろから直美を抱きしめ、腕の中にすっぽりと収めて、深く眠っていた。直美は恥じらうような笑顔を浮かべている。唇は腫れあがり、開いたネグリジェの襟元からは、キスマークがいくつも見えていた。昨夜、何があったかは言うまでもない。凪と渉は五年付き合って、一番深い関係には一度もならなかった。付き合い始めの頃、気持ちが抑えきれない渉は、凪を強く抱きしめてこう言った。「凪ちゃん、早く大人になって……」その後、渉はもうそんな風に凪を抱きしめることはなく、ただ、結婚してからにしようと、なだめるだけだった。凪はず