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第3話

作者: 猫ちゃん
渉の目に一瞬、気まずそうな色が浮かんだ。

「凪ちゃん、直美のマンションがリフォーム中で、ペンキの匂いがひどくて、体に良くないから……」

凪の心はきつく締め付けられた。もう気にならないと思っていたのに。

でも、息が詰まるほどの痛みが、全身に広がっていく。

「ホテルに泊まるお金もないっていうの?」

直美は目を赤くしながら、バイオリンを片付け始めた。

「私のせいで喧嘩しないで。今すぐ出ていくから」

彼女は慌てて荷物を取りに行こうとして、テーブルの角に体をぶつけた。「痛っ」と声を漏らし、胸を押さえる。その息遣いは、か弱くて艶めかしい。

「大丈夫か?なんて不注意なんだ。どこをぶつけた?薬は持ってるのか?」

渉は焦って直美を横抱きにすると、二階へ上がろうとした。

二階には部屋が二つしかない。一つは凪の部屋で、もう一つは渉の部屋だ。

「ここは私の家よ!彼女は部屋に入れたくない!」

凪は腕を伸ばして、渉の前に立ちはだかった。

空気が一気に張り詰めた。

渉の顔は、みるみるうちに険しくなった。

「直美は今、具合が悪いんだ。騒ぐなら、時と場合を選べ。それに、この家は俺が買ったんだぞ!よく覚えておけ!」

直美の瞳に得意げな色が浮かんだ。彼女は弱々しく渉の首に腕を回す。話すたびに、唇が彼の顎に触れそうなくらい近かった。

「渉さん、降ろして。私なんかが、こんな所に住む資格なんてないわ」

男としてのプライドをくすぐられた渉は、凪を乱暴に突きのけた。

「俺がふさわしいと言ったら、ここに住む資格があるんだ」

凪は階段の手すりに足をぶつけ、痛みで顔が真っ青になった。

渉は直美を優しくなだめながら、凪の方を見ようともしなかった。

直美の世話を終えて、渉が階下に下りてきたとき、凪の姿はなかった。電話をかけても出ない。

でも、彼はたいして気にしなかった。

このY市で、凪が行く場所なんて、ここか郊外にある恵子の家くらいしかないからだ。

機嫌を損ねて出て行っても、どうせ戻ってくるだろうと思っていた。

二階へ上がろうと振り返ったとき、隅に黄色いお守り袋が落ちているのが目に入った。

渉はふと、凪が誕生日の前に結婚式の日取りを決めたいと言っていたのを思い出し、それを屈んで拾い上げた。

日付を確認すると、スマホを取り出して秘書に電話をかけ、午前のスケジュールを空けるように指示した。

電話を切った途端、家族カードの利用通知が立て続けに届いた。

宝石、洋服、バッグ……

渉はラインを開いてメッセージを送った。

【2億円までなら好きに使っていい。使い切ったら戻ってこい。外泊はダメだ】

その言葉には、甘やかしと、仕方なく許すような響きがあった。

ちょうど会計を終えたばかりの凪は、そのメッセージを見て、心にぽっかりと穴が空いたようだった。

凪が十歳の頃から、渉はずっと彼女の面倒を見てきた。

「ダメだ」と一言言われれば、凪は素直に従っていた。

でも、生涯そばにいると言ってくれたその人が、今は別の女を連れ込んで、自分たちの寝室へ行ってしまった。

ダメだって?

今回ばかりは、言うことを聞きたくなかった。

これ以上買い物をする気にもなれず、凪は荷物を持って、Y市で最も豪華なホテルの、最上階にあるスイートルームをとった。

そして、一番高いワインとステーキを注文した。

ゆっくりお風呂に入った後、彼女はワイングラスを片手に大きな窓の前に立ち、Y市の夜景を眺めた。

この街を離れることなんて、一生ないと思っていた。

なのに、現実はそうならなかった。

ワインを二杯続けて飲み干し、凪はスマホであるメッセージを送った。

【明日の十時、東城カフェで、お金をお持ちください。サインしますから】

すぐに返事が来た。

【分かりました】

恒業グループは、凪と渉が二人で立ち上げた会社だ。会社を設立した時、渉は彼女に創業株の10%を渡してくれた。

あの別荘と同じように、それは渉が凪に与えた、離れられないための楔だったのだ。

これで、二人は永遠に離れることはない、と。

凪は有頂天になるほど喜んだけど、渉の大きな負担を思って、株の配当金口座を会社の経理に繋げた。だから、この数年、彼女は一円も受け取らず、全て会社の運営資金に回していた。

別れるなら、中途半端じゃなく、きっぱりと縁を切りたい。

寝る前、渉からまたラインが来た。

【ホテルに連絡して、来週の月曜日まで延長した。凪ちゃん、もう怒らないで。月曜に役所へ迎えに行くから】

凪は服を探ってみたが、やはりあのお守り袋はなくなっていた。

彼女はそのメッセージを、長い間じっと見つめていた。

渉は直美を連れ込んで二人の家に住まわせ、自分にはホテルの部屋をあてがい、それでいて平然と結婚届を出そうなんて言ってくる。

なんて皮肉なんだろう。

今更、自分が素直に彼と結婚するとでも思っているのだろうか。

……

夜の十一時半。

凪は、痛みで目を覚ました。

胃が、まるで焼け付くように痛かった。

昔、渉が会社を立ち上げた頃、凪はプロジェクトを勝ち取るため、出資者を見つけるために、一日に四回も飲み会をはしごしたことがあった。

あの頃、彼女が考えていたのはただ一つ。渉を見下していた中島家の人々を見返させてあげたい、ということだけだった。

その後、飲み過ぎがたたって胃穿孔で入院し、半年かけてようやく回復した。それ以来、渉は凪が会社の仕事に関わることを禁じ、家で安心して妻になる準備をするように言った。

痛みで意識が朦朧とする中、凪はなんとか起き上がってベッドサイドの引き出しを開けた。でも、いくら手探りしても、何も見つからない。

その時やっと、ここがホテルで、渉との家ではないことを思い出した。

いつも常備している胃薬は、ここにはない。

波のように押し寄せる痛みに、彼女はうめきながらエビのように体を丸める。白い額には、びっしりと汗が滲んでいた。

少し我慢すれば治まると思ったのに、十分以上経っても、良くなる気配は全くなかった。

これ以上は待っていられない。

震える手でスマホを掴み、119番に電話しようとした。

その時、渉から電話がかかってきた。

人は弱っていて、どうしようもない時、一番妥協しやすくなるものだ。

見慣れた電話番号を見て、凪は悔しさで鼻の奥がつんとした。

この数日間、必死に保っていた強がりが、一瞬で崩れ去った。

彼女は通話ボタンを押した。電話を耳に当てて何かを言う前に、渉の怒りを抑えたような叱責が聞こえてきた。

「凪、君はそんなに直美が憎いのか?彼女は、お前の親友だったはずだぞ」

その一言一言が、凪の頭を真っ白にさせた。

彼女は強くお腹を押さえながら、歯をがちがちと震わせて話した。

「彼女が、どうしたの?」

弱々しい息から漏れた声は、とてもか細く、消え入りそうだった。

少しでも気にかけていれば、今の凪の異常に気づけたはずだった。

だが、渉はそれに気づかず、そのか細い問い返しに完全に火がついた。

「よくも聞けるな!凪、いつからそんな人間になったんだ?

直美が喘息持ちだと知っていながら、家中に消毒液を撒き散らして、バスルームにはわざとアロマまで置いたんだろ。彼女、もう少しで息ができなくて死ぬところだったんだぞ!」

凪は、血の気のない唇を血が滲むほど噛みしめた。

苦しくて、やるせない気持ちで、彼女は声もなく笑った。

消毒液を使ったのは、自分の存在した痕跡を消したかったから。

アロマを置いたのは、眠りが浅い渉のためだった。よく眠れるように、いろんな人に頼んでやっと見つけた特別な香りなのに。

「渉、私に未来を予知する能力はないわ。あなたが直美を家に住まわせるなんて、知るわけないじゃない」

電話の向こうは、しばらく黙り込んだ。

でも、渉の息遣いはひどく荒かった。

怒りをどこにぶつければいいのか分からない、というように。

また激しい痛みが襲ってきて、凪はもう耐えきれずに、くぐもったうめき声を漏らした。

スマホも、手から滑り落ちた。

「どうしたんだ?」

「渉、胃が痛いの。お願いだから……」

彼女が言い終わる前に、渉は疲れたような、いら立った声で言葉を遮った。

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