INICIAR SESIÓN動物病院。消毒の行き届いた処置室で、おもちはぐったりと横たわっていた。力なく「みぃ」と鳴き、いつもはぴんと立っている小さな耳もしょんぼり垂れている。ガラス越しにこちらを見つめる潤んだ瞳に、凪は胸を締めつけられた。ひと通り診察を終えた獣医師が、処置室から出てくる。「ワクチンは済んでいますが、保護される前に外で暮らしていた頃から、少し体調を崩しやすかったのかもしれませんね。点滴をして、しばらく薬を飲ませれば大丈夫でしょう。胃腸が弱い子なので、フードもあまりいろいろな種類を与えないようにしてください」その言葉を聞いた瞬間、凪はようやく肩の力を抜いた。猫を飼うのは初めてだ。家に入った時は、いつものようにおもちと少し遊んでから休もうと思っていた。ところが玄関を上がってすぐ、給餌器のそばで、目は半分閉じたまま、息も弱く、かすかに震えるひげだけが苦しそうに動いていたおもちを見つけた。頭が真っ白になった凪は、慌ててタオルでそっと包み、そのまま抱きかかえて部屋を飛び出したのだ。大事には至らないと分かった今、ようやく長く息を吐くことができた。それでも心配は尽きず、凪は獣医師の後をついて歩きながら、家で気をつけることを次々と尋ねていく。そして、そのさらに後ろを空が黙ってついてきていた。獣医師は先ほどから、妙な緊張を感じていた。猫の飼い主は若くて綺麗な女性なのに、その後ろには、背の高い男が夜の白い照明の下、影のようについて歩いている。一言も発しないのに、妙な存在感があり、しかも猫を一度確認したあとは、ずっと猫の飼い主の横顔を見つめているのだ。ひと通り説明を終えた獣医師は、その視線に耐えきれなくなったように足を止め、軽く咳払いする。「注意事項はあとでまとめてお送りします。ええと……その前に、後ろの方にも声をかけてあげたほうがいいかもしれませんね。かなり緊張されているようなので」「え?」凪が勢いよく振り返る。すると、それまで冷たい雰囲気をまとっていた空も獣医師の言葉を聞いたらしく、すっと表情を戻した。「緊張してません。ただ待っていただけです」低く落ち着いた声で答える。いかにも空らしい。凪はむしろ、獣医師が空の無愛想さに怯えているのではないかと心配になった。「この人、いつもこんな感じなんです。気にしないでください
これ以上、気の利く側近がどこにいるだろうか?隆は我ながら完璧だと言わんばかりに、得意げな笑みを浮かべていた。凪も何となく引っかかるものは感じたが、隆の笑顔はあまりにも堂々としているし、何より空の目元に浮かぶ疲れは本物だ。これで空の負担も減るというのなら、確かに双方にとって悪くない話なのだろう。「それなら、ありがたく引き受けさせていただきますね」凪はもう遠慮せず、ろくに書類へ目を通さないまま次々と署名していった。最後の1枚にサインし、ペンを置いたところで空が口を開く。「君、外でもそんなふうに契約書へサインしてるのか?」凪が損をするようなことがあっては困る。空は眉を寄せ、声まで少し低くなっていた。叱っているというより、本気で理解できないらしい。凪も不思議そうに瞬きをする。「ほかの契約書なら、ちゃんと読みますよ?でも、これは空さんが用意してくれたものですよね?私、空さんのことは信じてますから」カチリ、とペンを置く小さな音が響く。空は一瞬、表情を保てなくなった。胸の奥をそっと叩かれたような感覚が、いつまでも消えずに残っている。自分だから。ほかの誰でもなく、自分だから信じてくれた。「夕飯、一緒に食べないか?」気づけば、そんな言葉が口をついていた。同時に、頭の中で近くの店を思い出し、その中から凪が喜びそうな店を選び始める。凪は笑ってうなずいた。「もちろん。でも、最高のビジネスパートナーがこんなにたくさん案件をくださったので、今日は私にごちそうさせてください」午後の日差しが二人の横顔を照らしていた。少し暑いくらいの陽気に背中を押されるように、凪は近くの落ち着いた店を選び、空と一緒にカフェを後にする。残された隆は、テーブルの上の書類を片づけながら、先ほどの空の様子を思い出して笑いをこらえた。「社長があんな顔する日が来るとは……」……夕食を終えて外へ出ると、心地よい夜風が吹いていた。腹も満たされ、珍しく時間にも余裕がある。せっかくだからと、二人は歩いて帰ることにした。並んで歩きながら、最近の景気や株式市場について話したかと思えば、互いの会社の近況へ話題が移る。話すのは凪のほうが多く、空は相変わらず口数が少ない。それでも返ってくる言葉は的確で、会話が途切れることはなかった。
「つまり、黒崎グループの案件が欲しくて俺に会いに来たんだな」黒崎グループ本社の下にあるカフェ。その個室で、空は窓際の席に腰を下ろしていた。柔らかな午後の日差しが肩に降り注ぎ、その表情を淡くぼかしている。何を考えているのかは読み取れず、声もいつもどおり落ち着いていた。凪は少し気まずさを覚えた。確かに今日は、黒崎グループの案件について頼むために来た。けれど、それは母が遺した未完成の陶芸作品を取り戻すため。理由はどうあれ、そのために空から便宜を図ってもらうことになる。それがどうにも引っかかった。空は最高のビジネスパートナーだ。だからといって、ここまで頼っていいのだろうか。凪は苦いアイスコーヒーを一口飲み、少し迷った末に正直に事情を話すことにした。空が引き受けてくれるかどうかは別として、隠し事をせず、きちんと理由を伝えるべきだと思ったのだ。「父が、母の未完成の作品をまだ持ってるんです。それは母の最後の作品なので、知らないコレクターの手に渡るのだけは避けたくて……それで、父が取引を持ちかけてきたんです。私が黒崎グループの案件をいくつか二宮グループに回せたら、作品を返す、と。無理なお願いだってことは分かってます。でも、もし二宮グループに任せて何か問題が起きたら、ミツキホールディングスが必ず引き継いで、空さんに損はさせません」黒崎グループの案件を、自分の都合で失敗させるわけにはいかない。だからこそ凪は、万一の場合はミツキホールディングスが責任を持つと念を押した。それでも、空は何も言わない。沈黙が長くなるにつれ、凪の声も次第に小さくなっていった。凪は何とか話を続ける。「もし難しいなら、ミツキホールディングスとして正式に公募へ参加して……」「何か勘違いしてないか?」空が不意に顔を上げ、凪の言葉を遮った。凪は目を瞬く。「勘違い?」「俺たちはビジネスパートナーだ。それに、君は俺の妻で、黒崎家の人間でもある。自分の家から仕事をいくつか回してもらうくらいで、そんなに遠慮する必要はない」そう言いながら、指先で軽くテーブルを叩く。このカフェには空も何度か訪れているらしく、店員はその仕草だけで意図を察した。凪の前にあったアイスコーヒーを下げ、代わりにラテとクッキーを置いていく。凪が普段、好んで口にする組み合
そう考えた大輔は、凪が警備員を呼ぶより先に葵へ歩み寄り、その腕をつかんで無理やり引き離した。「いい加減にしろ!ここは黒崎グループだ。二宮家じゃない!」そのまま葵を乱暴に脇へ押しやる。葵はカウンターに体をぶつけ、たちまち目に涙を浮かべた。「信じられない。そもそも、大輔さんが持ってきた離島リゾート開発事業が失敗したせいで、二宮家は大損したのよ!なのに自分はさっさと海外に逃げて、全部私に押しつけて……帰ってきたと思ったら、今度は会社の秘書といちゃついてるし!こんなの怒るに決まってるでしょ!私、絶対許さないんだから!」そう言いながら、葵は甘えるように大輔の胸へ飛び込もうとした。見ていられない。凪は床に倒れていた女性秘書を起こし、まだ呆然としている彼女に小声で促した。「早く行って」「は、はい!ありがとうございます!」女性秘書は破れかけた服をかき合わせるように押さえ、涙を拭う余裕もなく同僚たちと逃げるように出ていった。秘書たちがいなくなると、大輔もとうとう笑みを消し、すぐに警備員を呼びつけた。「この女をつまみ出せ!空さんの耳には絶対に入れるな。分かったな!?」空が来る前に片づけなければ、本当にまずい。駆けつけた警備員たちに両脇を抱えられ、葵は信じられないという顔で泣き叫んだ。「大輔さん!どうしてこんなことするのよ!離して!私は大輔さんの女なのよ!こんな扱いしていいと思ってるの!?それに、私は空さんの妻の妹!すぐに離しなさい!」葵はどうにかしてこの場に残り、大輔になだめてもらいたいらしい。警備員たちは大輔の指示どおり連れ出そうとしていたが、凪の妹だと聞いて、さすがに足を止めた。「奥様……本当に妹さんなんでしょうか?」「私に、こんなみっともない妹はいません」凪は冷たく言い切った。母の陶芸作品さえ大地に握られていなければ、そもそも黒崎グループへ案件の相談になど来るつもりはなかった。ただでさえ気が重いというのに、葵の騒ぎまで加わって、もううんざりだ。これ以上、相手をする気にもならない。警備員たちは再び葵を連れていき、やがてその姿は廊下の向こうへ消えていった。それでも怒鳴り声だけは、閉じたドア越しにはっきり聞こえてくる。「凪!絶対に許さないから!」え?秘書といちゃついていた
写真を撮り終えた凪は、それ以上2人の邪魔をすることなく、その場を離れた。大人同士が少しくらいじゃれ合っていたところで、別に目くじらを立てるようなことでもない。ソファに戻ると、残っていたコーヒーを一気に飲み干す。どうせ休めそうにないのなら、陽菜に今日中に目を通す必要がある書類を送ってもらおうか。そう考えていた頃、ドア1枚隔てた休憩室では、女性秘書が甘えるように大輔へ身を寄せていた。「待たせてる方がいらっしゃるのに、こんなところで私と遊んでていいんですか?」「それはそれ、これはこれ。別に問題ないだろ」大輔は熱っぽい目で彼女を見つめ、いかにも夢中になっているような顔をしてみせる。ここを出れば、好きな女を「叔父の妻」として扱わなければならない。考えるだけで苦々しい。その点、ここならドアの隙間から凪の姿を眺めながら、腕の中には別の女がいる。凪を前にして何もできない鬱憤を紛らわせるには、悪くない過ごし方だった。そんな大輔の胸の内など知るはずもなく、女性秘書はますます楽しそうに彼に甘える。二人がしばらくじゃれ合っていると、外からドアの開く音がした。女性秘書がびくりと顔を上げる。「えっ、誰か来たんですか?」大輔から離れて確かめに行こうとした、そのときだった。休憩室のドアが勢いよく開け放たれる。そこに立っていたのは、怒りに顔を歪めた葵だった。大輔の腕がまだ女性秘書の腰に回っているのを見た瞬間、その目が怒りに燃える。「自分の立場もわきまえずに、会社で男を誘惑するなんていい度胸ね!」「な、何なんですか、あなた!」いきなり罵声を浴びせられた女性秘書は、困惑と怒りを露わにする。大輔は眉をひそめた。なんで葵がここにいるんだ?外にいた凪も、写真を1枚送っただけで葵が黒崎グループまで乗り込んでくるとは思っていなかった。すぐに前へ出て、葵を制止する。「ここは黒崎グループよ。仕事をする場所なんだから、個人的な話なら外でやって」「何が個人的な話よ!」葵は凪の手を振り払うと、そのまま女性秘書へ詰め寄った。そしていきなり髪をつかみ、カウンターから引きずり下ろして床へ突き飛ばす。「きゃっ――」「この泥棒猫!大輔さんがあんたみたいな女の相手をするからって、調子に乗らないでよね!大輔さんに取り入れば、そのまま黒
「その……」大輔は何か言いかけたものの、以前、空から受けた仕打ちを思い出し、そこで言葉を止めた。思い出すだけで古傷が痛むような気がする。「空さんを待ってるって聞いたから、挨拶に来ただけ。これくらいなら、嫌がったりしませんよね?」凪が距離を取っても、大輔は追いかけるように詰めてこなかった。今日はずいぶん大人しい。態度もきちんとわきまえているし、以前のように図々しく迫ってくる様子もない。これなら、まあいいか。凪は少しだけ警戒を解き、コーヒーに手を伸ばした。「挨拶が済んだなら、もう戻ったらどうですか?黒崎グループなら仕事もたくさんあるでしょうから」「そうでもないんですよ。上には空さんがいるから、俺に回ってくる案件なんて大した数じゃない。それに海外から戻ったばかりで、休暇明けだからまだそんなに仕事もないんです」「……」別に大輔の仕事事情が知りたかったわけではない。凪としては、さっさと帰ってもらって少し休みたかったのだが、当の本人は帰る気配すらなく、どうにか会話を続けようとしている。凪がどう追い返そうかと考えていると、凪の迷惑そうな視線にも気づかず、大輔が嬉々として立ち上がった。「今日は社内にちょっとしたスイーツが用意されてるんです。持ってきますね」「いや、大丈夫……」凪が言い終わる前に、大輔は休憩室へ向かってしまった。どうやら簡単には帰ってくれそうにない。凪はわずかに口元を引きつらせたが、今日の大輔は今のところ大人しくしている。それなら無理に追い返すこともないかと諦めた。ちょうどそのとき、携帯に葵からメッセージが届く。【この前は空さんにあんな目に遭わされたけど、今日は立場が逆になったみたいね。お父さんに頭を下げて言うことを聞く羽目になって、どんな気分?でも、お姉さんには感謝してる。あんな大きな後始末を引き受けてくれてありがとう】最後には、わざわざ挑発するようなスタンプまで添えられていた。凪のこめかみがぴくりと動く。返す気にもならない。そのまま携帯をバッグにしまおうとしたところで、また新しいメッセージが届いた。【私は大輔さんの妻になるの。そうなったら、あなたと空さんには絶対いい思いなんてさせないから!】送った直後、空に見られるのを恐れたのか、そのメッセージはすぐに取り消された。
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた







