登入写真を撮り終えた凪は、それ以上2人の邪魔をすることなく、その場を離れた。大人同士が少しくらいじゃれ合っていたところで、別に目くじらを立てるようなことでもない。ソファに戻ると、残っていたコーヒーを一気に飲み干す。どうせ休めそうにないのなら、陽菜に今日中に目を通す必要がある書類を送ってもらおうか。そう考えていた頃、ドア1枚隔てた休憩室では、女性秘書が甘えるように大輔へ身を寄せていた。「待たせてる方がいらっしゃるのに、こんなところで私と遊んでていいんですか?」「それはそれ、これはこれ。別に問題ないだろ」大輔は熱っぽい目で彼女を見つめ、いかにも夢中になっているような顔をしてみせる。ここを出れば、好きな女を「叔父の妻」として扱わなければならない。考えるだけで苦々しい。その点、ここならドアの隙間から凪の姿を眺めながら、腕の中には別の女がいる。凪を前にして何もできない鬱憤を紛らわせるには、悪くない過ごし方だった。そんな大輔の胸の内など知るはずもなく、女性秘書はますます楽しそうに彼に甘える。二人がしばらくじゃれ合っていると、外からドアの開く音がした。女性秘書がびくりと顔を上げる。「えっ、誰か来たんですか?」大輔から離れて確かめに行こうとした、そのときだった。休憩室のドアが勢いよく開け放たれる。そこに立っていたのは、怒りに顔を歪めた葵だった。大輔の腕がまだ女性秘書の腰に回っているのを見た瞬間、その目が怒りに燃える。「自分の立場もわきまえずに、会社で男を誘惑するなんていい度胸ね!」「な、何なんですか、あなた!」いきなり罵声を浴びせられた女性秘書は、困惑と怒りを露わにする。大輔は眉をひそめた。なんで葵がここにいるんだ?外にいた凪も、写真を1枚送っただけで葵が黒崎グループまで乗り込んでくるとは思っていなかった。すぐに前へ出て、葵を制止する。「ここは黒崎グループよ。仕事をする場所なんだから、個人的な話なら外でやって」「何が個人的な話よ!」葵は凪の手を振り払うと、そのまま女性秘書へ詰め寄った。そしていきなり髪をつかみ、カウンターから引きずり下ろして床へ突き飛ばす。「きゃっ――」「この泥棒猫!大輔さんがあんたみたいな女の相手をするからって、調子に乗らないでよね!大輔さんに取り入れば、そのまま黒
「その……」大輔は何か言いかけたものの、以前、空から受けた仕打ちを思い出し、そこで言葉を止めた。思い出すだけで古傷が痛むような気がする。「空さんを待ってるって聞いたから、挨拶に来ただけ。これくらいなら、嫌がったりしませんよね?」凪が距離を取っても、大輔は追いかけるように詰めてこなかった。今日はずいぶん大人しい。態度もきちんとわきまえているし、以前のように図々しく迫ってくる様子もない。これなら、まあいいか。凪は少しだけ警戒を解き、コーヒーに手を伸ばした。「挨拶が済んだなら、もう戻ったらどうですか?黒崎グループなら仕事もたくさんあるでしょうから」「そうでもないんですよ。上には空さんがいるから、俺に回ってくる案件なんて大した数じゃない。それに海外から戻ったばかりで、休暇明けだからまだそんなに仕事もないんです」「……」別に大輔の仕事事情が知りたかったわけではない。凪としては、さっさと帰ってもらって少し休みたかったのだが、当の本人は帰る気配すらなく、どうにか会話を続けようとしている。凪がどう追い返そうかと考えていると、凪の迷惑そうな視線にも気づかず、大輔が嬉々として立ち上がった。「今日は社内にちょっとしたスイーツが用意されてるんです。持ってきますね」「いや、大丈夫……」凪が言い終わる前に、大輔は休憩室へ向かってしまった。どうやら簡単には帰ってくれそうにない。凪はわずかに口元を引きつらせたが、今日の大輔は今のところ大人しくしている。それなら無理に追い返すこともないかと諦めた。ちょうどそのとき、携帯に葵からメッセージが届く。【この前は空さんにあんな目に遭わされたけど、今日は立場が逆になったみたいね。お父さんに頭を下げて言うことを聞く羽目になって、どんな気分?でも、お姉さんには感謝してる。あんな大きな後始末を引き受けてくれてありがとう】最後には、わざわざ挑発するようなスタンプまで添えられていた。凪のこめかみがぴくりと動く。返す気にもならない。そのまま携帯をバッグにしまおうとしたところで、また新しいメッセージが届いた。【私は大輔さんの妻になるの。そうなったら、あなたと空さんには絶対いい思いなんてさせないから!】送った直後、空に見られるのを恐れたのか、そのメッセージはすぐに取り消された。
「興味ない。ほかに用がないなら、私はミツキホールディングスに戻るね」凪はそれだけ言うと、踵を返した。一瞬でも迷ったら、暴落した二宮グループの株価に失礼というものだ。あまりにもあっさり立ち去ろうとする凪に、大地は慌てて立ち上がった。「凪!頼む、今日だけはお父さんを助けると思って力を貸してくれ!葵が離島リゾート開発事業なんて厄介な案件を持ち込まなければ、二宮グループだってここまで追い詰められなかったし、こんな状況じゃなければ、君に頭を下げてまで頼んだりしない。でも、俺たちは親子だろ?父親が破滅するのを黙って見ているつもりか?俺が失脚すれば、君だって困るんだぞ!」よく言うよ。海外企業と手を組んでミツキホールディングスの金を奪おうとしたことには、一言も触れないくせに。凪は振り返ることなく、そのまま足早に出口へ向かった。彼女がいよいよ部屋を出ようとしたところで、大地が声を荒らげる。「待て!俺のことは見捨てられても、母親のことはそうはいかないんじゃないのか?美月が生前に作っていた未完成の陶芸作品が、まだ俺の手元にある。君が協力しないっていうなら、家に帰ってすぐ売りに出すぞ!」凪の足が止まった。未完成の作品。それはまさか、母が生前、最後まで仕上げられなかったあの作品ではないか?しばらく動けなかった凪は、やがてゆっくりと振り返った。その目からは、先ほどまでの淡々とした色が消えている。「いつまでお母さんを食い物にするつもり?」「あいつが俺を愛してたから、自分の意思で俺にくれたんだ。黒崎家に嫁いだ途端、自分が二宮家の人間だってことまで忘れた恩知らずの君とは違う!」大地は机に両手をつき、凪を睨みつけた。「美月の作品が欲しいなら、黒崎グループとの話をまとめてこい。できないなら、あれはオークションに出して、その金で二宮グループを立て直す。美月の最後の作品が、価値も分からず流行に乗って買い漁るコレクターの手に渡るのを黙って見ているか、それとも父親を助けて、また家族としてやり直すか。凪、君が選べ」凪は息が詰まった。母の技術を本当に理解し、未完成の作品を引き継げるような職人には、おそらく競売で落札できるほどの金はない。逆に、金に物を言わせるコレクターが手に入れれば、未完成のまま大切に保管されるだけだろう
何度も頷いた陽菜。二宮家がここまで追い詰められたのも、結局は向こうが先に凪を潰そうとしたからだ。大地がミツキホールディングスの資金まで奪おうとしなければ、凪だって二宮グループをここまで追い込むことはなかった。そのとき、ドアをノックする音が響いた。「失礼します。内部からの情報ですが、黒崎グループが近く、いくつかの案件を市場に出すそうです」そう言って入ってきたのは宏介だった。凪と陽菜の表情が、一瞬で仕事の顔に変わる。黒崎グループの案件となれば、どの企業にとっても喉から手が出るほど欲しい優良案件だ。……一方、二宮グループは重苦しい空気に包まれていた。大地と株主たちが社内で殴り合いになったことは、すでに広く知れ渡っている。会社が坂道を転げ落ちるように傾いていくのを目の当たりにした社員たちは、裏でこっそり転職エージェントに連絡を取り始めていた。大地も株主たちからひっきりなしにかかってくる電話にうんざりし、数日は家に引きこもってやり過ごそうと席を立った。そこへ、秘書が慌ただしく飛び込んでくる。「朗報です!黒崎グループが近く、複数の案件を外部に出すそうですので、うちも獲得できるかもしれません!黒崎グループの案件さえ取れれば、二宮グループも立て直せる可能性があります!」それを聞いた大地は、すぐさま椅子に座り直した。「だったら、さっさと案件の情報を集めろ!」言った直後、黒崎グループの案件がそう簡単に取れるはずもないと思い直す。そこで脳裏に浮かんだのが凪だった。「……凪も呼び戻せ」「承知いたしました」秘書が急いで部屋を出ていくと、葵が勢いよく立ち上がった。「お父さん!なんで凪なんか呼ぶのよ!あの人が今さら二宮グループのために動いて、案件を取ってきてくれるとでも思ってるの!?」「凪に頼らず、君に頼れとでも?」大地は冷たい目を向けた。「あいつは曲がりなりにも空さんの妻だ。空さんに一言頼んでもらえば、案件のいくつかくらいどうにでもなる。海外企業と組んでミツキホールディングスの金を引き出そうとしたことがまだバレていないうちに、黒崎グループの案件を取らせるんだ」「私だって、大輔さんを頼れば……」納得できない葵が悔しそうに唇を噛む。だが次の瞬間、灰皿が足元へ飛んできた。灰皿が大きな音を立てて床に
突然書類を叩きつけられた葵は、何が起きたのか分からないまま慌てて拾い上げた。目に飛び込んできたのは、例の海外企業が大規模な投資に乗り出したというニュースだった。しかも、どこから漏れたのか、その投資資金を提供したのが二宮グループだという情報までネット上に流れている。さらに、離島リゾート開発事業で巨額の損失を出した件まで経済ニュースに取り上げられ、わずか2時間のうちに個人投資家の売りが殺到。二宮グループの株価は一気に急落し、最安値を更新していた。葵の瞳が大きく見開かれる。「そんな……ありえない!あの会社は、凪のお金を引き出すのに協力するって約束してくれたもの!それなのに、どうしてこんなことになってるわけ!」葵が取り乱すのを見て、大地も慌てて立ち上がり、書類を確認したのだが内容を読み終えた途端、目の前が真っ暗になった。そして、次の瞬間には、怒り狂った株主たちに胸ぐらを掴まれる。「二宮グループがここまで落ちぶれたのは、お前が無能だからだろ!」「会社が順調だった頃は、お前たち親子が多少好き勝手やっても見て見ぬふりをしてきたが、ここまで損失を出した今、黙ってると思うなよ!俺たちの損失を何とかしろ!」「そうだ、弁償しろ!あれだけの金を全部無駄にしやがって!経営する能力がないならさっさと退け。二宮家の中から、もっとまともな人間をトップに据える!」その言葉に大地の怒りも爆発し、目の前にいた男の頬を、いきなり殴った。「俺を降ろすだと!?ここまで二宮グループを立て直したのは俺だ!何年もお前たちに散々儲けさせてやっただろ?高級車に乗って豪邸で暮らせるのも誰のおかげだ?それが少し失敗した途端、俺を引きずり下ろそうっていうのか!ふざけるな!」「俺を殴ったな!この野郎!」それをきっかけに、社長室は一気に修羅場と化した。数人の株主が大地につかみかかり、殴り合いが始まる。駆けつけた警備員たちが総出で取り押さえ、どうにか全員を引き離した頃には、室内はすっかり荒れ果てていた。葵も泣きながら何度も海外企業へ電話をかけ続けていたが、相手は一向に出ない。とうとう苛立ちに任せて携帯を壁へ叩きつけ、半狂乱になって叫んだ。「どういうことよ!ちゃんと話はついてたじゃない!なのに、なんで電話にも出ないの!?こんなことして、訴えられるのが怖くないわけ!?
「これを飲めば、もう口から汚い言葉なんて出てこなくなるさ」「うっ……」その言い方が気持ち悪かったのか、それとも水から漂う妙な臭いに耐えられなかったのか、葵は口元を押さえ、その場から逃げ出そうとした。だが、すぐに隆に肩を押さえられる。「社長のご命令ですので、大人しく従ってください。これ以上手間をかけさせるなら、別の方法を取ることになりますよ」「別の方法って何よ!?私は凪の妹なのよ!私に何かしたら……」「どうやら口が悪いだけじゃなく、少し頭までおかしくなっているようですね。せっかく用意したお清めの水も飲めないとなると……本格的にお祓いしてもらったほうがよさそうです」隆はにこやかに言った。葵はぎょっと目を見開いた。祈祷師の背後から、白い面をつけた者たちが何人も現れたのだ。手には細い枝を束ねたものや、見るからに怪しい濁った水の入った桶まで持っている。彼らはじりじりと葵へ近づきながら、声を揃えた。「祓いたまえ、清めたまえ!」「いやぁ――!」甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。少し離れたレストランで待っていた凪にも、かすかに何か聞こえた気がしたので、振り返ろうとしたのだが、その時、ちょうどスーツ姿の空がちょうど視界を遮るように立った。「行こう」「え?まだ10分しか経ってませんよ?」あまりの早さに驚いた凪は、さっきの悲鳴のことなどすぐに忘れてしまった。「もともと話はほとんどまとまってたからな。それより、今日は例の海外企業と契約したのか?」空の視線が、凪の手に握られた契約書に向く。「うん」凪は頷き、自信ありげに口元をほころばせた。「ミツキホールディングスが契約したのは、ちゃんと海外本社ですから、問題ありません」普段の空なら、世の中に絶対などないと念を押していたかもしれない。だが、すべて思惑どおりだと言わんばかりの凪の顔を見て、今回は何も言わなかった。柔らかなソファから立ち上がる彼女を見つめ、その判断を信じることにする――凪は、やはり他の誰とも違う。……それから2日間、葵はひどい腹痛と吐き気に悩まされた。朝、ハイヒールを履いてオフィスへ入ってくる足取りにも、いつもの勢いはない。目の下にはうっすらと隈ができ、胃は今も時折むかむかする。何かよく分からない枝で叩かれたところに大した痕は残らなかったもの
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた