Se connecter「つまり、黒崎グループの案件が欲しくて俺に会いに来たんだな」黒崎グループ本社の下にあるカフェ。その個室で、空は窓際の席に腰を下ろしていた。柔らかな午後の日差しが肩に降り注ぎ、その表情を淡くぼかしている。何を考えているのかは読み取れず、声もいつもどおり落ち着いていた。凪は少し気まずさを覚えた。確かに今日は、黒崎グループの案件について頼むために来た。けれど、それは母が遺した未完成の陶芸作品を取り戻すため。理由はどうあれ、そのために空から便宜を図ってもらうことになる。それがどうにも引っかかった。空は最高のビジネスパートナーだ。だからといって、ここまで頼っていいのだろうか。凪は苦いアイスコーヒーを一口飲み、少し迷った末に正直に事情を話すことにした。空が引き受けてくれるかどうかは別として、隠し事をせず、きちんと理由を伝えるべきだと思ったのだ。「父が、母の未完成の作品をまだ持ってるんです。それは母の最後の作品なので、知らないコレクターの手に渡るのだけは避けたくて……それで、父が取引を持ちかけてきたんです。私が黒崎グループの案件をいくつか二宮グループに回せたら、作品を返す、と。無理なお願いだってことは分かってます。でも、もし二宮グループに任せて何か問題が起きたら、ミツキホールディングスが必ず引き継いで、空さんに損はさせません」黒崎グループの案件を、自分の都合で失敗させるわけにはいかない。だからこそ凪は、万一の場合はミツキホールディングスが責任を持つと念を押した。それでも、空は何も言わない。沈黙が長くなるにつれ、凪の声も次第に小さくなっていった。凪は何とか話を続ける。「もし難しいなら、ミツキホールディングスとして正式に公募へ参加して……」「何か勘違いしてないか?」空が不意に顔を上げ、凪の言葉を遮った。凪は目を瞬く。「勘違い?」「俺たちはビジネスパートナーだ。それに、君は俺の妻で、黒崎家の人間でもある。自分の家から仕事をいくつか回してもらうくらいで、そんなに遠慮する必要はない」そう言いながら、指先で軽くテーブルを叩く。このカフェには空も何度か訪れているらしく、店員はその仕草だけで意図を察した。凪の前にあったアイスコーヒーを下げ、代わりにラテとクッキーを置いていく。凪が普段、好んで口にする組み合
そう考えた大輔は、凪が警備員を呼ぶより先に葵へ歩み寄り、その腕をつかんで無理やり引き離した。「いい加減にしろ!ここは黒崎グループだ。二宮家じゃない!」そのまま葵を乱暴に脇へ押しやる。葵はカウンターに体をぶつけ、たちまち目に涙を浮かべた。「信じられない。そもそも、大輔さんが持ってきた離島リゾート開発事業が失敗したせいで、二宮家は大損したのよ!なのに自分はさっさと海外に逃げて、全部私に押しつけて……帰ってきたと思ったら、今度は会社の秘書といちゃついてるし!こんなの怒るに決まってるでしょ!私、絶対許さないんだから!」そう言いながら、葵は甘えるように大輔の胸へ飛び込もうとした。見ていられない。凪は床に倒れていた女性秘書を起こし、まだ呆然としている彼女に小声で促した。「早く行って」「は、はい!ありがとうございます!」女性秘書は破れかけた服をかき合わせるように押さえ、涙を拭う余裕もなく同僚たちと逃げるように出ていった。秘書たちがいなくなると、大輔もとうとう笑みを消し、すぐに警備員を呼びつけた。「この女をつまみ出せ!空さんの耳には絶対に入れるな。分かったな!?」空が来る前に片づけなければ、本当にまずい。駆けつけた警備員たちに両脇を抱えられ、葵は信じられないという顔で泣き叫んだ。「大輔さん!どうしてこんなことするのよ!離して!私は大輔さんの女なのよ!こんな扱いしていいと思ってるの!?それに、私は空さんの妻の妹!すぐに離しなさい!」葵はどうにかしてこの場に残り、大輔になだめてもらいたいらしい。警備員たちは大輔の指示どおり連れ出そうとしていたが、凪の妹だと聞いて、さすがに足を止めた。「奥様……本当に妹さんなんでしょうか?」「私に、こんなみっともない妹はいません」凪は冷たく言い切った。母の陶芸作品さえ大地に握られていなければ、そもそも黒崎グループへ案件の相談になど来るつもりはなかった。ただでさえ気が重いというのに、葵の騒ぎまで加わって、もううんざりだ。これ以上、相手をする気にもならない。警備員たちは再び葵を連れていき、やがてその姿は廊下の向こうへ消えていった。それでも怒鳴り声だけは、閉じたドア越しにはっきり聞こえてくる。「凪!絶対に許さないから!」え?秘書といちゃついていた
写真を撮り終えた凪は、それ以上2人の邪魔をすることなく、その場を離れた。大人同士が少しくらいじゃれ合っていたところで、別に目くじらを立てるようなことでもない。ソファに戻ると、残っていたコーヒーを一気に飲み干す。どうせ休めそうにないのなら、陽菜に今日中に目を通す必要がある書類を送ってもらおうか。そう考えていた頃、ドア1枚隔てた休憩室では、女性秘書が甘えるように大輔へ身を寄せていた。「待たせてる方がいらっしゃるのに、こんなところで私と遊んでていいんですか?」「それはそれ、これはこれ。別に問題ないだろ」大輔は熱っぽい目で彼女を見つめ、いかにも夢中になっているような顔をしてみせる。ここを出れば、好きな女を「叔父の妻」として扱わなければならない。考えるだけで苦々しい。その点、ここならドアの隙間から凪の姿を眺めながら、腕の中には別の女がいる。凪を前にして何もできない鬱憤を紛らわせるには、悪くない過ごし方だった。そんな大輔の胸の内など知るはずもなく、女性秘書はますます楽しそうに彼に甘える。二人がしばらくじゃれ合っていると、外からドアの開く音がした。女性秘書がびくりと顔を上げる。「えっ、誰か来たんですか?」大輔から離れて確かめに行こうとした、そのときだった。休憩室のドアが勢いよく開け放たれる。そこに立っていたのは、怒りに顔を歪めた葵だった。大輔の腕がまだ女性秘書の腰に回っているのを見た瞬間、その目が怒りに燃える。「自分の立場もわきまえずに、会社で男を誘惑するなんていい度胸ね!」「な、何なんですか、あなた!」いきなり罵声を浴びせられた女性秘書は、困惑と怒りを露わにする。大輔は眉をひそめた。なんで葵がここにいるんだ?外にいた凪も、写真を1枚送っただけで葵が黒崎グループまで乗り込んでくるとは思っていなかった。すぐに前へ出て、葵を制止する。「ここは黒崎グループよ。仕事をする場所なんだから、個人的な話なら外でやって」「何が個人的な話よ!」葵は凪の手を振り払うと、そのまま女性秘書へ詰め寄った。そしていきなり髪をつかみ、カウンターから引きずり下ろして床へ突き飛ばす。「きゃっ――」「この泥棒猫!大輔さんがあんたみたいな女の相手をするからって、調子に乗らないでよね!大輔さんに取り入れば、そのまま黒
「その……」大輔は何か言いかけたものの、以前、空から受けた仕打ちを思い出し、そこで言葉を止めた。思い出すだけで古傷が痛むような気がする。「空さんを待ってるって聞いたから、挨拶に来ただけ。これくらいなら、嫌がったりしませんよね?」凪が距離を取っても、大輔は追いかけるように詰めてこなかった。今日はずいぶん大人しい。態度もきちんとわきまえているし、以前のように図々しく迫ってくる様子もない。これなら、まあいいか。凪は少しだけ警戒を解き、コーヒーに手を伸ばした。「挨拶が済んだなら、もう戻ったらどうですか?黒崎グループなら仕事もたくさんあるでしょうから」「そうでもないんですよ。上には空さんがいるから、俺に回ってくる案件なんて大した数じゃない。それに海外から戻ったばかりで、休暇明けだからまだそんなに仕事もないんです」「……」別に大輔の仕事事情が知りたかったわけではない。凪としては、さっさと帰ってもらって少し休みたかったのだが、当の本人は帰る気配すらなく、どうにか会話を続けようとしている。凪がどう追い返そうかと考えていると、凪の迷惑そうな視線にも気づかず、大輔が嬉々として立ち上がった。「今日は社内にちょっとしたスイーツが用意されてるんです。持ってきますね」「いや、大丈夫……」凪が言い終わる前に、大輔は休憩室へ向かってしまった。どうやら簡単には帰ってくれそうにない。凪はわずかに口元を引きつらせたが、今日の大輔は今のところ大人しくしている。それなら無理に追い返すこともないかと諦めた。ちょうどそのとき、携帯に葵からメッセージが届く。【この前は空さんにあんな目に遭わされたけど、今日は立場が逆になったみたいね。お父さんに頭を下げて言うことを聞く羽目になって、どんな気分?でも、お姉さんには感謝してる。あんな大きな後始末を引き受けてくれてありがとう】最後には、わざわざ挑発するようなスタンプまで添えられていた。凪のこめかみがぴくりと動く。返す気にもならない。そのまま携帯をバッグにしまおうとしたところで、また新しいメッセージが届いた。【私は大輔さんの妻になるの。そうなったら、あなたと空さんには絶対いい思いなんてさせないから!】送った直後、空に見られるのを恐れたのか、そのメッセージはすぐに取り消された。
「興味ない。ほかに用がないなら、私はミツキホールディングスに戻るね」凪はそれだけ言うと、踵を返した。一瞬でも迷ったら、暴落した二宮グループの株価に失礼というものだ。あまりにもあっさり立ち去ろうとする凪に、大地は慌てて立ち上がった。「凪!頼む、今日だけはお父さんを助けると思って力を貸してくれ!葵が離島リゾート開発事業なんて厄介な案件を持ち込まなければ、二宮グループだってここまで追い詰められなかったし、こんな状況じゃなければ、君に頭を下げてまで頼んだりしない。でも、俺たちは親子だろ?父親が破滅するのを黙って見ているつもりか?俺が失脚すれば、君だって困るんだぞ!」よく言うよ。海外企業と手を組んでミツキホールディングスの金を奪おうとしたことには、一言も触れないくせに。凪は振り返ることなく、そのまま足早に出口へ向かった。彼女がいよいよ部屋を出ようとしたところで、大地が声を荒らげる。「待て!俺のことは見捨てられても、母親のことはそうはいかないんじゃないのか?美月が生前に作っていた未完成の陶芸作品が、まだ俺の手元にある。君が協力しないっていうなら、家に帰ってすぐ売りに出すぞ!」凪の足が止まった。未完成の作品。それはまさか、母が生前、最後まで仕上げられなかったあの作品ではないか?しばらく動けなかった凪は、やがてゆっくりと振り返った。その目からは、先ほどまでの淡々とした色が消えている。「いつまでお母さんを食い物にするつもり?」「あいつが俺を愛してたから、自分の意思で俺にくれたんだ。黒崎家に嫁いだ途端、自分が二宮家の人間だってことまで忘れた恩知らずの君とは違う!」大地は机に両手をつき、凪を睨みつけた。「美月の作品が欲しいなら、黒崎グループとの話をまとめてこい。できないなら、あれはオークションに出して、その金で二宮グループを立て直す。美月の最後の作品が、価値も分からず流行に乗って買い漁るコレクターの手に渡るのを黙って見ているか、それとも父親を助けて、また家族としてやり直すか。凪、君が選べ」凪は息が詰まった。母の技術を本当に理解し、未完成の作品を引き継げるような職人には、おそらく競売で落札できるほどの金はない。逆に、金に物を言わせるコレクターが手に入れれば、未完成のまま大切に保管されるだけだろう
何度も頷いた陽菜。二宮家がここまで追い詰められたのも、結局は向こうが先に凪を潰そうとしたからだ。大地がミツキホールディングスの資金まで奪おうとしなければ、凪だって二宮グループをここまで追い込むことはなかった。そのとき、ドアをノックする音が響いた。「失礼します。内部からの情報ですが、黒崎グループが近く、いくつかの案件を市場に出すそうです」そう言って入ってきたのは宏介だった。凪と陽菜の表情が、一瞬で仕事の顔に変わる。黒崎グループの案件となれば、どの企業にとっても喉から手が出るほど欲しい優良案件だ。……一方、二宮グループは重苦しい空気に包まれていた。大地と株主たちが社内で殴り合いになったことは、すでに広く知れ渡っている。会社が坂道を転げ落ちるように傾いていくのを目の当たりにした社員たちは、裏でこっそり転職エージェントに連絡を取り始めていた。大地も株主たちからひっきりなしにかかってくる電話にうんざりし、数日は家に引きこもってやり過ごそうと席を立った。そこへ、秘書が慌ただしく飛び込んでくる。「朗報です!黒崎グループが近く、複数の案件を外部に出すそうですので、うちも獲得できるかもしれません!黒崎グループの案件さえ取れれば、二宮グループも立て直せる可能性があります!」それを聞いた大地は、すぐさま椅子に座り直した。「だったら、さっさと案件の情報を集めろ!」言った直後、黒崎グループの案件がそう簡単に取れるはずもないと思い直す。そこで脳裏に浮かんだのが凪だった。「……凪も呼び戻せ」「承知いたしました」秘書が急いで部屋を出ていくと、葵が勢いよく立ち上がった。「お父さん!なんで凪なんか呼ぶのよ!あの人が今さら二宮グループのために動いて、案件を取ってきてくれるとでも思ってるの!?」「凪に頼らず、君に頼れとでも?」大地は冷たい目を向けた。「あいつは曲がりなりにも空さんの妻だ。空さんに一言頼んでもらえば、案件のいくつかくらいどうにでもなる。海外企業と組んでミツキホールディングスの金を引き出そうとしたことがまだバレていないうちに、黒崎グループの案件を取らせるんだ」「私だって、大輔さんを頼れば……」納得できない葵が悔しそうに唇を噛む。だが次の瞬間、灰皿が足元へ飛んできた。灰皿が大きな音を立てて床に
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ
渉の目に一瞬、気まずそうな色が浮かんだ。「凪ちゃん、直美のマンションがリフォーム中で、ペンキの匂いがひどくて、体に良くないから……」凪の心はきつく締め付けられた。もう気にならないと思っていたのに。でも、息が詰まるほどの痛みが、全身に広がっていく。「ホテルに泊まるお金もないっていうの?」直美は目を赤くしながら、バイオリンを片付け始めた。「私のせいで喧嘩しないで。今すぐ出ていくから」彼女は慌てて荷物を取りに行こうとして、テーブルの角に体をぶつけた。「痛っ」と声を漏らし、胸を押さえる。その息遣いは、か弱くて艶めかしい。「大丈夫か?なんて不注意なんだ。どこをぶつけた?薬