LOGIN鷹斗は腹を括り、床までアクセルを踏み込んだ。車は狭い路地を縫うように疾走し、角を曲がるたびに壁ぎりぎりをかすめ、ついに片方のサイドミラーが削り取られて吹き飛んだ。
だが、その幸運も長くは続かなかった。目の前にコンクリートの塀が立ちはだかった瞬間、彼は思い切りブレーキペダルを踏み込み、タイヤが路面に黒々とした痕を刻みつける。
前方は行き止まりだ。分かれ道はない。
背後では路地の入り口でワゴン車が急停止し、開いたドアから三つの人影が飛び出してきた。それぞれの手に握られているのは、鉄パイプか、あるいはナイフだ。
真ん中に立つ、眉尻に横一文字の傷跡がある男が一歩前へ進み出た。その視線は鷹斗を越え、背後にあるSUVを一瞥する。
男は手にした鉄パイプをポンと叩いた。
「女は車の中だな。大人しく引き渡せ。お前を傷つけるつもりはねえ」
利弘の動きが、ふっと止まった。視線が泳ぎ、唇がわずかに震える。それでも、利弘は何も答えなかった。修の怒りが限界を突破した。彼は利弘を壁から引き剥がし、階段の段差に力任せに叩きつけた。鋭い角に背中を打ち付けられ、利弘が悲鳴を上げる。修はその上に馬乗りになり、拳を顔の真上に振り上げた。だが、すぐには振り下ろさない。「綾音がてめえにやらせたんだな!てめえらが澪を騙し、罠を仕掛けてあいつをそこへ突き落とした。そうだろう?」修の声は震えていた。怒りが沸点を越えていた。段差に仰向けに倒れたまま、利弘は修の顔を見つめた。しばらくして、ふいに笑い声を漏らす。「……胸が痛むか?あいつはお前の女でもないのに。そこまでしてやる価値があるのかよ?」修は利弘をしばらく睨みつけ、それから、彼の耳の真横にある壁へ思い切り拳を叩きつけた。ズドンという重い衝撃音が響く。利弘が反射的に顔を背け、目を固く閉じた。「詳しい場所を教えろ」修の声は氷のように冷え切っていた。「言ったところでどうなる?今から行ったって、もう手遅れだぜ」利弘は目を開けた。その表情から、修には何かを諦めているようにも見えた。修は利弘の胸倉を掴み、段差から力ずくで引きずり起こした。利弘は抵抗しようとしたが、修の腕力には敵わない。修は利弘の腕を背後へと乱暴に捻り上げ、そのまま階段の上へと押し歩かせた。 
廊下の突き当たりにあるトイレは明るく照明が点いていたが、人影はなかった。修は入り口に立ち、中から水道の水が勢いよく流れる音を聞いた。しかし、誰も使っていない。中へ入り、個室を一つずつ確認していく――空、空、やはり空だった。利弘はいない。修は外へ出ると、廊下の両側に視線を走らせた。角のところでは、非常階段の緑色の誘導灯が光っており、そのドアがわずかに開いている。「あの女、今の状況はどうなってる」利弘の声だ。ひどく低く、押し殺されている。修の心臓が跳ね上がった。足音を殺して近づき、ドアに耳を当てる。「……跡が残らないように、上手くやれよ。尻尾は掴まれるな。必要なら少し痛めつけても構わねえ。あの女は一筋縄じゃいかないからな、手加減してやる義理はねえよ……」修の血の気が、一瞬で引いた。あの女?利弘が話している相手は誰だ。こいつは一体、何を言っている?どう聞いても、ただ事ではない。誰かを拉致しているとしか思えなかった。修は息を潜め、さらに耳を澄ませた。聞こえてくる言葉を追うほど、手足の先から血の気が引いていく。階段の踊り場に響く反響音が、利弘の声を不気味なほど鮮明に伝えてくる。「……薬の量は間違えるなよ、死なれちゃ困るからな……綾音が仰ってたんだ。妹を徹底的に社会から抹殺したいってな。だから、息の根さえ止まらなきゃそれでいい……」ドクン、と。修の頭の中で、落雷のような衝撃が走った。
同じ頃、市中心部に位置する老舗商業ビルの七階。ここは市内でも有名な老舗の撮影スタジオだった。エレベーターのドアが開くと、壁一面に芸能人のポスターが貼られており、テレピン油の匂いとコーヒーの香りが混ざり合っていた。修が到着した時、利弘はすでにそこにいた。彼は待合エリアの一番隅にあるプラスチック製の椅子に座り、うつむいてスマートフォンを見つめている。画面の青白い光が、彼の血の気のない顔を照らしていた。「修!」綾音はメイク室から顔を覗かせ、笑顔で手を振った。「早く来て、席を取っておいたわ」修は歩み寄り、利弘の隣の空席に腰を下ろした。利弘は顔を上げて彼をちらりと見ると、親指で画面を素早くスワイプし、すぐにロックをかけてポケットに突っ込んだ。「お前も来てたのか」修は口の端を上げた。「……綾音が来いって言うからな。人が多い方が心強いって言うんだよ」利弘の視線がメイク室の方向へ泳ぎ、またすぐに手元へ戻った。修はそれ以上追及しなかった。椅子の背もたれに寄りかかり、視線を向かいの白い壁に落とす。だが、その頭の中で考えていたのは別のことだった。――澪が来ていない。彼が今日、綾音の誘いを受けた理由の半分は、澪も出席すると思っていたからだ。浅野のオーディション通知が澪にも届いていることは知っていた。この機会を利用して、オーディションが終わった後に彼女を引き止め、少し話をしようと思っていた。あの雨の夜のこと、そしてホテルで起きたことについて。 
「でも――」「大丈夫、私一人でも平気よ」澪は車のドアを開け、片足を外へ踏み出してから彼を振り返った。「すぐ上の階だし、ただのオーディションだから、せいぜい二時間くらいで終わるわ。終わったら電話するわね」鷹斗は指の関節が白くなるほどスマートフォンを握りしめ、車の外に立つ澪を見つめた。朝の光が彼女の輪郭を柔らかく、それでいて力強く縁取っている。彼女が本心から、自分を困らせまいとしているのがはっきりと伝わってきた。その気遣いが、今の鷹斗にはどうしようもなく痛かった。いっそ、もっとわがままになってくれればよかった。自分に向かって腹を立て、「行っちゃダメ、約束したじゃない。破るなんて許さない」とでも言ってくれたら――だが、澪は決してそういう人間ではない。「……分かった。終わったらすぐに電話して。迎えに来るから」結局、鷹斗は折れるしかなかった。「分かってるわ」澪は手を振ると、振り返ってビルの入り口へと歩き出した。その背中は、すぐにドアの奥へと消えていった。鷹斗は車の中に座ったまま、ビルの入り口を見つめ、彼女の姿が完全に見えなくなるまで待ってから視線を戻した。エンジンをかけ、車をUターンさせると、会社へ向けて走り出した。スマートフォンが再び振動した。澪からのメッセージだった。【本当に大丈夫だから。しっかり仕事して、変なこと考えないでね】鷹斗は複雑な心境でそのメッセージを見つめた。安心するどころか、逆に一抹の不安が胸の奥から這い上がってくるのを感じた。---
今日の澪は珍しく薄くメイクを施し、髪も丁寧に梳かされていて、普段よりも少しだけ洗練された印象を与えていた。鷹斗はエンジンをかけ、首を傾けて彼女をちらりと見た。「緊張してる?」澪は手を上げて前髪を整えた。「まあまあね。ただ、なんだか変な感じ。自分がオーディションに行くなんて、考えたこともなかったから」「観光に行くつもりでいればいいさ。落ちたら、帰りに美味しいものでもご馳走するよ」澪は不満げに唇を尖らせた。「まるで、私が絶対に落ちるみたいに言うじゃない」鷹斗はあっさりと意見を変えた。「じゃあ、受かったら君が俺にご馳走してくれ」澪は呆れつつも笑ってしまった。「……あなたって、本当にちゃっかりしてるわね」車がしばらく走ると、鷹斗のスマートフォンが振動し始めた。鷹斗はセンターコンソールに置かれたスマートフォンにちらりと視線をやった。画面が点灯し、綾人からのメッセージが表示されている。タップして開くことはしなかったが、プレビュー画面にはすでに文面がポップアップしていた。【会社に重要なクライアントが来ている。どこにいる?すぐに戻れ】立て続けにもう一通届いた。【おばあ様もすでにご存知だ。覚悟しておけ】鷹斗の指がステアリングを握る力を一瞬だけ強めたが、すぐに視線を外し、再び前方の道へと目を向けた。澪はその一部始終をしっかりと見てい
「下心?」澪はきょとんとして首を傾げた。「文化祭の日、俺は留置所にいて、直接見に行けなかったからね」鷹斗の声が少し低くなった。澪がハッと息を呑んだ。鷹斗は言葉を続け、その視線を彼女の顔に落とした。「後でネットに上がっていた動画の切り抜きを見たよ。舞台の上に立つ君は、本当に輝いていた。ただ……生で観られなかったのが心残りでね」二人の間に、数秒ほど静かな空気が流れた。澪の耳先がゆっくりと赤く染まっていく。「……ただ、それだけのために?」鷹斗は少しだけ身を乗り出し、ふっと笑みをこぼした。「ただ、それだけのために。だから、試しに行ってみないか?俺のささやかで、取るに足らない願いを叶えると思って」澪が振り返ると、彼のその透き通った瞳と視線がぶつかり、心臓がトクンと小さく跳ねた。「……あなたがそこまで言うなら。行かないことも、ないけど」「よし。じゃあ時間が決まったら、早めに教えてくれ。その日は休みを取って、朝一番で迎えに行くから」「えっ?休みを取るの?どうして?私のオーディションに付き合うためだけに?」鷹斗は彼女に向かってパチリとウインクをした。「他に理由があると思う?忘れないでくれ。今の君は、この真島家の鷹斗の婚約者なんだ。婚約者のオーディションを、婚約者である俺がそばで見届けないわけにはいかないだろう?」澪の







