Share

第2話

Author: ドドポ
【篠原グループの御曹司、FYの新作発表会に登場。美女の笑顔のため大金をつぎ込む】

澪の心臓がどきりと跳ねた。

篠原グループの御曹司は洵、ただ一人だ。

そして、高級ブランドFYの発表会はまさに自分たちの住む綾川市(あやかわし)で開催されている。

澪の指先は寒さのせいで小刻みに震えていた。

ニュースを開くと、そこに添えられた写真には一目でわかる洵の姿があった。

もともと洵は容姿が整っており、背も高い。長い脚はまっすぐで、オーダーメイドのスーツは隙なく上質で、集合写真でも決して見劣りしないタイプだ。

以前は洵のニュースを見るたびに、澪はその写真をいつまでも見つめていた。

とても格好良かったからだ。

だが今回、澪は恐ろしい速さでページを閉じた。

魔が差したように、彼女はインスタを開いた。ちょうど、遠藤航(えんどうわたる)が新しい投稿をしていた。

航は洵の高校時代の同級生だ。

【FYの世界限定10本のクラシック・ピンクダイヤモンドネックレス、俺たちの「千雪さん」も手に入れたぜ!】

写真には女性の白鳥のような雪白の首筋だけが写っており、そこにかけられたピンクダイヤモンドのネックレスが眩い光を放っていた。

航の言う「千雪さん」が誰であれ、それが澪でないことだけは確かだった。

超音波検査の結果をしまい、澪はタクシーで家に戻った。道中も、下腹部がシクシクと痛んでいた。

帰宅して、今日はまだ食材を買っていなかったことを思い出した。そこで彼女は再び外出して買い物をし、洵の好物ばかりを買い揃えた。

家に帰ると、野菜を洗い、下ごしらえをし、食事の準備をする。そうこうするうちに、あっという間に夜になった。

九時頃、洵が帰宅した。

「言うのを忘れていた。今夜は付き合いがあって、外で済ませてきた」

洵の声は淡々としており、比類なく整った顔にも何の表情も浮かんでいない。

澪は洵の手からスーツを受け取った。

結婚して三年、接待を終えて帰宅した洵の髪から、ヘアスプレーがすっかり落ちているのを初めて見た。

まるでシャワーを浴びた直後のようなさっぱりとした様子だ。

スーツには酒の匂いはなく、微かな香水の香りだけが漂っている。そして、ニュースの写真で着ていたものとは別のスーツだった。

澪は何も尋ねず、黙って洵のパジャマを取りに行った。すると、洵が突然、背後から澪の腰を抱きしめてきた。

髪から漂う心地よいミントの香りが鼻孔をくすぐる。薄く滑らかなシルクのパジャマ越しに、洵の両手がますます不埒に動き始めるのを澪は感じた。

専業主婦である澪が人前に出ることは滅多にない。時折、洵が仕方なく澪を連れて篠原家の会食に参加する際も、人前での洵は澪に対して非常に冷淡だった。

だが、ベッドの上ではまったく違った。

洵は性欲が非常に強く、体力もテクニックも申し分ない。加えて、魅力的な顔立ちをしている。

特に、完璧な弧を描く、常に微笑んでいるかのようなその唇は人を夢中にさせた。

いつも通りであれば、澪も文句はなく、洵の望むままに従っただろう。

しかし、ここ数日で色々なことがありすぎた。その上、自分は妊娠している。どうしても、する気にはなれなかった。

「あなた、私、お腹の調子が悪いの。今夜はちょっと……」

澪が言い終わる前に、洵は彼女を担ぎ上げ、寝室の大きなベッドに放り投げた。

「私、妊……」

「娠」という言葉を口にする前に、洵の重い身体が覆いかぶさり、乱暴なキスが澪の唇を塞いだ。

彼は澪にキスをしながら、シャツのボタンとベルトを解いていく。澪を見下ろすその両目には燃え上がるような炎が宿っていた。

いつもは従順な澪が抵抗していることに気づき、洵は意外そうに笑みを浮かべると、ベルトで澪の細い両手首をそのまま縛り上げた。

「お前は妻としての役目さえ果たしていればいい」

再び激しいキスが、澪が洵に伝えようとしていたすべての言葉を飲み込んでいった。

今夜の洵が何を考えているのか、澪には分からなかった。彼は彼女が気を失うまで続けた。

意識を取り戻した時、部屋は真っ暗だった。澪は腹部と下腹部に強い不快感を覚え、浴室で洗い流そうと身を起こした。

すると、洵がリビングで電話をしているのが聞こえてきた。

「洵、千雪さんが酔っぱらっちまった。早くこっちに来てくれよ!」

こういう時だけは航が大声で助かったと、澪は思った。

リビングで、洵はすらりと背を伸ばして立っている。その姿は稲妻のようだ。

わずかな光が彼の整った顔にくっきりとした陰影を作り、黒い瞳は墨を流した夜空のように深い。

澪は洵のもう片方の手にタバコが挟まれているのを見て驚いた。

自分の記憶では洵はタバコを吸わない。少なくとも、家の中では吸わなかった。

「いつまでも言って悪いけどさ、お前、千雪さんといつまで意地張ってんだよ!やっと戻ってきたんだ、もう仲直りしろよ」

夜が静かなほど、電話の向こうの航の声は鮮明に響く。

澪は全て聞き取り、思わず息を詰めた。

「航……」

洵の表情は厳しく、その目は鷹のように鋭い。

「俺はもう結婚している」

まるで強心剤を注射されたかのように、澪は安堵のため息をついた。

「結婚がなんだ?離婚すりゃいいだろ?お前から離れたら一人じゃ生きていけないような、あの生活に疲れた妻と、千雪さんが比べ物になるかよ」

「だが、離婚したくない」

「なんでだよ?」

「手放すのが惜しいからだ」

目頭が自然と熱くなり、澪は危うく声を漏らしそうになった。

洵のその一言はこれまで彼が贈ってくれたどんな高価なプレゼントよりも、彼女の心を感動させた。

結婚して三年。どんなに冷たい心でも温まるはずだ。ましてや、澪は自分が妻として何か不足していたとは一度も思ったことがない。

洗濯、食事の支度、家事の切り盛り。手を抜いたことはない。

夜、ベッドにでも、洵を満足させてきた。

自分の献身は無駄ではなかったのだ、と澪は思った。洵の自分への感情は自分が想像していたよりもずっと深かった。今夜のこの電話が、その証拠だ。

高鳴っていた心臓が、ようやく落ち着きを取り戻す。澪は部屋に戻ろうと踵を返した。盗み聞きは良い趣味ではないし、これ以上聞く必要もなくなった。

自分は洵を愛している。

そして洵も、自分を愛してくれている。

「文句も言わずによく働く家政婦みたいなもんだ。惜しむに決まってるだろ」

踏み出そうとした澪の足が、その場に釘付けになった。

「金に困ってるわけじゃないが、心がこもってるのと、そうでないのとでは気分が違う。

それに、澪は千雪とは違う。あいつには何の取り柄もない。学歴も職歴もない、ただの専業主婦だ。

毎日、キッチンに張り付いてるだけだ。うちの爺さんもあいつを気に入ってるし、お袋も、あいつは扱いやすいと思ってる。

家族全員が満足してるんだ。俺が離婚する理由がない……

あいつは家に置いとく妻としては丁度いい。大した手間もかからないし、たまに甘い顔をすりゃ、すぐ大人しくなる」

電話の向こうの航が、はっと息をのむ。

「ああ、なるほどな。でも千雪さんの方は……」

「場所を送れ。今からそっちに行く」

電話を切った後、洵は慌ただしく家を出て行った。

ドアが閉まる音を聞いて初めて、壁の陰にいた澪は声を出すことができた。

彼女は泣いていた。

涙が堰を切ったように溢れ出し、視界がぼやける。吐き気がこみ上げ、胃が何度もひっくり返るようだった。

そして、腹部には刃物でねじ切られるような激痛が走る。

澪はお腹を押さえて苦痛にうずくまった。全身から汗が噴き出す。生温かい液体が、太ももを伝って滴り落ちていく。

血だった。

目の前が、真っ暗に閉ざされた……

再び目を開けた時、澪は病院のベッドに横たわっていた。

病室には誰もいない。看護師が一人いるだけだった。

「すみません、私は……」

澪が口を開くと、声はひどく嗄れていた。

「夏目さん、残念ですが……流産です」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第10話

    澪はとっさにエプロンを受け止めた。あまりに慣れ親しんだ動作で、完全に無意識の反応だった。だが、汚れたエプロンを手にしても、以前のようにすぐ身につけることはしなかった。これまで親戚が集まる食事会では澪が一番忙しかった。全部で三十品以上の料理を、野菜を洗うところから始め、下ごしらえ、調理、盛り付けに至るまで、すべて澪の仕事だった。厳は澪を気遣い、そこまでしなくていいと言ってくれた。本家にはプロの料理人も家政婦もいるからだ。しかし、厳が自分の手料理を好んでくれることを知っていた澪は、毎回進んで台所に立った。他の親戚たちも、厳の手前、当たり障りのない称賛の言葉をかけるだけだ。その後、一族全員分の食器を洗い、片付けをするのも澪の役目だった。義母が「女は家事を切り盛りできてこそ、良妻賢母というものよ」と言っていたからだ。澪は疲れていても、一日働き詰めた後に洵から「ありがとう」と言われるだけで報われた気がしていた。その言葉を聞けば、疲れなど吹き飛んだ――馬鹿げているにも程がある。「何ぼさっとしてんのよ、早く行きなさいよ!」叔母の雅子に急かされても、澪は動かなかった。それどころか、汚れたエプロンを脇へ放り投げた。「台所には料理人も家政婦もいます。私が行っても邪魔になるだけですから」雅子は呆気にとられた。「何言ってるの?篠原家の嫁が働かないなんてことあるわけ?」「叔母さんたも篠原家の嫁でしょう?どうして働かないんですか?」澪の切り返しに、雅子は舌を噛みそうになった。「何よその口の利き方は!目上の者に対する態度じゃないわよ。あなたは目下でしょ、私と比べられるわけ?」「目上の方なら、なおさら謙虚さを持つべきではありませんか?目下の私に譲り、自ら進んで働いて手本を見せるべきでしょう」澪の言葉に、雅子は愕然とした。澪とこれほど長く付き合ってきたが、彼女がこんなに口が達者だとは知らなかったのだ。「あなた、今日はおかしいんじゃないの?美恵子さん、ちょっと来て!この自慢の嫁を見てちょうだい!」雅子は篠原美恵子(しのはらみえこ)を呼びつけた。美恵子は澪の義母だ。こちらの騒ぎは他の人々の注意も引いた。澪が視界の端で捉えたのは洵の目にある深い失望の色だった。「何を騒いでおる!」二階から

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第9話

    「でも、私が行く理由なんてないわ」澪は顔を背けて言った。「爺さんが朝から、しばらくお前に会ってないってぼやいてたんだ。今日の食事会は本家でやる」洵の祖父、篠原厳(しのはら げん)は澪が篠原家に嫁いでから、誰よりも彼女に良くしてくれた人物だ。洵の表面的な優しさとは違い、厳の優しさは心からのものだった。踏み出そうとした足を、澪は結局引っ込めた。助手席のドアを開けると、中に座っていた人物を見て、澪は驚いた。「あら、夏目さん。また会ったわね」千雪が花のように微笑む。今日の彼女はピンクグレーのセットアップを身にまとい、甘くも高級感のある装いだった。首には洵が贈ったあのピンクダイヤのネックレスがあり、腕に抱えているピンクローズも、聞くまでもなく洵からのプレゼントだろう。澪は大学時代に洵が自分を射止めた頃を思い出した。彼は毎回ピンクローズを贈ってくれたし、付き合い始めてからのデートもいつもピンクローズだった。当時、ルームメイトは「洵さんにとって、澪はピンクの薔薇みたいに可愛い存在なんだよ」と冷やかしていたものだ。今にして思えば、恋をしている人間は確かに盲目になる。それは周りの人間も同じなのかもしれない。澪はわきまえて、後部座席に乗り込んだ。「ねえ、夏目さん……これからは澪さんと呼んでもいいかしら?私たち、だんだん親しくなってきたし、いつまでも夏目さんじゃ他人行儀だもの」澪は黙っていたが、千雪は構わず話し続けた。「ああ、そうそう、誤解しないでね。私の家と篠原家はもともと親しいの。だから家族の食事会に、洵がわざわざ私も呼んでくれたのよ」千雪はバックミラー越しに後部座席の澪を盗み見た。薄化粧をした澪の顔は以前よりもさらに青白く見えた。「私と洵は高校の同級生でしょ。付き合ってた頃はよく篠原家に遊びに行ったわ。みんなすごく良くしてくれて、私のことを家族みたいに扱ってくれたの。洵、覚えてる?一度、私がドジ踏んでお爺様のお気に入りの骨董品の壺を割っちゃった時、お爺様に怒られるのが怖くて、あなたが『俺が割った』ってかばってくれたこと……」「何年前の話だ……あれは俺が悪い。爺さんの書斎にお前を入れるべきじゃなかった」洵は運転しながら、千雪ととりとめのない雑談を交わしている。澪は初めて洵の車に乗った時のこ

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第8話

    今夜のパーティーが始まって二時間近く経つが、洵は一滴も酒を口にしていなかった。澪は洵の持病である胃痛が再発したのだと察した。ここ数日、離婚騒動で、これまで欠かさず煎じていた漢方薬を作っていなかった。洵も飲んでいないはずだ。配合も火加減も時間も、澪しか知らないからだ。いっそ痛みで死ねばいい――そんな考えが澪の脳裏をよぎった。だが、結局そこまで非情にはなれなかった。澪はスマホを取り出し、洵の胃痛を治す漢方の生薬名から配合、煎じ方に至るまで、事細かに書き出した。送信する前、何か挨拶や社交辞令、言い訳などを付け足すべきか迷ったが、何度も書いては消し、結局余計な言葉は一文字も書かずに送信ボタンを押した。洵のスマホがラインを受信したが、それを開いたのは洵ではなかった。千雪は背を向け、澪が送ってきた内容を暗記すると、そのメッセージを跡形もなく削除した。洵の方は接待の真っ最中だった。今夜は千雪の仲間とはいえ、知り合いも多く、付き合いは避けられない。だが、胃の痛みが限界に達しており、酒には一切手を付けていなかった。そのせいで彼の纏う空気は冷え切っており、まるで今夜のパーティーのすべてが気に入らないかのようだった。「洵……」パーティーが終わりに近づいた頃、千雪が湯気の立つ薬湯が入った椀を持ってきた。その香りに覚えはあったが、千雪と付き合っていた頃、彼はまだ胃を患っていなかった。「どうして俺が胃痛持ちだと知ってるんだ?それにこの薬……」洵は澪の方をちらりと見た。「あなたの体のことなら何でも知ってるわよ。この薬、漢方の名医に頼んで処方してもらったの。絶対効くから」実は千雪が莉奈と洋子に頼んで、澪から送られてきた処方箋通りに買いに行かせたものだった。煎じる時間がなく、簡易的に作ったものだが、多少は効果があるはずだ。「私のせいね。あの頃、私がわがままを言わなければ、あなたがこんなになるまで体を壊すこともなかったのに……」千雪は目を赤くした。薬の匂いに気づいた澪が振り向くと、千雪が小鳥のように洵の肩に寄りかかっているのが見えた。そして洵は千雪にレッドベルベットケーキを食べさせていた。レッドベルベットケーキ。澪はかつて、洵のために何度も作ったことがあった。洵は胃が悪く、辛いものも甘すぎるもの

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第7話

    「知らない顔だな。最近売り出し中の新人アイドルか?」「あの顔立ちはそこらのアイドルよりずっと綺麗だぞ」ピーターの隣にいる女性パートナーについて、囁き合う声が増えていく。ピーターの横に立つ澪の存在感は圧倒的だった。漆黒のベルベットのビスチェドレスが、完璧なボディラインを完璧に引き立てている。ウェーブのかかった髪はアップスタイルにまとめられ、そこにあしらわれた白と黒のダイヤモンドが密に敷き詰められたヘアクリップは「ピアノ」シリーズで最も高価なジュエリーであり、目を逸らせないほどの輝きを放っていた。洵はピーターの連れているその女性の後ろ姿に見覚えがあると感じていた。そして、相手が振り返った瞬間、息を呑んだ。「澪?!」千雪、莉奈、洋子も驚愕に目を見開いた。洵は言葉を発しなかったが、その両目は以前よりも強く輝いていた。澪がこれほど鮮烈な赤いリップメイクをしているのを、彼は初めて見た。濃厚なメイクだが下品さは微塵もない。スタイリストの腕が良いのか、それとも澪という「素材」が良いのか。「まさか夏目さんが新しいパトロンを見つけていたなんて。私、余計な心配をして損しちゃったわ……」千雪がしおらしい声で言うと、洵の瞳の中の冷たい光が明滅した。今夜の澪の装いはすべてピーターから借りた「プレゼント」だった。洵と千雪がいちゃつく姿など見たくはなかったが、来てしまった以上、逃げ帰る道理はない。洵の視線は最初こそ澪に向けられたが、その後はまるで彼女が見えていないかのように、相変わらず千雪と寄り添っていた。その絵に描いたようなハンサムな顔に、澪は自分には一度も見せたことのない笑顔と優しさを見てしまった。洵を見返してやりたいという澪の勝気な心は次第に敗北感へと変わっていった。彼女は冷静さを取り戻すために洗面所へ向かった。離婚を決意したのだから、今さら気にする必要はないはずだ。洗面所から出た時、足の痛みは無視できないほどになっていた。普段履き慣れないハイヒールが、ひどい靴擦れを起こしている。澪は踵を見ようと体をよじり、バランスを崩して倒れそうになった。だが、誰かがとっさに彼女を支えた。「あり……」礼を言いかけた澪の視線が、洵とぶつかった。洵の微笑んだような唇は魅惑的で、瞳は宝石のように深い。だが、至近距

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第6話

    千雪は本来なら、洵が来るのを待って、堂々とVIP用通路から入るつもりだった。洵は招待状を持っていなかったが、彼の身分と顔そのものが通行手形になるからだ。しかし、パーティーの開始時刻が迫っても洵は現れず、彼女は仕方なく莉奈と洋子を連れて従業員用通路を使うしかなかった。会場に入ると、千雪はあたりを見回したが、澪の姿はどこにもなかった。「あの女、間違いなくデリバリーで来たのよ。招待状なんて持ってるわけないもの」「そうよ。大学も出てないのに、FYの祝賀パーティーに招待されるわけないじゃない」莉奈と洋子が口々に言った。千雪は少し安心した。親友の言う通りだ。FYは世界でも指折りのラグジュアリーブランドだ。今回の祝賀パーティーは四年前に発表したジュエリーコレクション「ピアノ」シリーズが、業界をリードする特許技術を採用したこと、そしてその独創的なアイデアと芸術性によって、ハイジュエリーの中でも一躍トップに躍り出たことを祝うものだ。業界内で名声を得ただけでなく、消費者からの支持も厚く、四年連続で売上トップを記録している。「今夜、あの『ピアノ』シリーズのマスターデザイナーに会えるかな……」千雪はうるんだ大きな瞳を瞬かせ、憧れと崇拝の眼差しを浮かべた。「そのデザイナーってすごく謎めいてるんでしょ?性別すら誰も知らないって聞いたわ」「千雪、あなたもうFYの社員なんだから、知らないの?」好奇心旺盛な親友たちに対し、千雪は残念そうに首を振った。「そのデザイナーの署名が『BYC』だってことしか知らないの。私どころか、私の上司だって知らないんだから!」二階の個室で、澪はピーターに会っていた。ピーターはFYの創業者の一人であり、現執行役員でもある。「三年ぶりだね。君はさらに美しくなった」ピーターはコーヒーを澪に差し出した。澪はそれがピーターのお世辞だと分かっていた。結婚して三年、毎日台所に立ち、自分を失い、着飾る時間もない。そんな女が美しくなるはずがない。歳月に輝きと魅力を削り取られるだけだ。何より致命的なのは夫に愛されていないことだ。愛の潤いがない既婚女性には惨めな日常しか残らない。そして、澪はさらに悲惨だった。文句も言わず三年間専業主婦として尽くしてきたのに、その代償が夫の浮気と、愛人のために

  • 貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った   第5話

    澪は今朝、寝坊をした。昨夜寝るのが遅かったこともあるが、早起きをして朝市で新鮮な野菜を買う必要もなければ、洵のために少なくとも一汁三菜の朝食を作る必要もなくなったからだ。家で袋麺を茹で、澪はそれを美味しそうに食べた。お腹を満たした後、彼女は銀行へ向かった。送金小切手に記入し、相手に二億円を送金する。備考欄には「医療費」と記した。銀行を出た後、澪は「カフェ・ブルー」へ向かった。蘭と食事の約束をしていたのだ。結婚後、篠原家の良き主婦となるべく全力を尽くすため、澪は同級生や友人との付き合いをほぼ絶っていた。親友である蘭とも、三年ぶりの再会となる。この三年間の自分の青春を思うと、澪は自分自身に中指を立ててやりたい気分だった。予約していた席に座り、澪は蘭を待った。蘭は現在、綾川市で小規模ながら有名なスクールのボーカル講師をしている。蘭が食事に誘ってくれたのは久しぶりにゆっくり話したいという気持ちと、おそらく仕事を紹介したいという意図があるのだろうと、澪は察していた。案の定、蘭が現れると、少し話しただけで話題は彼女のスクールでのピアノ講師募集へと移った。「蘭、ありがとう」澪は晴れやかに笑い、手を振った。「でも、もうピアノは弾かないって誓ったの。それに、新しい仕事も見つかったから」「えっ?」蘭は好奇心をそそられたようだ。「まさかジュエリーデザインの会社?専攻と合ってるしね!」澪は再び手を振った。「違うわよ!私は大学を中退してるの。そういう会社は大卒が条件でしょ」「でも、このご時世、学歴不問の仕事なんてそうそうないわよ!」蘭は小声でそう言うと、我慢できないといった様子で澪のために憤った。「篠原は本当にクズね。結婚中に浮気しておいて、あなたを一文無しで追い出すなんて。私なら数億円はふんだくってやらないと、無駄にした時間が報われないわ!」澪は笑いをこらえた。その時、スマホが光り、ラインの通知が来た。「絶対篠原からよ。ほら、貸して。私が罵倒してあげる!」澪はラインを開いたが、洵からではなかった。返信を打ちながら、澪は蘭に言った。「実は洵が浮気したという証拠はないの……」洵の体が浮気をしていようがいまいが、心が離れているのは確かだ。自分の血を分けた子供さえ要らないというのだか

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status